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伯父「朝義」のこと

2021-03-18 14:27:39 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の3:伯父「朝義」のこと・・・。

◇伯父「朝義」のこと

古いアルバムに軍服姿の青年の写真がある。

「これは誰だ?」と尋ねたら、「長男の朝義で・・・死んでしまった」と祖母常然(つね)は答えた。祖母の淋しそうな顔を見てそれ以上詳しい話は聞けなかったが、父に兄がいたことを知った。生きていたらその兄が家を継ぐことになっていたのだろうと子供心に感じ、以降この話題は封印してきた。

最近になって古い資料を整理していたら、丁寧に保管された伯父朝義の卒業証書や賞状が出てきた。また、朝鮮出兵の折のアルバムには細かい説明が付されており、朝義名義の「天城山葵沢日記」には資材の調達や出荷先と出荷量、人夫出役記録など、山葵の生産販売記録が詳細に記録されている。祖父文義(文次郎)もそうだったが、朝義は几帳面な性格だったのだろう。私が生まれたのは伯父逝去後なので面識はなく、残された資料を見て想像するしかないのだが・・・。

朝義が生まれたのは明治42年(1909)である。幼少期に第一次世界大戦が勃発し、日本は中国における勢力拡大と戦時景気による高揚感に満ちていた。尋常高等小学校卒業年には関東大震災が発生している。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義の台頭、米騒動、世界恐慌があった。青年期には満州事変が起こり、犬養首相の暗殺、国際連盟脱退、ヒットラー総統就任など日中戦争勃発に向かう激動の時代を生きた。僅か25年余の生涯は凝縮され濃密なものだったに違いない。没後87年、伯父朝義の足跡を辿る。

(1)生い立ち

◇明治42年(1909)3月7日、文義(文次郎)・常然(つね)の長男として生まれる。出生地は賀茂郡稲梓村須原5××番地、3歳上に姉喜代子がいた。

◇大正10年(1921)3月に賀茂郡稲梓尋常小学校卒業、同級生(大正9年度卒業)は28名だった。大正12年(1923)3月に尋常高等小学校(2年課程)を卒業。

◇大正15年(1926)3月、賀茂郡村立稲梓農業補習学校5年課程を卒業。尋常小学校卒業後は高等科と農業補習学校の双方で学んだのだろう。農業補習学校5年課程修了後は同研究科(2年課程)に進学し、昭和2年3月に「本校生徒ノ中堅トナリ克ク他生ノ善導ニ務メ其ノ功績顕著ナリ」、昭和三年三月には「孜々黽勉ニシテ一般生徒ノ模範タリ」と賞状を授与され研究科を修了している。

◇昭和2年(1927)から4年(1929)にかけては農業補習学校研究科に通いながら青年団でも活動している。昭和4年12月には賀茂郡稲梓青年訓練所の過程を修了し、「一般生徒ノ模範タリ」と表彰される。

◇文次郎は大正13年(1924)に幸蔵(新田)と謀り計2,000円を出資し、天城梨本で山葵の栽培を始めているが、朝義は学業や青年団活動の傍ら懸命に働いていた様子が伺える。朝義名義の「山葵沢日記」には諸経費(資材、出役など)や出荷記録(岡林商店、東京日本橋石川商店、東京京橋金子久太郎、東京京橋青物市場、田島商店、戸野部商店など取引先と出荷量)が残されている。

(2)二十歳代

◇昭和5年(1930)6月入営。昭和6年(1931)6月歩兵第76連隊所在地のある朝鮮羅南に渡った。歩兵第76連隊は大日本帝国陸軍の連隊の一つで、満州事変の勃発に伴い同年12月連隊の派兵が決定された。朝義は昭和7年(1932)陸軍歩兵第一等兵として務め、「賞状(小銃第二種徽章付与)」「善行證書」「賞状(射撃成績優等に付小銃特別徽章を付与)」「陸軍憲兵上等兵適任證書」等が残されている。

◇昭和8年(1933)除隊。実家に戻り家業に携わる傍ら青年団活動に関わる(静岡県賀茂郡青年団講習証書が残されている)。昭和9年(1934)7月15日下田町(旧岡方村)5番地にて逝去。享年26歳。三玄寺墓所に眠る。

伯父朝義が早逝した病名について聞いた覚えがない。軍隊での怪我が原因だったのか、若くして病死したのであれば結核だったのかと想像していたが、石堂(啓二)が昭和17年に契約した生命保険の被保険者審査報状に朝義の死因は急性肺炎と記載されているのを見つけた。

(3)入営時の餞別

入営(昭和5年6月29日)及び朝鮮入営(昭和6年6月21日)時の餞別覚書がある。恩師、三玄寺住職、親戚、友人、集落の方々の名前と金額が列記されている。多くは50銭から1円、親戚が3円から5円とある。

また、 昭和9年の葬儀記録(香典控簿)には多数の方々からお悔やみを頂いた記録がある。当時の香典は20銭から50銭、親戚が2円程であったようだ。また、3人の僧侶が葬儀を執行しているが、お布施は導師に10円、外2名の僧侶に各2円の記載がある。忌中見舞いとして白米1~2升などの記録もあり、村人が物品を持ち寄り総出で葬儀を執り行っていた様子が伺える。

集落の人々は弔事や祝い事のみならず、田植えや稲刈りなど多忙な農作業も協力し合っていた。いわゆる手間換え、結いの精神である。都会でも町内会が葬儀に関わるなど結びつきが強かったが、平成~令和時代になるとこの慣習は次第に薄れてしまった。さて、この慣習を「煩わしい」「と考えるか、「寂しい」と感じるか。

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1 コメント

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Unknown (加藤)
2023-06-14 16:58:21
もしかしたら、私の父は亡くなってますが

義晶さん知りませんか?
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