豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

帆船のバランス(底荷)としてアメリカへ渡った「大豆」

2012-11-29 18:10:58 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

今はアスファルトに替わってしまったが,最初に訪れた頃(35年前)のブエノス・アイレスは多くが石畳の通りであった。両側の建築物は古いヨーロッパそのもので,雨に濡れた街路樹と石畳が街の灯りに映る風情は,まさに「南米のパリ」であった。

タクシーやバスで走ると小刻みな振動が伝わり,「馬車が行き来したら,どんな響きを奏でるだろう?」と,昔を偲ばせるものだった。

 

「この敷石はヨーロッパから運んできたものです。アルゼンチンから小麦を輸出し,帰りの船で運ぶものがないから,石を積んできたのです」と,案内の書記官から聞かされた。

「船のバランスという訳ですか」と応えたものの,「そんなことって,あるのだろうか?」と半信半疑であった。その後,湿潤パンパの中心部で暮らすことになったが,パンパ平原は「さも,ありなん」と思わせるものであった。

船のバランス(底荷)という言葉が脳裏に刻まれ,その後も何回かこの会話を思い出すことになった。

 

一つは,アメリカ合衆国への大豆導入経緯を整理していた時のことである。現在世界の最大生産国となっている合衆国の大豆は,ペリーが持ち帰った(1854),Morse博士が中国など東アジアから大量の大豆種子を収集した(1929)のが基礎となり,生産が始まったとされている。が,それより半世紀前に,中国を出る帆船が安価なバランス(底荷)として大豆を積み込み運んだことが合衆国における大豆導入の最初だという。1804年のことだ。Mease J.Willichis domestic encyclopedia」の大豆に関する項目が, アメリカ合衆国における大豆に関する最初の記述とされている。

 

別添「アメリカ合衆国への大豆導入の経緯」を整理した。

アメリカ合衆国における大豆生産拡大の要因はいくつかあるが,第二次世界大戦が大きな転機となっている。すなわち,戦争で油脂類の供給が停滞したため,大豆油の国内生産を推進したことから増大し,その後は世界一の生産国なっている。ちなみに南米では,世界大戦時の栄養補給の面から大豆が注目され,栽培が始まっている。 

 

二つ目は,士別にいた頃のことである。

「火山灰を融雪剤に使用できないか,試験をしてくれ」と言う。よく聞いてみると,

「北海道から農畜産物を九州まで運ぶが,帰りの積荷がない。そこで,桜島の火山灰を積んで来て融雪剤に使う」と言う。厄介者の火山灰を,船のバランス積荷として運び,融雪剤に使えば一石二鳥ではないかというのである。

融雪剤の可能性は確認されたが,実現には及ばなかった。

 

アメリカで生産される大豆は,時を経て,船底を満載にする商品として世界に輸出されている。

 

 

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釣銭は飴玉ですか,アスピリンですか?(南米の暮らし)

2012-11-27 16:31:38 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

スーパーで買い物をして,一円の端数まで正確に釣銭を払える国は,先進国と呼んで良いかもしれない。発展途上国では,紙幣や硬貨の製造が追いつかず,紙幣はボロボロ,硬貨が不足と言うことが多い。

釣銭の代わりに飴玉を配ったりするので,最初はびっくりする。日本人なら,884円の買い物をしたから,1,000円出してお釣りは116円と計算する。だが彼の国では,レジの女店員が品物884円+100円硬貨で984円,そして+16円の代わりに飴玉2個で1,000円と計算する。

 

「計算出来ないの・・・?」と,初めての私はそんな顔をしたのだろう。

「硬貨がないの・・・」と,レジを開けて肩をすくめてみせる。

 

飴玉を貰って店を出る。店の出口付近に貧しい子供らが屯しているので,その飴玉を与える。だが,どうして覚えているのか,数日後にもスーパーを出ると子供らが寄ってきて,

「セニョーラ,飴玉をくれ」「セニョーラ,マネーダ・・・」と,纏わりつく。あげるのは易しいが,与えるべきか与えない方が良いのか葛藤する。

 

次の機会に,レジ譲が飴玉をくれようとしたから,

「飴玉は要らない」と,言ってみた。

「じゃあ,これを・・・」と,アスピリン錠剤を12錠渡そうとする(後になって気づいたことだが,この国ではアスピリンは常備薬)。

「ああ,それも要らない」と,答える。

すると,後ろに並んでいた客の小母さんが,すかさず声をかける。

 「セニョーラが要らないというのだから,私に下さい。良いでしょう,セニョーラ・・・」と,小母さんは何処でも逞しい。

 

貨幣の流通が不足するのは様々な事情がある。例えば,貨幣製造を外国に委託している,インフレが急速,等々の理由で対応が追いつかない場合が多い。

 

当初は,匂いがしみ込んだボロ紙幣に閉口した。特に,小額紙幣は酷い。破れた紙幣がセロテープで張り合わせてあるのはましな方で,黒いビニールテープを使ったものまである。メモ代わりに書き込みしてある。何回も選択したように印刷が薄れている。

最初の頃は,お釣りにもらったボロ紙幣の皺を延ばし(アイロンをかけ),破れていれば補修し,整えて財布に入れていた。が,財布にまで匂いが浸み込むのには閉口した。

 

「何故,こんなに臭うの・・・?」

「此処の連中,財布を持っていないんだ。紙幣を二つに折ってポケットに押し込んでいるから,汗が浸み込み,赤土にまみれてしまう。労働者や貧しい子供等は,小額紙幣をクシャクシャに握りしめて買い物に来る」と,解説が入る。

「小額紙幣はよく回転しているという証左でもあるさ。銀行で破損紙幣を回収しているが,追いつかないのだね」

 

紙幣の破損が進んでくると,当然のことながら,店でも受け取らない場合がある。こちらも対応を考えざるを得ない。お釣りに破損紙幣が混ざっていたら,触るのも嫌だと言う顔で,紙幣の角を指でつまみ言うしかない。

これは,取り替えて・・・

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南米のスイス「バリローチエ」に遊ぶ(アルゼンチンの旅)

2012-11-21 10:41:22 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルゼンチン人が「南米のスイス」と呼ぶ,同国最大のリゾート地バリローチエ(正確には,サン・カルロス・デ・バリローチエ San Carlos de Bariloche)を訪れたのは,30年以上も昔のことになる。湖と山々に囲まれ,花が咲き,街は石積みと木造の建物など洗練された佇まいを感じさせる町。荒涼としたパタゴニアの曠野の果て,アンデス山脈の麓に存在する(南緯41.09,西経71.18)。飛行機を降りてセントロに近づく頃,「なるほど,南米のスイスか」と感じたことを思い出す。

バリローチエはナウエル・ウアピ国立公園の一角にある。この公園は,1934年に制定されたアルゼンチン最古の国立公園で,面積7,050km2,春から夏は山肌に花々が咲き,秋には紅葉,冬は雪に覆われる。夏(1月)の月平均気温が最高21.5℃,平均14.3℃,最低6.4℃,冬(7月)は最高6.4℃,平均2.1℃,最低-1.4℃,年間降水量が799mmと言えば,季節感を想像できるだろう。

 

首都ブエノス・アイレスから南西方向へ1,720km2時間20分のフライトである。長距離バスも走っているが,ほぼ一昼夜を要する。標高893m,ナウエル・ウアピ湖(Lago Nahuel Huapi)の湖畔に位置する人口11万人ほどの自然豊かな町である。もともとはスイス系移民が住み着いた町で,建築様式,料理などにその影響を感じることが出来る。南米は勿論,ヨーロッパからの観光客で賑わう。

 

街の中心が市民センター(Centro Civico)で,観光案内所,市庁舎,警察署,パタゴニア博物館など主要な建物がある。両替所,旅行理店,航空会社,レストラン,ホテルなど商業施設もその周辺に集まっている。インフォメーション・オフィスで地図とツアー情報を手に入れ,民芸品,手織りのセーター,名物のチョコレート,ジャム,ドライフルーツなどが並ぶ店を覗き,マス料理で空腹を満たすのも良いだろう。鹿肉,チーズなど土地の料理も味わってみたいものだ。また,アウトドアの遊びには事欠かない。気軽なところでは,ナウエル・ウアピ湖畔を散策,遊覧,釣りを楽しむ。健脚な方々はツアーを利用してトレッキングが楽しめる。

 

翌日,宿泊した小さなホテルのオーナーがドライブに誘ってくれた。市内からジャオジャオ(Llao llao)半島を回り,カンパナリオの丘(Cerro Campanario)に登る。湖と雪を頂く遠くの山々が絵葉書のようだ。さらに,セロ・カテドラル山(Cerro Catedral)に向かう。ゲレンデが広がり,7月から10月にはスキーを楽しむ客で賑わうという。

 

次の日は,遊覧船に乗って,ビクトリア島(Isla Victoria)とアラジャネスの森(Bosque Arrayanes)を訪れた。1日のツアーコースだ。アラジャネスの森は赤茶の木肌をした木々(ギンバイカ,Myrtus communis,フトモモ科,ギリシャ時代豊穣の女神や愛と美と性の女神に捧げた「祝いの木」だという)が茂り,散策の道が出来ている。この地を訪れたウオルト・デイズニーが「バンビの森」を着想した場所だと説明がある。ここは,1971年にナウエル・ウアピ国立公園から分離し,小さなロス・アラジャネス国立公園となった。湖に突き出たケトリウエ半島(Pla. Quetrihue)にあり,面積17.5km2。ルピナスの群生が印象的だった。

 

 ここバリローチエからチリのプエルト・モン(Puerto Montt)に抜けるコースは,国境越えのルートとして旅人に人気がある。船とバスを乗り継ぎ,美しい景色を眺めながらの国境越えである。

 

その他にもアルゼンチンとチリを結ぶルートは,サルタ(Salta)からアントフアガスタ(Antofagasta),メンドーサ(Mendoza)からサンチアゴ(Santiago),カラファテ(Calafate)からプエルト・ナタレス(Puerto Natares)などいくつかあり,それぞれ趣が異なる。サルタやメンドーサからのコースは,乾燥したアンデス越えを堪能できる。カラファテからのコースではパタゴニアの風を感じるだろう。リャマやグアナゴに出会えるかもしれない。どのコースを選ぶか,お好み次第だ

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「コルドバ」の地名で思い出すのは?(アルゼンチンの旅)

2012-11-20 09:37:47 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

コルドバ(Cordoba)の地名で先ず思い出すのは,スペインのアンダルシア州にあるコルドバ歴史地区かも知れない。スペインを訪れる観光客の定番コースの一つで,世界遺産のメスキータやユダヤ人街が知られている。

だがここでは,もう一つのコルドバを紹介しよう

アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスから北方に約700km,果てしなく続くパンパ平原を長距離バスで12時間ほど走り,ようやく山なみが見え始めるころ,アルゼンチン第二の都市コルドバがある。飛行機なら1時間15分の距離だ。湿潤パンパ地帯のコルドバ州の州都である。ちなみにコルドバ州は,ブエノス・アイレス州及びサンタフェ州と並び湿潤パンパを形成し,同国を代表する穀倉地帯である。大豆,トウモロコシ,ソルガム,ひまわりが代表的な作物で,コルドバには落花生もみられる。

 

コルドバは,16世紀後半(1573年)ボリビア方面から植民地を拡大してきたスペインン人によって建設された町で,人口は約130万,市の中心にはコロニアル風の美しい建築物が残っている。歴史を感じながら石畳の遊歩道を散歩すれば,一気に1718世紀のヨーロッパが蘇ってくる。なお時を経て2000年には,市内のラ・コンパニア教会,コルドバ大学,モンセラート校,及び近郊のイエズス会私有地跡地がユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 

コルドベス(コルドバ人)は,首都ブエノスより早くに開けた町,アルゼンチン最初の大学もこの地におかれ(コルドバ大学,1613年創立),歴史に残る革命運動もこの地から各地へ波及した,とコルドベス(コルドバ特有の強いアクセントを持ったスペイン語)で誇らしげに語る。故郷を誇りに思う人々が暮らす街でもある。

 

標高400m,年間を通じ快適な気候で自然にも恵まれていることから,定住地と考える人が多い。また,コルドバ西方には森や湖などに囲まれた,昔からの保養地が点在している。例えば,アルタ・グラシア(コルドバの南西39km,標高580m)。革命家チエ・ゲバラは喘息持ちだったため幼少の頃,この地で暮らしていた。また,湖畔の町カルロス・パス(コルドバの西方36km)も保養地として名が知られている。

 

アルゼンチンで暮らすことになった最初の夏,ネストルがやってきた。

「夏休みはどうする?」

「まだ決めてない。仕事の方は大丈夫か」

「仕事は何とかなるさ。この国では誰もがバカシオン(Vacación)に出かける。友達の旅行業者を紹介しよう」

 「どこが,お勧め?」

「カルロス・パスはどうだい・・・」

と言うような会話から,カルロス・パスのロッジに滞在することになった。

 

確かに過ごしやすい気候だったが,23日もすると仕事のことが頭を横切る。ラテンの国に来て4か月,まだまだ日本が抜けきらない最初のバカシオンだった。

 

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マル・デル・プラタ,アルゼンチン最大のビーチリゾート

2012-11-17 16:00:01 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルバムを整理していたら,砂浜で遊ぶ家族の写真が出てきた。

この写真を覚えているかい?」

「マル・デル・プラタだね。あれから何年になるかしら・・・」

大西洋で泳いだ最初の砂浜,そこには日焼けした子供らの姿があった。

 

アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスから南に390km,同国最大のビーチリゾート,マル・デル・プラタMar del Plata)がある。その名は,直訳すれば「銀の海」だが,富(お金)をもたらす「豊漁の海」という意味で名づけられたのだろう。人口54万人,アルゼンチン7番目の都市,同国最大の漁港(セントロから8km)をもつ漁業基地でもある。

 

昔々,ヨーロッパの船乗りが「アルゼンチンのアトランテイス」と呼んだと伝えられる。彼らにとって,果てしなく続く砂浜,果てしなく広がる草原が伝説の島アトランテイスを思い出させたのだろう。今は,高層ビルが建ち,海辺から草原を眺めるわけにはいかないが,その美しさに変わりはない。

 

ブエノス市内のホルヘ・ニューベリー空港からAerolineas ArgentinasAR)など国内航空で55分,眼下に拡がる畑と牧場を眺めているとあっという間の距離だ。長距離バスを利用すると,ターミナルから大西洋岸を走る国道2号に沿って5時間半の道程で目的地に着く。

 

夏になれば(122月)200万人近くの観光客が訪れるという。日中は文庫本でも片手にビーチでの日光浴,涼しくなったら洒落た通りをそぞろ歩いてウインドウショッピング,夜にはレストランで時間をかけた食事,夜が更けたらアルゼンチン最大のカジノで遊ぶも良いだろう。中央のサン・マルテイン広場から海岸へ向かう5ブロックが歩行者天国の商店街,海岸に沿って右に進めばコロン広場,その前にカジノがある。海流の関係で夏でも過ごしやすい。

 

リゾート客が集まるシーズン中は,劇場が開演し,国際会議やサッカーの親善試合もブエノス・アイレスからこの地に移ってくる。3月には,国際映画製作者連盟(FIAPE)公認の「マル・デル・プラタ国際映画祭」(1954年創設)も開催される。ちなみに,映画祭の1959年受賞作はイングマール・ベルイマンの「野いちご」,1960年にはベルンハルト・ヴイッキの「橋」,1968年にはアーサー・ベンの「俺たちに明日はない」,2008年には是枝裕和の「歩いても・・・」が受賞している。

 

一方,賑わいを避けて,誰にも気兼ねせず静かなビーチで過ごしたい,或いはエスタンシア(Estancia)で自然を相手に静かに過ごしたい,という人にはマル・デル・プラタは向かないかも知れない。ここは,ともかく大勢の人がいないと落ち着かないという人向けのリゾート地だ。賑わいがあり,娯楽にも事欠かない。

しかし,そうであっても,多くはブエノス・アイレスの喧騒を忘れようと滞在している人々だから,時はゆっくりと流れる。旅人のあなたも,「郷に入っては郷に従え」で,時計の針を遅らせるがよい。少なくとも1週間から10日間は滞在したいものだ。

 

この他にも南米には,多くのビーチリゾートがある

 

ブラジルではリオ・デ・ジャネイロ南部にボタフォゴ(Botafogo),コパカバーナ(Copacabana),イパネマ(Ipanema),サン・コンハード(Sáo Conrado)海岸などが賑わいをみせている。また,サンタ・カタリーナ州のフロリアノポリス(Florianopolis)は景色の美しさでお勧めである。

 

ウルグアイでは,プンタ・デル・エステ(Punta del Este)が有名だが,モンテビデオの郊外にも洗練された雰囲気のビーチが広がっていて,気楽に訪れることが出来る。太平洋岸のチリでは,ビーニャ・デル・マル(Viña del Mar)が有名。首都サンチアゴの北西120kmにあり,バスで簡単に行ける。

 

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古松山「三玄寺」,開創(慶長元年)は竜王祖泉禅師

2012-11-16 18:21:44 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

古松山三玄寺

奥伊豆の山村(下田市須原)に,臨済宗建長寺の末寺「古松山三玄寺」がある。下田街道(国道414)の坂戸口から少し入った山の中に静寂に包まれてあるが,標識がないため,この寺の存在を知る人は村人以外にないだろう。

実は,この「三玄寺」は「須原小学校」の開基となる「長松舎」が置かれた場所である。時は,明治6年(1873),今からおよそ140年前のことであった。明治政府は初等教育の重要性に鑑み,近代的学校制度を定め,明治5年太政官布告第214号によって各地に小学舎の設置を進めた。「長松舎」はその公布を受けて置かれた教場である。

 

小学舎が設置された場所は各地の寺院や神社が多かった。子供らを集めやすい立地条件と教室に使える部屋,「読み書きそろばん」を教えることが出来る人が必要だったのだろう。そればかりでなく,「寺子屋」として実績があったのかも知れない。

 

当時この辺りは,ヒュースケンが「日本日記」の中で「土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であった」と記しているような貧しい集落であった。僅かばかりの水田と炭焼きを生業とする山村に,はたして寺子屋はあったのだろうか? この山村の人々に初等教育の意識はあったのだろうか?

 

先ず,「三玄寺」の歴史を紐解いてみよう。

「向陽院」住職のお世話になり,「建長寺史末寺編」のコピーを拝見した。これによって,開創,開山から十七世和尚までの概観を知ることが出来た。

 

別添「松山三玄寺」に概観を示したが,開創は慶長元年(1596)河津栖足寺竜翁和尚が「林隠庵」と号したことに始まり,慶長3年(1598)には慶長検地により彦坂小刑部により境内除地5畝の寄進を受け,慶長14年(1609)開山となっている(開山は慶長4年の間違いかも知れない)。「長松舎」の教場が置かれたのは,十四世寛州和尚の時代ということになる。

 

歴代和尚と年次等について「建長寺史末寺編」記載を基に作表したところ,記述に不適合な点が見つかった。当時の十七世機外和尚(千葉正言住職)の原稿を基に編纂されたものと推察されるが,今となっては確かめようが無い。確認できないでいる。

 

「建長寺史末寺編」の誤記と思われる点

1. 「十世南室和尚 安永7年」,「十一世黄州和尚 宝暦8年」となっているが,安永7年は1778年,宝暦8年は1758年であるので,順番が逆である。

2. 「十二世節岩和尚 文政8年」,「十三世淳叟和尚 文化2年」 となっているが,文政8年は1825年,文化2年は1805年であるので,順番が逆である。

3. 「七世宗翁和尚 元禄7年」とあるが,由緒・来歴の項に「元禄310月七世宗翁和尚寺号を三玄寺と改称する」とある。元禄7年以前に七世を称していたのか? 年次に整合性がない。

 

検証は後に譲ることにして,この地の歴史背景に触れておこう。

 

「三玄寺」がある「茅原野」は後北条氏時代に江戸衆大道寺氏の所領(88貫文)として名前が出てくる。江戸時代には天領~館林藩~天領~館林藩~掛川藩と変わるが(403石,天保郷帳村高),江戸と下田を結ぶ下田街道にあって開国の情報も多かったのではないだろうか。また,土屋勝長(外記助),玄蕃が,武田家滅亡後この地に落ち延び隠れ住んだとの伝えがある(坂戸口に土屋氏の墓とされる宝筐印塔がある)。貧農の山村ではあるが,教育意識は高かったかも知れない。

 

ちなみに,三玄寺は祖先の菩提所となっている。 

 

  

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