今はアスファルトに替わってしまったが,最初に訪れた頃(35年前)のブエノス・アイレスは多くが石畳の通りであった。両側の建築物は古いヨーロッパそのもので,雨に濡れた街路樹と石畳が街の灯りに映る風情は,まさに「南米のパリ」であった。
タクシーやバスで走ると小刻みな振動が伝わり,「馬車が行き来したら,どんな響きを奏でるだろう?」と,昔を偲ばせるものだった。
「この敷石はヨーロッパから運んできたものです。アルゼンチンから小麦を輸出し,帰りの船で運ぶものがないから,石を積んできたのです」と,案内の書記官から聞かされた。
「船のバランスという訳ですか」と応えたものの,「そんなことって,あるのだろうか?」と半信半疑であった。その後,湿潤パンパの中心部で暮らすことになったが,パンパ平原は「さも,ありなん」と思わせるものであった。
船のバランス(底荷)という言葉が脳裏に刻まれ,その後も何回かこの会話を思い出すことになった。
一つは,アメリカ合衆国への大豆導入経緯を整理していた時のことである。現在世界の最大生産国となっている合衆国の大豆は,ペリーが持ち帰った(1854),Morse博士が中国など東アジアから大量の大豆種子を収集した(1929)のが基礎となり,生産が始まったとされている。が,それより半世紀前に,中国を出る帆船が安価なバランス(底荷)として大豆を積み込み運んだことが合衆国における大豆導入の最初だという。1804年のことだ。Mease J.「Willichi’s domestic encyclopedia」の大豆に関する項目が, アメリカ合衆国における大豆に関する最初の記述とされている。
別添「アメリカ合衆国への大豆導入の経緯」を整理した。
アメリカ合衆国における大豆生産拡大の要因はいくつかあるが,第二次世界大戦が大きな転機となっている。すなわち,戦争で油脂類の供給が停滞したため,大豆油の国内生産を推進したことから増大し,その後は世界一の生産国なっている。ちなみに南米では,世界大戦時の栄養補給の面から大豆が注目され,栽培が始まっている。
二つ目は,士別にいた頃のことである。
「火山灰を融雪剤に使用できないか,試験をしてくれ」と言う。よく聞いてみると,
「北海道から農畜産物を九州まで運ぶが,帰りの積荷がない。そこで,桜島の火山灰を積んで来て融雪剤に使う」と言う。厄介者の火山灰を,船のバランス積荷として運び,融雪剤に使えば一石二鳥ではないかというのである。
融雪剤の可能性は確認されたが,実現には及ばなかった。
アメリカで生産される大豆は,時を経て,船底を満載にする商品として世界に輸出されている。