豆の育種のマメな話

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恵庭の樹-4 松園通りのハルニレ(開拓の証人、伝承の神木)

2022-04-30 10:00:18 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

楡の樹は残った

花の拠点「はなふる」(道と川の駅「花ロードえにわ」)から松園通りの桜並木を恵庭開拓記念公園に向け1km余り歩くと、歩道の真ん中に一本の楡の大木がある。道路を拡張する際にこの樹を伐採(移植)しようとしたところ、作業員にけが人が出るなどの祟りがあったため動かせなかったと言われ、この大木を避けるように不自然に道路が曲がっている。何時の間にか祟り伝承が独り歩きし、恵庭の御神木と噂されるようになった。恵庭市内ではちょっと知られたハルニレである。

場所は道の駅から恵庭開拓記念公園に通じる茂漁松園線の歩道(南島松)で、「道路保護樹木、推定樹齢120年、所有者恵庭市、樹種ニレ、樹高18m、幹周り2m、指定年月日昭和57年4月1日、第27号」と書かれた白い杭が立っている(杭は根元が腐り倒れていた)。幹をよく見ると、深く裂けた縦縞の樹皮に誰かが鋸を当てたような跡がある。老木の樹皮に現れる現象かもしれないが、謎を深める傷痕だ。

祟りの樹伝説は世に数多く存在する。例えば、栗山町桜丘の国道234号線沿いに存在したハルニレの巨木。栗山町HPによれば・・・開拓の犠牲になった囚人や、不幸な境遇を苦に自殺した女性の霊がニレの老木に乗り移ったと伝えられ、切り倒そうと鋸を当てるとキューヒーと木が泣き事故が続出。霊木として祀られていましたが、昭和45年に切り倒され、切った本人もまた亡くなったと言われています。現在、切り株には「泣く木二世」を移植し霊を慰めています・・・とある。現在は石碑が建っているそうだ。

わが国では昔から森羅万象に神が宿ると考え、森羅万象を神々の体現として享受する習慣があった。樹々にも霊が宿り、老樹を神木と見立てることが多かった。そのような神樹を人間が切り倒したら祟りがあると考えるのは自然な成り行きであろう。この風習は、人間の都合で大木を伐採する歯止めになっていたと言えるかもしれない。

松園通りのハルニレを道路保護樹木に指定してから40年が経過している。さすれば、このハルニレの推定樹齢は160年。芽生えたのは江戸時代末の頃、漁川で鮭を獲るアイヌの人々が暮らし、山田文右衛門(十代清富)が請負人をしていた時代であった。

その後、このハルニレは生長し、土佐藩入植や山口、富山からの集団移住者による開拓を見守った。漁川沿いに旧長州藩士が入植し、廻神美成が私立松園小学校を建設した頃、子供たちはこの樹の傍の道(松園通り)を通って通学したに違いない。爾来、漁村、島松村の人々はこのハルニレを切り倒さず守り続けた。恵み野団地が造成された折も、この樹は残った。

御神木と崇められる一方、開拓の歴史を語る記念樹とも言えよう。

ハルニレを開拓記念保護樹に指定している市町村は、栗山町、新十津川町、石狩市、伊達市、名寄市、下川町、美深町、浜頓別町、本別町、弟子屈町など。開拓原野のシンボルとして、雄大な樹形のハルニレを開拓記念保護樹に定めた意図は十分理解できる。また、北大の構内にはハルニレの大木が多く、北大のことをエルムの学園と呼ぶがこれも納得。ハルニレはその雄大な姿を以てして、地域のシンボルになれる樹だ。

松園通りのハルニレは、「恵庭開拓の歴史を知る樹」「伝承の樹」である。恵庭の樹に登録する価値があろう。

  

◆ハルニレ(春楡、学名Ulmus davidiana var. japonica、通称:ニレ、エルム)

・北日本を中心とした寒冷地に分布するニレ科落葉高木。沢沿いなどの湿地に多く、樹高は最大で30m以上に達し雄大な樹形となる。生育に適した北海道では特に大木が多い。

・開花は3~5月、若葉が展開する前に咲く。雄しべと雌しべを持つ黄緑色の両性花で、10個前後が束になって咲く。果実は1.5cmほどの扁平した団扇形で小さな種子の周りに翼を持つ。

・葉はサクラに似るがやや分厚く、縁のギザギザが目立つ。葉の下半分が左右非対称であるのが特徴。長さ3~12cm、幅は3~5cm。表面には細かな毛が多く、手で触れるとザラつく。寒冷地では秋の紅葉が美しい。 

・樹皮は灰褐色で、樹齢を重ねると縦縞やささくれが出来やすい。樹皮を剥ぐとヌルヌルした液が生じることからニレ(滑れ=ぬれが転訛した)と呼ばれた。この樹液は紙漉のツナギに、樹皮を叩いて潰したものを瓦の接着剤に使われた。

・幹は最大で直径1mを超える。材は硬くて木目が美しく、建材、器具材、楽器材として使われることもあるが、乾燥によって寸法が狂いやすく耐久性が低い。材はくすんだ褐色で別名をアカダモと呼び、ヤチダモの代用とする。

・アイヌはハルニレをチキサニ(擦る木)と呼ぶ(ハルニレ材を擦って火を起こした)。アイヌ伝説では、地上に最初に生えた木がハルニレで、そのハルニレにカンナカムイ(雷神)が恋をして(落雷)起った炎から、人間の先祖であるアイヌラックル(アイヌの英雄神オキクルミとも)が生まれたと言う<参照:庭木図鑑、Wikipediaなど>。

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恵庭の樹-3、豊栄神社の御神木

2022-04-26 10:00:38 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

豊栄神社の水松

恵庭市内の最古樹は「豊栄神社の水松」ではあるまいか。

豊栄神社境内に推定樹齢三千年と称される水松(イチイ)の大木が御神木として植えられている。開道百年を記念して恵庭渓谷ラルマナイの深山から移植された老樹で、径級150cm、樹高20m(説明板)。樹齢三千年は些かオーバーかと思うが、尊厳たる姿を見せている。移植から既に50年を経過した今も元気な姿で御神木として崇められている。

「これこそ恵庭を代表する樹」と言っても、誰も異議を挟むまい。海抜500mのラルマナイ深山から搬出され、昭和46年に移植された老樹であるが、しっかり根を張り威風堂々としている。恵庭市内に数多く存在するイチイの中で、まさに横綱クラスである。

記念樹移植の由来を記した説明板が建っているので引用する。

「・・・昭和四十三年開道百年を迎えるに当たり記念事業として恵庭営林署に乞い受け昭和四十六年八月十八日移植完了す。抑々この太古の老樹は深山ラルマナイ漁分担区二十八林班標高500メートル地にあり神武天皇紀元前と推定され、明治四十二年山林の大火災にて付近一帯の樹木ほとんど焼け枯死せし中に唯一本生き凌ぎ、昭和二十九年九月古今未曾有の大風水害の中を堂々と生きぬき厳然として今日に至る。この尊厳の姿は此後神木として私共住民の子供孫まで幾千代かけて永遠に尊厳と追慕せらるることと存じます。搬出に当たり深山より林道を運び出し支笏湖畔廻り四十余キロの行程を搬出無地移植完了す。蝦夷が島根の北の園 遠き昔を偲びつつ 波静かなる世を祈るらん 昭和四十六年九月二十日 豊栄神社宮司本間康将」

 

 

なお、豊栄神社(とよさかじんじゃ、恵庭市大町3丁目6-5)については、拙ブログ2015.1.29「恵庭の神社-1、大国魂大神と豊宇気姫神を祀る豊栄神社」を参照されたい。

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恵庭の樹-2、恵庭市庁舎落成記念樹

2022-04-25 13:43:41 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

恵庭市唯一の北海道指定 記念保護樹木

恵庭市役所に「記念保護樹木(北海道指定)」があると、今年になって初めて知った。「記念保護樹木」の言葉は耳新しかったし、市役所へ何回も行っているが「どこにそんな樹があったか?」思い出せない。しかも、恵庭唯一の指定樹木だと言う。

4月の初めカメラを抱えて市役所を訪れた。記念保護樹木は正面玄関脇の3本の庭木であった。なんの変哲もない、見慣れた庭木のイチイ(オンコ)である。傍らに説明板があるので引用する。

・・・恵庭市庁舎前庭記念保護樹木、所在地 恵庭市京町1番地、樹種 イチイ、直径63,40,50cm、樹高8,10,11m、推定樹齢 3本共260年、所有者 恵庭市、このイチイは、昭和47年6月恵庭市庁舎落成記念として、市内盤尻の市有林から移植したものです。北海道の歴史とともに育ち、これからも恵庭市の発展を見守ってくれる大切な樹木です。昭和48年3月30日指定、北海道・・・

移植当時の推定樹齢が260年と記載されているので、既に樹齢310年と言うことになるのか。改めて樹形を見上げた。イチイの生長速度は遅いと聞くが、まだ庁舎の高さには届かない。老樹と言うより成壮年樹の感がある。しかし、イチイは「市の木」なのでシンボルとしての意味はある。幾世代か後には誰もが崇める程の大木になることだろう。

ところで、記念保護樹木とは北海道が北海道自然環境等保全条例(昭和48年)に基づき指定した樹木で、北海道全体で106樹木が指定され、これはその中の一つ。多くは開拓当時から自生していた「開拓記念木」「開拓以来住民に親しまれている樹木」「神木として敬愛されている樹木」「信仰のシンボルとして敬愛されている樹木」「アイヌの伝説に由来する樹木」などで、孤高に聳える大木が想像されるが、恵庭市の記念保護樹は些か若々しい。

市内には他にも記念保護樹として価値ある古木がありそうなものだと思うが、どんなものだろう。散歩の途中も公園や神社の樹々が気になるようになった。

 

◆北海道自然環境等保全条例

北海道では北海道自然環境等保全条例に基づき環境緑地保護地区等及び記念保護樹木を指定している。

○北海道自然環境等保全条例(昭和48年12月11日、条例第64号)

(目的)第1条 この条例は、自然環境保全法(昭和47年法律第85号)その他の法令と相まって、自然環境の適正な保全を総合的に推進するとともに、国土の無秩序な開発を防止し、もって道民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。

(記念保護樹木の指定)

第23条 知事は、由緒・由来のある樹木又は住民に親しまれている樹木のうち、郷土の記念樹木として保護することが必要なものを記念保護樹木として指定することができる。

北海道のHPから、北海道指定記念保護樹木一覧(空知・石狩管内部分を抜粋)を引用する。

なお、平成5年(1993)に環境基本法(法律第九十一号)が施行されてからは環境保全意識が一段と高まり、北海道環境基本条例(平成8年10月14日、条例第三十七号)、恵庭市環境基本条例(平成9年12月30日、条例第21号)が制定された。恵庭市では、さらに「空地の環境保全に関する条例(昭和51年3月25日、条例第3号)」「きれいなまちづくり条例(平成15年3月31日、条例第9号)」等を制定し、地域の環境美化を促進し、市民の生活環境の向上に努めている。

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恵庭の樹-1、品位と長寿を誇る「市の木、イチイ」

2022-04-24 13:12:11 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

わが家の記念樹

平成4年(1992)恵庭市恵み野に住宅を建てた。住民票移動など一連の転入手続きを終えると、恵庭市から「市の木、イチイ(オンコ)苗木」をプレゼントすると言うので、早速入手して庭に植えた。30年余り前のことである。その後は素人の刈込で半球仕立てにし、出葉時の瑞々しさを愛で、秋には小鳥たちが赤い実を啄ばむのを楽しんでいる。現在、樹高1m強、樹幹径10cmほどになっている。

この時初めて、恵庭市の「市の木」はイチイ、「市の花」はスズラン、「市の鳥」はカワセミだと知った。「市の木」「市の花」を制定したのは市制施行から3年後の昭和48年(1973)である。市のホームページには「市の木イチイは四季を通じて緑葉を残し、風雪に耐え抜く力強さは長寿の象徴とされています」「初夏の訪れとともに、島松原野にはスズランの花が咲き誇ります。スズランは幸福の花とも呼ばれ多くの市民に親しまれています」と選定の理由が記されている(なお、「市の鳥」カワセミを制定した平成8年)。

因みに、イチイを市の木に指定している市町村は多く、恵庭市の他に北見市、函館市、富良野市、今金町、共和町、清里町、小平町、中川町、当麻町、東神楽町、美幌町、むかわ町、由仁町、西興部村、奥尻町、せたな町、北竜町、八雲町がある。北海道では風雪に耐える姿に人気があるのだろう。また、岐阜県が県木として指定している(北海道はエゾマツ)。

 

◆イチイ(一位、櫟、学名:Taxus cuspidata Sieb. et Zucc、英名:Japanese Yew)北海道では通常オンコと呼ぶが和名はイチイ。イチイ科イチイ属の常緑針葉樹である。名前の由来は、神官が使う笏がイチイの材から作られたことからシャクノキ(笏木)とも呼ばれたが、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたので「イチイ」の名が出たとされている。別名アララギとも称され、アイヌ語ではクネニ(アイヌは弾力性に富むことからイチイを狩猟用の弓を作る材料として使用したことから、「弓の木」の意味「クネニ」と呼んだ)。

分布:北海道、本州、四国、九州、沖縄、千島列島、中国東北部、朝鮮半島

形態:常緑針葉樹の高木。樹高は10~15mほどになるが、暗い場所で育つため生長は遅い。幹の直径は50~100cmほどになるが、30cmになるまでに100年はかかると言われている。葉は羽状に互生、濃緑色、線形で先端が尖る。

生態:花期は3~4月、雌雄異株、小形の花をつける。初秋に赤い実をつける。種子は球形で、杯状で赤い多汁質の仮種皮の内側におさまっている。果肉は甘く食べることができるが、種子には有毒成分アルカロイドのタキシンが含まれ中毒(痙攣や呼吸困難)を起こす。

植木:耐陰性、耐寒性で刈り込みにも耐えるため、庭木や生垣に利用される。また、北海道ではサカキの代わりに玉串など神事に用いられ、神社の境内にも植えられる。

材質:年輪の幅が狭く緻密で狂いが生じにくい。また、紅褐色をした美しい心材が多く加工し易いことから、工芸品、器具材、箱材、机の天板、天井板、鉛筆材として用いられる。岐阜県飛騨地方の一位一刀彫が有名。<参照:Wikipedia、北海道の森林植物図鑑(北海道林務部監修)、樹木図鑑(日本文芸社)>

「市の木」の所以だろうか、恵庭市内にはイチイをよく見かける。多くは生垣や刈込をした庭木であるが、深山から運び出した大木を移植した庭(建設会社、造園会社など)もある。そのような古木を見ると、樹齢何年か、売買するとしたらどの位の値が付くのか下種は勘繰る。

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縄文時代の気候変動危機(北大道新アカデミー2022前期)

2022-04-13 11:06:43 | 講演会、学成り難し・・・

国木田大「縄文時代の気候変動危機を考える」を聴講

北大道新アカデミー2022年度前期講座(道新文化センター)の文系講座は「人間は危機にどう対応してきたか」を共通テーマに計8回の講義が計画されている。テーマ設定の意図について事務局は「新型コロナウイルス感染症の影響が続く中、私たちは大きな岐路に立たされています。人類がどのように危機を克服したのか、さまざまな歴史のシーンから探っていきます」と述べている。時宜にかなった企画である。第一回、第二回を聴講した。

講師の北大准教授国木田大氏(考古学研究室)は、放射線炭素年代測定、炭素・窒素同位体分析、フィールド調査を武器に活躍する先史文化研究者。縄文土器の付着物「お焦げ」から食性の変遷を調べた業績などで知られる。

 

◆国木田大「縄文時代の気候変動危機を考える1、前半の激動期への環境適応」

2022年4月9日

  • 感染症と考古学:縄文時代入江貝塚の筋萎縮症異常肢骨、弥生時代青谷上寺地遺跡の結核罹病カリエス人骨、奈良時代疫病大流行などの事例をあげ、文字がない時代の考古学の意義に触れ、縄文時代後期の人口激減は疫病なのか、気候・環境変動なのか、と問い掛けた。
  • 縄文時代の年代をめぐる議論及び年代推定法を紹介し、縄文時代の始まりは気候の激変期で約1,500年前頃から気温が急激上昇し縄文前期は温暖だったが、13,000~11,500年前に急激な寒冷化が起きている。
  • 酸素同位体比、植生変化、地形変化から推定法について具体的事例で解説し、縄文時代後期の中部地方人口激減は寒冷化の時期と一致するがその因果関係は何なのか? と問い掛ける。

そして、土器の発明は気候変動に伴う新たな資源開発のためであり、しかも各地域で同時多発的に発生した環境適応戦略だったのではないかと推論した。さらに、石刃鏃文化や暁式土器の調査から、北海道と大陸・サハリンとの関係を鑑みると寒冷化に伴う集団の南下拡散があったと推定した。気候変動をきっかけにして人と社会に動揺があったのは確かだろう。

専門的な要素が多く難解な部分も多かったが、多くの新しい知見が得られ有意義なひと時だった。

言うまでもなく、人口の増減、社会・部族(文化)の盛衰は気象要因だけでなく多様な要因が関係してくる。疫病や災害然り。その他にも人口増による食糧難から部族間の紛争や環境破壊が起こり、社会・文化が消滅した事例は枚挙に暇がない。イースター島やインカ文明の消滅もその一つ。次回は何を語るか、期待したい。

言うまでもなく、人口の増減、社会・部族(文化)の盛衰/衰退は気象要因だけでなく多様な要因が関係してくる。疫病や災害然り。その他にも人口増による食糧難から部族間の紛争や環境破壊が起こり、社会・文化が消滅した事例は枚挙に暇がない。イースター島やインカ文明の消滅もその一つ。次回は何を語るか? 期待したい。

◆国木田大「縄文時代の気候変動危機を考える2、後半の寒冷期への環境適応」

2022年4月30日

  • 縄文時代前半期(早期・前記)の温暖化でクリ栽培や豊富な資源活用が可能になり、三内円山遺跡のような繁栄した集落が形成された。三内円山遺跡では、クリやクルミなど多種類の種子が利用されていたがクリ栽培があったと推定される。他にも、ニワトコ、ムササビ、ノウサギ、サメ、ブリ、鳥、サケ・マスなどを利用していた。
  • 縄文時代中期以降の寒冷化は何をもたらしたのか? 

寒冷化に伴い海水準が低下するが、クリに代わって低地・湿潤な場所に適するトチノキの利用が増えて来る。トチノキの実はアク抜きしないと食用に適さないが、水に晒す、火にかけ木灰を使うなど水場の形成などが確認できる。

  • 寒冷化に伴い三内円山遺跡など大規模・拠点集落は消滅し、小集落に分割し周辺に散在するようになる。分散した人々が共同墓地の運営・祖先祭祀を行う場として環状列石を構築したのではないかと推察される。

講師は、講義を以下のように集約した。

  • 縄文時代前半期は温暖期であり、気候の安定化が、三内円山遺跡などの大規模集落・長期継続の拠点集落を生み出した。
  • 縄文時代後半期、特に中期後半と晩期前半は寒冷期であり、三内円山タイプの拠点集落は維持できず分散する。
  • 縄文時代後期前半には環状列石が登場し、分散した集団の拠りどころとして記念物が構築され、同族の結合を再確認する場として機能した可能性が考えられる。
  • ただし、寒冷化の影響はあまりなかったとする説もある(阿部芳郎2017など)。
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春の先駆け「クロッカス」「ふきのとう」、恵庭の花-29

2022-04-05 13:32:59 | 恵庭散歩<花のまち、花だより、自然観察>

雪解けが遅れた庭に春告花「クロッカス」と「ふきのとう」

2022年4月4日、雪の重みで折れた庭木の枝でも片付けようかと、春の陽ざしに誘われて庭に出る。昨冬は記録に残る大雪だったので庭の片隅にまだ残雪があるものの、「クロッカス」が咲きだし「ふきのとう」が目を出しているのを見つけた。

開花はまだ数株で、一面に花開くのはもう少し先のことだが、わが家の「春告花」クロッカスは今年も健在である。

◆クロッカス

拙ブログ「恵庭の花-17 クロッカス(花サフラン)、2018.3.31」でも触れているが、クロッカスはアヤメ科(Iridaceae)、クロッカス属(Crocus)で学名はCrocus L、秋植え球根植物。原産地は地中海からトルコにかけての地域と言われる。

晩秋に咲き、花を薬用やスパイスに使うサフラン(Crocus sativus L.)と同属であるが、早春に咲き、観賞用のみに栽培されるクロッカスを春サフラン、花サフランなどと呼んでいる。クロッカスの名前は、雄しべの先が糸のように見えることから、「糸」を意味するギリシャ語からきているのだと言う。

球根は直径4cmくらいの球茎で、花はほとんど地上すれすれのところに咲き、黄色・白・薄紫・紅紫色・白に藤色の絞りなどがある。クリサントゥスCrocus chrysanthusを原種とする黄色種と、ヴェルヌスC. vernusを原種とする白・紫系の品種とは植物学上別種だが、通常は同一種として扱われる。

花言葉は、早春に花咲く姿から連想した「信頼」「青春の喜び」、ギリシャ神話に由来する「愛したことを後悔する」など。ギリシャ神話には、「美青年クロッカスは羊飼いの娘と恋仲だったが、神々の反対にあい悲嘆のあげく自殺してしまった。クロッカスをあわれに思った花の神フローラは、彼の亡骸をこの花に変えた」との伝説があるそうな。

寒さに強く、日当たりと水はけの良いところなら、植えっぱなしでもよく生育するほど丈夫と言われるが、わが家のクロッカスも植えっぱなし。周辺はまだ緑のカケラもないのに、健気に花開く。

 ◆ふきのとう(蕗の薹)

旬は2月~3月とされるが、北海道では3月~4月。蕾の状態で採取され、ほろ苦い味と特有の香りが好まれる。そのまま天ぷらや、アク抜きしてから煮物、和え物、味噌汁、ふきのとう味噌に調理して食べられる。子供の頃も毎年のように、祖母が野に生える「ふきのとう」を摘んできては、美味しいからと勧めてくれたが「苦い」と感じた記憶だけが残っている。それも何時の間にか春には欠かせない食材、好物となってしまった。

「ふきのとう」のことを、津軽弁で「ばっけ」、秋田弁で「ばっけ」「ばんけ」「ばっきゃ」、庄内弁で「ばんけ」、アイヌ語は「マカヨ」と言うらしい。英語では特別な単語はなく、「フキの花茎a butterbur scape、the flower stalk of a butterbur」と呼ぶ。

因みに、フキ(蕗、苳、款冬、菜蕗、学名Petasites japonicus (Siebold et Zucc.) Maxim.、英名Japanese Butterbur、Fuki)は、キク科フキ属の多年草。日本原産で、北海道、本州、四国、九州及び沖縄県に分布し、樺太、朝鮮半島や中国でも見られる。土手や道端、原野、河川の中洲や川岸など、やや湿ったところに自生する。

栽培種もあるが、昔から最もポピュラーな野草の一つ。わが家では裏庭に栽植したフキが群生している。

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