豆の育種のマメな話

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大豆「ユキホマレ」とその改良品種群開発グループ,日本育種学会賞受賞

2017-04-17 17:19:41 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道立総合研究機構十勝農業試験場大豆育種グループ(代表,田中義則)が,平成28年度日本育種学会賞受賞の栄に輝いた(平成29329日)。受賞題目は,「複合障害抵抗性と機械収穫に優れた大豆品種ユキホマレとその改良品種群」である。

日本育種学会賞は,一般社団法人日本育種学会が「優れた学術的あるいは技術的業績に対して授与し,顕彰する」もので,学会最高の栄誉である。昭和28年(1953)に育種学会賞第1号を北海道大学 長尾正人 教授が受賞してから今年で64年目,第135号の受賞者となった。

なお,豆類関係者の受賞は,主要作物のイネに比べると少なく,これまで10件を数えるのみで(表に示した),本受賞は誠に喜ばしい。学会賞候補として推薦賜った農業研究センター及び審査頂いた関係者の皆様に御礼申し上げたい。

受賞講演の中で,代表の田中義則氏は「これらユキホマレとその品種群は,関係農試,農業改良普及センター,生産者団体,国産大豆品質協議会,加工メーカーによる各種試験の実施,旧大豆指定試験を育種基盤にイネゲノム,DNAマーカー,農食事業プロジェクトによる先進技術の開発と導入,ダイズ研究コミュニテイによる助言など多くのご支援があり育成することが出来た。あらためて関係の皆様に深く感謝申し上げる」と謝辞を述べ,これからも「ぶれない育種戦略」「柔軟な育種戦術」をもって,励みたいと決意を述べた。

育成従事者は,田中義則,湯本節三,黒崎英樹,山崎敬之,鈴木千賀,三好智明,白井滋久,荻原誠司,大西志全,山口直矢,冨田謙一,松川 勲,土屋武彦,白井和栄,角田征仁の15名である

標記受賞に関連して,平成29415日,札幌ガーデンパレスで「日本育種学会賞 受賞祝賀会」が挙行された。直近に育種学会賞を受賞した,北海道の以下4受賞グループを祝う会である。

①    北海道立総合研究機構十勝農業試験場大豆育種グループ(代表 田中義則):複合障害抵抗性と機械収穫に優れた大豆品種「ユキホマレ」とその改良品種群の育成,平成28年度育種学会賞受賞,第135

②    北海道向け良食味水稲品種育成グループ(代表 佐藤 毅):低アミロース遺伝資源を利用した北海道向け良食味水稲品種の育成,平成28年度育種学会賞受賞,第133

③    北海道立総合研究機構北見農業試験場コムギ「きたほなみ」育成グループ(代表 柳沢朗):多収性,加工適性および穂発芽耐性に優れた北海道向け秋播コムギ品種「きたほなみ」の育成,平成26年度育種学会賞受賞,第129

④    超強力小麦「ゆめちから」育成グループ(代表 田引 正):北海道の秋播栽培に適した超強力小麦品種「ゆめちから」の育成,平成25年度育種学会賞受賞,第125

これらの受賞は,北海道の育種事業が関係者の努力により実を結び,育成品種が北海道農業に大きな貢献をしていることの証である。

祝賀会では,北海道庁農政部長小野塚修一様,農研機構北海道農業研究センター所長勝田真澄様,JA北海道中央会常務理事村上光男様,ホクレン農業協同組合連合会米穀事業本部長穴田繁俊様,北海道大学教授貴島祐治様,道総研理事長丹保憲仁様,道総研農業研究本部長志賀弘行様らから祝辞やご挨拶があった。

退職後17年,育種現場を離れてから25年になる筆者が,育成グループの端っこに名前を連ねるのは面はゆい限りだが,これこそ育種の継続性を示すものかもしれない。「育種は継続,育種は総合,育種は人間性、育種は挑戦」と言い続けてきたことは間違いでなかったようだ。

育種心が受け継がれていることが何より嬉しい。

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育種は継続

2017-01-11 09:55:45 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

大豆「ユキホマレR」「とよみづき」「ユキシズカ」「ゆきぴりか」北農賞受賞

去年の暮れ(12月16日),京王プラザホテル札幌で安孫子賞・北農賞の贈呈式があった。公益財団法人北農会が実施する表彰事業で,平成28年度は安孫子賞が第57回,北農賞が第77回を数える。

表彰規定(抜粋)は,以下のように定められている。

安孫子賞:①北海道において農業に従事し,経営・技術に創意工夫を加え,堅実な経営を築き,将来の発展が期待されるもの,②北海道において,農業の指導・研究・普及などに従事し,誠実な実践活動により農業改良に顕著な成績をあげたもの

北農賞:①「北農」の最近1か年間に登載された論文・資料等の中で普及上優秀なもの,②育成品種で顕著な実績をあげているもの,③技能・事務上の創意工夫・考案等により試験研究の推進に貢献したもの

◆北農賞受賞

実は,北農賞の品種育成部門に,大豆「ユキホマレR」「とよみづき」「ユキシズカ」「ゆきぴりか」の育成が受賞となり,小生も育成者15名のうちの一人だという(受賞者:鈴木千賀,山崎敬之,田中義則,黒崎英樹,萩原誠司,大西志全,三好智明,山口直矢,冨田謙一,土屋武彦,松川勲,白井滋久,湯本節三,白井和栄,角田征仁)。確かに,この中の2品種については育成の一部を担当したが,極めて昔の話である。振り返れば,退職したのが17年前,育種の現場(十勝)を離れてから25年が経過している。

贈呈式の案内状を受け取ったとき,先ずは戸惑い,出席するか否かしばらく躊躇した。「これら北農賞は,若い現役の研究者を表彰し,研究の励みに資する性格のものではないのか」と思ったのである。表彰対象育成者のメインはもちろん現役の研究者諸君で,彼らも贈呈式に出席するが,幽霊が出る幕でもあるまいと感じたのである。

そのような気持ちを抱きながらも出席することにしたのは,①かつて上梓した拙著「豆の育種のマメな話(北海道協同組合通信社2000)」の中で,「育種は継続」「育種は総合」「育種は人間性」と繰り返し述べたが,この表彰は「育種は継続」の言葉を証明するものものでないか。継続の意義を現役の皆さんと分かち合おう。②束縛される仕事もなく暇な身体である。この機会に,現役の皆さんから育種に関する新しい情報と元気を貰おうと考えたからである。

◆受賞理由

受賞理由について,贈呈式資料から引用する。

(1)北海道は約3万ha の大豆が栽培されている国内の主要な産地であるが,道産大豆需要拡大のため,収量・品質の高位安定,加工適性の向上,新商品の開発など実需および生産サイドから多様なニーズがあげられており,これまでも国産大豆の主要な用途(豆腐・納豆・味噌)向けの品種を育成し,道産大豆の生産性と品質向上に寄与してきた。

(2)「ユキホマレR」は,主力品種「ユキホマレ」にDNAマーカーを利用して,ダイズシストセンチュウ抵抗性(レース1)を導入した豆腐用途品種で,農業特性,加工適性が同等であることから,平成27年の栽培面積は約1,300haでさらに拡大している。「とよみづき」は,生産面では「ユキホマレ」の低温年での成熟の遅れや粒の裂開,加工面からは豆腐にした際にやや固まりにくいなどの欠点を改良し,平成22年に優良品種に認定され,平成27年の栽培面積は約1,400haと普及が順調で,さらに大きく拡大することが見込まれる。

(3)「ユキシズカ」は,納豆用小粒大豆として平成13年に優良品種に認定された。収量は「スズマル」並からやや多収で,粒大はやや小さく,納豆加工適性は同品種並みに優れる。熟期は早く,耐冷性,センチュウ抵抗性であることなどが評価され,平成27年の栽培面積が5,000haを越え,用途別品種の約70%となっている。

(4)「ゆきぴりか」は,大豆の機能性成分で骨粗鬆症改善やがん予防に効果があるとされるイソフラボンを従来品種より1.5倍多く含み,加工業者からその特性を生かした商品開発が期待され,平成18年に優良品種に認定された。道総研研究機関と道内味噌メーカーの共同で米味噌が商品化され市販されている。平成27年の栽培面積は約140haであるが,様々な商品が開発・販売されている。

以上の4品種は,日本食の伝統的大豆食品用途として開発され,それぞれ順調に栽培面積が拡大しており,農業経営の向上および道産大豆の高品質・安定生産に寄与すると同時に,各用途の大豆食品の消費拡大に大きく貢献することが期待される。

◆育種の心

育種機関においては,人事の異動があっても育種材料は引き継がれ,選抜の心(ゆるぎない選抜目標と選抜眼)が継続される。その積み重ねがあって,特性に改良が加えられた新たな品種が誕生する。育種では,「ある日突然」という言葉はありえない。地道な観察と継続したデータの積み重ねが重要である。今回の受賞は,15名の信頼に基づく継続の成果であったと言えるだろう。

北海道の大豆栽培面積が6,740ha(平成6年)まで減少した時も,周囲の雑音に惑わされることなく育種を継続した育種家たちがいたからこそ,現在の大豆栽培面積33,900ha(平成27年)を支えることが出来ている。育種は継続なのだ

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何故,「手亡」と呼ぶのか? インゲンマメ銘柄呼称の由来考

2015-12-21 15:40:55 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

:本稿は未定稿である(2015.12.21,写真は日本マメ類基金協会「豆類の品種」228p)

 

京都「楽天堂」豆料理クラブのウエブに,埼玉サン・スマイルMT氏の投稿文「手亡(白いんげん)豆のドラマ」が掲載されている(この情報は,平成25年の暮れに市内の田中さんから,高知の竹田先生発信の情報として頂いた)。

興味を覚えたのは,「インゲンマメ(手亡類)が何故「手亡」と呼ばれるようになったのか」と語る,島根の某土木会社社長の話である。先ずは,その部分を紹介しよう。

「その手亡豆は私の曾爺さんの兄弟で,島田是一と言う人が日露戦争で負傷して片腕をなくし,引きあげて来るときに持ってきた豆で,片腕が無いと言うことで皆が手亡豆と呼んだんじゃ。確か,大手亡と小手亡と聞いておる」「そして,わしゃ(島田家)もともと土佐じゃけん,その島田是一が坂本竜馬のゆかりの人と北海道に屯田兵として入植してその豆を植えてみたところが,北海道にとても合うのでその豆を広めたと爺さんから聞いている」

「手亡」の呼称由来は何処にあるのか。「手竹を必要としないから手亡と呼ぶ」という説が通説になっているが,「手無」でなく「手亡」とするのも腑に落ちない。何故なら,明治から大正時代に栽培された「手無長鶉」(大正3年優良品種),「黒手無」(Gylinder Black Wax,大正3年優良品種)と言う品種があり,昭和初期には「手無中長鶉」(昭和14年優良品種),「手無鶴金時」(昭和11年優良品種)が栽培されていた。また,エンドウでも明治から大正時代に「札幌青手無」(札幌農学校から種子を導入し明治38年優良品種決定),「丸手無」(Gladuator,札幌農学校が導入,大正4年優良品種)があり,昭和には「札幌青手無1号」(昭和7年優良品種)と「改良青手無」(昭和33年優良品種)が栽培されていたように,「蔓(手)が出ない,手竹を必要としない」特性を「手無」と表現していた事例が多いからである。

また,同じインゲンマメの銘柄には「金時」「白金時」「長鶉」「中長鶉」「大福」「虎豆」等があり,これ等は子実の色や形状から呼称が発生したと想像されるのに,「手亡」呼称は何故に子実形状でなく草姿に由来するのか。銘柄は流通する子実を基に分類するのが便利であるのに,何故「手亡」だけ違うのか,このことも疑問を増幅させる。

何故,白色・小粒のインゲンマメを「手亡」と呼ぶようになったのか? 先の情報(島田是一説)を検証することにした。

1.島田是一は屯田兵だった?

屯田兵制は北海道の警備と開拓を目的に制定され,24年間(明治8~32年)で延べ7,337名が北海道各地37兵村に入植した。家族を合わせると約4万人が北海道開拓に尽力したことになる。制度の発足から解隊までの経緯は,概略次のとおりである。

明治6年(1873)11月:北海道開拓次官の黒田清隆は太政官に屯田兵制を建議

明治7年(1874):太政官屯田兵例則を定める

明治8年(1875)5月:琴似兵村入地を最初に入植を開始

明治32年(1899):剣淵,士別の入植を最後に,新たな入植を終了

明治33~37年(1900-04):後備役に編入,または解隊によって屯田兵制を終了

ところで,島田是一は屯田兵だったか?

北海道屯田倶楽部「屯田兵名簿」(tonden.org.)には,入村地ごとに屯田兵氏名,入植年,出身地が整理されているので,島田是一の名前が掲載されているか調べた。この中で高知県出身者は129戸641人存在するが「島田姓」は見当たらない。また,屯田兵名簿に記載される「島田姓」の人物は9名(島田錦太,島田内蔵太,島田利吉,島田与三松,島田蘇蔵,島田吉太郎,島田六三郎,嶋田小太郎,嶋田熊治)に過ぎず,新潟,香川,福井,熊本,石川,宮城県の出身者である。

また,広谷喜十郎「高知県出身屯田兵の名簿」(土佐史談191号,p141-146,高知県立図書館内土佐史談会,平成5年)でも確認したが,島田姓は見当たらない。

更に,負傷して片腕を無くしているのに屯田兵というのは,屯田兵制度からみても無理がある。「島田是一」は屯田兵ではなかったと言えるだろう。

2.日露戦争で負傷した島田是一が屯田兵として入植した?

日露戦争は明治37年(1904)2月8日旅順口攻撃で始まった。大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島,満州南部,日本海の覇権を争った戦争で,明治38年(1905)9月5日ポーツマス条約調印で 終結している。

先に記したように,屯田兵の入植は明治32年(1899)に終了しているので,日露戦争で負傷した島田是一が屯田兵として入植することはありえない。

では,日露戦争でなく日清戦争と言うことはあり得るか? 日清戦争は,朝鮮の支配権をめぐって日本と清国の間で起こった戦争で,明治27年(1894)7月~明治28年(1895)3月のことである。日清戦争であれば時系列として成り立つが,前述のように屯田兵名簿に島田是一の名前はない。因みに,「島田姓」の入植年は明治9年(1876)5月~明治27年(1894)5月で,日清戦争以前と言うことになる。明治28年(1895)以降に屯田兵となった高知県出身者は22名いるが,「島田姓」の人物は実在しない。

3.坂本竜馬ゆかりの人と北海道に入植した?

屯田兵でないとすれば,「島田家はもともと土佐じゃけん,坂本竜馬ゆかりの人と北海道に入植」の言葉がヒントになる。土佐(高知県)と北海道開拓の繋がりは,坂本竜馬の蝦夷開拓論に始まり,以下の史実に代表される。

(1)坂本竜馬の蝦夷地開拓論

坂本竜馬は慶応3年(1867)3月同志印藤聿宛ての手紙で,「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より,新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間,何卒一人でなりともやり付申しべくと存居申し候・・・」と書いている。大政奉還で武士が職を失うことを予想して,その力を北海道開拓に活かすことを考えていたのである(いわゆる,竜馬の蝦夷開拓論)。この構想は後に,西郷隆盛,黒田清隆らによって屯田兵制度として実現する。

(2)高知藩の千歳郡開拓

明治2年(1869)北海道開拓使によって諸藩分治の勅が出されると,土佐藩(高知藩)は千歳,勇払,夕張郡支配を出願し,岸本円蔵・北代忠吉らの調査を経て,千歳郡下で開拓に取り組んだ。明治2年(1869)10月北海道開拓志望者を募集,明治3年(1870)5月には役員十数人と大工・人足・農夫など約60名が入植したが,明治4年(1871)7月の廃藩置県により治領を開拓使に返還することになり,入植者は全員高知に引き上げた。

因みに,高知藩開拓団は食糧や農具・家具一式を持ち込み,1年間で千歳・イザリブト(現・恵庭市)・シュママップ(現・恵庭市島松)に7町8畝余を開いた。穀類や野菜の種子も持参し栽培を試みたと考えられるが,「蕎麦」「水稲」以外の記録は見つからない。坂本竜馬の意志を反映するように,高知藩は北海道開拓に熱意を持って取り組み5万両もの大金を支出したが,開拓はこの地で結実しなかった。

この開拓事業は明治初期であること,入植者全員が高知に戻ったことを考えると,島田是一との接点は考えられない。

(3)浦臼「聖園農場」と北見「北光社」

島田是一が接点を持ち得たとすれば,高知の北海道開拓として知られる浦臼の「聖園農場」と北見の「北光社」ではあるまいか。前者は,明治26年(1893)高知の自由民権運動家でキリスト教徒の武市安哉(当時国会議員)に率いられて入植した団体である。後者は,明治28年(1895)坂本竜馬の甥「坂本直寛」(旧名,高松南海男)等が中心になって設立した合資会社(移民団体)で,明治30年(1897)5月に第一次入植者が北見の訓子府原野に入植している。この両団体は,キリスト教精神に基づく理想主義的農村共同体を目指していた。なお,坂本直寛は北見を1年ほどで切り上げ,明治30年(1897)浦臼の聖園農場に移った。因みに,山岳画家で知られる坂本直行(直寛の孫)も十勝の広尾に居住したが,島田是一の時代より後のことである。

4.浦臼「聖園農場」に島田是一は入植した?

土佐の自由民権運動で活躍していた武市安哉(県議,代議士)は,キリスト教主義による理想農村を目指して,明治25年(1892)に北海道移住を決意,明治26年(1893)7月樺戸郡浦臼(現,浦臼町)に入植し聖園農場(武市農場と呼ばれた)を拓いた。同年,第一次移住として31名(青年たち先発隊,前田駒次もいた)が浦臼に入り,翌年には第二次移住200名,第三次400名が計画された。入植者の名簿は確認できないが,第一次入植者としては武市安哉(農場長)・前田駒次(補佐)・平井寅太郎(書記)・野口芳太郎等の他に,長野開鑿・和田吉弥・長野徳馬・和田佐吉・石丸左右次・崎山久吉・佐藤精郎・畑山達三郎・水田菊太郎・北村宗信らの名前を,第二次移住者としては門田善弥・田岡森蔵・吉村吉太郎・前田千代松・田岡寅太郎・大坪一道・岡貞吉・谷悔浪らの名前を「浦臼町百年史」に見出すことが出来る。

聖園農場では,入植2年目には教会を建設して児童の教育とキリスト教を精神的な支えとした開拓を推進した。当地は石狩川の氾濫に見舞われることも度々あり,その後に多くの人々が美深や佐呂間,ブラジルなど他地域に再移住するなど,武市安哉のフロンテイア・スピリットは広がりを見せている。

武市安哉は明治28年(1895)青函連絡船上で急死。前田駒次,平井虎太郎,野口芳太郎ら指導者が北見「北光社」に移ったこともあり,武市安哉の後は娘婿の土居勝郎が継ぎ「土居農場」として継続する。その後も移住者を迎え開拓は進んだが,団体移住は第三次で打ち切られ以後は単独入植であったようだ。明治30年(1897)には坂本直寛一家が北見から浦臼に移住している。土居農場は明治42年(1909)に北海道拓殖銀行に譲渡し,団体としての終わりを迎えた。因みに,現存する「聖園農場」は昭和37年(1962)有限会社として設立されたもので,当時の規模・内容とは異なるが,「聖園教会」ともども名前を残している。

また,「浦臼町百年史」(平成12年,編集委員会)によれば,栽培作物としてイナキビ,ハダカムギ,ジャガイモ,ナタネ,アズキ,ソバ,カボチャ,イネ,トウモロコシの名前は出て来るが,インゲンマメの記載はない。

島田是一が日露戦争(明治37~38)後に浦臼へ入植したと考えるのは,年次から見ても難しい。また,日清戦争(明治27~28)後と想定しても,団体移住でなく単独入植であった可能性を残すのみである。浦臼「聖園農場」関連で,未だ島田是一の名前及び「島田」姓を見出すに至っていない。

5.北見「北光社」に島田是一は入植した?

北見「北光社」は,キリスト教徒,土佐の自由民権思想家,活動家でであった片岡健吉,坂本直寛(竜馬の甥)等によって設立された合資会社で,高知県下から移住者を募りクンネップ原野(現,北見周辺)の開拓を目指した移住団体である。初代社長は坂本直寛であったが実務は副社長の澤本楠弥が仕切り,翌年坂本直寛が浦臼へ転出後は浦臼から移住した前田駒次が会社を支えた。大正3年(1914)に黒田四郎に譲渡され「黒田農場」となり,「北光社」は幕を閉じた。

第一次入植は112戸650人,明治30年(1897)3月3日に高知市浦戸港を出港し,5月8日に入地している。更に,明治31年(1898)には55戸(後に35戸逃亡),明治32年(1899)には54戸(後に38戸逃亡)が入植し,明治36年(1903)6月25日野付牛村外一か村調べでは,北光社移住総数は221戸とされる(同年の網走支庁殖民課調べでは219戸)。なお,明治36年(1903)段階で定着戸数は72戸,逃亡戸数147戸とある(網走支庁殖民課調べ)。

「北見市史」(昭和56年,編纂委員会)には,北見市の礎を築いた「北光社」について222ページに及ぶ詳細な記載がある。入植者についても,かなりの氏名が明らかになっているので,島田是一の名前を探ってみよう。

(1)明治30年(1897)移住民手荷物控

明治30年(1897)浦戸・須崎両港から乗船した移住団の戸主または代表者の名簿(手荷物控,先発隊12名を除く)に100名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(2)初期入植者班別一覧表(池田七郎聞き取り調査)

明治30年(1897)入植者66名,明治31年(1898)入植者26名,明治32年(1899)入植者3名,明治33年(1900)入植者4名,班不明者27名,その後の調査で明治30年入植者中出身地が判明したもの25名,計151戸(名)の記載があるが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(3)明治35年(1902)独立小作人名簿

明治35年(1902)の記録として,23名(北光社以外よりの者7名を含む)の独立小作人名簿があるが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(4)黒田農場以前に土地譲渡を受けた「譲渡一覧」

譲渡一覧表には27名の氏名と地番・面積が記されている。27名(北光社出身者13名,屯田兵出身者8名)の中に,「島田」姓は見当たらない。

(5)黒田農場への移譲に当り北光社が譲渡を受けた「社員所有地北光社譲渡許可証」

6名の氏名と譲渡年月日,反別が記載されている。6名の中に「島田」姓は見当たらない。

(6)上常呂農場自作農創成調書

14名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(7)黒田農場分場者一覧表

資金貸付規程による黒田農場の分場者一覧には,北光社40名,豊地34名,川向30名,上常呂13名,居呂武士11名,計128名の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

また,昭和20年(1945)現在の定住者として,「北光社以来の定住者」21名(戸),「黒田農場買収以来の居住者」10名(戸)の氏名が記載されているが,この中に「島田」姓は見当たらない。

(8)「開拓記念碑」に刻まれた移住開拓者

昭和2年(1897),開拓記念碑が小学校庭の一角に建立された。碑文には「明治三十年五月高知県人百戸荊莉地ヲ覆ヒ森林天を遮り徒に熊羆咆哮ノ地ニ移住シ・・・部落将来ノ基礎ヲ確固ナラシメタルハ歴然タリ・・・」とある。碑台には明治30年(1897)以来の在住植民者48名の名が刻まれている。この中に「島田」姓は見当たらない。

北見「北光社」関連で,未だ島田是一の名前及び「島田」姓を見出すに至っていない。しかし,島田是一が日露戦争後に入植したとの説を可能にするのは,年次から見て「北光社」から独立した小作農を頼って入植したとの考えが成り立つ。北見と十勝は当時から交流があり,豆の産地であることから,「手亡」の名前が北見に入ってきたとしても今のところ否定できない。

なお,北見市総務部市史編さん室に「北光社関係の入植者に島田姓の人はいないか」お尋ねしたところ,各種関係資料を調べ関係者にも確認して頂いたが「島田姓の人物は見当たらない」,との懇切な回答を頂いた(平成27年9月28日私信)。

.土佐(高知県)における「手亡」

島田是一が日露戦争で負傷して引き上げる際に持ってきた豆を「手亡豆」と呼ぶようになったと言うのであれば,土佐(高知県)に「手亡豆」栽培の記録が残っていないだろうか。片腕を亡くした人物を「手亡」と呼ぶような風習があったのだろうか。元高知大学農学部教授で豆類に詳しい前田和美博士に次の点を伺った。

①高知県ではインゲンマメの栽培が古くからあったと思いますが,「手亡」の名称初見はいつ頃でしょうか。北海道で「手亡」と称される以前に,高知で使われていた事例を確認できるでしょうか。

②高知県で,片腕をなくした人物を「手亡の誰某」と呼ぶようなことが(間接的にでも),明治の時代ではありますが,あり得たでしょうか。

前田先生からは懇切丁寧なご意見を頂いた。一部を引用させて頂く。

「・・・土佐の民俗や伝統食の専門家たちとの打ち合わせでも,「手亡」というインゲンマメの品種名と高知との関係の話は出ませんでした。手元の高知県の園芸沿革史関係にも,大正~昭和初期の「菜豆」品種には,「蔓無黒三度」「白三度」「エバーグリーン」「スーパーラチーフ」「ケンタッキー・ワンダー」などの名前は出ていますが,「手亡」はありません。また,「高知県方言辞典」(土居重俊・浜田数義編,昭和60年,高知市文化振興事業団刊)には,「てぼー:手ぶら」としか出ていません。「手亡」については,「手なし=不具者」という差別につながる,漢字書きにせず,「てぼう」と書くのが良いのではいうことを聞いた記憶があり調べてみたところ,新村出編纂「辭苑」(昭和10年初版,博文館,昭和18年第353版)に,「てなし(手無)①手のない不具者。てんぼう」とあります。なお,新村出著「広辞苑」(第6版,岩波書店2008年刊)には,「てなし(手無し)①手がないこと。また,その人」と出ています。そして,「てぼう(手棒)②⇒てんぼう」とあり,「てんぼう(手棒)」には「(テボウの擬音化)指や手首のない人をいやしめて言う語」とあります。「手亡」はありません・・・」(平成27年9月10日私信)。

高知における「手亡」の記録は見出せなかった。この件に関して,佐藤久泰博士からも「手亡」の生態からして西日本(高知)での栽培は無理ではないかとの意見を頂いた(平成27年9月13日私信)。

7.「てぼう」の表記,「手棒」「手亡」「手芒」

前田和美博士のご指摘にあるように,辞書に「手棒」の表記はあるが,「手亡」は無い。指や手首のない人をいやしめて言うのに「てんぼう」(手棒)と使った事例として,野口英世博士の逸話が思い出される。「手棒」なら成る程と思えなくもないが,それでは何故「手棒豆」でなく「手亡豆」だったのか。インゲンマメの育種家でもあった 元十勝農業試験場長後木利三氏からも,「教科書に載っているような情報(手竹を必要としない由来)しか聞いたことは無い。手亡の漢字にとらわれず,テボウとすると何かあるかも?」とご示唆を頂いた(昭和27年9月10日私信)。

ところで,山本正氏は「近世蝦夷地農作物誌」(北海道大学出版会,2006)の中で,「手芒」の表記を使っている(同書119p. 「インゲンマメ事始め」)が,その根拠は分からない。

8.北海道における最初の「手亡」(インゲンマメ)品種

視点を変えて,農事試験場(農業試験場)における品種育成の面から「手亡」呼称の出自を考えてみよう。

明治2年(1869)北海道に開拓使が置かれ,明治9年(1876)札幌農学校が開校すると,官園及び札幌農学校において農作物に関する試験が開始された。その後,明治19年(1886)に開拓使が廃止されて北海道庁が発足すると,農業に関する試験は農作試験場(農事試作場)が中心になって進めることになった。明治34年(1901)には試験研究組織が北海道農事試験場として整備され,北海道に適する優良品種を登録し普及奨励するシステムが出来上がった。

インゲンマメの手亡類では,「大手亡」(昭和2,1927)が最初の優良品種として登録されている。本品種の来歴は,十勝地方で栽培されていた「新白(しんじろ)」を大正12年(1923)大正村(現,帯広市)から取り寄せ,北海道農事試験場十勝支場高丘地試験地で品種試験に供し,特性を明らかにしたものとされる(北海道農事試験場「協議要録,自明38~至大14」)。決定時の品種名は「新白」であったが,その年の品種解説では「大手亡」となっており,俗に「新白」と称すとある(北海道農事試験場1927「主要農作物優良品種の解説」北農試彙報46,63-70)

何故,品種名「新白」を「大手亡」と替えたのか。推察するに,在来種を収集した時点では「新白」であったが,優良品種決定の頃には「大手亡」の呼称が一般的だったのではあるまいか。このことからも,「手亡」種は大正時代には十勝地方で栽培されており,大正末には「手亡」の呼称が定着したと考えられる。しかし,「手亡」呼称の由来(何故,手亡と呼ぶようになったか)を明らかにするものではない。

因みに,北海道において登録された「手亡」の優良品種は,次の7品種である。

(1)昭和2年(1927)「大手亡」:十勝支場育成,在来種,半つる性

(2)昭和36年(1961)「改良大手亡」:十勝支場育成,在来種,半つる性

(3)昭和44年(1969)「大正大手亡」:十勝農試育成,在来種,半つる性

(4)昭和46年(1971)「銀手亡」:十勝農試育成,大手亡(網走)/大手亡(清水),半つる性

(5)昭和51年(1976)「姫手亡」:十育A-19(Sanilac Pea Bean/改良大手亡)/Improved White Navy,十勝農試育成,叢性

(6)平成2年(1992)「雪手亡」:十育A52号/82HW・B1F1,十勝農試育成,叢性

(7)平成16年(2004)「絹てぼう」:十系A216/十系A212号,十勝農試・御座候育成,叢性

特性から分かるように,在来種由来の「大手亡」や「銀手亡」までの品種は「半つる性」に分類される草性で,いわば手竹を必要とするほど蔓は伸びないが無限伸育性を示す品種群である。その後,「手亡」種では機械収穫に適した矮性・叢性(有限伸育性)品種が主体となっている。

9.「大手亡」の名称について                                                            

北海道における「手亡」呼称の文献初見はいつだろうか。「北海道における豆類の品種(増補版)」によると,以下のように整理できる。

(1)明治28年(1895):北海道農事試験場が米国からの輸入品種比較試験を行っているが,「大手亡」の名称はない。

(2)明治38年(1905):大福,金時,デトロイト・ワックスが最初の優良品種となった。

(3)明治45年(1912):北海道産インゲンマメの中に「大手亡」記載が無い(山田勝伴1912「海外輸出道産豌豆及菜豆類に関する調査」北海道農会報12(138),293-303)

(4)大正4年(1915):統計に「手亡豆」の記載がある(北海道農会1916「菜豆類の高騰」北海道農会報16(11),24-25)

(5)大正7年(1918):優良品種解説の中で,大手亡(銘柄)として「第3288号(大手亡)」「第3581号(白手無)」が一般農家で栽培されているとある(北海道農事試験場1918,北海道彙報19,24-25)

(6)大正7年(1918):福山は米国カリフォルニアのインゲンマメ栽培について述べる中で,「Lady Washington bean」或いは「French white bean」が「大手亡」に類似し,前者は「Large white」とも称されると記載している(福山甚之助1918「カリフォルニア州における菜豆栽培」北海道農会報18(10),1-22)

(7)大正12年(1923):北海道農事試験場十勝支場が河西郡大正村(現,帯広市)から導入し,十勝高丘地試験地で試験を行い,昭和2年(1927)に優良品種に決定。決定時の品種名は「新白」であったが,その年の品種解説では「大手亡」となっており,俗に「新白」と称すとある(北海道農事試験場1927「主要農作物優良品種の解説」北農試彙報46,63-70)

これらの事から,「手亡」の初見は大正4年(1915)である。手亡種は明治43年(1910)頃より栽培が始まり,大正4年(1915)以降急激に栽培が増大したものと推察される。成河智明は,「新白」はアメリカから導入されたものだろうとしている。

附1.北海道におけるインゲンマメ事始め

北海道において,本格的な農業がおこなわれるのは明治開拓以降のことである。しかし,先住民族のアイヌは漁猟を主体にしていたとされるが農耕に全く無縁だったとは考えにくいし,江戸時代松前などに暮した和人にしても穀物は本州からの移入に頼っていたが生鮮野菜は庭先に植えていたことだろう。かつて蝦夷地と呼ばれた北海道で,作物栽培の記録が見られるようになるのは江戸時代(17世紀中頃過ぎ)である。

山本正「近世蝦夷地農作物誌」(1998,北海道大学出版会)は,膨大な資料(古書)を読み込み整理した労作である。同書によると,北海道におけるインゲンマメの文献的初見は,寛政8・9年(1796・97)に室蘭に来航し噴火湾一帯を測量したイギリス軍艦・プロビデンス号の艦長ブロートン「プロビデンス号北太平洋探検航海記」で,「菜園にインゲンマメが作られていた」ことが記されている。また,和人の手による記録では,寛政11年(1799)蝦夷地御地用掛の松平信明に従い東蝦夷地を巡検した遠山金四郎の「おくの日誌」で,虻田におけるインゲン栽培が記録されている。

山本正の「近世蝦夷地農作物年表」(1998,北海道大学出版会)では,インゲンマメの記述がある文献37編(例えば,日鑑記,松浦武四郎自筆日記,蝦夷日誌など)を年次・場所ごとに整理してある(元禄7年1694~文久3年1863の文献)。これ等から判断するに,江戸時代の蝦夷地でもインゲンマメ(眉児豆,眉豆,隠元豆)が食料として菜園に植えられていたことは明らかである。

この時代にはまだ,「鶉」「金時」「手亡」等の表記はない。

附2.明治~大正時代に栽培された「インゲンマメ」の品種

北海道に「インゲンマメ」が導入され,栽培が本格化したのは明治時代である。その後多くの品種が育成され,北海道で普及奨励された優良品種は現在までに50品種(手亡7,金時14,白金時4,長鶉4,中長鶉5,大福5,虎豆3,その他8)を数える。ここでは明治~大正時代に栽培された品種を紹介する(参照:日本豆類基金協会1991「北海道における豆類の品種(増補版)」)。

◆明治,大正時代に優良品種とされた12品種

北海道への開拓移民が持参し,或いは明治政府が海外(アメリカ合衆国等)から取り寄せた品種が広まり在来種として栽培されていたものを,北海道農事試験場は品種比較試験を行い優良品種として普及奨励した。明治,大正時代に栽培されたこれらの品種は,北海道インゲンマメの先駆けと言えよう。

「大手亡」:十勝地方で栽培されていた在来種「新白(しんじろ)」を大正12年(1923)十勝支場が大正村(現,帯広市)から取り寄せ,品種比較試験の結果優良品種に認定した。福山(1918)によると,「Kady Washington bean(別称Large White)」「Frenchi White bean」に類似するという。

「金時」:明治36年(1903)頃に「朝鮮紅豆」と称して栽培されていた在来種。北海道農事試験場本場が品種比較試験を行い,明治38年(1905)優良品種に認定した。福山(1918)によれば北米の「Dwarf Red Cranberry」であろうという。「Low's Champion」と異名同種。その後,金時類の新たな品種が出ると,本品種は「本金」「本金時」の名で呼ばれた。

「長金時1号」:原名は「Carter's Canadian Wonder」。日本への導入時期は不明。大正7年(1918)優良品種に認定。

「手無長鶉」:明治年間に栽培がみられた在来種。明治39年(1906)北海道農事試験場では良種として本品種を掲載している。大正3年(1914)優良品種に認定。

「中長鶉」:開拓使時代に札幌農学校で輸入したものであろうとされる。大正時代に入り,半つる性の「中長鶉」「手無長鶉」が広まった。大正7年(1918)北海道農事試験場では良種として本品種を掲載している。大正13年(1924)優良品種に認定。

「大福」:北海道で古くから栽培されていた。北海道農事試験場本場が品種比較試験を行い,明治38年(1905)優良品種に認定。

「中福」:北海道で古くから栽培されていたが来歴不詳。大正3年(1914)優良品種に認定した。福山(1918)によれば「スノーフレーク・フイールド」に類似するという。

「デトロイト・ワックス」:原名「Detroit Wax」は北米産軟莢種,導入経路は不明である。明治38年(1905)優良品種に認定。

「黒手無」:北米産「Cylinder Black Wax」。大正3年(1914)優良品種に認定,「シリンダー・ブラック・ワックス」と命名されたが,翌大正4年(1915)「黒手無」に改称した。

「フラジオーレ」:ドイツ原産「Flageolet Wax」。導入経路は不明。明治42年(1909)北海道農事試験場は良種と紹介している。

「ビルマ」:来歴不詳,優良品種決定年には既に7,000haの作付けがあった。粗放栽培で良く生育し「バカマメ」と呼ばれた。

「鶉」:通称「丸鶉」と呼ばれ,明治39年(1906)に北海道農事試験場では良種と紹介している。

 

2019.5追記  ◆島田是一氏曽孫からの情報

2019年5月の或る日、恵庭市教育委員会社会教育課のKM氏から「5月20日の昼頃、島田是一さんのひ孫にあたる方が来庁され、連絡先を知りたいとの相談がありました」とのメールを受け取った。旅先から戻って早速電話すると、KI氏(札幌在住、是一氏の奥さんの直系)は快く島田是一さんについてお話し下さった。

①  島田是一は高知県高岡郡斗賀野近くの生まれで、明治30年に島田家・藤本家の一族とともに北海道湧別郡上渚滑に入植した。いわゆる個人入植だったのではないか。

②  日露戦争(第七師団)から戻って、片腕で農業に従事していた。色々な種類の作物を集めては試作していたと祖母が話していた。

このお話しからすると島田是一が北海道に渡ったのは間違いなく、前述の「手亡」の謂れについてもあり得る話かもしれない。一歩前進したが、まだ確証をつかんでいない。

 

参照文献

恵庭市1979:「恵庭市史」

福山甚之助1918:「カリフォルニア州における菜豆栽培」北海道農会報18(10),1-22

星川清親1981:ササゲ 「新編食用作物」,養賢堂

北海道農政部農産振興課2013:「平成25年度麦類・豆類・雑穀便覧」

北見市1981:「北見市史」

高知県立図書館内土佐史談会 1993:「土佐史談」191号土佐と北海道特集号,p141-146

前田和美1987:「マメと人間,その一万年の歴史」,古今書院

芽室町1982:「芽室町八十年史」

成河智明1986:西貞夫監修,「野菜種類・品種名考」,農業技術協会

日本豆類基金協会1991:「北海道における豆類の品種(増補版)」

農林水産省:「作物統計」

土屋武彦2013:「北海道で栽培されたインゲンマメ50品種,来歴と特性」,ブログ/豆の育種のマメな話

土屋武彦2013:「時代に翻弄されるインゲンマメ」,ブログ/豆の育種のマメな話

筑波常治1978:「農業博物誌」,玉川選書89

浦臼町2000:「浦臼町百年史」

山本正1998:「近世蝦夷地農作物誌」(北海道大学出版会)                                                           

山本正1998:「近世蝦夷地農作物年表」(北海道大学出版会)

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北海道のアズキ品種,来歴と特性

2014-04-27 08:45:21 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道産のアズキを使っています」,多くのお菓子や餡製品が謳っている。これは,北海道で生産されるアズキが味や安全面で一級品であることを,製造者も消費者も認識しているからに他ならない。

さて,それでは,北海道でどのようなアズキが作られているのか? 歴史を振り返りながら,北海道で栽培された(栽培されている)品種の来歴と特性を整理しておこう。


添付1:北海道で栽培されたアズキ品種の来歴

添付2:北海道で栽培されたアズキ品種の特性

北海道開拓と共に

北海道におけるアズキ栽培は,和人が渡道の折りに携えてきたのが始まりと言えるだろう。彼らは,故郷において祝い事に欠かせなく,かつ日常の健康食材でもあったアズキを,新天地でも生産しようと試みた。持参した種子を開墾地に播き,北海道の気象条件でも栽培可能な種類を選び出し,それらが人伝に広まったと考えられる。


明治に入り,道南から道央・十勝へ開拓が進むにつれアズキ栽培も広まり,十勝でアズキが栽培されたのは明治中期の頃である。当初は自家消費のために生産されていたが,焼畑の開墾地で生産が上がり,出荷作業も容易だったことから生産量は増加し,1890年(明治23)頃には商業作物として取引されるようになっている。


農事試験場が道内各地からアズキを収集して品種比較試験を開始したのは,1895年(明治28)上川試作場,1896年(明治29)十勝試作場が最初で,それらの中から1905年(明治38)に「円葉」「剣先」を優良品種に認定した。さらに農事試験場は品種比較試験を進め,1914年(大正3)に「茶殻早生」「早生円葉」「早生大粒」「早生大納言」を優良品種にし,これらの品種が多く栽培された。

北海道における作付面積は,1890年(明治23)の3,660haから1910(明治43)には52,100haまで増加している。


◆「豆成金」の時代

第一次世界大戦(1914-18)(大正3-7)は,十勝平野に「豆成金」と言われる景気をもたらし,その後20年間は豆業者の全盛時代であった。当時,十勝における豆類の作付面積はダイズ3万~4万ha,アズキ5万~6万ha,インゲンマメ5万~6万ha,エンドウ1万~2万haを記録,一時はヨーロッパへの輸出もあり,「豆の国十勝」「豆の街帯広」の名を世に轟かせた。この時代,十勝の農民は生活が豊かになった反面,価格の乱高に踊り「投機」の風習が身に付き,略奪農業に走る傾向が生まれたと言われる。また,豆作偏重の栽培体系は後に禍根を残すことになる。

この頃(大正12-昭和12),農事試験場は「白莢赤」「高橋早生」「早生大粒1号」「円葉1号」「新大納言」を優良品種に認定。これら優良品種を中心に,多数の在来種が栽培されていた。なお,「高橋早生」は人工交配により育成された初めての品種,他は品種比較や純系分離によって選抜育成された品種である。


冷害への対応

第二次世界大戦で農業生産力は著しく低下し,北海道のアズキ栽培は1945年(昭和20)僅か8,720haにまで落ち込んだ。しかも,低温年が頻発し(1941,45,54,56,64,66年),冷害に弱いアズキは壊滅的な被害を受け,価格の高乱下からアズキは「赤いダイヤ」とも称された。

戦後のアズキ生産においては,多収性・安定生産が緊急の課題であった。品種開発にあっても,良質,多収,耐冷性が目標となった。また,銘柄統一の動きもあり,1959年(昭和34)に「宝小豆」が優良品種に認定された。この品種は,十勝農試の保存品種の中から豆の流通業者らが注目(淡赤色)した系統(W45)に由来すると,後木利三氏が裏話を紹介しているが,一時代を画した。

さらに,「光小豆」(1964昭和39),「寿小豆」(1971昭和46),「栄小豆」(1973昭和48),「ハヤテショウズ」(1976昭和51),「エリモショウズ」(1981昭和56),「サホロショウズ」(1989平成1)「暁大納言」(1970昭和45)など,良質・多収で耐冷性の品種や早生品種が優良品種として普及に移された。中でも,「エリモショウズ」は良質,安定多収品種として評価が高く,長年にわたり基幹品種として栽培された大品種である。


なお,十勝農試創立百周年記念事業協賛会は「エリモショウズ」の公園を称え,十勝農試前庭に「エリモショウズ記念碑」を建立した。碑文には「・・・本品種は,多収で耐冷性が強く品質も優れていたことから生産者,実需者に広く受け入れられ,急速に普及した。普及三年目で作付面積が全道一位となり,現在は全道の八十%以上,十勝では九十五%以上を占めている・・・平成七年八月」と記され,育成者8名の名前が刻まれている。

この時代,農業団体による「豆1合運動」(生産者が10a当り1合拠出)によりファイトトロン,温室,日長処理,研修寮などが寄付され,またその後も日本豆類基金協会から低温育種実験室や病理実験室建設や備品整備など多くの支援があった。事業主体である北海道や農水省だけでなく,農民個々人や団体からの多くの期待と支援があったからこそ,「豆王国十勝」の今があることを忘れることは出来ない。


土壌病害への対応

1970年(昭和45)代に入ると,十勝畑作地帯で「立ち枯れ症状」が目立ち始め,また稲作転換畑においても「立ち枯れ被害」が発生し,その被害は急速に拡大し甚大となった。病理研究者の努力によって,これらは「落葉病」「茎疫病」「萎凋病」と同定,防除が困難な土壌伝染性病害であることが解明された。十勝農試では病理部門と連携しながら,抵抗性品種の育種をスタートさせたのである。


育種家たちの努力は実を結び,落葉病抵抗性の「ハツネショウズ」(1985昭和60)を初め,上川農試の現地選抜圃を活用した「アケノワセ」(1992平成4)に始まり,最近はこれら3病害に複合抵抗性を有する品種が育成され普及に移された。「きたのおとめ」(1994平成6),「しゅまり」(2000平成12),「きたろまん」(2005平成17),「きたあすか」(2010平成22),などである。

極大粒種の開発も進み,「アカネダイナゴン」(1974昭和49),「ほくと大納言」(1996平成8)が育成され,さらに耐病性を付与した「とよみ大納言」(2001平成13),「ほまれ大納言」(2008平成20)が普及に移されている。

これ等の成果が認められ,2001年(平成11)に十勝農試アズキ育種グループは,「エリモショウズおよび大粒・耐病性アズキ品種群の育成」で日本育種学会賞を受賞している。


グローバルな競争の中で

終戦後,農業の生産基盤が整備されるにつれ,北海道のアズキ栽培面積は5万~6万ha (1955昭和30年-1975昭和50年頃)に経過したが,近年は3万ha前後で推移している。これには,畑作地帯で輪作体系が確立し健全な割合になったこと,農家戸数の減少,消費量の減少などが影響しているのだろう。

なお依然として,北海道のアズキ生産は全国の80-90%のシェアを占め,今なお道産アズキの評価は健在である。平成24年の統計で作付け上位品種は,「エリモショウズ」38%,「きたろまん」23%,「きたのおとめ」21%,「とよみ大納言」7%等である。

わが国のアズキ需要量は年間11万~13万トンであるが,国産の出回り量は5万~6万トン,中国・アメリカ・カナダから2万~3万トンを輸入している。実需サイドは原料の安定供給を求めて,その他海外での生産も模索しているが,現状では気象条件や栽培条件から必ずしも満足できる品質のものを手に入れていない。が,海外からアズキを買えとの圧力が増すだろうし,海外における品質向上も不可能ではないと考えるべきだ。


温暖化,異常気象,農家の労働力不足など環境のマイナス要因は今後予想されるが,良品の安定生産こそ命綱であることを生産者は肝に銘じたい。また,育種家も多様な実需者ニーズの真の意味を聞き分ける耳を持ちたい。


アズキの機能性成分などが解明され健康食品としての評価が高まり,食材としての注目度が高まっている。消費の減少については,これを追い風にしたいものだ。


参照:日本豆類基金協会「北海道における豆類の品種(増補版)」(1991),「北海道アズキ物語」(2005),北海道「平成25年度麦類・豆類・雑穀便覧」(2013),道総研「農業試験場集報」(1975-2009),農水省「品種登録データベース」

 

 

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大豆生産の新興国,ウクライナ

2014-02-06 14:30:33 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

大豆生産量のビッグテンに,新しい国が登場した。

1980年代から21世紀初頭にかけて,ブラジル,アルゼンチン,パラグアイ等南米諸国における大豆熱が世界の注目を集めた。そして南米大豆生産量は世界の過半を超え,アメリカ合衆国と共に世界の大豆相場を左右するまでになったのである。さらに,南米の大豆生産量は後発のボリビア,ウルグアイを加えて,今なお増加を続けている。

 

そこへ新たに,ウクライナとロシアが大豆輸出国の名乗りを上げている。この先,どのような大豆生産を展開するか(GMOに依存するのか,否定するのかを含め)注目した方が良い。

◆大豆生産量上位国

先ず,2012年産大豆の生産量を見てみよう(FAOSTAT2012)。世界全体の生産量は253,137,072トンで,需要の堅調に裏打ちされ漸増傾向が続いている。

1位(アメリカ):82,054,800トン

2位(ブラジル):65,700,605トン

3位(アルゼンチン):51,500,000トン

4位(中国):12,800,000トン

5位(インド):11,500,000トン

6位(パラグアイ):8,350,000トン

7位(カナダ):4,870,160トン

8位(ウルグアイ):3,000,000トン

9位(ウクライナ):2,410,200トン

10位(ボリビア):2,400,000トン

なお,11位(ロシア)1,806,203トン,12位(インドネシア)851,647トン。ちなみに,日本の生産量は235,900トン。世界全体の1%にも満たない(0.09%)。

◆大豆生産量の伸びが著しい国

ここ10年間(20022012年)で大豆生産量が増加した国の順位を増加率で示すと,

1位(ウルグアイ):4,225%42倍)

2位(ウクライナ):1,933%19倍)

3位(ロシア):427%4倍)

次いで,パラグアイ(253%),インド(247%),カナダ(209%),ボリビア(193%)の伸びが2倍程度と大きかった。一方,生産大国アメリカは足踏みし,ブラジル及びアルゼンチンの伸びも1.5倍程度に止まっている。中国の生産に至っては減少傾向にさえある(輸入に依存)。

直近の5年間ではどうか?

1位(ウルグアイ):368%3.7倍)

2位(ウクライナ):334%3.3倍)

3位(ロシア):278%2.8倍)

生産大国,アメリカ,ブラジル,アルゼンチン,中国,インド,パラグアイの伸びは,限界に近づいているように見える。その要因として,耕地面積の拡大がこれ以上困難である,大豆偏重の栽培が幾多の障害を引き起こすと危惧される(前兆がみられる)ことなどが考えられる。背景には,森林減少やGMO大豆の席巻など環境問題や社会問題にかかわる事象が現れており,ブレーキがかかってきたと想像される。

ボリビアとウルグアイは大豆導入後進国であったが故に伸び代があり,近年増加が著しい。ただ,ボリビアは耕地としての基盤が劣悪であるため,飛躍的な増加は望めない。ウルグアイは,ウルグアイ川を挟んでアルゼンチンに近い南西部の州で放牧地を転換してGMO大豆を導入したため,生産量拡大は比較的容易であったが,この増加にも一定の限界はあるだろう。

ウクライナの大豆

ウクライナは,かつて「欧州の穀倉」と呼ばれた肥沃な地帯を有する農業国。南は黒海に面し,北にはチエルノブリイがあることで知られる。ソ連崩壊後の混乱,生産技術や構造改革が遅れたため農業生産は停滞したが回復基調にあり,農産物の輸出に力を注いでいる。

2011年のFAO統計によれば,農作物の作付面積は1位(小麦)1,412,400ha2位(向日葵)4,716,600ha3位(大麦)3,684,200ha4位(玉蜀黍)3,543,700ha5位(馬鈴薯)1,443,000ha6位(大豆)1,110,300ha7位(菜種)832,700ha8位(甜菜)515,800ha9位(蕎麦)285,700ha10位(燕麦)279,900haとなっている。

僅か0.3%の企業体農場(旧集団農場であった)が耕地の78%を占有する農業形態,及び前記の作物構成から推察できるとおり,大型機械を使った農業が進められている。農産物の輸出先はロシアを初め旧ソ連諸国,欧州が主体であるが,日本も玉蜀黍や麦類を輸入している。

大豆の単収は1.72.0t/haで必ずしも高くない。農林水産省HPの「主要ウクライナ産大豆の品種特性」に3.04.0t/haの記載があるが,あくまで特性調査の数値と捉えるべきで,現場の生産技術(品種・栽培法)は改善の余地が残されていると考えられる。さらに,ウクライナにおいては大豆も輸出品目と捉えられるので,生産体系は油糧作物栽培としての位置づけにある。なお,大豆の産地は国内中部の諸州である。

近年,この国に対して中国の膨大な経済協力が行われているようなので,大豆生産(技術改良も含め)への関わりも深まっているかも知れない。

Non-GMOを求めるわが国とすれば,どのようなアプローチが考えられるだろうか?

 

参照FAOSTATfaostat.fao.org),農林水産省HP「ウクライナ農業の概要」(www.maff.go.jp),在ウルグアイ日本国大使館HP「ウクライナ概観」(www.ua.emb-japan.go.jp

添付:「ダイズ生産量上位国における生産の伸び」

 

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世界の食用マメ(インゲンマメ,ヒヨコマメ,キマメ,ルーピン・・)

2014-02-05 11:54:04 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

人類は多くのマメ類を食用にしてきた。私たち日本人にとって「」といえば,ダイズ,アズキ,インゲンマメ,ラッカセイ,エンドウなどであろうか。特にダイズは,豆腐や納豆として毎日のように食膳に上がり,味噌や醤油の原料ともなるので身近な存在だし,アズキやインゲンマメも和菓子材料として欠かせない。

一方,世界に目を向けると,私たちが名前を聞いたこともないマメ類が出回っていることに驚くだろう。「豆の王国」と称されるインドおよびその周辺では,マメ類が穀類とならび主食の位置を占めていると言っても過言ではない。マメ類は蛋白供給源として大切な食材であって,各国の料理法にも工夫が凝らされている。

 

◆栽培面積の多いマメは何だ?

現在,地球上で栽培されているマメ類を収穫面積順に拾ってみよう(FAOSTAT2011)。

 

1位(ダイズ):103,604,514ha

2位(インゲンマメ):30,411,204ha

3位(ラッカセイ):24,637,175ha

4位(ヒヨコマメ):13,180,508ha

5位(ササゲ):10,639,936ha

6位(エンドウ):6,140,528ha

7位(キマメ):5,862,653ha

 

以下,ヒラマメ:4,172,135ha,ソラマメ:2,412,154ha,サヤエンドウ:2,245,136ha,サヤインゲン:1,526,663ha,ルーピン:959,917haなどである。

 

ダイズ(大豆,Soybeans)の栽培面積が圧倒的に多いが,多くは食用油の原料作物としての生産である。日本の国土面積(耕地面積でない)が377,930km2であるから,地球上におけるダイズ栽培面積は日本国土の2.7倍に匹敵するほど広大で,今なお世界各地で栽培が拡大している。主要生産国は(FAOSTAT2012),アメリカ30,798,530ha,ブラジル24,937,814ha,アルゼンチン19,350,000ha,中国6,750,000ha,インド10,800,000ha,パラグアイ3,000,000haなどで,南北アメリカ大陸と中国及びインドで生産量の大半を占める。ちなみに,日本の栽培面積は140,000ha(世界全体の0.1%)に過ぎない。

 

◆インゲンマメは世界に通じる食用マメ

インゲンマメ(菜豆,Beans)の栽培が予想を超えて多いのに驚かれるだろう。乾燥子実の生産を目的に30,411,204ha,野菜用に1,526,663haの栽培がある。これは,日本国土面積のおよそ8085%に匹敵する。日本では餡,甘納豆,甘煮惣菜が主体で栽培面積は40,800haに過ぎないが,海外では煮込み料理など主材料としての利用が多いため作付けは多い。主要生産国は,インド9,100,000ha,ミャンマー2,845,662ha,ブラジル2,726,932ha,メキシコ1,558,992ha,ウガンダ1,060,000haなどである。東南アジア,中南米での生産が多いが,アフリカへと栽培が広まっている。主食である穀類やイモ類と並ぶ作物であることが伺える。

 

◆マメ類主要生産国

ラッカセイ(落花生,Groundnut):インド5,310,000ha,中国4,581,000ha,ナイジェリア2,342,810ha,スーダン1,698,480haなどである。

 

ヒヨコマメ(ガルバンソ,Chick peas):インド9,190,000ha,パキスタン1,063,800ha,オーストラリア653,142ha,イラン562,375ha,トルコ446,413ha。草丈4050cm,乾燥,冷涼な気候を好む。利用が多いのはインドで重要な蛋白源,ダル(水に浸して種皮を覗き乾燥させる)にしてスープやカレーに入れ,時には混ぜご飯にして食べる。地域や国によっては,粉に味を点け油で揚げたスナック菓子,きな粉や豆腐,生のまま枝豆のように食べ,また茎葉を野菜として利用することもある。

 

ササゲ(豇豆,Cow peas):ニジェール4,644,771ha,ナイジェリア3,189,980,ブルキナ・ファン938,330ha。アフリカ大陸のサハラ南部のサバンナ地帯を起源とし,アフリカなどの乾燥熱帯地域で長期にわたり重要な蛋白源として利用されてきた。耐乾性が強く,根粒の窒素固定能も高いという。

 

エンドウ(豌豆,Peas):ロシア1,110,800ha,カナダ914,200ha,中国872,400ha,インド727,200ha

 

キマメ(樹豆,Pigeon peas):インド4,420,000ha,ミャンマー643,120ha,タンザニア288,161,マラウイ196,552ha,ケニヤ138,708ha。インドではヒヨコマメに次ぐ食用マメとして多く生産され,ダルにしてカレーなどの料理に使われる。茎は木化して草丈は23mにもなり,直根性の大きな根系をもち耐乾性に優れ,痩せ地でも良く生育するため,熱帯各地に栽培が広がっている。

 

ヒラマメ(レンズマメ,扁豆,Lentils):インド1,597,400ha,カナダ998,400ha,オーストラリア218,763ha,トルコ214,847ha,ネパール207,591ha。南西アジアで生まれた歴史の古いマメの一つといわれる。皮が柔らかく,豆も薄くて火が通りやすいため,煮えるのが早い。

 

ソラマメ(Broad beans, Horse beans):中国615,000ha,インド218,352ha,タイ170,594ha,インドネシア129,565ha

 

ルーピン(Lupins):オーストラリア755,848ha,ポーランド52,508ha,ウクライナ26,600ha,チリ23,257ha,ドイツ21,500ha。日本では,ノボリフジ(ルピナス)と呼び,様々な色の目立つ花を咲かせることから観賞用とされる。世界では緑肥や飼料用に栽培されている(根粒の窒素固定能も高い)。子実に苦味成分(アルカロイド)の少ない食用の種類(タルウイLupinus mutabilis,アンデス地方で古くから食べられていた,蛋白・脂肪含有率がダイズに匹敵しアミノ酸組成も優れる)もある。苦み成分の除去,収量性の向上など改良が試みられていると聞くが,将来は第二のダイズになるかも知れない。興味ある作物だ。

タルウイの種子が入手できたら「試作してみたい」と思った

 

参照 1) FAOSTATfaostat.fao.org) 2) 前田和美「マメと人間,その一万年の歴史」古今書院1987 3) 吉田よし子「マメな豆の話」平凡社新書2000

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地球上にマメ科植物は約2万種,マメ類の原産地

2014-01-11 11:25:26 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

地球上にマメ科の植物は約2万種あり,食用に供される豆は80種といわれる。これら食用マメ類は,穀類およびイモ類と並び,人類の生存にとって欠かせない存在である。

先日(本ブログ2013.12.262014.1.9)「インゲンマメは新大陸起源」と述べたが,食用マメ類80種ともなれば当然のことながら原産地は世界中に存在する。

 

◆原産地は?

遺跡発掘や野生種及び変異性調査など「栽培の起源に関する研究」が進み,多くの作物の原産地が明らかになってきた。ここではマメ類について,農耕文化が生まれた地域(農耕文化圏)ごとに整理する。なお,研究が進んだとはいえ,農耕文化圏の分類と名称,起源地には諸説あるので,分類は前田和美「マメと人間,その一万年の歴史」(古今書院1987)を参考にした。

 

1アジア育ちのマメ類

 

1-1 東アジア,東南アジア

ダイズ(大豆,Glycine max (L.) Merr.

アズキ(小豆,Vigna angularis (Willd.) Ohwi & Ohashi

シカクマメ(四角豆,Psophocarpus tetragonolobus (L.) DC.

 

1-2 インド

キマメ(樹豆,ピジョンピー,Cajanuscajan (L.) Millsp.

グアル(クラスタービーン,Cyamopsis tetragonoloba (L.) Yaub.

ホースグラム(Macrotyloma uniflorum (Lam.) Verdc.

タケアズキ(Vigna umbellata (Tunb.) Ohwi & Ohashi

リョクトウ(緑豆,ヤエナリ,Vigna radiate (L.) Wilczek

ケツルアズキ(ブラックマペ,Vigna mungo (L.) Hepper

 

2 メソポタミア(地中海,南西アジア)育ちのマメ類

エンドウ(豌豆,Pisum sativum L.

ソラマメ(空豆・蚕豆,Vicia faba L.

ヒヨコマメ(ガルバンソ,Cicer arientinum L.

ヒラマメ(扁豆,レンズマメ,Lens culinaris Medic.

ガラスマメ(Lathyrus sativus L.

 

3 アフリカ育ちのマメ類

ササゲ(豇豆,カウピー,Vigna unguiculata (L.)Walp. Var.unguiculata (L.) Ohashi

フジマメ(Lablab purpureus (L.) Sweet

フタゴマメ(Vigna subterrranea (L.) Verdc.

 

4 新大陸育ちのマメ類

4-1 メソ・アメリカ

インゲンマメ(菜豆,Phaseolus vulgaris L.

ライマメ(ライマビーン,リマビーン,Phaseolus lunatus L.

タチナタマメ(立刀豆,Canavalia gladiate (Jacq.) DC.

ベニバナインゲン(花豆,Phaseolus coccineus L.

クズイモ(葛薯,ヤムビーン,ヒカマ,シンカマスPachyrrizus tuberosus (L.) Spreng.

 

4-2 アンデス高地

インゲンマメ(菜豆,Phaseolus vulgaris L.

ライマメ(ライマビーン,リマビーン,Phaseolus lunatus L.

ラッカセイ(落花生,Arachis hypogaea L.

 

マメの王国インド周辺,東南アジア,アンデス地方には,この他にも多数の豆が食べられていることに気付く。あるものは未熟の莢をサラダや煮物に,あるものは乾燥子実を他の野菜や肉と煮込み,スープにする。中には,クズイモやシカクマメのようにイモを作る種類があり,根菜として利用する場合もある。

 

また,マメ科植物の中には有毒成分を含む種類があるが,人類は料理法によって有毒成分を除去する知恵を見つけ,或いは無毒系統や低毒系統を育成して活用を図ってきた。世界各地の民族は伝統食の中にマメ類を上手に利用してきたと言えるだろう。

 

これに加えて将来,我々はマメ類に何を期待したら良いのだろう? それは多分,食材としての価値を守り続けると同時に,マメ類の成分に着目した資源的活用(蛋白生産など),さらにはイモを作るマメなどの生育量(バイオマス)に着目した活用ではないだろうか。

 

貴方も旅に出れば,多様なマメ類(食文化も含め)に触れる喜びを知るだろう。

 

参照

前田和美「マメと人間,その一万年の歴史」古今書院1987

吉田よし子「マメな豆の話」平凡社新書2000

 

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「新大陸における農耕文化の起源」と「新大陸原産の作物たち」

2014-01-09 16:17:16 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

ある本のキャッチコピーに,「イタリアのトマトも,ドイツのジャガイモも,韓国のトウガラシも,もとをただせば中南米産」とあった。今では,各国を代表する料理の食材で,昔からその国に存在していたかのように思われる作物も,原産地を辿ってみたら実は中南米であったという意味である。

コロンブス以前の新大陸は,ヨーロッパやアジアなど旧大陸との交流がなかったので,栽培植物と農耕の起源も独自な発展をしたと考えられる。先住民インデイオは,どのようなものを食べ,マヤ,アステカ,インカなど極度に発達した文明を築き上げたのか? ここでは,「新大陸における農耕文化の起源」と「新大陸原産の作物たち」について整理しておこう。

 

新大陸における農耕文化の起源地

新大陸はもともと白人も黒人もいないモンゴロイドだけの世界であった。今から12万年前,ベーリング海峡が地続きであった頃,アジア大陸から渡ってきた人々の子孫である。先史の時代,彼らは狩猟や野生植物の採集によって生きていたが,人口が増加し定住した生活を営むようになると,有用植物の栽培を試みる(この頃,気候は温暖になった)。

第一に栽培化されるのは,どこの地域でも必然であるが,生産量が多くカロリー量が大きい植物で,これらが主食となる。すなわち,穀類とイモ類である。

 

新大陸で農耕文化の起源地は,メソ・アメリカ(中米)とアンデス高地と考えられている。ここで興味深いのは,メソ・アメリカが穀類を主食にした農耕文化であるのに対し南米(アンデス高地及びアマゾン川流域)がイモ類を主食にしている点である。カール・サウアーは1952年に,前者を種子農耕(種子を播いて子実を収穫する),後者をイモ農耕(栄養繁殖させる)に分類したが,今なおその食文化がそれぞれの地域に引き継がれている。

 

すなわち,メキシコやガテマラなど中米ではトウモロコシを主に栽培し,インゲンマメやカボチャを混植する(トウモロコシの茎にインゲンマメの蔓が巻きついて生育する)。イモ類はほとんどない。現在も中米の広い地域ではトウモロコシ粉を原料とする「トルテイージャ」が主食となっていて,主食の澱粉食を補うために必須アミノ酸やビタミンなどを含むインゲンマメやカボチャを組み合わせた食事が伝統食となっている。

 

一方,南米ではイモ類が主に栽培され,ペルーからボリビアにかけてのアンデス高地ではジャガイモ,アマゾン川流域ではマンジョカ(キャッサバ)が主食となっている。アンデス高地のジャガイモが主食になり得たのは,独特の貯蔵技術(乾燥イモ,チューニョ)が開発されたことが大きい。ジャガイモを主食にリャマなどの肉が栄養を補っていたのだろう。なお,アンデス高地におけるトウモロコシは,主食というより祭礼用の酒(チチャ)を製造するために栽培されていたと言えようか。

 

もう一つのイモ農耕地であるアマゾン川流域は,高温湿潤であるためマンジョカが栽培される。マンジョカは挿し木をすれば簡単に育ち,周年の収穫も可能である。そのため作物栽培の概念は薄く,長く続いた狩猟・採集生活で食生活を補ってきた。農耕文化圏としては後発と言えるだろう。

 

◆農耕の起源

農耕の起源を考える時,基本的には「人類が生きるために必要な食料は何か」からスタートする。第一は,活動のエネルギー源となる澱粉を多く生産できる植物を栽培することである。その種類は地域によって異なり,ある地域ではイネ,ムギ,トウモロコシなど穀類であり,別の地域ではジャガイモ,サツマイモ,ヤムイモ,キャッサバなどイモ類であった。これら作物の農耕によって,集落の食料が十分量が確保され空腹を満たすことが出来るようになれば,定住が安定する。すなわち,主食作物の出現である。

 

そして第二は,主食を補う蛋白質・脂肪・ビタミン・ミネラルなど栄養を補給する食材の確保である。狩猟の民は肉で,漁労の民は魚で対応していたが,狩猟が出来ず海からも遠い地域では,主食を補う植物を経験的に栽培することになる。それは,マメ類など蛋白質と脂肪を多く含む作物であった。

 

◆新大陸原産の作物たち

コロンブス以降,ヨーロッパから多くの人々が黄金を求めて新大陸を訪れた。そして,彼らがヨーロッパに紹介した作物のいくつかが世界を変えることになる。誰もが知っているのは,ヨーロッパの食卓に定着して飢餓を救った「ジャガイモ」,肉食社会を支える「トウモロコシ」,料理の味付け「トマト」,世界の調味料「トウガラシ」,生活の句読点「タバコ」,お菓子の王様チョコレート原料「カカオ」,車社会を支える「ゴム」等であろうか。現代社会においてこれらの作物がなかったら,誰が人類を養えると言えようか?

 

新大陸起源の主な作物・家畜を列挙する。

穀類(トウモロコシ,キヌア),イモ類(ジャガイモ,サツマイモ,マンジョカ(キャッサバ)),マメ類(インゲンマメ,ラッカセイ,ライマメ),果物(パイナップル,パパイヤ,アボガド),野菜(カボチャ,トマト),香辛料(トウガラシ),嗜好料(タバコ,カカオ),その他作物(ゴム),家畜(リャマ,アルパカ,クイ)・・・などが新大陸原産と考えられている。

添付:「新旧大陸の原産作物」

参照

山本紀夫編集「世界の食文化13,中南米」農文協2007

中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書1985

前田和美「マメと人間,その一万年の歴史」古今書院1987

酒井伸雄「文明を変えた植物たち」NNK出版2011

 

 

  

 

  コロンブス以前の新旧大陸における主要作物など  
    新大陸 旧大陸  
  穀類 トウモロコシ,キヌア コムギ,オオムギ,ライムギ,
イネ,キビ,ソバ
 
  イモ類 ジャガイモ,サツマイモ,
マンジョカ(キャッサバ)
タロイモ,ヤムイモ  
  マメ類 インゲンマメ,ラッカセイ,
ライマメ
ダイズ,アズキ,エンドウ,
ソラマメ,ヒヨコマメ
 
  果物 パイナップル,パパイヤ,
アボガド
リンゴ,ブドウ,ナシ,オリーブ,
柑橘類
 
  野菜 カボチャ,トマト キュウリ,スイカ,ナス,ニンジン,
タマネギ,キャベツ
 
  香辛料 トウガラシ コショウ,ショウガ  
  嗜好料 タバコ,カカオ 茶,コーヒー  
  その他 ゴム,ワタ サトウキビ,サトウダイコン,
ワタ,バナナ
 
  家畜 リャマ,アルパカ,クイ ウシ,ウマ,ヒツジ,ヤギ,ブタ  
  注)原典:山本紀夫編集「世界の食文化13,中南米」農文協2007を一部改訂  

 

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時代に翻弄されるインゲンマメ(菜豆)

2013-12-29 15:25:15 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

グラフを見て戴こう(図)。「北海道におけるインゲンマメ作付面積の推移」を表したグラフである(因みに,子実用インゲンマメの生産量は北海道が95%を占める)。最大135,000haの栽培面積を有し,ヨーロッパへの輸出作物として「豆景気」の主役を張った時代から,今や8,870ha(どこまで減少するのだろう)。時代に翻弄されるインゲンマメの姿である。

はたして,インゲンマメに復権はあるのか

 

 

北海道におけるインゲンマメ栽培は明治に入ってから

北海道でインゲンマメの栽培が本格化するのは明治以降のことである。すなわち,開拓使や札幌農学校がアメリカ農法を目指し,多くの輸入作物を導入試作したが,その中にインゲンマメも含まれていた。当時,洋種菜豆と呼ばれた輸入インゲンマメは,本道の気候に適応したこともあって作付けを伸ばしていった。北海道最初の農業統計(1886,明19)では僅か160haであったが,1900年(明33)には9,250haに達している。

 ◆輸出作物として「豆景気」を演出

そして,1907年(明治40)頃からインゲンマメが欧米に輸出されるようになり,作付面積は激増して行った。特に,第一次世界大戦(1914-18)でヨーロッパの生産が激減すると国際価格が高騰し,北海道のインゲンマメは135,000ha1918)と空前の栽培面積を記録した。この頃,インゲンマメの主産地は道央・道南から道東の十勝地方へ移っている。

ちなみに,北海道産のエンドウも1908年(明41200tがイギリスに輸出されたのを契機に増加し,1917年(大6)には75,300haの栽培面積に達した。第一次世界大戦時におけるインゲンマメとエンドウの大量輸出は空前の「豆景気」を惹起した。

第一次世界大戦の余波はわが国の産業経済を膨張させインフレに突入する。「豆成金」「澱粉成金」などの言葉が生まれたのもこの頃である。

当時の豆景気を語る記述は沢山あるが,「芽室町八十年史」から引用する。「・・・十勝は農産物の王座を占める菜豆類の海外貿易好転から,価格はうなぎ上りにハネ上がり,随所に豆成金,澱粉成金が続出し,一夜に千金を放蕩するにわか大尽など飛び出した。(中略)古老の話によると,農家が大手亡1俵或いは青エンドウ1俵持って行くと白米1俵のほかに醤油1樽,石油1缶を買ってなお釣銭があったというから,いかに農村経済が膨張していたかうかがうに足るであろう・・・」とある(芽室町「芽室町八十年史」1982)。

その後,豆作偏重の弊害は顕著になるが,農民から豆作に対する投機心を拭い去るには暫く時間を要した。

◆豆作偏重から輪作重視へ

インゲンマメの面積は1920-28年(大9-3)に56ha1929-40年(昭4-15)には89haに推移した(なおこの頃,大豆8ha,小豆5ha)。その後,第二次世界大戦が激しさを増すと臨時農地等管理令(1941年,昭16)が公布され,不急作物としてのインゲンは作付け減少を余儀なくされるが,戦後再び増加し1954-66年(昭29-41)にはほぼ戦前と同様の面積にまで回復した。

当時,主産地である十勝地方の豆作率は69%と高く,豆作偏重の障害が目立つようになっていた(1965(40),内訳:小麦3,780ha,馬鈴薯20,100ha,てん菜18,900ha,大豆21,400ha,小豆20,500ha,菜豆51,300ha)。特に,病害虫の多発(センチュウ,菌核病など)と微量要素欠乏(苦土など)が問題となり,インゲンマメの作付面積は漸減する。

輪作の重要性が農民の中にも浸透し,昭和40年代には畑作物の4年輪作が確立することになる。

◆生産量減少と輸入量増加,国産出回り量は消費量の29

その後も,インゲンマメの作付面積は減少し,1978-90年(昭53-2)はほぼ2haで推移したが(この頃,畑作物の作付け割合は小麦89ha,馬鈴薯67ha,てん菜6~7万ha,豆類78ha4品目が均衡していた),さらに減少を続けて2012年(平24)には8,870haにまで減少した。

近年,小麦を除く畑作物は減少傾向にあるが,特にインゲンマメの減少が顕著である。2012年現在,インゲンマメの国産出回り量は消費量の29%に過ぎない。カナダ,アメリカ,中国等から約6tを輸入し需要を補っている状況である(乾燥豆,加糖餡や水煮製品を含まない)。輸出品目として騒がれた時代の面影はない。

インゲンマメ生産の減少には,収益性の低さ,輸入品との競合,小麦や根菜類に比べて作りにくい(手間がかかる)などの要因が考えられる。さらに,需要が漸減していることも要因といえようか。

◆消費の減少も一要因

インゲンマメの消費量は約40年前に比べて48%になっている(1975114,800t201255,600t)。これには,わが国のインゲンマメの用途が,主として餡や煮豆(甘い),甘納豆などに限られる点にあるのではないか。海外諸国(欧米,中南米,アフリカなど)にとってインゲンマメは,嗜好品ではなく副食の地位にある。したがって,これらの国々では,インゲンマメは切り捨てられない状態にある。

一方わが国では,時代を反映しているのか,手間暇かけて料理する食習慣が極端に減っている。豆を食材にと考える若い世代は存在するのだろうか。

◆国産インゲンマメの復権を

一つは豆類の栄養性,機能性に注目した「豆食」運動だろう。煮豆にしても,「甘煮の豆」でなく「料理の中の豆」でなければならない。伝統的な料理もあるし,海外の豆料理も参考になるだろう。

二つ目は和菓子など嗜好品への対応である。育種の場面でも,和菓子業者と共同開発を加速させたら良い。嗜好品分野の製造業は中小の業者が多く,それぞれに拘りがある。拘るからこそ消費者が喜ぶ。作る人が拘り,消費者が買い求める。そのこと自体が嗜好品の意味なのだ。

だとすれば,材料となるマメも統一された優良品種だけでなく多様さが求められよう。原料の安定供給は必要であるから,生産量が大量に確保できる王道を行く品種(奨励品種)と,多様性を求める個人商店向けの特徴ある品種群(認定品種)を共存させることは出来ないか。

今,気になっている一つのインゲンマメがある。名前は伏せるが,「食味佳良」と記述され栽培が消えた幻の品種である。栽培特性は十分でなくとも,嗜好品であるからには食味が優先されて然るべきではないか。

最初は,生産量が少なく限定販売で良い。嗜好品なのだから。

参照

日本豆類基金協会1991「北海道における豆類の品種(増補版)」

北海道農政部農産振興課2013「平成25年度 麦類・豆類・雑穀便覧」

芽室町1982「芽室町八十年史」

農林水産省「作物統計」

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「インゲンマメ」名前の由来は隠元禅師

2013-12-26 15:01:42 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

中南米山麓地帯が原産

インゲンマメ(隠元豆,菜豆,サヤインゲン,Phaseolus vulgaris L.は中南米の山麓地帯が原産とされ(中央アメリカおよび南アメリカアンデス地域のそれぞれの地域起源説と,小粒種は中央アメリカ,大粒種は南アメリカアンデス地域で独立して栽培化されたとする多起源説があり,多起源説が有力),今から一万年前に栽培化されたと考えられる。16世紀コロンブスの大陸発見以降ヨーロッパにもたらされ,やがてアジアやアフリカにも広まった。日本へは17世紀に中国から隠元禅師によって導入されたとされる。

昔の民間育成品種には育成者の名前を付けたものがあったが,作物名に名前を残す事例は珍しい。

 

隠元禅師の名前を頂いたインゲンマメ

インゲンマメの名前は,隠元禅師(黄檗宗の開祖,承応3年(1654)日本からの度重なる招請に応じて来朝した。黄檗山萬福寺創建)に由来する。しかし,隠元が持参したのは実はフジマメだったという説が有力だ。「関西ではフジマメをインゲンマメと呼んでいた」ことに、起因するのだろう。今となっては確かめようがない。

因みに,フジマメ(扁豆,Lablab purpureus (L.) Sweet花が藤の花穂と似ているためこの名が付いたインゲンマメとは別種である。アフリカ,アジアが原産地で,古くからアフリカ,地中海沿岸,アジア南部などで栽培され,日本には9世紀以降に導入された。農業全書(宮崎1696)には「ふじまめ」を「隠元ささげ」とも言うとある。一方,インゲンマメは「三度豆」「唐ささげ」「三度ささげ」等と呼ばれ,東北地方でも一般にササゲと呼ばれている例が多いという(参照:筑波常治「農業博物誌」玉川選書89,1978)。

呼び名はかなり混乱している。

 

インゲンマメとササゲは別種

ササゲ(豇豆,Vigna sinensis SAVI.et HASSK. 莢が上向きに着き,ものを捧げ持ったように見えることから名前が付いた)はアフリカ原産(アフリカ中西部ナイジェリア付近)で,古くからアフリカ,地中海沿岸,アジア南部に分布していた。わが国では古事記にも記録があり,9世紀以前には日本に導入されたと考えられている(星川 1981)。ササゲが馴染みの野菜であり,どちらも若莢を利用するなど似た野菜であることから混同が起こったのだろう。江戸時代に新しく導入されたインゲンマメがササゲと呼ばれたとしても想像に難くない。後から来たものの弱みだ。

インゲンマメとササゲの違いについて,成河智明は「西貞夫監修,野菜種類・品種名考,農業技術協会1986」の中で,「・・・インゲンマメとササゲの違いは,前者の花が下を向いて咲き,色は白,ピンク,紫などであるのに,後者の花は上を向いて咲き,多くは黄(白,紫もないことはない)である。軟莢は前者が太く,後者が細く長い。子実の臍部(目)は前者が細く小さいのに,後者は太く大きい・・・」と述べている。

参照  1) 成河智明:西貞夫監修,野菜種類・品種名考,農業技術協会1986,2) 筑波常治:農業博物誌,玉川選書89,1978,3) 前田和美:マメと人間,その一万年の歴史,古今書院1987,4) 星川清親 :ササゲ 「新編食用作物」,養賢堂1981

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