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恵庭市長寿大学「開学四十周年記念式典」が挙行された

2016-11-25 16:38:09 | 講演会、学成り難し・・・

「恵庭市長寿大学」(恵庭市教育委員会)は,高齢者に生涯学習社会・長寿社会にふさわしい学習機会を提供し,生きがいづくりと,社会活動に参加し健康で楽しい生活を送ることを目的に開設されているものです。平成28年度,235名の学生(平均年齢72.4歳)が在籍しています。

平成281117日,市民会館において開学四十周年を祝う式典・祝賀会が挙行されました。

 

開学四十周年記念事業実行委員長 挨拶

本日は,ご多忙のなか,恵庭市長寿大学の開学四十周年記念式典にご出席いただき誠に有難うございます。ご来賓として,恵庭市教育委員長職務代理者○○様,社会教育委員長○○様はじめ,大学運営委員並びに学習プログラム検討委員,学生自治会歴代会長の皆様,多数のご臨席を賜りましたこと心より厚く御礼申し上げます。

さて,恵庭市長寿大学は,昭和51年に長寿短期大学講座を開設したのが始まりであります。その後,昭和55年に四年制大学へ移行,平成10年に単位制・講座選択制を導入,平成14年には大学院を設置するなど幾多の改革を経て,現在に至っています。これまでに,短大修了生445名,長寿大学卒業生971名,大学院修了生217名が卒業され,社会活動を通じ地域の発展に貢献されています。恵庭市長寿大学が,40年の歴史を積み重ね,本日ここに記念式典を迎えることが出来ましたことを,皆様とともに慶びたいと思います。

この間,恵庭市教育委員会並びに市内高等教育機関関係者の皆様,講師の先生方には懇切なるご指導を賜り,また制度充実に向けても特段のご尽力を頂きました。先輩諸兄には,学生自治会活動の活性化を通じて「楽しく,充実した,学びの場」の礎を築いて頂きました。お世話になった多くの皆様に,心から御礼申し上げます。

お陰様で,長寿大学では,学生が単に講義を受けるだけの受動的立場にとどまらず,大学運営委員会や学習プログラム検討委員会への参加,自主学習講座におけるプログラム策定と講師担当,研修旅行など各種行事の企画運営,更には講座会場の設営や進行担当など,学生自身が主体的に取り組む姿勢が定着して参りました。この姿勢こそ本長寿大学の特徴であり,伝統になりうるものと確信する次第であります。

恵庭市でも高齢化が進み,本年度の老齢者人口比率は25.8%,いわば成熟社会に入りました。「高齢者が生きがいを見つけ,社会活動に参加し,健康で楽しい生活ができることを目指す」と目的に掲げる,恵庭市長寿大学の存在意義はますます高まっております。長寿大学に学ぶ私たちは,これからも新しいことへ挑戦する気持ちを大切にし,学び続けることに貪欲でありたいと考えます。学生生活で培った同窓の絆を大切にしながら,共に手を携え,地域の発展に寄与できますよう努めたいと思います。

学生自治会では開学四十周年記念事業実行委員会を立ち上げ,準備を進めてまいりました。本日の記念式典に合わせ,小山忠弘先生には「老人漂流社会を生きる知恵」と題して基調講演をいただきます。また,開学四十周年記念誌「縁(えにし)」の発行も事業の一環であります。長寿大学の来し方を振り返り,今後の在り方を考える一助になればとの思いで編纂致しました。お目通しを頂ければ幸いです。

最後に,開学四十周年記念事業にあたり,ご支援賜りました皆様へ感謝を申し上げますとともに,今後とも長寿大学の発展に一層のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げ,挨拶とさせて頂きます。有難うございました。

平成28年11月17日

恵庭市長寿大学開学四十周年記念事業実行委員会 委員長

学生自治会 会長 ○○〇〇

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恵庭の碑-15 百二十年の時を経て建立「島松小学校校舎建立跡地」の碑

2016-11-01 16:57:08 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市の広報誌「広報えにわ」(通巻7712号)は,「路傍の石碑~島松小学校のルーツをたどる~」と題した特集を組んだ。前書きに「明治二十六年,広島街道筋で,6坪の掘っ建て小屋から始まった島松小学校。その後三度の移転を繰り返し,現在地に至る。移転の跡地に,昨年11月,同校同窓会が2つの石碑を建立した。今月の特集では,島松小学校跡地に建立された石碑をめぐって同窓会や子供たちの思いを追う」とある。

さっそく,二つの碑を訪ねよう。

 

◆「島松小学校第1・第2校舎建立跡地」の碑

道道46号江別恵庭線(広島街道)が南十八号道路と交差する地点の信号から西側に入る。現在の道道は改修され直線化しているが,かつての広島街道は西側の高台を迂回していた。現道道江別恵庭線を背にして500mほど走ると高台に出る。高台には畑地が広がっている。途中から右折して旧街道を離れ(地図で確認すると南19号にあたる),進むこと約100mで斜めに左折する道に入る。この道路は,高台を島松川に並行して走り,恵庭墓地の脇を抜け島松沢に通じている。かつては獣道で天然道路と呼んでいたらしい。

斜めの道路の右側に,庭の手入れが行き届いた住宅がある。その庭の片隅,畑地との境界に,道路に面して高さ1mほどの新しい石碑が建っている。石碑の表には「島松小学校第1・第2校舎建立跡地」,横面には「創立120周年記念碑」とあり,裏面には以下の碑文が刻まれている。

「島松小学校の沿革 1893年(明治26年)第1,第2校舎 元士族 大坂与太郎氏が広島街道沿(道々江別恵庭線)現下島松北の丘にわずか6坪の掘っ建て小屋を建てて寺子屋式の児童教育を始めた。 同年校舎東側に12坪の校舎を建てて移る。 大坂氏は日清戦争に出征し戦死されたので,そのあと,山本真氏が教育を引き継いだと伝えられている。 島松小学校創立120周年記念石碑建立(島松小学校 第1,第2校舎建立跡地) 恵庭市立島松小学校同窓会 会長 猪股巌(56期) 副会長 石本弘之(61期) 副会長 原田幸一(64期) 副会長 新保孝(64期) 会計 常光保(72期) 監事 野口宗英(73期) 監事 小野田正和(81期) 元同窓会副会長 伊藤光夫(52期) 校長 平田弘子 教頭 高橋雅城 他同窓会一同 2015年11月」

島松小学校120周年記念事業の一環として,同窓会が2015年11月に建立したことが分かる。記念碑建立に尽力された元同窓会副会長伊藤光夫氏によると(参照:広報えにわ 7712号),実際に校舎があったのは更に100mほど島松沢方向に進んだ場所だというので,その場所に車を止めて周辺を眺める。東側には,畑地が広がり,その先には島松市街地がある。そして西側は林があり,その裏の低地には島松川が流れている。

実は,この場所には記憶がある。すぐ傍の林の中(島松川の沢に向かう坂の途中)には開拓の足跡を示す「康和魂」の碑と「馬頭観世音菩薩」があり,探し求めて訪れたことがあったのだ。これら新旧の碑が,余りにも近くに存立していることに驚いた。

高台は畑地が広がり,現在は恵庭市農業活性化支援センターとホクレン試験農場(かつて北海道農業試験場馬鈴薯研究室)があり,農業技術の研究と普及に努めている。明治の開拓期には「島松学田地」があり,掘っ建て小屋,茅葺の粗末な校舎とは言え,島松の子供たちの教育が始まった場所でもある。この静かな場所に佇むと,路傍の石碑が恵庭開拓の物語を語りかけてくるように思える。

 

 

「島松小学校第3校舎建立跡地」の碑

道道46号江別恵庭線(広島街道)から南18号道路に入る。高台を下ったところがルルマップ川の流れる沢地で,南側に「本田記念病院」,北側には「下北会館」がある。その「下北会館」の南18号道路を挟んだ向かい,病院敷地内に石碑が建っている。高さ1m余り,白御影の碑は未だ新しい。碑の表面に「島松小学校第3校舎建立跡地」,横面に「創立120周年記念碑」,裏面には以下の文字が刻まれている。

「島松小学校の沿革 1894年(明治27年)第3校舎 桑島儀太夫氏 他 有志多数の奉仕により,西八線南18号(現 本田記念病院)にまさふき20坪の校舎を建て移転し「私立島松尋常小学校」を開設した。 3年間この地で教育は続けられた。 1897年(明治30年)第4校舎 9月13日同校を廃校として,原田三十郎氏 他7名の発起人並びに地元住民の総力を以て現在の地(中島松418番地)に校地938坪,寄付金103円60銭,建坪35.5坪の校舎を建設し, 明治31年2月1日をもって公立島松尋常小学校として認可される。 2006年(平成18年)近代的な校舎が同地に新築され現在に至る。 島松小学校創立120周年記念石碑建立(島松小学校 第3校舎建立跡地) 恵庭市立島松小学校同窓会 会長 猪股巌(56期) 副会長 石本弘之(61期) 副会長 原田幸一(64期) 副会長 新保孝(64期) 会計 常光保(72期) 監事 野口宗英(73期) 監事 小野田正和(81期) 元同窓会副会長 伊藤光夫(52期) 校長 平田弘子 教頭 高橋雅城 他同窓会一同 2015年11月」

こちらも,島松小学校120周年記念事業の一環として,同窓会が2015年11月に建立したものである。

ここで,島松小学校の創設について整理しておこう(島松小学校HPによる)

明治26年:広島街道ぞい,下北の丘に6坪の掘っ立て小屋を建て,元士族の大阪与太郎氏が児童の教育を始める。同年,校舎東側に12坪の校舎を建て移る。

明治27年:桑島儀太夫氏他有志多数の奉仕により,20坪の校舎を西8線南18号に建て,私立島松尋常小学校とした。

明治31年2月1日:明治30年9月13日同校を廃校とし,原田三十郎氏他有志多数の寄付をもって,現在の地に35坪5合の校舎を建設しこの日をもって公立尋常小学校として認可された。

とある。本編で触れた二つの碑は,明治26年と明治27年に建立された私立島松小学校の校舎跡地を示す記念碑ということになる。なお,第3校舎建設に係る桑島儀太夫の名前は,廻清次郎・西佐左衛門らとともに,近くの島松寺の創建にもかかわっている(土地を提供し説教所を設けた)。また,現在地に校舎を建設する際の発起人原田三十郎氏は,島松神社創建時の氏子総代でもある。

旧校舎跡地の場所特定に尽力した元同窓会副会長伊藤光夫氏は,これらの場所は登記簿や戸籍などの書類に基づき特定したものではなく(正確な記録は見つかっていない),古老の話や座談会の記録などによって推測したものだと語っているが(参照:広報えにわ 7712号),おおむね正確な場所だろう。

現在の場所から直線距離で3~4km離れた場所において島松小学校が産声を上げたことを,今の子供等は知っているのだろうか。開拓の苦難の中で児童教育の重要性を認識し実践した先人の姿を,教育現場は忘れてはいまいか。

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