goo blog サービス終了のお知らせ 

豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の彫像-16 鈴木吾郎作品38点が恵庭市に寄贈される

2025-03-15 11:36:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

鈴木吾郎講演会「彫刻人生60年」を聴講する

彫刻家鈴木吾郎、北海道を代表する彫刻家の一人。恵庭大橋や市立図書館に立つ少女像を通じて多くの市民が身近に感じる作家である。この度、作品38点が恵庭市に寄贈されることになり、2025年3月12日寄贈セレモニーと講演会が開催されたので参加した(主催恵庭市教育委員会)。

寄贈作品の内訳は、「少女ASURA」などブロンズ12点、「少女頭像T」などテラコッタ15点、18歳」などFRP作品6点、石膏・デッサン等5点である。

写真左は「講演会栞から引用」

 

◆鈴木吾郎

栞の紹介記事から引用する。

昭和14年芦別村にて生誕、すぐに月潟村へ移住し中学2年まで過ごし、札幌市へ。札幌西髙を経て北海道学芸大学札幌分校(現北海道教育大学)特美1期を卒業後、恵北中学(恵庭市)に赴任し11年間勤務する。

道展会員、日彫展会員、個展は札幌・東京・フランス・中国等で35回開催、記念碑は国内に60数基。著作は「彫刻60年鈴木吾郎悠久を舞う」他3冊、執筆は高校美術教科書「自然から学ぶ」、北海道教育史、他多数。小樽商科大学非常勤講師17年間。

主な受賞歴:第40回道展新人賞1965、第43回道展会友賞1968、日展入選1976、道展常任委員1983-1988、恵庭市善行賞(図書館へ作品寄贈)1992、紺綬褒章2013。

◆彫刻人生60年を語る

記念講演で氏は恵北中学教師時代の想い出から語り始め、作家活動で考えていたこと、展示会でのエピソードなど熱く話した。

「感じるものを表現する」「作品は生き様を反映する」「芸術は貴賤老若を問わない」「稚心の美、老いて初心に戻る」などの言葉が体幹から滲み出るようだった。

◆作品寄贈記念 鈴木吾郎展

夢創館で2025年5月30日~6月15日、お披露目展覧会が計画されている。

その後、何処に保管展示されるのか公表されていないが、市民が気軽に目にできる場所(施設)であって欲しい。文化都市を標榜する恵庭市には是非、施設整備など対応を期待したい。


私立洞門小学校(恵庭小学校の前身)の名称由来考、「洞門」とは?

2025-01-04 11:48:42 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

私立洞門小学校の「洞門」とは?

恵庭小学校の前身は、明治20年(1887)に苫小牧曹洞宗中央院説教所(現在の天瑞山大安寺、恵庭市福住町)内に設置された「私立洞門小学校」である。

ところで、学校名の「洞門」とは何だろう? 何故「洞門」と名付けたのだろう?

 

◆地名(地形)から

講談社日本語大辞典をみると、「洞門」とは「ほら穴の入口」「通り抜けの洞穴、トンネル」とある。また、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)で「函嶺洞門(箱根町)」の名前をよく耳にしていたこともあり、此の「洞門」も地名(地形)から名付けられたのだろうと勝手に思い込んだ。

気になって、大日本帝国陸地測量部大正5年測図「漁 1/25,000」を広げてみる。漁川は大きく蛇行し川岸が崖になっている。大安寺の辺りも旧川筋が大きく蛇行した形跡があり、ほら穴があったとしても不思議でないが、その形跡は確認できない。この地域を「洞門」と呼んでいたとの確証も無い。

かつてウェブ地図で、市民会館裏の通りが「会瀬洞門通り」となっているのを見た記憶があるが、何処が「会瀬」で何処が「洞門」なのか確認できず、此の通称が事実であったのかも確かめようがない(現在は消えている)。

◆曹洞宗の開祖 洞山良价禅師から

地名でないとすれば、「寺」に関係するのか。

天瑞山大安寺のHPによれば、

「当山は明治20年(1887)1月に仏事執行と布教活動のために、漁村山森丹宮氏より畑地弐反八畝拾歩、中山久蔵氏より畑地弐反六畝拾五歩の境内地の寄進を受けて、苫小牧中央院の千歳郡漁村出張説教所として設置された。中央院は、明治12年4月8日に札幌中央寺の前身である曹洞宗中教院(当時曹洞宗北海道宗務事務執行)に曹洞宗説教所公称を出願し、開拓使の許可を得て、曹洞宗第二説教所として設置されたが、その2世住職として加藤金翎師が任にあたっていた。・・・当時、漁村には山口県団体の移住があったが小学校がなく子弟の教育を憂慮している折柄、加藤金翎師は小学校を私設し、私立洞門尋常小学校(恵庭小学校の前身)と称し、その校主兼教員となって子弟の教育に当たった。この寺子屋が恵庭における教育施設の最初となるものである。・・・同21年5月より同30年5月まで私立洞門小学校に教員として奉職していた松樹良光師が・・・」とある。

これから判断すれば、「洞門小学校」の名称は曹洞宗加藤金翎住職が名付けたと考えて良いだろう。

日本の曹洞宗は道元禅師(1200 - 1253)を開祖(中国から導入)とする禅宗の一つで、専ら坐禅に徹する黙照禅を特徴とする。さらに元を辿れば、曹洞宗は中国禅宗の祖である達磨(5-6世紀)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓慧能(638-713)から4代下った洞山良价(807-869)によって創宗された宗派である。

日本禅宗では、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。一方、中国曹洞宗は洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840-901)を祖とし、曹洞宗となったというのが定説。いずれにせよ、洞山良价が曹洞宗の開祖であるのは間違いない。

 

加藤金翎師が私立洞門小学校と称したのは、「曹洞宗の開祖 洞山良价から一字を得て洞門と名付けた」、或いは「曹洞宗仏門内の学問處の意味で洞門と名付けた」と考えられないか。寺小屋の名前としては此方の方が的を射ているかも知れない。が、記録を確認するに至っていない。

 

さて、どちらだろう? 或いは別の意味があるのかな。宿題が一つ増えた。

 

写真上:天瑞山大安寺、写真下:恵庭小学校「開校百年記念碑」


「西島松5遺跡出土品」重要文化財指定記念講演会を聴講する

2024-12-22 10:46:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

西島松5遺跡出土品

恵庭市内の「西島松5遺跡出土品218点」が国の重要文化財に指定され(2024.8.27)、記念講演会が12月7日市民会館で開催された。講師は北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授簑島栄紀氏、演題は「西島松5遺跡の意義とその背景」である。

重要文化財新指定のニュースは「北海道新聞2024.3.16」「広報えにわ2024.10」「郷土資料館広報No.67」等で情報提供され、郷土資料館でも企画展「重要文化財指定記念写真展」「重要文化財指定記念出土品展」を行うなど広報に務めたので、この講演会には市民多数の参加があった。この記念講演会も大きな意味があったものと思う。

講師は、①「西島松5遺跡とは」「西島松5遺跡出土品」について説明し、②その時代背景を解説、その特異性について考察を加えた。

*西島松5遺跡は縄文から擦文文化期にかけての遺跡で、土器や多数の刀剣など鉄製品が出土している(同時期の他遺跡に比較しても、質量ともに群を抜く)。また、他遺跡では基本的に一遺跡に一基の墓から刀剣が出土されるが、西島松5遺跡では12基の墓に24点、3~4振の刀剣が集中して副葬されている例がある。

*鉄製品の出土は交易の証しである。7世紀の墓で刀剣の出土が多いことは、当時から本土と往来があったことを示す。蝦夷地からはヒグマ皮、アザラシ皮が貴重産物として搬出され、権力集中への財として活用されていた。7世紀の余市沿岸遺跡でも刀剣類の出土があることから、恵庭・余市の二つの地域集団が北海道の交流拠点であったと考えられる。

*さらに、8~9世紀にかけて恵庭や江別集団と日本古代国家との交流が発展する。当時の恵庭は、大陸を背景に持つオホーツク文化と奈良・平安文化を結ぶ、北方世界の物流集散地(いわば十字路)だったのではないかと推察した。

*「カリンバ」に次いで、新たに国重要文化財に指定された「西島松5遺跡出土品」は恵庭市郷土資料館に保管、展示されている。

 

◆参考「北海道歴史年表」

*北海道の歴史年表は以下の区分(1)が通説。一方、子供の頃の記憶によれば、教科書で習った日本歴史は以下のような区分(2)だった。

(1)旧石器文化(時代)/3万年前頃から→縄文文化/1万5千年前から→続縄文文化/前4世紀~6世紀頃→擦文文化/7-12世紀頃(オホーツク文化/5-9世紀頃)→アイヌ文化/13世紀から近代・・・

(2)原始時代(旧石器→縄文/1万6千年前から→弥生/前4世紀~3世紀→大和・古墳/4-6世紀)→古代(飛鳥/7世紀頃→奈良/8世紀頃→平安/9-12世紀)→中世(鎌倉/13世紀頃→南北朝/14世紀頃→室町/15世紀頃→安土桃山/16世紀頃)→近世(江戸/17-19世紀)→近代(明治→大正・・・)

*区分名称の違いに最初は戸惑うが、「歴史はそれぞれの地域のもの、文化は地域独自のもの」と捉えれば納得がいく。西島松5遺跡出土品の時代は、日本史区分で言えば古代飛鳥時代。中国大陸は「隋~唐」、朝鮮半島は「百済・高句麗~新羅」の時代であった。西島松5遺跡出土品の時代7世紀は、国を越えた交流が進み、律令・仏教文化が花開いた時代である。年表を重ねると歴史絵巻が見えて来る。

 

◆ルルマップ川の意味

本論から外れるが、「ルルマップ」のアイヌ語意味は「ル(道)・オ(そこから)・オマ(ある)・ㇷ゚(もの・ところ)」ではないかとする解釈が示され、気になった。

ルルマップ川上流、現在のルルマップの段丘地は、後に「シコツ越え」「札幌本道」となる小径(陸路)があった處、此処から陸路が始まる地点ルルマップと言うことだろうか。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(13)市民会館周辺(裏)

2024-10-12 13:15:25 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「山口県人恵庭開拓記念碑」「森林鉄道跡」「恵庭小学校開校百年碑」

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は「市民会館周辺(裏)

恵庭市役所・市民会館裏の通りは「恵庭大通り」ですが、多くの人々は道路中央分離帯があることから通称「グリーンベルト」と呼びます。このグリーンベルトに立つのが、「山口県人恵庭開拓記念碑」です。

(1)山口県人恵庭開拓記念碑

山口県岩国和木地方から入植した人々は、明治44年に先人の苦労を偲び、偉業を称えて「厳国開墾記念碑」を上山口の天融寺境内に建立しました。その後、経年による損傷著しくなったため昭和31年現在地に再建し、「山口県人恵庭開拓記念碑」としたものです。碑名は岸信介による揮毫。また、昭和60年改修では、入植者氏名が刻まれた旧記念碑の台石を基礎石として取り入れています。

(2)森林鉄道跡

恵庭を森林鉄道が走っていました。恵庭小学校傍の斜めの道路がその痕跡です。昭和30年頃まで、戦中戦後の復興を支える木材需要に対応して漁川上流から木材を搬出ししたのですね。上流には、インクライン装置があったそうです(インクラインの滝の名を遺す)。

漁川上流は江戸中期宝暦年間に飛騨屋久兵衛が伐採事業を請け負ったことでも知られています。林業は恵庭発展に寄与した産業だったと言えます。

(3)恵庭小学校「開校百年」碑

正門を入った右側、櫟や桜に囲まれて「開校百年」碑(開校百年記念事業協賛会)があります。大安寺境内に9坪の校舎を建設(私立洞門小学校)したのが、恵庭小学校の創始であったと刻まれています。

(4)電子基準点

正門を入って記念碑の反対側(駐車場脇)に国土地理院が管理する全球測位システムGlobal Navigation Satellite System が置かれています(全国約1,700ヶ所、道内174ヶ所のひとつ)。三角点としても利用されています。

基本電子基準点No.960522 電子基準点は、地上約2万kmの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、この地点の位置を観測するためのものです。受信データは、つくば市にある国土地理院に毎日転送しています。この受信データは、土地の測量・地図の作成、地震・火山噴火予知の基礎資料に利用されます。国土地理院」の説明プレートが付いています。衛星はUSAの「GPS」、日本の「みちびき」などを活用。システムは平成5年(1993)に活用が始まり、平成14年からは基準点の1秒ごとのデータが解放されています。4衛星からのデータを解析することで100万分の1(10kmで1cm)の誤差だと言うから驚きです。 

隣接する基準点は千歳市の支笏湖小学校にありますよ。

明治時代に開校した恵庭小学校の一隅に、新旧のシンボルが存在することは面白いですね。貴方は、恵庭の基準点(高さ5mの電波塔)が此処にあることを知っていましたか? 見たことがありますか?

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の碑-1,先人の偉業を讃える「開拓の碑」2014.11.15

*恵庭の森林鉄道(歴史の道散策会2019 えにわ)2019.6.20

*恵庭の碑-12,恵庭小「開校百年の碑」と恵庭北高「拓学の碑」2015.9,25

*恵庭の歴史びと-1「飛騨屋久兵衛」2023.5.16

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(12)本田明二の「道標-けものを背負う男」

2024-10-11 10:38:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

めぐみの森公園で本田明二の「道標-けものを背負う男」に出会う。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

 

今回は、恵み野北6丁目にある「めぐみの森公園

「めぐみの森公園」(恵庭市恵み野北6丁目3-3)は、閑静な住宅地の中に在る恵庭市街区公園のひとつで(*市内には87ヶ所あり、子供らの遊具が置いてある場合が多い)、樹木が多く静寂感漂う小さな公園です。そんな街中の小さな公園に本田明二の代表作とも言える彫刻「道標-けものを背負う男」が置かれています。

彫像には「M. HONDA ‘86」のサインがあり、本田明二が昭和61年(1986)制作した作品であることが分かります。

長身の逞しい男が仔馬とみえる「けもの」をかつぎ、遠い視線で立っています。荒々しくもあり一見武骨な彫像にみえますが、実に技巧的で繊細です。本田明二は晩年の10年間、「けものと男」をモチーフにバリエーションある作品を多数制作していますが、これはその中のひとつ、本田明二の真骨頂とも言える作品です。

近くの住民でも作品の存在に気付かない方が多いのではないでしょうか。是非、この小さな公園を探し求めて足を運び、作品の前で足を止めて欲しい。地域住民の小さな生活空間に芸術性高い作品が密かに佇んでいるなんて、なんと素晴らしいことではありませんか。

芸術の森や湖畔の美術彫刻群も良いですが、住宅街の小さな公園にそっと彫像が置かれている。そんな街に暮らしたいですね

ちなみに、今回のシリーズで訪れた島松沢の「寒地稲作この地に始まる碑」(中山久蔵の肖像と稲穂をもった三人の農家女性像が刻まれたレリーフ)も本田明二の制作です。

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-12,本田明二の「道標―けものを背負う男」 2014.11.18

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(11)恵庭市立図書館

2024-10-09 09:45:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

図書館で「鈴木吾郎」「中村矢一」「山名常人」作品に触れる。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭市立図書館

恵み野中央公園の一角にある、恵庭市立図書館にやって来ました。半円形型鉄筋コンクリート造一部2階建の特徴ある建物です。平成4年(1992)に完成・開館した本館は、「北海道赤レンガ建築賞」「日本図書館協会建築賞」「公共建築賞北海道地区優秀賞」など受賞している機能を備えた図書館です。この建物は「読書のまち恵庭」の中心的な役割を果たしていて、多くの市民が利用しています。

恵庭市は平成12年(2000)全国に先駆けて「ブックスタート」を開始しました。ブックスタートとは、赤ちゃんとその保護者に絵本を贈り、絵本を介して心ふれあうひとときを持つきっかけをつくる活動で(発案者は絵本コンサルタントのWendy Cooling)、現在は全国自治体の約60%が実施しているそうです。その他にも、ボランテイアによる「読み聞かせ」「本のリサイクル」「各種イベント」が実施されるなど、読書のまちづくりが進んでいます。

ちなみに、恵庭市のカントリーサインは「恵庭のシンボル恵庭岳を背景に、色鮮やかな花に囲まれながら本を読んでいる女の子」がデザインされたものですね(写真)。

さて今回は、図書館に来たついでに図書館中庭まで足を延ばしてみましょう。芝生の中庭には、鈴木吾郎の若い女性像「Yuka17」「ふえ」、中村矢一の鉄製モニュメント「望」が燦燦とした陽光を受け立っています。また、駐車場脇に立つ山名常人の彫刻「進取の像」にも足を止めてみましょう。

その他にも、鈴木吾郎の「Yuka」「女・風髪」や中村矢一の「はるかぜ」が設置されています。何処にあるか探してみませんか。こんな芸術作品が図書館にあったのだと驚くかもしれません。

また、時間があれば、図書館脇にある恵み野中央公園の小山に登ってみて下さい。そこで貴方は「三角点」を発見するでしょう。

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の彫像-2,恵庭市立図書館にある「鈴木吾郎」4作品 2014.10.6

*恵庭の彫像-3,恵庭市立図書館にある山名常人「進取の像」と「中村矢一」彫金2点2014.10.7

*恵庭の「三角点」探訪(恵み野編) 2016.5.8

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(10)大安寺の「金剛力士像」「皇軍戦没者招魂供養之碑」

2024-10-08 11:41:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭開拓所縁の古刹、天瑞山大安寺に立ち寄る。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭の古刹、天瑞山大安寺」です。

島松沢から札幌新道(室蘭街道、旧旧国道36号)を下り市街地に入る。茂漁川を渡り少し進むと、右手に「豊栄神社」第一鳥居、左手に「豊栄神社」山門が目に入ります。「豊栄神社」「大安寺」とも開拓者たちが開創・開山したもので、この界隈は最初に形成された市街地だったのでしょう。

今回立ち寄る大安寺は禅宗(曹洞宗)の寺。入植者の「子弟教育」「心の拠り所」として建立されました。明治20年に中山久蔵が用地を寄付し、苫小牧中央院の加藤金翎師が寺小屋を建て教育にあたったのが始まりです(私立洞門小学校、恵庭小学校の前身)。明治21年には山森丹宮、中山久蔵から境内地の寄進を受け、苫小牧中央院の漁村出張説教所として開山、現在に至ります。

ちなみに、日本曹洞宗祖師は道元、教義は「只管打坐」(しかんたざ)、ひたすら座禅することが修行であるとしています。

 

先ずは山門の「金剛力士像

像容は上半身裸形で、筋骨隆々の木彫です。門に向って右の阿形像(あぎょう、開口の像)は怒りの表情を顕わにし、左の吽形像(うんぎょう、口を結んだ像)は怒りを内に秘めた表情をしています。手に持っているのは金剛杵(こんごうしょ)。

抑制のきいた表情ながら逞しく、圧倒されるような作品。作者は不明ですが、大事に保管してほしい恵庭の彫像の一つと言えます。

ちなみに、「阿」は口を開いて出す音声、「吽」は口を閉じて出す音声。梵字(梵語サンスクリット語は古代インド・アーリア語)の12字母の初めと終わり(万物の初めと終わり、万物の全てを象徴する)に由来するのこと。「阿吽の呼吸」と言う言葉がありますよね。

 

山門を潜ると右手に「皇軍戦没者招魂供養之碑」が建っています。

上位に五芒星、中央に「皇軍戦没者招魂供養の碑」の文字、下端に錨と鎖が刻まれています。第七師団長 陸軍中将 佐藤子之助の書。五芒星は旧日本陸軍、錨は海軍の象徴。太平洋戦争敗戦でこの種のマークは削られることが多かったが、この碑では原形をとどめています。建立主催者(郷軍第一班、大安寺)、後援(柏木青年分団、漁青年分団)、建設奉賛会(総裁会長菊池政之、副会長高野俊治、理事林愛助、福田幸雄、会計中村作蔵、ほか委員29名)、特別賛助者(林愛助ら15名)、賛助者(中村恒三郎ら23名)、正会員(福田幸雄ら66名)の氏名が刻まれています。

碑の建立は昭和9年。時は、満州事変(S6~)、犬養首相暗殺(5.15事件 S7)、国際連盟脱退(S8)と連なる激動との時代。日本は、日中戦争・第二次世界大戦への流れの中にありました。

 

狭い境内ですが、「開山勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚之碑」「開創月海良光大和尚之碑」「開基山森丹宮の墓碑」「六地蔵」などがあり、一瞬の静寂に浸ることが来ます。ああ此処から、恵庭の初等教育が始まったのかと思いを巡らしながら、本堂前の老樹を見上げるのでした。

 

詳細は、以下の拙ブログ(豆の育種のマメな話)を参照ください。

*恵庭の寺-2,恵庭の古刹,禅宗(曹洞宗)の寺 「天瑞山大安寺」2015.2.23

*恵庭の彫像-14,大安寺山門に立つ「金剛力士像」2015.4.13

*恵庭の碑-5,日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔「忠魂碑」2014.12.9

 

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(9)島松沢から札幌本道を行く

2024-10-06 11:08:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

島松沢から札幌本道(旧旧国道)を大安寺まで

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「島松沢から札幌本道を行く」です。

島松沢で「旧島松駅逓所(国指定史跡)」「寒地稲作この地に始まる碑」「クラーク博士記念碑」「駐蹕處碑」「中山久蔵翁頌徳記念碑」を訪れ、駅逓所裏道のトンネルを抜けると「島松軟石採掘所跡」が観られます(恵庭側にも採石所跡があります。

島松軟石は4万年前の支笏カルデラで発生した大規模火砕流による溶結凝灰岩で、明治から昭和初期まで納屋、牛舎、サイロなどの建材として使われました。島松軟石はピンク色の軽石を含むのに対し、札幌軟石は白い軽石を含むそうです。

 

さて、島松沢の両岸は急峻で九十九折の道だったと松浦武四郎「西蝦夷日誌」などに記されています。現在は国道や高速道路で掘削されていますが、古くは山越えであったようでその面影が偲ばれます。

島松川の右岸にあった「六里標」を出発点とし、山越えを想像しながら坂を上り、「札幌本道(室蘭街道、旧旧国道)」に沿って恵庭市街地へ進むことにしましょう。

道すがら、「聖蹟記念碑(後方記念碑)」「七里標跡(現存しない)」「モニュメント翠光」「松浦武四郎歌碑」などを見ることが出来ます。

また、恵庭橋欄干に「クラーク博士通り」「青年よ大志をいだけ」のプレートを見つけ、貴方はきっと驚かれることでしょう。クラーク博士の馬上姿を想い感傷に浸ることが出来ます。

 

以下の拙ブログが参考になるでしょう。

*恵庭の古道-7 札幌本道(室蘭街道)2022.12.27

*恵庭の碑-25 茂漁川「モニュメント翠光」の作者は、誰? 2022.3.5

*恵庭の「クラーク博士通り」2022.2.17

*恵庭の碑-20 茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光(すいこう)」2018.11.6

*恵庭の碑-19 恵庭に建立された「松浦武四郎歌碑」2018.11.4

*恵庭の古地図-1 室蘭街道の「七里標」「八里標」と「恵庭村道路元標」2015.8.18

*恵庭の碑-8 行幸記念の碑 2014.12.22

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(8)旧島松駅逓所

2024-10-05 13:48:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

陸の玄関口、島松沢を訪れる。

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「旧島松駅逓所」(島松沢)です。

国道36号線から島松沢へ降りてみましょう。島松川の左岸に「旧島松駅逓所(国指定史跡)」、中山久蔵翁を讃える「寒地稲作この地に始まる碑」、クラーク博士別離の地を示す「クラーク博士記念碑」、「島松軟石採石場跡」などを見ることが出来ます。また、島松川右岸は最初に島松駅逓が置かれた場所ですが現在は民家が建ち、明治18年建立の「馬頭観音 中山氏」等から当時を偲ぶことが出来ます。

この地は札幌から6里(約24km)、中山久蔵が入植し水稲「赤毛」の栽培に成功した場所として知られています。また、札幌本道開通後は交通の要所でした。恵庭にとっては陸の玄関口と言える場所、松浦武四郎やクラーク博士が通過した歴史の道でもあります。

クラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉を残したのは此の地。それは、北広島か恵庭か? 拙ブログ2023.7.22「恵庭の歴史びと-3 中山久蔵」に整理したので、興味ある方は参照下さい。

なお、下記資料は令和6年度第1回「えにわ学」講座(令和6年7月27日)資料を引用しました。

   

参照 1)恵庭の歴史びと-3「中山久蔵」(拙ブログ2023.7.22)


恵庭の碑-30, 時計塔「昇華の刻」碑

2024-05-01 09:46:48 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

時計塔「昇華の刻」碑

 

写真は2014.10.4撮影

 

桜町多目的広場に立つ時計塔「昇華の刻」(写真)。平成22年(2010)恵庭三四会が創立34周年を記念して建立・寄贈したもの。大理石の偏四角錐がスチールの時計塔を支える様に置かれている。多目的広場でサッカーに興ずる子供らを見守っている。

正面台座には「昇華の刻」の文字、裏には「恵庭三四会34周年記念事業 平成二十二年七月 会員34名の名前」が刻まれている。「三四会」と「創立34周年」「34名の会員氏名」、何と洒落が効いていることか。

「昇華」とは、①個体が液体を経ず直接気体になること、②物事が一段上の状態に高められることなどの意。とすれば、「昇華の刻」とは「一段上の状態に高められる時刻」と言うことになろうか。子供らに高揚の刻を告げる時計塔。

恵庭市桜町界隈へは最近行っていないが、時計塔は今も健在也や?

 

*恵庭三四会は、昭和52年(1977)に恵庭市の30代、40代の経営者が集い、会員の連携・協調・資質向上を図ると共に恵庭市の発展に大いに貢献することを目的に発足した団体。毎年、納涼花火大会、少年野球大会、清掃活動、慈善事業など活動している。

*市民会館の前庭に立つ「平和の像」も恵庭三四会が寄贈した野外彫刻。会員の皆さんは、毎年彫像の清掃作業を行い、子供らの健やかな成長と恵庭市の発展、平和を願っている(参照:拙ブログ2014.10.17、恵庭の彫像-10 恵庭市民会館前庭の「平和の像」)