豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

アンデスの旅,グアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャの群れを見たか?

2013-05-09 10:04:43 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アンデスを旅すると,高原地帯で草を食むグアナコやビクーニャの群れをしばしば見かける。チリ北部のアリカからボリビア国境にあるラウカ国立公園を訪れた時も,標高3,500mを越え4,500mに至るアンデス湿潤高原地帯で,ビクーニャの群れ(写真)に何度か出会った。ペルーからチリ北部にかけての海岸線はほとんど雨が降らないため景色は砂漠そのものであるが(谷に沿ってのみ雪解けの水が流れ,人が住む),アンデス山脈の高所にはうって変わって草原が現れる(アンデスの峰は雪に覆われる)。

「遠くに見えるのがビクーニャの群れです。アンデス原産の動物には,グアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャの四種の近縁種がいます。身体の大きさでいうと,大きいのがグアナコとリャマ,一番小さいのがビクーニャです・・・」

「あの岩陰の動物がビスカッチャ(アンデスウサギ,写真),ここは動物たちの聖地ですね」

ガイドの説明が続く。

 

また,アンデス山脈の南端アルゼンチン・パタゴニアからチリのプエルト・ナタレスに向けバスで国境越えした時も,グアナコの群れに出会った。

「グアナコの群れです。バスを降りて近づいてみましょう」

運転手は群れを指さし客に説明しながら,ゆっくりと停車した。

脚がすらっとして気品のある野生動物だ。厚い毛をまとい,愛くるしい目をしている。インカの時代に比べ生息数が激減しているので(一部では保護されている),野生の群れに出会う旅は記憶に残る。

これ等の動物は日本の動物園でも飼育されているので,アンデス原産の動物としてリャマ(ラマ),アルパカの名前を知る人は多いだろう。

 

「リャマは,ボリビアやペルーの山岳地方で古くから家畜として飼われ,荷物の運搬用,毛や皮を衣類に加工し,肉を食べることもあり,糞は燃料に利用されてきた。また,インカ帝国の時代には儀式の生贄として捧げられ,現にラパスの市場ではリャマの胎児のミイラが売られていて,これは家を新築するときに埋め家内安全を願うという生贄風習の名残だ・・・。一方,アルパカは毛を利用するために飼われ,アルパカ毛は羊毛より軽く世界中で品質評価が高い。インデイオもマントやポンチョに加工し,お土産として売っているよね・・・」と,私たちは知っている。

 

インカ時代に重要な家畜であったグアナコ,リャマ,アルパカ,ビクーニャは,ラクダ科の近縁種である。リャマはグアナコを家畜化したもの,アルパカは毛をとるためにグアナコ・ビクーニャから改良された派生種と言われ,分類学上の系統図には諸説あるが,以下の分類が有力のようだ。

 

1 ラクダ科(Camelidae

  1-1 ラクダ属(Camelus

 1-2 ラマ属(Lama

 1-2-1 グアナコ(Lama guanicoe

 1-2-2 ラマ(リャマ,Lama glama

 1-3 ビクーニャ属(Vicugna

 1-3-1 アルパカ(Vicugna pacos

 1-3-2 ビクーニャ(Vicugna vicugna

 

格好は似ていて遠目には区別が難しい。体の大きさに違いがあり,グアナコとリャマ(体高1-1.2m,身長1.5-1.6m,体長約2m,体重約100kg)が大きく,アルパカ(体高0.9-1.0m,体長約2m,体重50-55kg)が中間,ビクーニャ(体高約0.85m,体長1.3-1.6m,体重33-65kg)が小型と言える。

 

毛の長さは,アルパカが長く,ビクーニャは短いが細くて高級,グアナコはその中間とされる。セーターを着てみれば羊毛とは違う満足感を覚えるだろう。

 

   

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南米のスイス「バリローチエ」に遊ぶ(アルゼンチンの旅)

2012-11-21 10:41:22 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルゼンチン人が「南米のスイス」と呼ぶ,同国最大のリゾート地バリローチエ(正確には,サン・カルロス・デ・バリローチエ San Carlos de Bariloche)を訪れたのは,30年以上も昔のことになる。湖と山々に囲まれ,花が咲き,街は石積みと木造の建物など洗練された佇まいを感じさせる町。荒涼としたパタゴニアの曠野の果て,アンデス山脈の麓に存在する(南緯41.09,西経71.18)。飛行機を降りてセントロに近づく頃,「なるほど,南米のスイスか」と感じたことを思い出す。

バリローチエはナウエル・ウアピ国立公園の一角にある。この公園は,1934年に制定されたアルゼンチン最古の国立公園で,面積7,050km2,春から夏は山肌に花々が咲き,秋には紅葉,冬は雪に覆われる。夏(1月)の月平均気温が最高21.5℃,平均14.3℃,最低6.4℃,冬(7月)は最高6.4℃,平均2.1℃,最低-1.4℃,年間降水量が799mmと言えば,季節感を想像できるだろう。

 

首都ブエノス・アイレスから南西方向へ1,720km2時間20分のフライトである。長距離バスも走っているが,ほぼ一昼夜を要する。標高893m,ナウエル・ウアピ湖(Lago Nahuel Huapi)の湖畔に位置する人口11万人ほどの自然豊かな町である。もともとはスイス系移民が住み着いた町で,建築様式,料理などにその影響を感じることが出来る。南米は勿論,ヨーロッパからの観光客で賑わう。

 

街の中心が市民センター(Centro Civico)で,観光案内所,市庁舎,警察署,パタゴニア博物館など主要な建物がある。両替所,旅行理店,航空会社,レストラン,ホテルなど商業施設もその周辺に集まっている。インフォメーション・オフィスで地図とツアー情報を手に入れ,民芸品,手織りのセーター,名物のチョコレート,ジャム,ドライフルーツなどが並ぶ店を覗き,マス料理で空腹を満たすのも良いだろう。鹿肉,チーズなど土地の料理も味わってみたいものだ。また,アウトドアの遊びには事欠かない。気軽なところでは,ナウエル・ウアピ湖畔を散策,遊覧,釣りを楽しむ。健脚な方々はツアーを利用してトレッキングが楽しめる。

 

翌日,宿泊した小さなホテルのオーナーがドライブに誘ってくれた。市内からジャオジャオ(Llao llao)半島を回り,カンパナリオの丘(Cerro Campanario)に登る。湖と雪を頂く遠くの山々が絵葉書のようだ。さらに,セロ・カテドラル山(Cerro Catedral)に向かう。ゲレンデが広がり,7月から10月にはスキーを楽しむ客で賑わうという。

 

次の日は,遊覧船に乗って,ビクトリア島(Isla Victoria)とアラジャネスの森(Bosque Arrayanes)を訪れた。1日のツアーコースだ。アラジャネスの森は赤茶の木肌をした木々(ギンバイカ,Myrtus communis,フトモモ科,ギリシャ時代豊穣の女神や愛と美と性の女神に捧げた「祝いの木」だという)が茂り,散策の道が出来ている。この地を訪れたウオルト・デイズニーが「バンビの森」を着想した場所だと説明がある。ここは,1971年にナウエル・ウアピ国立公園から分離し,小さなロス・アラジャネス国立公園となった。湖に突き出たケトリウエ半島(Pla. Quetrihue)にあり,面積17.5km2。ルピナスの群生が印象的だった。

 

 ここバリローチエからチリのプエルト・モン(Puerto Montt)に抜けるコースは,国境越えのルートとして旅人に人気がある。船とバスを乗り継ぎ,美しい景色を眺めながらの国境越えである。

 

その他にもアルゼンチンとチリを結ぶルートは,サルタ(Salta)からアントフアガスタ(Antofagasta),メンドーサ(Mendoza)からサンチアゴ(Santiago),カラファテ(Calafate)からプエルト・ナタレス(Puerto Natares)などいくつかあり,それぞれ趣が異なる。サルタやメンドーサからのコースは,乾燥したアンデス越えを堪能できる。カラファテからのコースではパタゴニアの風を感じるだろう。リャマやグアナゴに出会えるかもしれない。どのコースを選ぶか,お好み次第だ

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「コルドバ」の地名で思い出すのは?(アルゼンチンの旅)

2012-11-20 09:37:47 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

コルドバ(Cordoba)の地名で先ず思い出すのは,スペインのアンダルシア州にあるコルドバ歴史地区かも知れない。スペインを訪れる観光客の定番コースの一つで,世界遺産のメスキータやユダヤ人街が知られている。

だがここでは,もう一つのコルドバを紹介しよう

アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスから北方に約700km,果てしなく続くパンパ平原を長距離バスで12時間ほど走り,ようやく山なみが見え始めるころ,アルゼンチン第二の都市コルドバがある。飛行機なら1時間15分の距離だ。湿潤パンパ地帯のコルドバ州の州都である。ちなみにコルドバ州は,ブエノス・アイレス州及びサンタフェ州と並び湿潤パンパを形成し,同国を代表する穀倉地帯である。大豆,トウモロコシ,ソルガム,ひまわりが代表的な作物で,コルドバには落花生もみられる。

 

コルドバは,16世紀後半(1573年)ボリビア方面から植民地を拡大してきたスペインン人によって建設された町で,人口は約130万,市の中心にはコロニアル風の美しい建築物が残っている。歴史を感じながら石畳の遊歩道を散歩すれば,一気に1718世紀のヨーロッパが蘇ってくる。なお時を経て2000年には,市内のラ・コンパニア教会,コルドバ大学,モンセラート校,及び近郊のイエズス会私有地跡地がユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 

コルドベス(コルドバ人)は,首都ブエノスより早くに開けた町,アルゼンチン最初の大学もこの地におかれ(コルドバ大学,1613年創立),歴史に残る革命運動もこの地から各地へ波及した,とコルドベス(コルドバ特有の強いアクセントを持ったスペイン語)で誇らしげに語る。故郷を誇りに思う人々が暮らす街でもある。

 

標高400m,年間を通じ快適な気候で自然にも恵まれていることから,定住地と考える人が多い。また,コルドバ西方には森や湖などに囲まれた,昔からの保養地が点在している。例えば,アルタ・グラシア(コルドバの南西39km,標高580m)。革命家チエ・ゲバラは喘息持ちだったため幼少の頃,この地で暮らしていた。また,湖畔の町カルロス・パス(コルドバの西方36km)も保養地として名が知られている。

 

アルゼンチンで暮らすことになった最初の夏,ネストルがやってきた。

「夏休みはどうする?」

「まだ決めてない。仕事の方は大丈夫か」

「仕事は何とかなるさ。この国では誰もがバカシオン(Vacación)に出かける。友達の旅行業者を紹介しよう」

 「どこが,お勧め?」

「カルロス・パスはどうだい・・・」

と言うような会話から,カルロス・パスのロッジに滞在することになった。

 

確かに過ごしやすい気候だったが,23日もすると仕事のことが頭を横切る。ラテンの国に来て4か月,まだまだ日本が抜けきらない最初のバカシオンだった。

 

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マル・デル・プラタ,アルゼンチン最大のビーチリゾート

2012-11-17 16:00:01 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルバムを整理していたら,砂浜で遊ぶ家族の写真が出てきた。

この写真を覚えているかい?」

「マル・デル・プラタだね。あれから何年になるかしら・・・」

大西洋で泳いだ最初の砂浜,そこには日焼けした子供らの姿があった。

 

アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスから南に390km,同国最大のビーチリゾート,マル・デル・プラタMar del Plata)がある。その名は,直訳すれば「銀の海」だが,富(お金)をもたらす「豊漁の海」という意味で名づけられたのだろう。人口54万人,アルゼンチン7番目の都市,同国最大の漁港(セントロから8km)をもつ漁業基地でもある。

 

昔々,ヨーロッパの船乗りが「アルゼンチンのアトランテイス」と呼んだと伝えられる。彼らにとって,果てしなく続く砂浜,果てしなく広がる草原が伝説の島アトランテイスを思い出させたのだろう。今は,高層ビルが建ち,海辺から草原を眺めるわけにはいかないが,その美しさに変わりはない。

 

ブエノス市内のホルヘ・ニューベリー空港からAerolineas ArgentinasAR)など国内航空で55分,眼下に拡がる畑と牧場を眺めているとあっという間の距離だ。長距離バスを利用すると,ターミナルから大西洋岸を走る国道2号に沿って5時間半の道程で目的地に着く。

 

夏になれば(122月)200万人近くの観光客が訪れるという。日中は文庫本でも片手にビーチでの日光浴,涼しくなったら洒落た通りをそぞろ歩いてウインドウショッピング,夜にはレストランで時間をかけた食事,夜が更けたらアルゼンチン最大のカジノで遊ぶも良いだろう。中央のサン・マルテイン広場から海岸へ向かう5ブロックが歩行者天国の商店街,海岸に沿って右に進めばコロン広場,その前にカジノがある。海流の関係で夏でも過ごしやすい。

 

リゾート客が集まるシーズン中は,劇場が開演し,国際会議やサッカーの親善試合もブエノス・アイレスからこの地に移ってくる。3月には,国際映画製作者連盟(FIAPE)公認の「マル・デル・プラタ国際映画祭」(1954年創設)も開催される。ちなみに,映画祭の1959年受賞作はイングマール・ベルイマンの「野いちご」,1960年にはベルンハルト・ヴイッキの「橋」,1968年にはアーサー・ベンの「俺たちに明日はない」,2008年には是枝裕和の「歩いても・・・」が受賞している。

 

一方,賑わいを避けて,誰にも気兼ねせず静かなビーチで過ごしたい,或いはエスタンシア(Estancia)で自然を相手に静かに過ごしたい,という人にはマル・デル・プラタは向かないかも知れない。ここは,ともかく大勢の人がいないと落ち着かないという人向けのリゾート地だ。賑わいがあり,娯楽にも事欠かない。

しかし,そうであっても,多くはブエノス・アイレスの喧騒を忘れようと滞在している人々だから,時はゆっくりと流れる。旅人のあなたも,「郷に入っては郷に従え」で,時計の針を遅らせるがよい。少なくとも1週間から10日間は滞在したいものだ。

 

この他にも南米には,多くのビーチリゾートがある

 

ブラジルではリオ・デ・ジャネイロ南部にボタフォゴ(Botafogo),コパカバーナ(Copacabana),イパネマ(Ipanema),サン・コンハード(Sáo Conrado)海岸などが賑わいをみせている。また,サンタ・カタリーナ州のフロリアノポリス(Florianopolis)は景色の美しさでお勧めである。

 

ウルグアイでは,プンタ・デル・エステ(Punta del Este)が有名だが,モンテビデオの郊外にも洗練された雰囲気のビーチが広がっていて,気楽に訪れることが出来る。太平洋岸のチリでは,ビーニャ・デル・マル(Viña del Mar)が有名。首都サンチアゴの北西120kmにあり,バスで簡単に行ける。

 

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最果ての海峡「ビーグル水道」,鉛色のうねりにオタリアが群れる

2012-08-02 11:04:51 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

ビーグル水道(Canal Beagleは,南アメリカの最南端,フエゴ島(Tierra del Fuego)と,その南側に位置するナバリノ島(Isla Navarino),オストレ島(Isla Ostle)を隔てる全長240km,幅110kmの海峡(水道)で,アルゼンチンとチリの国境になっている。東の端にはチリ領ヌエバ島(Isla Nueva),西の端はチリ領ダーウィン山系がある。

イギリス海軍のビーグル号(帆船)は,一回目の航海(1826-30)でパタゴニアやテイエラ・デル・フエゴの水路調査を行い,二回目の航海(1831-36)では進化論で知られるチャールズ・ダーウィンが乗船して詳細な記録を残しており(ビーグル号航海記),同水道の名前は同船に由来するという(ビーグル号船長の名前もフイッツロイ山として名を留める)。

 

さて,この水道には小さな島や岩礁がいくつかあり,無数のアシカ,ウミウ,ペンギンなどが生息している。これらのコロニーを観察するクルーズがウスアイアから出ているので,20××年1229日船に乗った。

 

観光桟橋を離れ振り返ると,ウスアイアの町が眺望できる。その背後に迫って氷河に削られた険しい姿の山が雪に覆われている。青空も見えるが雲が低い。ここは「最果ての海峡」なのだ。海峡は鉛色にうねり,寂寥感が漂う。

 

クルーズで船が必ず訪れるのは,ロス・ロボス島Isla de Los LobosSea Lions Island)とロス・パハロス島Isla de Los PajarosBirds Island)である。アシカ,ウミウのコロニーが島を区別して占有し,或いは混在してみられるが,その数の多さに圧倒される。船が静かに近づき,観光客はカメラを向ける。岩礁に堆積したウミウの糞(グアノ)が,南極の風に乗って臭ってくる。

 

しばらく進むと,岩礁に赤と白に塗られた小さなエクレルール灯台(Faro les Echleireurs)が目に入る。同性愛の哀愁を描いた香港映画「ブエノス・アイレス」(Happy together,ウオン・カーウアイ監督作品,第50回カンヌ映画祭監督賞受賞)で象徴的に採りあげられた灯台で,「世界の果てを見たい」と旅立った主人公チャンが今も傍に佇んでいるような風情だ。

 

アシカと言えば,水族館の「アシカ・ショー」が思い出されるが,その種類は多く(アシカ科は712種),なかなか区別がつかない。鰭脚類は次のように分類され,此処に生息するのはオタリア(Otaria flavescens)だという(参照:Wikipedia)。

 

1鰭脚類

  1-1セイウチ科

  1-2アザラシ科

  1-3アシカ科

    1-3-1アシカ亜科

     1-3-1-1アシカ属

    1-3-1-1-1カリフォルニアアシカ

    1-3-1-1-2ガラパゴスアシカ

    1-3-1-1-3ニホンアシカ

   1-3-1-2オーストラリアアシカ属

   1-3-1-3ニュージランドアシカ属

   1-3-1-4オタリア属

   1-3-1-5トド属

  1-3-2オットセイ亜科

  

ちなみに,ニホンアシカは唯一日本沿海で繁殖する種類で(アザラシ,トドは冬に回遊してくる),縄文時代の貝塚からも骨が出土しているが皮と油をとるための乱獲が続き,19世紀末から20世紀初めには絶滅に追いやられている。

 

一方,ロス・パハロス島に群棲しているのは,ウミウ(鵜)の仲間である。ビーグル水道には主に5種類のウミウの繁殖地になっているのだという。遠目には黒と白の容姿でペンギンに見間違えたほどだ。

 

人類による乱獲,開発,経済発展のために行った多くの行為は,反面自然を破壊した歴史でもある。「自然を破壊して人類が滅亡した」となるか,「緑が残った,だが人類は滅亡した」となるか・・・調和,持続の意味を,自然の厳しさに触れながらビーグル水道で考えるも良い。

  

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世界の果て国立公園,テイエラ・デル・フエゴ

2012-07-31 11:09:05 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

国立公園は世界に約7,000あるという。国が自然を保護するために制定した管理地で,最初の国立公園は1872年アメリカ合衆国の第18代大統領によって指定されたイエローストーン国立公園である。ヨーロッパでも1909年に最初の国立公園が指定され,20世紀に入ると国立公園制定の動きは世界中に広まった。

南米アルゼンチンには29の国立公園があるが,その中の一つ1960年指定のテイエラ・デル・フエゴ国立公園(Parque Nacional Tierra del Fuegoは,フエゴ島のチリ国境,ウスアイアの西方18kmの所にある。アルゼンチンの中では唯一海岸部の国立公園で,高緯度(南緯5354度)にあることから植生に特徴がある。北西から南東に走る山脈は,アンデス山脈の南端にあたり,標高は10001,500mとそれほど高くはないが険しい自然の姿(森林,湖沼,海岸,氷河)をみせている。いわば,世界最南端に位置する「世界の果て国立公園」である。

 

20××年1229日,ウスアイアから少人数のツアーに参加した。

 

国立公園をトレッキングする前に,蒸気機関車に牽かれた玩具のような観光列車(世界の果て号,Tren del Fin del Mundo)に乗る。スペイン語と英語の説明を聞きながら列車の外を眺める。二十世紀の初め,囚人たちが木材を伐採した後の切り株が残る草原を列車はゆっくり進む(この鉄道自体も1910年,囚人達により建設されたものだと説明が続く)。

 

途中,マカレナで列車は一休み,観光客は列車から降りて写真を撮り,周辺をしばし散策。再び列車は終点まで行き,帰りは真っ直ぐ駅まで戻る。

 

国立公園の詰所からレンジャーが案内につく

「国立公園です。草花,木の葉一枚とて採ることはできません。罰せられます」

手振りよろしく,笑いを誘いながら説明する。

森を抜け,草原を渡り,山を越えて進む。

「パタゴニアは乾燥の土地だが,この島は雨が多く冷たい雨林帯を形成している」

「この木がレンガ(Lenga,ナンキョクブナ,この木が最も多い),風が強いからこのように背が低く,一方になびいた形になるのです。この小さな葉がニイレ(Ñire),ギンド(Guindo)・・・,ビーバーを見ることもありますよ」

「これがカラファテ(メギ科,Calafate, Berberis buxifolia),この実を食べた人はもう一度パタゴニアに戻ってくると言う伝説があるのです。皆さんは食べましたか?」

 

パタゴニアで最も有名な話を,このガイドも語った。棘のある小灌木で黄色の花をつけ,実は熟すると濃い青色でジャムなどに加工される。

 

草原を歩き,小高いブナ林の山を越えると,ロカ湖に出た。波静かなラパタイア湾,ロカ湖は標高ゼロにもかかわらず高原の湖のよう佇まいをみせている。

 

最果ての郵便局で絵ハガキを投函する。国道3号線の終点を示す標識の前で記念撮影。アラスカまで17,848kmの文字が旅の感傷を誘う。ここは国道3号線の終点であると同時に,「パンアメリカンハイウエイ」(Pan-American Highway, Carrentera Panamericana)の終点でもあるのだ。この道路を歩いていけば,いつかアラスカにたどり着くのだ,空想を掻き立てる。

 

ちなみに,パンアメリカンハイウエイの整備構想が最初に提唱されたのは,1923年の米州国際会議であったという。構想を受けてパンアメリカンハイウエイ会議が設置され,道路整備とネットワーク化が進められた。アメリカ大陸を縦断する幹線道路構想である。

アラスカ州のフェアバンクスを起点に,北米大陸西岸から中西部を通りメキシコから中米に抜け,南米大陸の西海岸を南下しサンチアゴからアンデス山脈を横断してブエノスアイレス,さらにそこから南下して大陸南端のテイエラ・デル・フエゴに至る(実際には,単一の路線ではなく道路網)。ハイウエイの全長は約48,000kmとの記載もあるが(WikipediaBuritannica1977),両都市間を緯度と経度で計算したところ約15,000kmであった。

このハイウエイはナスカの地上絵を横切っている(地上絵が破壊されている),熱帯雨林や原住民保護の上で支障を来たしたとの意見もある。開発と自然保護のバランスはどうあるべきか,人類は常に問われている。

 

30分ほどの軽いトレッキングであったが,心地よい疲労感を覚えた。世界の果てで自然に遊ぶ体験が,長い人生の中で一度はあっても良いだろう。思い出に残る旅だ。

 

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世界最南端の町,ウスアイア(Ushuaia),哀愁を感じる町だ

2012-07-28 12:20:11 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

地球儀を廻して南アメリカ大陸を南端まで辿ると,マゼラン海峡(Estrecho de Magallanes),ビーグル水道(Canal Beagle),大西洋に囲まれたフエゴ島(Tierra de fuego)が目に入る。

フエゴ島は,マゼランが1520年の航海中に断崖の暗闇に揺れる火をみて(先住民の松明だった),火の大地(Tierra de fuego)と呼んだことに由来する名前の島で,広さは約48,000km2あり,四国と同じくらいの大きさである(東半分がアルゼンチン,西半分がチリ領)。

ウスアイア市は,このフエゴ島アルゼンチン領(テイエラ・デ・フエゴ洲)の州都で,ビーグル水道に面し後背地の山が海に迫る地形に張り付くようにある。南緯5448分,一年を通じ冷涼で風が強く,年平均気温が5.0℃,夏でも最高気温が15℃に達しない気候である。ブエノス・アイレス(BsAs)から3,250km離れており,南極点から1,000kmとむしろ南極に近い。

 

20××1228日,この町を訪れた。

 

ブエノス・アイレスのホルヘ・ニューベリー空港を1220分に発ち,トレレウ(Trelew)に立ち寄り,ウスアイアには17時に到着。眼下に広がる乾燥したパタゴニア曠野と一直線に延びる道路だけの風景が途切れ,フエゴ島に近づくと霧をまとった森林が見えてくる。ホッとした気持ちになる森林限界の風景だ。

 

だが,空港に降り立つと気温は4℃,雲は低く,夏だというのに雪がうっすらと残っている。最果ての地に降り立った高揚感はあるものの,自然は容赦ない荒々しさで迎えてくれた。

タクシーで山の上のホテル・デル・グラシアルに入る。良いホテルだ。エントランスホールに暖炉が置かれている。

 

ウスアイアと言う名前は,イギリスからの入植者が付けた名前であると言うが,ヨーロッパ人が入植する以前は先住民が住んでいた。モンゴロイド(黄色人種)である。20万年前アフリカに誕生した人類ホモ・サピエンスが,アジアからベーリング海峡を越え,アラスカからアメリカ大陸を南下し(5万キロの旅,グレイト・ジャーニー),南米の最南端に到達するのは15千年前のことであった。

最南端の地に立つと,時を越えた人類のロマンを否が応でも感じざるを得ない。「何故,こんな処まで・・・」。風の大地をもう一度眺めた。

 

その昔,イギリスがオーストラリアを流刑地にしたように,アルゼンチン政府はBsAsから遠く離れたこの島に凶悪犯を収容する刑務所を作った。囚人たちは,山から木を伐りだし,道路を作り,線路を敷き,街を造るのに駆り出されたのである。そして,ウスアイアが出来上がった。このような囚人による開拓は決して珍しいことではない。ローマ時代にも,シベリアでも,八丈島でも,北海道開拓の歴史にも記録されているではないか。

 

一方,この島から北東450500kmの大西洋上にはフォークランド諸島(マルビナス諸島)がある。とても近いことに気付く。1982年イギリスとアルゼンチンは島の領有権を巡って争った。いわゆるフォークランド紛争(マルビナス戦争)である。アルゼンチン軍の攻撃によりイギリスは多数の艦船と乗組員を失ったが,イギリス軍は最終的に揚陸作戦で勝利を収めた。この紛争は3か月ほどで終わったが,イギリスではサッチャー首相の人気が上昇し,アルゼンチンでは政権の混乱と民主化の流れを産んだ。

 

日本は,アメリカやEC諸国からの要請にもかかわらず最後まで禁輸措置を取らなかったが(ちょうどこの時,筆者はJICAのプロジェクトでアルゼンチンに派遣されていた),一方国連の場ではアルゼンチンの撤退勧告に賛成票を投ずるなど,アルゼンチン側を非難した立場をとっていた。

その後1990年になってから,両国は外交関係を回復しているが,イギリスの地図にはFalkland Islands,アルゼンチンの地図にはIslas Malvinasと表記されているように,現在も自国の領有権主張を取り下げてはいない。領土とはそういうものだ。

 

さて,夕食をとるため坂道を下り街に出てみよう。海岸沿いにマイプー通りが走り,その一本山側のサン・マルテイン通りがこの市のメイン・ストリートになっている。商店やレストランなど主要な建物はこの通りを中心にある。

人口は6万人。訪れたこの時期は夏のシーズンで,海外からの観光客で賑わっていた。ビーグル水道に面するウスアイア湾観光桟橋から南極クルーズも出ている。

 

「明日は,テイエラ・デ・フエゴ国立公園に行こうか,ビーグル水道クルーズに参加しようか?」

旅行会社のオフイスを訪れた。

「午前に国立公園ツアー,午後にビーグル水道クルーズはいかが?」

OK,そのコースにしよう」

「ホテルでお待ちください。明朝7時にピックアップします」

「グラシアス,・・・アスタ・マニヤーナ!」

 

午後8時を過ぎても太陽は沈まず,11時頃まで空は白々としていた。

外は明るいけど,明日は早いからもう寝ようBuenas noches, Hasta mañana!

 

 

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南米チリに渡った最初の日本人(旅の記録-バルパライソ)

2012-04-07 10:54:40 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

チリの首都サンチアゴ・ターミナルから,68号線に沿って山並みを眺めながらバスに揺られること約2時間,バルパライソに着く。この町はサンチアゴに次ぐ第二の都市であるが,ターミナルやその周辺の店舗は南米独特の雑然さが漂よい,旅行者も自然と溶け込める雰囲気がある。

案内書によれば,バルパライソは歴史ある都で,サンチアゴの海の玄関としての役割を果たしてきた。現在も漁業と貿易が盛んである。1991年には国会議事堂がこの地に移され,2003年には街全体がユネスコ世界遺産に登録された。港周辺とセントロだけが平地で,それらを取り囲むように丘が迫っている。その中腹にも家々が張り付いている。絵になる街だ。

ターミナル前の公衆トイレで用を済ませ,同行者と相談する。

「何処へ行こうか?」

「何も計画していなかったの?」

「いや,そう言うわけでもない。じゃあ,近くの国会議事堂を見て,港までブラブラ歩こう。途中で,アセソールを使い丘に登って,「青空美術館」を見よう。港に着く頃,ちょっと遅い昼食だ」

「歩ける距離なの?」

3km位とガイドブックにある。疲れたらタクシーを拾えばいいさ」

チリ国会議事堂をオイギンス広場から眺めて,ペドロ・モン通りを進み,バルパライソ教会のあるビクトリア広場で休憩する。公園の木陰ではチエスを楽しむ老人たち,子供用のレンタル自転車屋が見える。

近くのアセソールで丘に上る。小さな年代物のゴンドラが,ガタゴトとゆっくり上がって行く。ちょうど老婦人と子供が乗り合わせた。

高台から街を見下ろす。トタンを張った屋根や壁は色とりどりに彩色されている。モルタルの壁にはペンキ画が描かれている。チリを代表する作家の習作もあるという。良い眺めだ。写真に収める。旅人を対象にした小物を売る店がいくつかあり,覗いてみる。

「帰りは,歩いて下りよう」

九十九折の石段を下り始める。小さな家々が小径に面している。決して裕福とは言えない町並みで,崖の中腹に張り付くように建っている。窓辺に鉢植えの植物が飾られ,洗濯物が干してある。婦人たちの話し声が聞こえる。

「スプレーの落書きが多い。何を考えているのだろう」

「何処の国の落書きも,よく似ている感じだね。同じ人が書いたわけでもないのに」

「おやおや,犬の糞が多い。気をつけて」

「ブエノス・アイレスのエビータが眠るレコレータ墓地の周りと同じだね。野良犬が多いのか,飼い主のモラルの問題か,日本は大分良くなったけど」

セントロに下りて港を目指す。コンデル通りから,エストレラーダ通り,プラト通りを進む。壁は黒ずんでいるが,彫刻で装飾された建物が歴史を感じさせる。

「排気ガスがすごいね」

「古い車が多いし,ビルの谷間だからね」

「まだ着かないの?」

「ちょっと聞いてみよう。ペルミッソ・セニョール,ドンデ・エスタ・・・パラ・イル・ア・・・」

「グラシアス・セニョール,ムイ・アマブレ・・・その先を右折した所だって・・・」

ソトマジョール広場からプラト埠頭に出て,港が眺められるレストランに入る。かなり混雑していたが席を確保できた。魚のムニエルとセルベッサを注文する。港では荷物の積み下ろし中の貨物船,観光遊覧船が停泊している。遠くに軍艦が数隻。ここは軍港でもあるのだ。

 

チリに上陸した最初の日本人を知っているかい?」

ジョン万次郎がバルパライソに立ち寄ったと聞いたことがあるわ。この港なのね」

「それは,1850年(嘉永34月のことだ。ただ,子孫の中浜博は万次郎が寄港したのはバルパライソでなく,南部のタルカウアノ港であったと訂正しているがね。これより8年前の1842年(天保13)頃,メキシコからチリへ渡った3人の漂流民がいたらしいと,熊田忠雄は書いているよ」

「どんな話なの?」

「播磨の商船栄寿丸が1841年(天保12)房総沖で難破し,100日以上漂流していたところをスペインの密貿易船エンサヨ号に救助され,船中で働かされていたが,カリフォルニア半島先端のサン・ルーカス岬に着いたのちに逃亡を図り,カリフォルニア湾に面するマサトラン(9人)とグアイマス(4人)で暮らしていたということだ。この内グアイアスにいた3人(南部出身の善蔵,明石の岩松,能登の勘次郎)が,いつのまにか姿を消したという。暫くしてからメキシコの仲間へ手紙が届き,メキシコから海路50日ほど南の「ハチバラエ」で家庭を持って暮らしていると書いてあったそうだ」

「それがバルパライソなの?」

「その後メキシコから帰国した乗組員が幕府役人の取り調べに「ワキバライン」「ワギパライソ」と答えている。多分バルパライソのことだろう・・・と書いている」(熊田忠雄「そこに日本人がいた」新潮文庫

「江戸時代のことなのね」

さらにその後日談があって,チリ政府の1875年(明治8)国勢調査に,サンチアゴ北方の町ユキンボに一人,サンチアゴ南方の町タルカに一人の日本人が住んでいるとの記録が初めて出てくる。名前も年齢も記録にないが,先のバルパライソに落ち着いたうちの二人かも知れないという」

「鎖国時代だから,祖国に帰ることも出来ず,この地で暮らすことにしたのね」

「バルパライソ(天国のような谷)というだけあって,住みやすそうな町だね」

難破→漂流→奴隷(労働者)としてメキシコにたどり着き,その後チリやペルーに移動し,南米に暮らすことになった日本人が存在しただろうことは想像に難くない。170年前,人知れずこの地バルパライソに暮らしていた日本人は何を考えていたのだろうか。太平洋に沈む赤い夕陽に望郷の思いが募ったに違いない。

その後,日本がチリと国交を樹立するのは1987年(明治30)。硝石ブームに沸くチリへ一攫千金を夢見て渡った人も多かったと思われる。ブラジル,ペルー,パラグアイなど農業移民を積極的に受け入れた国と違って,チリは個人の意思に基づく自由移民であった。そんな中で,太田長三(東洋汽船),仙田平助(千田紹介)らはチリ在住邦人の先駆けとして名前が知られている。

     

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詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ(旅の記録-バルパライソ)

2012-03-25 17:17:53 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

ネルーダの別荘(現在博物館)を訪れる

カストロとともにキューバ革命を成し遂げ,革命の時代を駆け抜けたヒューマニスト,エルネスト・ゲバラ。彼に関する著作は多い。その中の一冊,「チエ・ゲバラの遥かな旅(戸井十月著,集英社)」には,パブロ・ネルーダの詩が7か所引用されている。

最初は,アルゼンチンのロサリオで生まれたゲバラが,コルドバで中等教育を受けていた頃,スペイン内戦をテーマにしたネルーダの詩に深い感銘を受け心酔する件で。二回目は,アルベルト・グラナダスとの南米旅行の途中,チリ北部のチュキカマタ銅山でアメリカ資本による収益収奪の状況を目の当たりにしたとき。三回目は,この旅の途中マチュピチュの遺跡に立った折に。

 

四回目の引用は,革命に揺れるボリビアで民衆のエネルギーを体に感じながら。五回目は,グアテマラで「ユナイテッド・フルーツ社」が広大な土地,鉄道,港湾,船舶,電信電話を占有している状況に触れ,アメリカ資本に甘い蜜を吸い取られ枯渇してゆくガテマラをみた時。六回目は,キューバでアメリカによる国交断絶,爆撃を受けた時。七回目は,ボリビアでのゲリラ戦で捕虜になった最終場面においてである。

 

著者は,ゲバラの人生の節目にネルーダの詩を配し,ネルーダの詩が革命家ゲバラの気持ちを支えていたことを述べたかったのだろう。事実,ゲバラ自身もネルーダの影響を受けた詩を作っている。ネルーダの詩がゲバラの夢を勇気づけていたことに間違いあるまい。

 

さて,そのパブロ・ネルーダは1904年生まれ,ゲバラより24歳上である。ネルーダは,チリの国民的英雄であり詩人であり外交官であった。1934年外交官としてスペインに赴任したときスペイン内戦に遭い,人民戦線を支援。1945年上院議員。1948年共産党が非合法化されたためイタリアへ亡命。1970年アジェンデ社会主義政権の下で駐仏大使。1971年ノーベル文学賞。1972年ガンを発病しチリに帰国。1973年ピノチエットのクーデターでアジェンデ政権が滅ぶと,軍事政権により家を壊滅的に破壊されている。クーデター後危篤状態で病院に向かう途中,軍の検問で救急車から引きずり出され,病院に着いたときは死亡していたとされる(20115月になって,チリ共産党は「毒殺」の疑いありとして控訴裁判所へ告訴状を提出した)。

 

ネルーダは,ファシズムに対して,詩をもってヒューマニズムを訴え続け,身をもって抵抗した英雄詩人と称される。ノーベル文学賞の受賞理由に「一国の運命と多くの人々の夢に生気を与える源泉となった,力強い詩的作品に対して文学賞を贈る」と述べられているという。彼の詩には,比喩のうまさが卓越してみられ,自然の美しさが詠われている。

 

2007年,チリのバルパライソ,ベジャビスタの丘にあるネルーダの別荘(現在博物館,写真)を訪れた。5階建ての建物には,書斎,寝室,居間などがそのまま残されており,窓からは港が眺められる。入り口にはハカランダの花が咲いていた。詩集を抱えた旅人,老夫婦などが,しばしの時を過ごしている。映画「郵便配達人」の舞台として使われたので,その場面を大事に思い出しているのかもしれない。ゲバラの夢を支えたネルーダの詩を口ずさんでみるのも良い。

 

バルパライソはチリの首都サンチアゴから120km,バスの本数も多いので日帰り可能。もう一度訪れたい町である(写真)。

 

 

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パンパ平原を札幌生まれのガウチョが駈ける,「宇野悟郎氏」

2012-02-16 14:12:54 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

アルゼンチンのひと-2

手元に緑のカバーが付いた小冊子がある宇野悟郎著「アルゼンチン移民私史,パンパ平原をガウチョが行く」(イースト・ウエスト・パブリケーションズ,1980)である。伊藤清蔵博士の紹介記事をまとめながら,思い出してこの冊子を読み返した。

 

著者,宇野悟郎氏は伊藤清蔵博士のアルゼンチン「富士牧場」で牧童生活をおくり,後に「トレボール牧場」で博士の共同経営者を務めた北海道人である。札幌生まれの宇野悟郎氏は,アルゼンチンのパンパ平原を駆け回ったただ一人の日本人ガウチョであった。彼は,何故アルゼンチンに渡ったのか? 伊藤博士の牧場で働くことになった経緯は? 実際のガウチョ生活は? 彼の歩みを辿ってみたくなるではないか,サムライ・ガウチョの人生を。

 

宇野悟郎氏は,1905年(明治38)札幌市豊平生まれ,徳島中学を卒業(祖先は徳島出身),1年間の志願兵を経て1927年(昭和2),長姉ふみ子の夫である阿部忠一氏(北海道帝国大学農学士)の尽力で伊藤清蔵博士に対する佐藤昌介総長の紹介状を胸に,マニラ丸でアルゼンチンへ渡航。伊藤清蔵博士の「富士牧場」でガウチョ生活4年,その後1933-1941年(昭和8-16)は「トレボール牧場」共同経営,第二次世界大戦の終盤から戦後にかけて1943-1962年(昭和18-29)ブエノス・アイレスで鞣皮工場経営,その後帰国して「カンテイーナ」経営など活躍。

 

宇野悟郎著「アルゼンチン移民私史,パンパ平原をガウチョが行く」には,パンパの自然,ガウチョの生活,孤独と郷愁に耐えた実体験が語られている。また,隅々から伊藤清蔵博士に対する敬慕の気持ちが次第に募って行く様が伝わってくる。アルゼンチンで,実際にガウチョとなった体験を語れるのは,彼をおいてないだろうと思わせる話しが続く。

 

さて,アルゼンチンへの最初の移住者は1886年(明治19)の牧野金蔵とされる。伊藤清蔵博士も1910年(明治43)であるから早い方である。コーヒー園の夢を抱いてブラジルへ移住した移民第一陣が契約上のトラブルで集団脱走し,169人がアルゼンチンへ再移住する騒ぎがあったが,これも初期の時代。アルゼンチンへの移住は,いわゆる「呼び寄せ」移住が主体であった。

 

アルゼンチンは,既にヨーロッパからの移住者が肥沃な土地を占有しており,新たに入ることになった日系移住者等は,ブラジルに隣接するアルゼンチン北限の地ミシオネス州で農業に従事する者,ブエノス・アイレス近郊(Escobar)で花きや野菜栽培を行う者,都会での洗濯業等々,夢は大きかったが苦労も多かったと考えられる。そのような中,先駆者たちの尽力によって邦人の基盤は徐々に築かれて行く。

 

私がアルゼンチンに暮らしたのは30年以上も昔になるが(1978-1980年),既にエスコバール市は日系人によるカーネーション栽培など名をあげ「花の都」と呼ばれていたし,日系人の勤勉さと正直さは彼の国の誰もが尊敬の念をもって認めるところであった。参画したプロジェクトは「大豆の育種研究」,アルゼンチンに対する最初の技術協力であったため,大使館やJICA事務所,在アルゼンチン日本人会の皆さんに多くのご支援を賜った。

 

当時の在アルゼンチン日本人会会長は宇野文平氏(北大医学部卒)で,ブエノス・アイレスに出たときなどお世話になった。帰国後にもお会いする機会が一度だけあったが,何と彼は,宇野悟郎氏の甥だという(後で知った)。ご兄弟の中で遠くアルゼンチンまで出かけたのは悟郎氏一人だけだが,甥の文平氏は医学者としてアルゼンチンに渡り,結婚してブエノス・アイレスに移住し活躍されていた。さらに,北海道人はご存知の方が多いと思うが,悟郎氏の兄秀次郎氏は北海道議会議員から衆議院議員,眞平氏は長らく北海道議会議員。宇野一族の中には,新しいことにチャレンジしようとする逞しいパイオニア精神が脈打っていたのだろう。

 

冊子には,若き日の宇野悟郎氏の写真が掲載されている。貴公子然としていて,とてもガウチョとは思えない。船旅の中で映画俳優に間違えられたとのエピソードがあるが,然もありなん。

 

Boys, Be ambitious! パンパ平原に,彼の声がこだまする。そして,どこからともなく聞こえてくる「・・・雁はるばる沈みてゆけば,羊群声なく牧舎に帰り・・・」と。

 

 

 

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