豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

パラグアイ神話の主人公

2013-06-26 17:12:15 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

先住民グアラニーは多くの神話を伝承してきた

今でもパラグアイのママたちは,

「さあ,シエスタ(昼寝)の時間ですよ。ジャシ・ジャテレ* がいるから外に出ては駄目,静かにシエスタしましょう」

「一人で遠くまで行ったらいけません。ジャシ・ジャテレ* に森につれて行かれますよ」

と,妖怪を引き合いにして悪戯を戒めている。

 

ジャシ・ジャテレ*Jasyjatere、Yasí-Yateréは,グアラニーの神タウとケラナの子供の一人で,ウエーブがかかった金髪の裸の子供の姿をしていて,鳥の鳴き声に似た口笛を吹きステッキを鳴らしながら昼休みの時間に一人で彷徨い,子供たちをおびき寄せ森に連れて行く。連れて行かれた子供たちは,惚けてしまい耳や口が聞こえなくなってしまう1)そうだ。 ところで,タウ(Tau)は悪の心を持つ神,ケラナ(Kerana)は並外れて美しい眠りの女神とされる。彼らには,先のジャシ・ジャテレを含め7人の子供があり,それぞれが神話の主人公として語られる1)

1番目:テジュ・ジャグア(Tejú-jaguá

2番目:ボイ・トウイ(Mboi-tuí

3番目:モニャイ(Moñai

4番目:ジャシ・ジャテレ*Jasyjatere、Yasí-yateré*

5番目:クルピ(El kurupí

6番目:アオ・アオ(Ao-ao

7番目:ルイソン(Luison

 

例えば,テジュ・ジャグア(Tejú-jaguá

Tejú-jaguá: Personaje mitológico con cuerpo de lagorto y cabeza de perroNataria Krivoshein y Fericiano A. Alcaraz編辞典;トカゲの胴体とイヌの頭をもった神話上の人物,モンスター),これは辞書の説明。手元の資料1)を要約すれば,洞窟の主で,果物と果樹の守り神。夜行性で夜になると狂暴になり恐ろしいうなり声をあげる。草食にもかかわらず,夜道を歩いている人間を捕まえては食べてしまうと言う。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「テジュ・ジャグア」)

 

例えば,ボイ・トウイ(Mboi-tui

Mboi-tui : Ser mitológico, enorme animal con cuerpo de reptile y cabeza de loroNataria Krivoshein y Fericiano A. Alcaraz編辞典;爬虫類の胴とオウムの頭をもった巨大な神話上の動物)。胴体は巨大なヘビで,サソリのような毒を出すしっぽと,オウムのような嘴をもっている。大きな沼に住み,林や草の中で目立たず,果物だけを食べ,消して姿を見せない。水生動物,両生動物,霧,露,花の守り神1)。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「ボイ・トウイ」)

 

例えば,クルピ(El kurupí

El kurupí : Ser mitológico, protector de bosques y animals silvestres, raptor de mujeres y niñosOlga Troxler Vda.編辞典;森と野生動物の守護神,女性と子供の誘拐者,神話上の存在)。森に住み,滅多に姿を見せない。背が低く,醜く,黒い目,日焼けした黒い肌,髪は黒く真っ直ぐ伸びている。好色家で巨大な男根を体に巻きつけている(辞書には神話博物館由来の挿絵がある)。

受胎の守護神でもあり,豊穣,恵みの雨の神でもある。クルピが牛の腹に触ると双子の子牛が生まれ,クルピが休んだところのマンジョカ(キャッサバ)やバタタ(サツマイモ)は見間違うほど大きくなったと言う。

 森の守護神であるクルピは,必要以上に木を切り倒して森を破壊する人々には罰を与え,人々は道に迷い永遠に森を彷徨い続けることになるのだと言う。クルピの足が反対を向いているのは,彼を捕まえようとする人間から逃れるためだとされる1)。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「クルピ」)

参照アスンシオン民芸店で入手した説明文(3枚のペーパー,出典不詳)を参照した。原典を確認していない。 

 

 

 

追記2023.12.26

*匿名さん(2023.12.25)から、ジャシ・ジャテレ(Jasyjatere、Yasí-Yateré)についてコメントを頂きました。有難うございます。

本文は参照資料の訳文(日本語)をそのまま引用ししましたが、グアラニー語では「ジャス・ジャテレ」と発音するとのご指摘です。

また、この資料では「Yasí-Yateré」となっていますが(西語表記したものでしょう)、辞典にあるように「Jasyjatere」を使った方が良いと思います。

参考までに、「Gran Diccionario Guarani-Espanol」TEA S.R.L.2004 の「Jasyjatere」項目ページを引用させて頂きます。

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バルサ,中南米原産の世界で最も軽い木

2013-06-20 18:23:13 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の樹-6

アスンシオン市パルマ通りの民芸店で,片隅に置かれた素朴な木彫りの置物が目に入った。先住民グアラニーの誰かが慰みに作ったような荒削りの人形(?)で,美しいという訳ではないが,ただ「変わっているなあ」と,その造形に目を引かれた。

手に取ってみると,フワッと持ち上がった。その瞬間,「おや・・?」と言う顔をしたのだろう,店員が間髪を入れず,

バルサですよ」と微笑んだ。

「そうだね,軽いわけだ。ところで,これは何ですか?」

「グアラニーの神話に出てくる妖怪(多分そう言った)クルピですよ。森の神で・・・」

と長い説明が続いたが,旅人の語学力では理解半ばで終わってしまった。その人形(写真)は現在,拙宅の玄関脇に鎮座している。

 

◆中南米原産,「筏」 に使われた

バルサ(BalsaOchroma lagopusOchroma pyramidale,日本でもバルサと呼ばれる)は,模型飛行機の材に使われることからその名前を知ってはいたが,南米熱帯地域から中米地域が原産であることは知らなかった。

「ポリネシア人は南米・中米から移住した」「中米の古代文明ではバルサ材の筏で遠洋航海を行っていた」という仮説を証明するため,ヘイエルダールがペルーから東ポリネシアまでの8,000kmをコンテイキ号で航海した話を皆様もご存知だろう。この筏の材料となったのがバルサ材であるという。

 

この史実から推察されるように,先住民はバルサ材の特性を活かして筏を造っていた。実は,この「バルサ」はスペイン語で「筏」の意味も持っている。

バルサ材は,軽くて加工しやすく重量に比べ強度が大きいことから,プラスチックやカーボン繊維が発達する以前の20世紀前半には,建築材,映画セット,航空機,船の浮き,サーフボードなどに広く使われた歴史がある。世界一軽い木と言われる。

 

分類学上は,アオイ目(Malvales)パンヤ科(Bombacaceae)バルサ属(Ochroma)バルサ種(O. lagopus)とされ,一属一種である。生長が早く,樹高1030m,幹径6090cmに達する。葉は単葉で幅1535cm,長さ1540cmと大きい。花は白く68月に開花し,910月に結実する(参照:Arvores BrasileirasInstituto Plantarum de Estudos da Flora Ltda.)。

 

◆世界で最も軽い木

木材の軽重は比重で示すのが一般的である。自然乾燥させた場合の気乾比重は,例えば,バルサ0.27,キリ0.30,スギ0.38,ヒノキ0.44,カラマツ0.50,ケヤキ0.69,シラカシ0.83,イスノキ0.90,リグナムバイタ1.28などで,1.00以上は水に沈む理屈である。

ただ,気乾比重は測定場所の湿度条件で変わるので,全乾比重(乾燥機で完全に乾燥させた)で比べてみよう。全乾比重の値は,世界で一番軽い木バルサで0.10,日本で一番軽いキリ0.26,日本で一番重いイスノキ0.85,世界で一番重い木はリグナムバイタ1.23だという(参照:日本木材情報センター「木net」)。

 

残念ながら,中南米を旅してバルサの樹を観た記憶はない。或いは,認識しなかっただけかもしれない。バルサで思い出すのは民芸店での会話だけだ

Img_4236web 

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グアラニー語,言葉は民族のアイデンテイテイー

2013-06-19 17:59:33 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイでは,先住民グアラニーが使っていたグアラニー語が,スペイン語と共に公用語になっている。同国民の約90%はグアラニー語を解し,地方に行くとグアラニー語しか通じない集落さえ現に存在する。新大陸の殆ど全てが旧ヨーロッパ宗主国の言語(スペイン語,ポルトガル語,英語など)に替わってしまった中で,このような事例は珍しいことだ。

同国に暮らしていた頃よく体験したことだが,仲間同士の挨拶やテレレを飲みながらの打ち解けた日常会話はグアラニー語で,改まった話題になるとスペイン語に替えるのが普通だった。例えば,私が「Buenos días」と声を掛けると,グアラニーで話していても直ぐにスペイン語に替わるのである。ある朝,グアラニー語で「Mba’éichapa((ン)バエイシャパ,Hola! que tal?)」と入って行ったら,彼らは今まで見せたこともないような笑顔になって声高に「Iporá Mba’éichapa!(イポラ (ン)バエイシャパ)」と返してきた。

 

スペイン人とインデイヘーナの混血が進みメステイーソが大勢(人口の96%と言われる)となった現在でも,スペイン語ではなくグアラニー語を誇らしげに喋る。民族のアイデンテイテイーを意識しているのかも知れない。グアラニー語がこのように残ったのは,先住民を辺鄙な地に排除せず混血が進んだこと,イエズス会の布教による協働集落の形成,鎖国の時代など歴史的背景が影響しているからだろうか。

 

だが,グアラニー語が書き言葉になったのは比較的最近のことらしい。発音をラテン表記に準じて記述しているが,アクセント文字や鼻音が多い。

「グアラニー語は日本語に似ている」と彼らは言う。

「どこが?」と尋ねる。

「ジュビア(雨の西語)のことをアメ(日本語)と言うだろう」と,カシアノが応える。

「おお,確かにそうだ。ガラニー語でもアメなのか?」

 

Diccionario Guarani-EspañolÑe ÉryruAvañe é -Karaiñe é,グアラニー・西語辞典)によれば,llubia=amaとある。「ama」と表記されるが,発音は「アメ(雨)」に重なるのだろうか。日本語に結び付けるのはかなり無理な気もするが,先祖は人類5万キロの旅の末裔でコロンブス以降の住人ではないと言いたいのだろうか。

 

北海道にアイヌ語由来の地名があるように,パラグアイにはグアラニー語地名が多い。

イグアスの滝で知られるイグアスはグアラニー語でイ(Y)=水(川),グアス(guasu)=壮大な,の意味から「大いなる水」と理解できる。

Recuerdos de Ypacarai(イパカライの想い出)で歌われるウパカライ(湖)は,グアラニー語でウ(Y)=水,カライ(Karai)=洗礼の意味から「洗礼の(洗礼を受けた)水」と言うことになろう。彼らがこのロマンチックな名曲に涙するのも頷ける。

パラグアイ国にピラポという日系移住地があるが,その住所イタプア県は「隆起した岩山のある所(陽が昇る岩山のある所)」,ピラポ市はピラ=魚,ポ=手の意味から「魚が手づかみできるほど多い場所」と言うことになろうか。

 

日系移住者の皆さんも日本語を大事にしている。言葉は民族のidentityなのだ


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「むーべる」,小さな親睦会の機関誌

2013-06-15 12:01:32 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

上川農業試験場に,「むーべる会」と言う名の職員親睦会があった(今もあると思う)。会員相互の親睦,福祉及び健康をはかり生活を豊かにすることを目的に,歓送迎会,リクレーション,慶弔見舞金の贈与,会誌発行等の事業を行うと会則に謳っていた。「むーべる」とは何だ? と聞いたら,「飲む」「食べる」の合成語だと誰かが応えた(「駄弁る」だったかもしれない・・・)。名は体を表すと言うが,まあ楽しい集まりだった。

 

同様の職員親睦会は十勝農業試験場にもあり,こちらは「緑親会」と言った。「緑親会」の発足は嶋山〇(金偏に甲)二氏によれば昭和13年とあるから(十勝野2号),「むーべる会」の発足も恐らくその頃のことであろう。これら親睦会は,発足から戦後しばらくの間は時代背景もあり福利厚生に重きを置いていたようだが,昭和4050年代になると親睦行事が盛んに行われるようになっていた。

 

 

ある時,砂田さんが酒の席で,

「上川農試でも親睦会の機関誌を出すことにした。緑親会の「十勝野」を参考にして・・・」

と話しかけてきた。小生が「十勝野」創刊に関っていた(昭和44年度幹事)ことを知っていて,仁義を切ったつもりだったのだろうか。「むーべる」と名付けられた親睦会機関誌の創刊は昭和46年のことである。

 

機関誌には親睦会行事の記録,記事のほかOBからの寄稿もあった。誌の性格上,誰もが肩ひじ張らずに書いているので,

「彼奴はこんな趣味があったのか」

「洒落た文章を書く奴だ,見直した・・・」

と,感心したり微笑んだりした。試験成績や事務文書など形式に拘って書く日常から解き放たれた機関誌の紙面には,会員の素顔が現れていた。

また,OBからの寄稿文には,試験場移転や研究遍歴などの裏情報が愛情を込めて語られており,貴重な資料として残るものであった(公的な年報や事業報告書に書けない記録が刻まれた意味は大きい)。

 

試験場を離れて久しいので,「むーべる」の発刊が継続されているか否か知らない。手元に残された「むーべる」(2630号)を書棚から取り出し,埃を払ってページをめくってみた。若い頃の生きざまが蘇ってきて懐かしい。

新聞の発行部数が減少し,雑誌が廃刊に追い込まれるなど,紙文化の衰退が進んでいる昨今ではあるが,小さな組織の小さな機関誌は存続してほしいものだ。

 

ちなみに,小生が「むーべる会」会員だったのは2年間だったが(士別時代は準会員),前後を含め下記の拙文が紙面を汚している。それにしても,青臭く生真面目に書いているなあ・・・。これも,今から十数年前,二十世紀末の時代意識と捉えてもらえるなら(当時の空気を感じて貰えるなら),まあ良いか。と恥ずかしながら添付する(略)。

 

K1個人の行動」むーべる26,15-161997

K2「農民に愛され信頼される(巻頭言)」むーべる28,1-21998

K3「育種・人との出会い(新入会員の挨拶)」むーべる28,67-691998

K4 「フレキシブルに,迅速に,そして専門性を総合化(巻頭言)」むーべる29,1-21999

K5「パラグアイ国から今日は(旧会員からの寄稿)」むーべる30,3-52000

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歴史に名を残せるか?「私の大豆品種たち」

2013-06-05 10:57:41 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

農業試験場に入ってからの二十数年間は専ら大豆新品種開発の仕事をしていた。いわゆる「育種屋」と呼ばれる仕事柄,研究職と言っても終日圃場に出て大豆の栽培管理をしながら,多くの育種材料を観察,調査,選抜淘汰するのが日課であった。また,冬には収穫した大豆の脱穀作業や子実の分析評価を行い,1月の試験成績会議や3月の設計会議に向けた資料作りに追われる日々であった。

振り返ってみると,幸運なことに21品種の育成者として名を連ねている。

この中には,交配から選抜評価を一貫して担当した「ヒメユタカ」「キタコマチ」「キタホマレ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「カリユタカ」「大袖の舞」のような品種,グループとして一部分の選抜に関わった品種,アルゼンチンとパラグアイで行った技術協力の一環として育成された品種が含まれ,関与の度合いはそれぞれ異なる。だが,どの品種もその姿(特性)や選抜途中のエピソードが目に浮かんで来るほど懐かしいものばかりだ。

 

もちろん,新品種は育種家グループや関係者の総合力によって誕生するもので,個人の成果品ではないが,育成の苦労を偲ぶ権利は個々人に残されていよう。

 

01 大豆「キタムスメ」(1968):耐冷性,褐目中粒

02 大豆「ヒメユタカ」(1976):白目大粒,良質

03 大豆「キタコマチ」(1978):早生,白目中粒

04 大豆「キタホマレ」(1980):耐冷性,多収,褐目大粒

05 大豆「スズヒメ」(1980):極小粒納豆用,線虫抵抗性極強

06 大豆「Carcaraña INTA」(1980):良質多収,アルゼンチン初の国産登録品種

07 大豆「トカチクロ」(1984):中生,光黒大豆

08 大豆「トヨムスメ」(1985):白目大粒,良質多収,線虫抵抗性強

09 大豆「トヨコマチ」(1988):中生の早,白目中粒,線虫抵抗性強

10 大豆「カリユタカ」(1991):難裂莢性,コンバイン収穫向き,白目中粒

11 大豆「大袖の舞」(1992):白目大粒あお豆,線虫抵抗性

12 小豆「アケノワセ」(1992):早生,初の落葉病・茎疫病抵抗性

13 大豆「トヨホマレ」(1994):耐冷性,白目中粒

14 大豆「ハヤヒカリ」(1998):耐冷性,コンバイン収穫向き,褐目中粒

15 大豆「ユキホマレ」(2001):早生,耐冷性,線虫抵抗性,コンバイン収穫向き,白目中粒

16 大豆「CRIA-2 Don Rufo」(2002):早生,カンクロ病抵抗性,多収,パラグアイ登録品種

17 大豆「CRIA-3 Pua-e」(2002):早生,カンクロ病抵抗性,多収,パラグアイ登録品種

18 大豆「ユキシズカ」(2003):極小粒納豆用,線虫抵抗性強,難裂莢性

19 大豆「CRIA-4 Guaraní」(2005):早生,カンクロ病抵抗性,密植適応性大,パラグアイ登録品種

20 大豆「CRIA-5 Marangatú」(2005):早生,カンクロ病抵抗性,多収,早播適応性大,パラグアイ登録品種

21 大豆「CRIA-6 Yjhovy」(2008):中生の早,同国初のシスト線虫(レース3)抵抗性,パラグアイ登録品種

 

ところで,品種の評価は生産現場でどれだけ活躍したかで決まる。活躍の尺度は,一般には普及面積で測られるが,新規性である場合もある。

上記育成品種について直近40年間の普及面積を別添の表に示した(添付:「育成品種と普及面積)ので,ご覧いただきたい。

北海道全体の大豆作付面積は,この間6,70026,000haの範囲で推移しているが,「キタムスメ」「キタコマチ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」は基幹品種となり,いずれも5,000haを超えて作付けされた。中でも,「キタムスメ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」は息長く栽培されている。さらに最近は,「ユキホマレ」「ユキシズカ」の人気が高まっている。

 

大豆は,大粒白目,中粒白目,中粒褐目,納豆小粒,黒大豆,あお大豆に分類され流通し,それぞれの特性にあった製品加工がなされる(中小業者が多数存在する)。また,大豆は気温や日長など気象条件に敏感であるため栽培適地が限定され,品種は他の畑作物より多数必要になる。したがって,品種ごとの普及シエアが北海道全体の50%を超えることは滅多にない。そう考えると,基幹品種になった上記の品種たちは良く頑張ったと言えるのではあるまいか。

 

ここで,北海道大豆の代表選手,時代を背負った品種を整理しておこう。

「十勝長葉」時代(1949-1954)→「北見白」時代(1960-1970)→「トヨスズ」時代(1970-1981)→「キタムスメ」「キタコマチ」時代(1980-1987)→「トヨムスメ」「トヨコマチ」時代(1988-2005)→「ユキホマレ」時代(2006-現在)と言えようか。

 

一方,先駆けとなったことに意味を持つ品種もある。

例えば,「カリユタカ」はわが国最初のコンバイン収穫向き品種,「大袖の舞」は初めての線虫抵抗性あお豆,「Carcaraña INTA」はアルゼンチン初の国産登録品種・・・等々である。これらも育種上の意義は大きい。

 

なお,海外では品種ごとのデータがないので普及面積を示さなかった。技術協力が終了した後も育種事業は自主推進され,多くの新品種が誕生したとの情報がある。喜ばしいことだ。

しかし,海外の国々では最近とみに遺伝子組換え品種が拡大して,当時の品種は消えつつあるという・・・。

 

 

 

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