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恵庭の古道-9、元禄・宝暦絵図に見る「シコツ越え」道

2024-02-26 15:46:04 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

シコツ越え

明治6年(1873)に札幌本道が開通する以前、石狩(西蝦夷地)と勇払(東蝦夷地)を結ぶ内陸道は「シコツ越え」と呼ばれた。江戸時代末期には勇払場所請負人山田文右衛門らの尽力で荷馬車が通れるよう整備されたが、当初はイシカリから石狩川、千歳川を丸木舟で遡り、シコツ(千歳)を越えて再び美々川から舟を利用しアヅマに至る道筋だった。

「シコツ越え」道の様子は、「夷諺俗話」「蝦夷日記」「東海参譚」「西蝦夷地日記」「東行漫筆」「再航蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」「観国録」「蝦夷地巡回日記」「協和私役」「入北記」などによって垣間見ることが出来る。

本稿では、伊能忠敬が蝦夷地太平洋沿岸を測量(第一次測量)した寛政12年(1800)より100年前の絵図「元禄御国絵図中松前蝦夷図」、及び50年前の「飛騨屋久兵衛石狩伐木図」(宝暦)に描かれた「シコツ越え」道を辿ってみよう。今から遡ること220年前の道である。

写真は「元禄国絵図」(北海道大学北方資料データベース)から

1.元禄御国絵図中松前蝦夷図(元禄郷帳附図)

元禄国絵図は、元禄9年(1696)幕府によって作成が命ぜられ、同15年までにほぼ全国分が完成したと言われる。その中のひとつ「松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」は元禄13年(1700)に作成された手書彩色 83×65cmの軸物。松前藩が幕府に提出した蝦夷地図である。

北大北方資料館が所蔵する当絵図は、東大図書館旧蔵原図(大正12年関東大震災で焼失)からの縮小模写図(大正7年)を借写したものとされるが、状態悪く閲覧不可となっている。この「元禄御国絵図中松前蝦夷図(元禄郷帳附図)」を昭和44年に模写したものが「元禄国絵図」(手書彩色 79×64cm)。北海道大学北方資料データベースで精細画像を見ることが出来る。

◆元禄国絵図に見る蝦夷地

絵図には「蝦夷地」と「からふと嶋」が描かれているが、絵図を見ただけでは北海道と想像できないほど、現在の形とはかけ離れている。海岸線に地名が記入されているが内陸部は空白。道南以外の相対面積が極めて小さい形だ。つい最近まで、函館人が森町以北を奥地と呼んでいたように、この時代の蝦夷地は南部の箱館、松前、江差が中心であった。

絵図には、文禄13年松前志摩守の署名、村数83ヶ所、蝦夷人居所140ヶ所、田地高無し等の記載がある。箱館から松前、江差、熊石までの海岸線沿いに朱線で描かれているのが道路だろう。その他の海岸線に道路はなく、いわゆる奥地へは船を利用する時代であった。

蝦夷地の中央部に大きな湖(沼)が描かれているのが目につく。内陸部に唯一描かれた朱線がこの沼を横切り、イシカリ~アヅマを結んでいる。これが「シコツ越え」道であろう。

◆元禄国絵図に見る「シコツ越え」道

絵図を拡大して「シコツ越え」道の道筋を辿ってみよう。

イシカリから石狩川を舟で遡る。ツイシカリ(対雁、江別市)で千歳川に入ると両側にシママップ(島松)、ツウメン(祝梅)等の地名がある。千歳川は四里四方と書かれた大きな浅い沼に到達する。この沼にはユウバリ川が注いでいるが、地形から見て後のオサツトー(長都沼)、マオイトー(馬追沼)となる沼地であろう。沼の傍にイチャリ(漁)、ヲサツ(長都)の地名がある。

この沼を舟で横断してから、陸路でツウサン(ろうさん、千歳市)、シコツ(支笏)、アツイシ(桂木)を越え、ヌマカシラ(植内)の沼に至る。この沼は美々川が注ぐウトナイ湖の辺り。更に、沼から川筋を下れば勇払川となり太平洋に至る。河口にはアヅマ(厚真)、イブリ(胆振)の名前がある。なお、現在の地図に重ねると、陸路は千歳川沿いの千歳市桂木から千歳神社、千歳空港内、美沢川を通り、美々川に至る2里の道程であったと推定される。

元禄年間の「シコツ越え」道は上記のように、舟~陸路~舟で結ばれていた。

写真は「元禄国絵図」一部(北海道大学北方資料データベース)から

2.飛騨屋久兵衛石狩伐木図(宝暦)

この絵図は、飛驒国出身の材木商飛驒屋久兵衛がイシカリ山の伐木を一手に請負った時の絵図と言われる(北海道大学北方資料データベース。手書彩色 107×90cm 軸物、武川久郎氏所蔵図の模写。要申請)。

絵図の左下に「享保十三戊申年ヨリ宝暦九己卯年マテ唐檜山一手請負伐出之場所」の説明がついているが、飛驒屋がイザリ川の上流空沼岳東山麓など石狩の山林でエゾ松の伐採を始めたのは宝暦年間(1751-63)のことなので、この絵図は宝暦年間の状況と考えられる。

絵図には、石狩川本流・支流、背後の山々とともに木材伐採場所が描かれている。朱線が道路で「山方道」と「川流シ道」の2種類があった。「山方道」は秈夫や人夫が荷物を背負って入山した道だろう。道路脇には「十文字小屋」「コメ倉」「中小屋」「秈小屋」「コメセホイ小屋」など作業関連施設が置かれている。一方、「川流し道」は木材を流送する河川に沿って作られ、「留場所」「イカダ繫場所」が示され小さな集落もある。写真は「飛騨屋久兵衛石狩伐木図」(北海道大学北方資料データベース)。

新札幌市史第1巻通史1を引用する。

・・・「山方道」の方は、ハッサム川を渡ったところで「川流シ道」と分かれ、サッポロ川に沿って遡り、「ヲシヨシ川(精進川か)」の手前で右から順に「アブ田道」、「米セホイ道」、「シコツ道」の三本に分かれる。一番右の「アブタ道」は、サッポロ川に沿って「テング山」方向に伸び、中央の「米セホイ道」は、「ヲシヨシ川」と「マコマ内川」の中間を通ってイザリ川上流へと出る。また、一番左の「シコツ道」は、「ヲシヨシ川」と平行して進み、「イザリ夷村」付近でイザリ川を横切り、さらにシコツ川を横切って、「ユウブツ」、「シコツ海」すなわち太平洋岸へとつながっている・・・

・・・一方、「川流シ道」の方は、エベツ川を遡り、シママップ川、イザリ川を遡って、シコツ山麓辺の「伐出場所」に通じている。伐出場所付近には元小屋、釜小屋、杣小屋(そまごや)、持子小屋、カジ小屋がみられ、「山方道」の途中の要所要所には、米セホイ小屋、米蔵、柾小屋などもある。また、「川流シ道」のエベツ川のイシカリ川への合流点には、「留場所」があって人家が集まっているように描かれており、その下流には「イカダ繫道」があって、河口の「木場」へと通じている・・・

本絵図の「シコツ道」が「シコツ越え」道であるとみて良いだろう。即ち、イシカリ(石狩)から石狩川、サッポロ川(豊平川)に沿って遡り、さらにヲシヨシ川(精進川か)沿いに進み、イザリ夷村付近でイザリ川(漁川)を横切り、さらにシコツ川(千歳川)を横切って、ユウブツ(勇払)、シコツ海(太平洋)岸へ至る経路である。

この時代、森林伐採作業のため道ができ人々の往来も増加した。「シコツ越え」道も川を遡る道(川の道)に加え陸路が可能になったと推察される。

 

参照1)新恵庭市史通史編2022、2)新札幌市史第1巻通史1、3)北海道大学北方資料データベース

*飛騨屋久兵衛については、拙ブログ2023.5.16「恵庭の歴史びと-1 飛騨屋久兵衛」を参照されたい。

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