豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の彫像-17, 中野五一「二宮金治郎」像が恵庭市郷土資料館にあった

2017-10-24 17:58:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成29年(20179月の或る日,恵庭市郷土資料館主催の「歴史の道散策」に参加した。川と道の駅花ロード恵庭から松園通りを歩き,郷土資料館,開拓記念公園,恵庭中央地区の歴史を巡り,漁川堤防を帰るコースである。

その時,郷土資料館の大林さんから「郷土資料館の金治郎像を確認したら中野五一の作品でした」と伺い,見せて頂いた(写真)。

実は,恵庭開拓記念公園「二宮尊徳幼年時の像(二口大然復元)」の原型作家が中野五一であるとの記録があり,その実物がどこかにあるはずだと考えていたので興味深く写真に収めた。恵庭市郷土資料館の展示室にある像が原型作品なのか確認できないが,作者の署名は間違いなく「五一」である。郷土資料館に保管された経緯は明らかでないが,当館所蔵の事実を考えれば二口大然復元の原型像かも知れない。

 

因みに,恵庭開拓記念公園「二宮尊徳幼年時の像(復元)」台座には,施主:元松園校遺跡保存事業期成会,銅像企画施行:株式会社エコー商事,原型作家:二口大然,制作:金次銅器株式会社,礎石:恵庭石材工業,昭和54年(19798月竣工とある。

また,「松園校記念碑」に記された復元の由来及び「恵庭史」によれば,昭和11年松園小学校同窓会総会において尊徳像の建立を決し,札幌市円山小学校にあった「草鞋を捧げ持つ幼年時の二宮金次郎像を見学後,同像の制作者である小樽出身の彫塑家中野五一に依頼,同窓生の労資奉仕もあって昭和13年ブロンズ製の金次郎像を建立したのが最初である。昭和17年国策の金属回収に応じ解体して代替え品の硬化石像を建立したが風化甚だしく,昭和54年青銅の原型に復元したとある。

作者の中野五一は明治30年(1897)富山県高岡生まれ。小樽に移住し小樽商業高校卒。小樽では大正5年(1916)に三浦善治が開設した「小樽洋画研究所」で学ぶ。大正5年(1920)頃上京し,小倉右一郎に師事。大正から昭和初期,彫刻を建築や公共の場に取り入れようと活動した美術団体「構造社」会員。北見に疎開していた縁なのか,北見市内には数点の彫像が残されている。戦後は日展会員,北方美術協会会員。昭和53年(1978)逝去。

中野五一の主な作品は以下のとおり。

「二宮金治郎の像」(小樽稲穂小学校,小樽色内小学校,札幌円山小学校):草履を売り歩く金治郎像。色内小学校は平成28年(19163月閉校。

「クロフオードの像」(小樽市総合博物館エントランス):「北海道鉄道の父」と称されるアメリカ人技師ジョセフ・クロフォードの肖像。

「奏楽女人像」(北見市緑ヶ丘霊園)

「虎視」(北海道近代美術館)

「伊谷半次郎像」(北見市屯田公園):公選初代の北見市長,近江出身の像。

「前田駒次翁之像」(北見市屯田公園):坂本龍馬の甥である坂本直寛によって組織化された移民団北光社の農場管理人。高知県生まれ、浦臼の武市農場の指導者として北海道に渡り,その後北光社農場の指導者として112戸の移民とともに野付牛(現北見市、訓子府町)に入植。北見開拓の父と称えられる。

「鳩を持つ少女」(北網圏北見文化センター美術館):幼い頃の長女がモデル。戦後市内に建立された「平和の塔」の頂を飾っていた。この塔はかつて忠魂碑で,形が砲弾に似ていたことから軍国主義賞賛と言われないように取り付けてあったと言われる。

「松浦武四郎蝦夷地探検隊」(釧路市幣舞公園):阿寒国立公園観光協会が1958年(昭33)有志の寄付をもとに建立。

「遠藤熊吉翁之像」(網走市郷土博物館):遠藤熊吉は大正11年,北海道庁立網走中学校(現,網走南ヶ丘高校)創設にあたり校舎建築費の全額を寄付した。

その他,「壺を持つ少女」「寒山像」など。

なお,薪を背負った二宮金治郎のルーツは,尊徳の弟子富田高慶が著した「報徳記」の記述「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」を元に書かれた幸田露伴「二宮尊徳翁」の挿絵だと言われる。そして,明治43年(1910)彫金家「岡崎雪聲」によって最初の二宮金次郎像が作られ,これが金次郎像の原型になったと考えられている。そして驚くことに,日本各地の金次郎像はどれもこれも原型(薪を背負い,読書しながら歩いている)そっくりである。昭和の時代どこの小学校前庭にもあった姿である。

草履を売り歩く金治郎像は,幼少の頃に草鞋を編んで金を稼ぎ,暮らしの足しにしたとの逸話に基づくものだろう。また、この姿は「金次郎が12歳の頃、病気の父に代わって酒匂川の土手普請に出たが、一人前の仕事が出来ないので申し訳なく思い、夜なべに草履を作り困っている人に配った」との故事に因んだものとも言われている。小樽稲穂小学校,小樽色内小学校,札幌円山小学校,恵庭松園小学校に草履を売り歩く姿の金治郎像が確認され,いずれも中野五一作と伝えられていることから,この姿は中野五一のオリジナルと考えて良いかも知れない。

参照:拙著「私の恵庭散歩(1)恵庭の彫像」2017,拙ブログ2014.10.9

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵庭の彫像-16 恵庭島松小学校「よい子・つよい子」像の修復

2017-10-14 17:10:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

千歳民報のY記者から「表記彫像の修復がなりました」と,掲載記事をご送付頂いた。修復を進めた関係者のご尽力に敬意を表するとともに,「よい子・つよい子」像が修復されたことを喜ばしく思う。「よい子・つよい子」像は島松小学校のシンボルとして,これからもずっと子供たちの成長を見守り続けることだろう。

写真は,千歳民報(20171012日)の誌面を複写した。

拙著「私の恵庭散歩(1)恵庭の彫像」について,Y記者の取材を受けたことがあり,本彫刻について,①著名な彫刻家「坂 坦道」の初期作品が恵庭に存在すること,②彫像は,長い年月を経て崩壊寸前にあり,補修・保全対策が必要な状況にあることを述べ,島松小学校・同窓会等関係者は修理に向け模索されていると思うが,修復が進むことを期待したい,と話したのを記憶されていたのだろう。Y記者の心遣いに感謝したい。

なお,本彫像については,本ブログの20161210日記事<恵庭の彫像-15,「坂 坦道」初期作品が恵庭にあった,島松小学校「よい子・つよい子像」>に掲載されているので,興味のある方はご覧ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする