豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

ルーベン・シコラの水彩画(Ruben Sykora)、パラグアイ

2020-05-04 13:05:30 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

ルーベン・シコラの水彩画

拙宅にパラグアイで入手した二枚の絵がある。一枚はピンクのラパチョを描いた水彩画、もう一枚はルーベン・シコラの水彩画である。

◇ラパチョ(水彩画)
エンカルナシオンで暮らしていた頃のことである。国道6号線を45kmほど行ったところ、ベジャ・ビスタ市の手前に雰囲気の良いレストランがあり、週末にはしばしば食事に訪れた。名前は「パピヨン、Papillón(仏語で蝶)」、レストランとシュラスケリア(焼肉)の看板が出ていた。レストランに繋がってホールがあり、中庭に面したホテルの部屋は樹々に囲まれていた。レストランはドイツ系らしい若い夫婦が切り盛りしており、豚肉や鶏肉を野菜と煮込んだ田舎料理もメニューにあった。
レストランの白い壁には何枚もの絵が飾られ、地元画家の絵を展示販売しているように見えた。もしかしたら、オーナーの作品だったのかもしれない。桜の花のようなラパチョが咲く風景画、田舎の景色が多かった。記念に一枚買って帰ろうという話になり、妻が選んだのがこの小品である。サインはあるが、画家の名前は分からない。聞いたかもしれないが記憶にない。値段も覚えていないが、その場で買えたので高価なものではなかったろう。
素人画家の上手な水彩画と言った感じだが、パラグアイの懐かしい風景を思い出させてくれる一枚である。玄関脇に飾ってある。

◇ルーベン・シコラの水彩画
帰国が決まった時、家主の清美さんから頂いた。黄色の花が満開なラパチョが3本、その開花を喜ぶように大勢の人々が踊っている。開拓前のパラグアイは自然豊かで、人も動物も植物も、誰もが春の訪れに欣喜雀躍する。ファンタジーと現実が織りなすハーモニーを感じる芸術性高い一枚。
浅学にしてルーベン・シコラの名前を知らなかったが、同封のパンフレットやネット情報によれば、パラグアイ国エンカルナシオン市生まれの造形画家。会計学と行政学の学位を持つが、独学で絵を学び25年のキャリアを有する。造形画、油絵、水彩画、セラミック彫刻、壁画、本のイラストでも活躍。アルゼンチン、ブラジル、ドミニカ、米国、ドイツ、日本、トルコ、台湾、ポルトガルなどで展示会に出品。
彼の画風は独特なファンタジックの世界とでも言えようか。グアラニー族が主役であった当時のパラグアイは、広大な亜熱帯雨林、湿地帯が広がっていて、人々は自然の中で動物や鳥や魚たちと共存していた。朝日が昇り、鳥たちがさえずる一日があり、夕方には太陽は地平線に静かに沈んで行く。ルーベン・シコラはそのような自然を深く愛し、自分自身をその中に反映させようと思っているのではないか。そして、自然を大切にしようと呼びかけているのではあるまいか。芸術性を感じる、味わい深い一枚である。

  (Ruben Sykora のパンフレット表紙)

◇アルゼンチンの画家、キンケラ・マルティン
アルゼンチンで暮らした頃、アルゼンチン・タンゴ発祥の地と呼ばれるボカ地区のカミニートをたびたび訪れた。この地区は昔、ヨーロッパからの船が行き来する港町として栄え、移住してきた貧しいイタリア系移民たちが暮らしたカラフルな家々が保存されている。この貧しいエリアで、労働者たちが楽しんだのが「タンゴ」の音楽であり、ダンスであったと言う。
この地区にあるキンケラ・マルティン・ボカ美術館を訪れるのも楽しみのひとつであった。キンケラ・マルティンはアルゼンチンでよく知られる画家。ブエノス・アイレスで捨て子として修道女に発見され、6歳で養子に出され、14歳からボカ地区の夜間美術学校に通い才能が見だされ、画家として活躍する。原色の力強い筆致で描いたボカ地区の風景、港で働く労働者の作品が多い。晩年には篤志家としても知られる。
彼の絵がプリントされた絵皿を一枚購入したが、帰路の途中で一部欠けてしまった。そんなことも、今は懐かしい。

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アルパとボトル・ダンス

2020-04-25 13:02:41 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイで暮らした頃のことである。パーテイの余興に楽団を呼ぶことが多かった。プロジェクトの修了式典後のパーテイでは、プロの楽団と民族衣装を身にまとった踊り手たちがボトル・ダンスで場を盛り上げ、最後は参加者たちがダンスに興じた。また、結婚式や個人のパーテイでもアルパやギター奏者を招き、客をもてなすことが多かった。演奏は誰もが親しめるフォークローレ、楽器はギターとアルパが主だった。アルパの生演奏を初めて聞いたが、豊かな響きがとても印象的だった。
エンカルナシオンのような小さな町にも、パーテイを手助けする業者が数軒あった。パーテイ―の規模を連絡して手配を頼むと、開始時刻前にテーブルとイスを運び込み、テーブルにクロスを掛け、皿にグラス、ナイフにフォークまで並べる。注文に応じて部屋をデコレートし、飲み物や料理、モッソ(給仕)にアサドール(肉を焼く人)まで手配する。これがパラグアイ式と言うものかと、その時思った(一方、小規模のパーテイでは通常ホストが肉を焼き料理を準備する)。

◇アルパ
アルパ(Arpa、ハープ)はパラグアイの代表的な楽器である。親指・人差し指・中指・薬指を使い、爪で弾くように演奏する。左手でベース、右手でメロデイを奏でると言うが、弾いたことはない。弦は通常36本でハープの47本よりは少ない。共鳴箱が大きいので、豊かな響きを奏でる。
当地で、アルパの代表曲に「鐘つき鳥Pajaro Campana」と言う曲がある、楽譜が無く口伝えで教えられる、日本人奏者としてルシア塩満が知られているなど教えられた。日本でも大勢のアルパ奏者が活躍するようになったが、殆どが女性であるのはなぜなのだろうか。パラグアイでは男性の奏者が多かったのに。

◇ボトル・ダンス
パラグアイの伝統舞踊Danza de la Botella。晴れやかな民族衣装を着けた女性ダンサーが頭に瓶を乗せたまま、音楽に合わせ身体を動かし姿を作って踊る。動き回るだけでなく、開脚や床に横たわるなど高度な技術も見せる。脚立に乗った男性に瓶を重ねてもらいながら踊り続け、十数個の瓶を重ねることが可能なダンサーもいる。
かつてパラグアイでは、川から水を運ぶのが女性の仕事だったが、水の入った甕を頭に乗せて運んだことに由来すると言う。頭に荷物を乗せて運ぶ習慣は世界中のどこにもあるものだと感じ入った。伊豆の大島でも、アフリカでも頭に乗せて運ぶ姿を見た。二本足直立歩行の人間が安定して物を運ぶ姿なのだろうか。近年パラグアイでは、姿勢が良くなるようにと女の子にボトル・ダンスを習わせる親が増えていると言う。
因みに、ボトル・ダンスをネットで検索すると、もう一つ、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の一場面が出てくる。ハッシデイズム教徒(ユダヤ教超正統派)が長くて黒いジャケットに黒のシルクハット姿で、瓶を頭に踊る映像である。こちらのボトル・ダンスには、ユダヤ人排斥の時代背景が反映されている。

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南米で和食を御馳走する

2020-04-23 13:47:23 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米のレストランと言えば、アサード(焼肉)など肉料理を出す店が主体だが、海岸国チリでは魚料理を看板にしている店も多い。次いで、パスタやピザの店が多く、中華料理店は大抵どこの町でも見かける。一方、日本料理店の数は少ない。
だが近年、南米で和食が静かなブームになっている。日本料理には「栄養バランスに優れた健康的な食生活」のイメージが強いのだろう。肉や炭水化物を主食とする南米の食習慣は肥満や心臓病などを起こしやすく、健康寿命も短い。WHO(2018)によれば日本の健康寿命は世界2位75歳であるが、これに対しチリ32位70歳、アルゼンチン41位68歳、ブラジル78位66歳、パラグアイ89位65歳である(世界149国平均63歳。アフリカ諸国はさらに低く、貧困や医療水準が影響している)。
三十余年ぶりに訪れたブエノス・アイレスでは日本料理の看板をよく見かけた。「えっ? これが日本料理・・・」と言うような店も多いが、客は結構入っている。また、リブレリア(本屋)店頭に日本食レシピの本が並んでいる。手に取ってみると、大豆のレシピを紹介する本が多い。日本食材イコール大豆製品のイメージがあるのか、或いは南米の主要農産物となった大豆の利用促進を図る意図があるのか。南米の大豆は油糧作物として取引されているが、食品利用の道が拓ければ意義あることだ。
パラグアイで暮らした頃、大豆食品の価値を知ってもらおうとパラグアイの友人に度々大豆料理を振舞った。最初は興味津々ながら躊躇して箸をつけるが、多くの人が美味しいと喜んで食べた。その時、栄養がどうのこうのと蘊蓄を述べるのは野暮なので、冊子を発刊した経緯がある。思い出の一つである。

◇南米で豆腐をつくる
西語版7ページの冊子(写真)。著者はDr. Takehiko Tsuchiya y Lic. Mazae Sato、タイトルは「Manual Proceso de elaboracion del Queso de soja(豆腐の製造マニュアル)」、2003年刊。
豆腐の製造工程(材料、用具、洗浄、浸漬、粉砕、生呉を絞る、豆乳を温める、凝固剤を入れる、豆腐箱に流し込む、重しを載せる、など一連の工程)を、14枚の写真入りで説明。豆腐料理10品のレシピが付されている。
当時のパラグアイCRIA大豆研究室の仲間たちと一緒に、研修寮の台所を借りて豆腐作りに挑戦した時の記録である。美味しい「ケソ・デ・ソハ(Queso de soja、大豆チーズの意)」が出来上がった。早速、豆腐に醤油を一滴、冷奴で試食したら美味、好評だった。

 

◇大豆の栄養価と食べ方を紹介する
西語版64ページの冊子(写真)。著者はDr. Takehiko Tsuchiya、タイトルは「Soja - Sabrosa, Nutritiva, Saludable(大豆―美味しく、栄養があり、健康に良い)」、2007年刊。理解し易いように、本文には多数のカラー写真を付した。内容をご理解頂くために、序文、目次の概要を引用する。


*序文(抄訳)
・・・東アジアでは、大豆及び大豆製品が、栄養価の高い食品源として数世紀にわたって利用されて来ました。日本でも、大豆食品や調味料(豆腐、納豆、味噌、醤油など)が古くから利用されています。日本人が歴史的に享受してきた健康は、大豆によるところが大きいといえるのではないでしょうか。また、近年、食品の第三次機能に関する研究が進み、大豆が良質の蛋白質と脂質に富むだけでなく、血液中のコレステロールを減らし、血圧を下げ、脂質の酸化を抑え、成人病や老化防止に役立つ可能性があると注目されています。大豆、コメ、魚を中心とした日本型食生活の良さは、ガン、心臓病など栄養の過剰による問題に悩む欧米諸国の注目の的になっています。
・・・一方、大豆の蛋白質生産効率は多くの食品素材の中でも最も高いので、世界の人口が年間1億人ずつ増加し地球規模の食糧難が危惧される状況下で、大豆は近い将来の食糧難に備えて最も重要な食糧資源になるだろうと指摘されています。本書では、大豆の食品としての価値、豆腐と納豆などの作り方、美味しい料理の作り方を紹介します。パラグアイでは、毎年600万トンの大豆が生産され、ほとんどが油を絞るため海外へ輸出されますが、食品としての活用を図ることも是非進めてほしいと考えるからです。食品用大豆の開発、さらには機能性を高めた付加価値の高い大豆生産が、パラグアイ大豆生産、販売を有利に展開することになるだろうと確信するものです。
家の周辺に遺伝子組み換えでない大豆品種を有機栽培(或いは低農薬栽培)し食用に使えば、栄養補給と健康増進に役立ちます。有機栽培で生産された食用大豆を求めているヨーロッパや日本の消費者は、食用大豆が安定生産されるようになったパラグアイに熱い目を向けるでしょう。本書が健康を指向する多くの皆さんの参考になり、大豆を食べようという機運が高まれば幸いです。また、パラグアイの経済発展のために、大豆に付加価値をつけようと模索している方々が本書からヒントを見つけて下さることを期待します。
なお、本書のスペイン語訳は佐藤昌枝さんに負うところが大きく、日本食が大好きなAnibal Morel YurenkaやCRIAの仲間たちがスペイン語訳に協力してくれました。お礼申し上げます。また、日本食のレシピについては、佐藤昌枝さんとパラグアイへ一緒に来ている妻の韶子が考え、料理し、皆で試食しました。彼女たちの協力がなければ、本書は完成しなかったでしょう。
*目次
第1章 大豆の成分
1.大豆は良質な蛋白質源、必須アミノ酸を満遍なく含む
2.大豆の脂肪には、体に良いリノール酸がたっぷり
3.大豆の炭水化物は、食物繊維とオリゴ糖が主役
4.総合栄養剤のような大豆のビタミン・ミネラル
5.大豆成分の効果―第3の機能
*がんやエイズ抑制に期待される大豆サポニン
*レシチンは動脈硬化や痴呆を予防する
*更年期障害の予防、老化防止、骨粗しょう症に効果のイソフラボン
第2章 バラエテイに富んだ大豆食品
1.大豆食品は大ファミリー
2.大豆食品の代表選手、豆腐と納豆
3.種類が豊富な大豆食品
4.発酵食品の白眉、しょうゆと味噌
5.用途が広がる、大豆油と蛋白製品
第3章 家庭で出来る大豆の健康料理
1.豆腐の作り方とレシピ
2.納豆の作り方とレシピ
3.きな粉の作り方とレシピ
4.豆乳の作り方とレシピ
5.味噌の作り方とレシピ
6.枝豆、もやしの作り方とレシピ
引用文献

(写真はパラグアイの大豆製品、きな粉は除く)

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チリのお土産

2020-04-20 12:57:11 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米パラグアイに暮らしていた頃のことであるが、チリを四回訪れる機会があった。一回目は2000年暮れから翌年正月にかけて、アルゼンチン南部パタゴニアの氷河を巡ったのちカラファテから国境越えのバスでチリのプエルト・ナタレスに入り、プエルト・モン、サンチアゴを訪れた旅(チリ滞在6日)。二回目は2002年の1月、サンチアゴ経由でイースター島を訪れた旅(チリ滞在7日)。三回目はアルゼンチンのメンドーサからサンチアゴに入り、北部のアリカ、パルパライソを訪れた旅であった(チリ滞在8日)。四回目は2007年9月メキシコ旅行の帰りにサンチアゴに滞在した(チリ滞在3日)。
 チリ共和国は南北に細長い(約4630km)国土で、当然のことながら気象条件は大きく異なる。北部は降水量が少なく砂漠が広がり、南部は雨もあり火山と湖水の多い美しい地方、そして一年中氷に覆われているパタゴニア地方に三大別される。また、東は高いアンデス山脈が連なり、西は太平洋に面しているので海流の影響を受ける。気象や景観が変化に富み印象的である。同時に、それぞれの都市が旅人に歴史の匂いを感じさせる何かがある。旧市街地を歩くと特にその印象が強かった。
旅の思い出にと購入した品が、いくつか手元にあるが購入した時の印象はそれほど強いものでない。代表的なものは、チリワイン、銅製品、ラビスラズリであろうか。

◇チリワイン
日本でもチリワインの愛好家が増えている。味は本格的だし、何しろコスト・パフォーマンスが高い。国内どこの店でも安価に手に入るようになった。
チリワインの歴史は比較的新しく、19世紀フランスのブドウ栽培が害虫フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)で壊滅的な被害を受けたとき、ワイン醸造に適したフランスの苗木がチリで保持されたことに由来する。ヨーロッパからブドウ栽培のためチリへ移住した人々が、アンデス山系の雪解け水を利用してワイン製造を行い、今やチリはワイン主要生産国の一つとなった。チリは、フンボルト海流の影響で涼しい海風が吹き比較的涼しい気候にも係わらず日照時間が長く、上質ワイン生産のために好条件だとされる。カベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、カルメネールなどの品種が栽培され、ボデーガの数は多い。チリとアルゼンチンでは、旅の途中で美味しいワインを味わう機会が多かった。

◇銅製品とラピスラズリ
チリは銅生産量世界一である(年間550-570万トン)。この量は世界総生産の約27%を占め、中国、ペルー、米国の140-170万トンを大きく引き離している。銀の生産量も1,500トンで世界5位。製造加工技術も優れており、空港の売店でも銅製品、銅細工・銀細工の品々を買うことが出来る。
一方、チリの宝石としてはラピスラズリ (lapis lazuli)が知られている。ラピスラズリ は和名で瑠璃(るり)と言う。深い青色から藍色で、しばしば黄鉄鋼の粒を含んで夜空に星の輝きのごとく見える。鉱物としては、ラズライト(青金石)を主成分とし、同グループの方ソーダ石、藍方石など複数の鉱物が加わったもの。古代から宝石として、顔料ウルトラマリンの原料として珍重されていた。

◇その他
チリの北部はボリビア、ペルーに接しているので、原住民の手によるリャマ、アルパカ毛織物製品が土産物として売られている。また、南部パタゴニアではペンギンの、イースター島ではモアイの置物などが代表的なものであろうか。

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アルゼンチンの国鳥「オルネーロ」(カマドドリ)

2020-04-19 15:18:28 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

アルゼンチンで暮らした頃のことである。牧柵や電柱の上などに泥で作った鳥の巣を見かけた。最初は鳥の巣と思わなかったが、友人が「アルゼンチンの国鳥オルネーロだ」と言う。オルネーロとはスペイン語のオルノ(Horno、かまど、オーブン)に由来し、「かまどを作る鳥」の意味らしい。人々はスペイン語で「オルネーロ(Hornero)」、巣の事を「オルネーロの家(Casa de ornero)」と親しみを込めて呼んでいる。また、Dutch ovenに似た巣の形に由来して、英語ではOven-bird、日本語ではカマドドリと呼ぶようになった。

スズメ目カマドドリ科の鳥類は中央アメリカ、南アメリカ全域に300種以上棲息すると言われるが、アルゼンチンの国鳥となっているのは「セアカカマドドリFurnarius rufus」である。全長20センチに満たない華奢な体つきで、喉元は白っぽいが、頭から背にかけて赤褐色をしている。雌雄ほぼ同色であるが、雄の方がやや大きく色も濃い。鳴き声はキッキキッキキキキ・・・とかなり喧しい。
雨期の12月から翌年の2月にかけて、雨で柔らかくなった粘土と草を混ぜて、長さ約30センチ、幅約20センチ、高さ約25センチ、厚さは4センチ位の竈(かまど)の形をした巣を雌雄が協働でつくり、産卵、子育てをする。巣は風雨にさらされても2~3年は壊れないほど丈夫だが、毎年新しい巣を作る。丈夫な古い巣は他の鳥に利用されることが多いようだ。巣の頑丈さは土壌が粘土質である性質による。当時、アルゼンチンで大豆や野菜の種子を播いた経験があるが、雨が降るとぬかるむ土壌は、乾くと表面がカチカチになり全く発芽しないことがあった。なるほど、オルネーロの巣も硬いわけだ。
オルネーロは、人間をあまり怖がらず町の近くに住んでいること、一度つがいになると生涯添い遂げること、夫婦仲が良く協働で巣作り子育てに励み、囀りも夫婦の合唱と仲が良いこと、竈づくりに見られるように働き者であることが好まれ、国鳥に選ばれたのかもしれない。

本間義久さんから寄贈を受けた「右巻きの朝顔、地球の裏側ネイチャーウオッチング」新風舎2007年刊を開くと、オルネーロの観察記録がある。とても面白い。
例えば著者は、当地の人々が「巣の入口は南向きには作らない」と言う言葉を聞いて、「南からトルメンタと呼ばれる寒い風が吹くからだろう」と推測するが、果たしてそうなのかと考える。そして、当市で見つけた90個の巣について調査を開始する。その結果、入口の方向は様々だが北東や西に向いているものが多いことに気付く。パンパは南極方面からの冷たい南風とブラジル方面からの温かい北風が交互に吹く、オルネーロはこのことを知って南風と北風を避けているのではないかと考察する。
また、巣の入口はタビケ(仕切り、壁の意)と呼ばれる屏風のような仕切りで前室と産卵室が仕切られ、これによって産卵室を荒らされないし雨風をも防ぐ構造になっている。このタビケが右側のものと左側のものがちょうど半々くらい存在し、入口が北東向きのものは右タビケ、西向きのものは左タビケが多いことを観察する。著者は、それには理由があるはずだと想像を膨らませる。

ところで、隣国パラグアイの国鳥はハゲノドスズドリ(禿喉鈴鳥、学名Procnias nudicollis、英名Bare-throated Bellbird、スズメ目、カザリドリ科、スズドリ属)である。パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンの熱帯・亜熱帯雨林に生息する。オスの羽毛は全体的に白く、目、嘴、喉の周りに裸域があり青みがかった黒色の剛毛(メスは背にかけてオリーブからトビ色、頭部と喉は黒っぽい色)。体長は二十八センチ程度。打楽器をハンマーで叩くような金属音、世界で最も大きい声で鳴く鳥として知られる。
パラグアイでは、国鳥をパハロ・カンパーナ(Pajaro campana、鐘つき鳥)と親しみを込めて呼んでいる。パハロ・カンパーナはパラグアイ民族楽器アルパの名曲としても馴染み深い。まるで教会の鐘のように鳴くところからその名前がついたと言われ、英名ではベル・バード(Bellbird)、和名でもスズドリ(鈴鳥)と呼ぶが、鳴き声を聞いた人はむしろ「鐘つき鳥」の名称の方がふさわしいのではないかと言う。

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アルゼンチンの国花「セイボ」(アメリカデイゴ)

2020-04-18 16:09:10 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

アルゼンチンで暮らしていた頃、アルゼンチンの国花は「セイボ」だと教えられたが、どんな花か知らなかった。ある時、ブエノス・アイレスからコルドバへ移動中に、「あれがセイボだ」と運転手が指さす先を見ると、真っ赤な花が目にとまった。花の色がかなり濃いと言うのが第一印象。後になって、日本でも新橋駅前広場、伊豆急下田駅前広場などでセイボを見かけ、懐かしく感じたことを思い出す。
セイボは、学名Erythrina crista-galli、和名はカイコウズ(海紅豆)だがアメリカデイゴ(亜米利加梯梧)と呼ばれる方が多い。マメ科の落葉高木で、葉は長楕円形の三枚の小葉、6月から9月頃濃紅色の蝶型の花が穂状に集まって咲く。
原産地はブラジルから北部アルゼンチンにかけての地域である。日本へは江戸末期に渡来し観賞用として栽培されたと言う。寒さに弱いため関東以南、沖縄にかけて主に公園や街路樹として植栽される。鹿児島県ではクスノキと共に県の樹に指定されているそうだ。一方、沖縄の県花「デイゴ」は名前が似ているが別種Erythrina Variengataで、インドやマレー半島が原産地である。

◇国花(Floral emblem)
国民に愛され、その国の象徴とされる花を「国花」としているが、法で定められているとは限らない。日本の国花は桜であるが、皇室では菊、国の公式紋章としては桐花が使われている。
各国の国花を整理した資料は沢山あるので詳細はそちら委ねるが、例えば、韓国の国花はムクゲ、北朝鮮は杏、台湾は梅、インドはハス、中国は牡丹(現在指定していない)、英国と米国はバラ、オランダはチューリップ、スペインはカーネーション、ドイツはヤグルマギク、フランスはユリとアイリス、カナダはサトウカエデなど。なんとなく国のイメージと合致する。
南米の国花では、アルゼンチンとウルグアイがセイボ、チリはセイボとコピウエ(ツバキカズラ)、パラグアイはトケイソウ(国樹はラパチョ)、ブラジルはイペ(ipé)、ボリビアはカンツータ、ペルーはヒマワリとカンツータなど、よく知らない名前が出てくる。
因みに、ブラジルではイペHandroanthus heptaphyllusTabebuia avellanedae、パラグアイのラパチョと同種、ノウゼンカズラ科落葉高木)を国花としてきた。1978年にブラジルボク(Caesalpinia echinata、Brasil wood、マメ科常緑高木)を国樹に制定した経緯がある。ブラジルボクはブラジル国名の由来となった木で、かつて染料(赤い木の意がある)や弦楽器の弓に使われたため伐採が進み、現在は絶滅危機種に指定されている。

また、ボリビア、ペルーの国花カンツータ(学名がCantuta buxifolia、ハナシノブ科の常緑低木)は枝の先に釣鐘上の赤い花をつける。三千メートル以上の乾燥した高地に自生し、別名を「魔法の花」「インカの聖なる花」と呼び、国民に愛されている。
鐘型の花と言えばチリの国花コピウエ(ツバキカズラ、英名Chilean bellflower、学名Lapageria rosea Lapageria)もそうだ。チリ南部原産、ユリ科の多年草、常緑つる性、鐘形の花(長さ7cm、紅色)をつける。晴れやかでありながら、どこか慎ましい、チリの人々はこよなく愛している。
国花や国樹は国の歴史とリンクし、国民にとって愛着深いものであることが多い。

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インカローズとカルピンチョ

2020-04-17 13:24:49 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

引き出しを整理していたら、懐かしい小物がいくつか出てきた。アルゼンチンのお土産として購入した品々である。
アルゼンチン国からの要請を受け、日本政府は1977年から1984年にかけて大豆育種研究に関する技術協力を行ったことがある。当時、十勝農業試験場で大豆の品種改良に携わっていた縁でこのプロジェクトに参加することになり、延べ4回2年半にわたりアルゼンチン共和国マルコス・フアレス市で暮らすことになった経緯があるが、その時に購入したものだ。
最初の訪問は1978年2月~3月だった。ミッションが終わりに近づいた頃、大使館の松田さんに、
「アルゼンチンのお土産は何がいいですかネ?」と尋ねたら、
「牧畜の国だから革製品が多いね。珍しいものとしてはマテ茶セット、インカのバラ(石)、カルピンチョの革製品があるよ」
「高級品ならサン・マルテイン広場前のCasa Lopez、安い店ならパラグアイ通りのKelly’sがお勧め」と言う。確かにこれらの店は品ぞろえが豊富だった。
 調査団で同行した赤井さんは、革袋の水入れ(水筒)を探していた。西部劇でカウボーイが水を口に含む仕草に憧れていたのだろうか、山男の赤井さんが考えそうなことだと思った。「アルゼンチンのガウチョは水でなく葡萄酒を入れていたのではないですかね」と話したような気がするが確かでない。
その旅で私は、確かインカローズのペンダントやブローチ、カルピンチョの手袋、アルゼンチンタンゴのカセットテープ、マテ茶セットをお土産に買った。何しろ「インカローズ」「カルピンチョ」「マテ茶」は人生で初めて耳にし、目にしたもので、アルゼンチンのロマンを感じる品々であったから。

◇インカローズのペンダント
通称インカローズは、正式英名がローズクロサイト(1813年ドイツの鉱物学者ハウスマンにより発見)、和名は菱マンガン鉱。ローズ色から濃いピンク色まで変異があり、白い縞模様があるものと無いものに大別される。USAコロラド州の鉱山やペルー産のものは縞の無いものが多く、アルゼンチン産のものは縞模様が多い。宝石としては、縞模様が無く透明感があり深い赤みの石が上等とされているようだが、縞模様がある不透明なピンク色も趣があり人気があると言う。私の手元にあるものは高級品ではない。
インカローズの名前は、アルゼンチンのアンデス地方で産出されることに由来する。アルゼンチンの国石ともなっている。
なお、アルゼンチンの北部やブラジル南部も原石の産出地として知られる。空港の売店や観光客目当ての店では色とりどりの原石や加工品が売られていた。

◇カルピンチョの手袋
手袋は、バックスキンのような形状で非常に柔らかく、オストリッチのような斑紋がある。水辺に住む動物だから水洗いが可能だと言う。「ゴルフの手袋に良いね」と言ったら、大使館の松田さんは即座に「もったいない」と応じた。その言葉が出る程、カルピンチョの手袋は他の革製品に比べ高価だったが、手元にある品は縫製があまりよくない。
南米では通称「カルピンチョ」と呼んでいたが、西和辞典には、カピバラ、ミズブタのことと記されている。カピバラと言えば日本では温泉に浸かる姿が可愛いと動物園の人気者になっている。学名がHydrochoerus hydrochaeris、和名は鬼天竺鼠。ネズミ属ネズミ科カピバラ属に分類され、南米原産。ブラジル南部、アルゼンチン北部ウルグアイのパラナ川流域の水辺や近くの森林に生息している。体長は1メートルを超え、体重は40~60キロにもなると言うから、私たちが想像するネズミの域を超えた大きさである。固い体毛に覆われ、前肢の指は4本、後肢の指が3本で水かきをもつ。下顎の大臼歯は左右に4本ずつ。
南米の田舎では昔からカピバラの肉を食べ、革も利用していたと言うが、食する機会はなかった。

◇子牛革のジャケット
南米のアルゼンチンとウルグアイは牧畜の国なので、革製品のお土産が多い。革製品の小物では財布、ベルト、マテ茶セット、小物入れなどが良く売られていた。また、北部の特産品としてリャマやアルパカのセーターや手袋も人気があった。また、バッグや革のジャケットも品揃えが多く上等の品が揃っていた。
先日思い出して、クロークの収納ケースを開けると思い出の品が出てきた。それは、二年間の滞在を終えて帰国にあたり、アルゼンチン暮らしの記念にと購入した革ジャケットである。当時、アルゼンチンの農場主や紳士たちはスエード風の革ジャケットをよく着こなし、スマートに街を闊歩していた。一見ラフだが粗野でなく、適度なお洒落着で、スーツ感覚で着ている。愛用者であるネストルに話したら、ブエノス・アイレスの良い店を知っていると、ウルグアイ通りとマイプー通りの角にあるカサ・パラナを紹介された。裏地にVuri-lo-cheの文字が入っている。
帰国してから一、二回は着たことがあると思うが、日本ではなかなか風土にそぐわない感じで着用していない。久々に手を通したら、胴回りが大分きつくなっている。四十年も昔のことだものね。

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南米で暮らした家

2020-04-15 15:51:19 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

 人間は一生に何回ぐらい転居するものだろうか。生まれた家、育った家、学生時代の寮や下宿、結婚当初のアパート、子供が出来てから手に入れた住宅など、人生それぞれ差はあるだろうが通常かなりの数になる。私自身も数えてみたら17回転居していた。本項では南米で暮らした頃の住宅について触れてみたい。 
 

 南米で生活拠点となったのは、アルゼンチンではコルドバ州のマルコス・フアレス市、パラグアイではエンカルナシオン市だった。マルコス・フアレス市はパンパ平野畑作地帯の中にポツンと存在する人口3万ほどの田舎の町、周辺には大豆や小麦畑が広がった長閑な街だった。外国人の居住者は私たち一家族のみ、セントロの借家に2年間暮らした。一方、エンカルナシオン市は人口10万、同国第二の都市で日系移住者の方々も多く住んでいた。パラグアイへは断続的に三回長期派遣されたので、エンカルナシオンでは3軒の借家に暮らしたことになる。それぞれに思い出すことは多い。

◇マルコス・フアレス市の古い住宅(アルゼンチン)
 私たちが入居した家は、市の中心部を東西に横切るサン・マルチン大通り(独立の英雄San Martin将軍に由来)に面していた。近くには古い教会が立つホセ・マリア・パス将軍広場があり、西に一区画進むと警察、バスターミナルがある。この通りには肉屋、八百屋、薬局、レストラン、カフェテリアなどが並び、生活に便利な場所だった。
建物はレンガ造りの一階建て、壁は白ペンキで塗られていたが所々剥げ落ち、古色然とし、ヨーロッパのように両脇の建物と壁を接している。建物自体は小さいが、表から見えない奥に中庭があり、裏の中通りにまで繋がっている。大きなユーカリと数本の柑橘が植えられ、中庭の壁にはジャスミンの蔓が這い、季節になると白い花から強い香りが漂っていた。
 玄関を入ると真っすぐ居間に通じる廊下が延び、両脇には二つの小さな寝室と応接間があった。応接間には大きなテーブルと10脚の椅子、古式然としたシャンデリア、壁には開拓時の農場と家屋を描いた油絵が飾られていた。おそらく家主が所有する農場の昔の姿、祖先が暮らした家なのかも知れない。道路に面した窓には鉄格子と厚い木製のブラインドが付いている。このブラインドは日よけの他、騒音防止、暑さ除けであることを後になって気付いた。ブラインドを開けたままにしておくと、暑い国では外の暑さが侵入してくるので、朝に空気を入れ替えたら日中は閉じるものだと知った。
 居間は台所と一体の形で、長椅子と食事用テーブルが置かれていた。居間の古いテレビは、電波状況が悪くいつもチカチカしていた。中庭には洗濯場とメイド室、屋根の雨水をためる井戸が地下に設けられていて、貯めてあった用水をポンプで屋上タンクに組み上げ給水する仕組みになっている。この地方ではどこの家でも雨水を貯蔵して使用するのだと言う。地下水はヒ素が含まれることがあるので井戸水より雨水の方が安全だと聞かされたが、本当かどうか分からない。洗濯、シャワー、調理などには専ら貯水した雨水を使っていたが、飲用水は市販の水を配達してもらっていた。山が近く水のきれいな場所に工場があり、この町まで販売システムが構築され、レストランでも同じブランドを使っていた。炭酸ガスを入れたコン・ガス(con gas)と入っていないシン・ガス(sin gas)が一般的に流通していることも珍しかった。郊外に出ると地下から水を汲み上げる風車があちこちに立っている風景が見られ、これらは牧畜用の用水であるが、牛には問題ないということなのだろうか。
 当時の家賃契約書(Contrato de Locacion、西語)が残っていたので確認すると、家主はテンペスチーニ氏、住所はサン・マルチン1165となっている。家賃は500米国ドル。契約内容は、準拠する法令と共に詳細に記載され、備品や什器は皿一枚、グラス一個まで記述されている。その細かさにも驚かされたが、そのシステムも初体験であった。作成は弁護士事務所で、弁護士の署名により契約書が保障されているのだ。
 1978年10月2日から2年間この家で暮らした。妻と息子2人(小学生)にとっても初めての海外生活。言葉が不自由な異文化の中での暮らしは、楽しさもあったが想像以上にストレスは大きかったように思う。

◇エンカルナシオンで1か月暮らしたホテル(パラグアイ)
 赴任地パラグアイ国では、エンカルナシオン到着後ホテル・アルツールに一か月滞在した(2000年5月19日から6月16日、イラサバル大通り)。市街の東端に位置する小さいが小奇麗な三星ホテル。オーナーはブラジル人で、レセプションの若者は愛嬌のある青年だった。隣に同系列の焼き肉店(シュラスケリア)があり、夕食はそこで食べることが多かった。このホテルは改修され、隣の焼き肉店もべブエナ・ビスタ地区へ移り、後には中華レストラン「ドーニャ・スサーナ」に替わった。ホテルはその後改築され、近くにあったオーナーの住宅もアルツール・パレス・ホテルとなっている(グーグル地図情報)。室料は日額8万3千ガラニー、当時のレートで換算すると約25米国ドルに相当する。
 当時のホテルはまだ古い建物だったので、トイレでは紙を流さないように屑籠が置いてあった。流した紙が下水排管に詰まってしまうのだと言う。新しい建築物では改善されているようだが、南米にはまだまだこのような建物が多い。異文化体験の一つとも言える。

◇清美さんの邸宅(パラグアイ)
 借家が決まらずホテル滞在で難渋しているとき、当市在住の森谷さんから建築中の家があるから入らないかと誘われた。聞けば、娘の清美さんが自宅を建築していて間もなく完成するので、作業を急がせると言う。場所は先のアルツール・ホテルの近くで、高級住宅が並んでいるホセ・アスンシオン・フローレンス通りにあった。二階建ての洒落た造りである。
 契約書によれば、家主名義はアルテミオ・ロメロ(清美さんのご主人)、契約期間は2000年6月17日から2001年6月16日まで(1年後の契約更新で2002年5月13日まで。更に任期延長で同年9月27日まで)、家賃は家具類・備品類の使用料込みで月額×××米国ドルであった。細部の工事は残っていたので住み始めてからも工事人が出入りしていたが、持ち主であるロメロご夫妻が入居する前の新築住宅に2年間暮らすことになった。森谷ご夫妻、ロメロご夫妻には大変お世話になり、家族同様のお付き合いを頂いた。
 一階は玄関を入ると脇に小さな部屋とトイレがあり、事務室にも使えるような設計。エントランス正面には吹き抜けの大きなホールがあり、ホールの手前半分は洒落た石畳、奥半分はフローリングになっている。中庭との境は全面ガラス張りで芝生の庭とプールが臨める。ホールの脇に食堂と台所があり、庭の奥には離れが一室ついている。また中庭はテラスが広がり、焼き肉の設備が整っていた。プールで泳ぐことはなかったが、ホールと中庭を使ってしばしばアサード・パーテイを開き、客人をもてなすのに役立った。
 二階につながるオープン階段を上ると、ペチカが置かれた居間があり、居間の奥に書斎と主寝室、バス・トイレとクローゼットがある。二階の反対側(道路側)には子供部屋に使えるようなバス・トイレ付きの寝室が二つ。車庫は一階に組みこまれ、車庫の上にメイドの部屋と洗濯場がある設計。
 玄関は大きくて重厚な扉、車庫の入口も木製の重いシャッター、コンクリートの壁で周辺を囲い、外から中を覗き見る事も出来ない。治安の悪化で注意喚起が発せられる時代となっていたので、モダンな外観の中にも安全性を考慮した住宅であった。

◇歯科医院の二階に住む(パラグアイ)
 プロジェクトのフォローアップで訪れた2回目のパラグアイ(任期は2003年2月10日から8月9日)。歯科医の跡部さんご夫妻が営む歯科医院の二階に住むことになった。場所はエンカルナシオン市街の北部、国道六号線の北側ポサダス通りにあった。二階への階段を上がってエントランスを抜けると居間と台所があり、奥には寝室とバス・トイレが付いている。隣は大家さんの住まいで裏階段から行き来できる。台所で「肉じゃが」など料理していると、跡部家の一員である大型犬が鼻を上に向けて、台所を見上げていることがよくあった。家賃は月額×××米国ドル。跡部ご夫妻には何かとお世話になった。

◇アルマス広場に面したアパート(パラグアイ)
 エンカルナシオン市の中央にアルマス広場がある。この広場に面して建つ高層アパート(カルロス・ロペス通りとトマス・ペレイラ通りが交差する角)の二階の一室を借りて暮らすことになった。3回目のパラグアイ暮らしである。大豆育種の技術協力要請がパラグアイ国から出され、それを受けての滞在であった(任期は2006年2月15日から2008年3月25日)。
 アパートの一階及び中二階にシテイ・バンクが入っていて、その上部階から住居フロアとなっている。入口には管理人が常時いてドアの開閉や郵便物の収受を行い、安全性が高い建物だった。エレベーターで上がり部屋のドアを開けると右に書斎兼居間、左側には食堂と台所、その奥に寝室が二部屋とバス・トイレがあった。屋上には共用のプールと焼肉設備があり、夏にはアパートの子供たちで賑わっていた。台所の窓からはアルマス公園や小学校の校庭が見下ろせ、四季折々の行事が手に取るように感じられる場所だった。また、夕食後に公園の周りをウオーキングするのにも便利だった。
 駐車場は地下に設けられていたが通路が狭く、駐車には苦労した。そんな話をしたら、一区画ほど離れたアパートの地下に駐車スペースを所有しているとのことで、そちらを使わしてもらっていた。家主は秦泉寺さん、高知県出身、農場主である。奥様の律子さんから野菜や果物を届けて頂くなど、家族同様のお付き合いを頂いた。家賃は月額×××米国ドル。
 このアパートで暮らした2年目(2007年)、デング熱が大流行し非常事態宣言が出された。感染媒介のネッタイシマカを駆除するために街中を消毒車が走り廻り、アパートの各部屋をも市職員が消毒して回った。一定時間過ぎて室内に戻ったらヤモリが壁で弱っているのを見つけ、外に逃がしたのを思い出す。

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元旦にフェリシダーデスと電話あり,パラグアイからの懐かしき声

2014-01-08 14:51:59 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

元旦,雑煮の準備をしていると電話が鳴った

「コモ・エスタ ○○! 北海道は寒そうだね」

「やあ,新年おめでとう。清々しい朝だよ。皆さん,お元気?」

パラグアイ在住のMさん(日系二世)からだった。Mさんは日本語堪能だが,セニョーラとは時々スペイン語を取り混ぜた会話になる。

「フェリシダーデス! おめでとう・・・ああ・・フェリス・アーニョ・ヌエボ!」

これから,娘さん家族のところで一緒に新年を迎えるのだと言う。日本との時差が12時間,日本の元日の朝はパラグアイの大晦日の夕方にあたる。時刻を見計らって電話を掛けてきた心遣いが嬉しい。

 

パラグアイでは,家族や近しい人々が集い,持ち寄った料理とアサード(焼肉)を食べながら新年を迎えるのが慣例だった。エンカルナシオンで暮らしていた頃,招いたり招かれたりしたが,新年のカウント・ダウンと同時に彼方此方で花火を打ち上げ,「フェリス・アーニョ・ヌエボ!」とワインの杯を挙げるのだった(朝起きてみたら,庭に拳銃の弾らしきものが落ちていたこともあったが・・・)。夏のクリスマス,雪のない正月であった。

 

パラグアイ日系社会の移住の歴史は南米の中で最も浅いが,経済活動の中心は既に二世から三世の世代に移りつつある。

 

年賀の挨拶を頂いた中で,

「昨年11月,農林水産大臣賞を頂きました・・・」という,故郷の友(高校同期生)の便りは嬉しかった。故郷に残って,地道に竹林を整備し,竹炭や筍加工など地域振興に尽力した友の姿が偲ばれた。春になったら,「竹一筋」の話を是非聞きに行こうと思う。

 

また,「年賀状は止めて,生存報告にします・・・」「喪中ですが,年賀状は出して下さい・・・」など,日頃の付き合いが減って年賀状だけの結び付きも多くなったが,これはこれで結構年の節目を意識するものだ。

 

竹に節があり,樹木に年輪があるから風雪にも耐えることが出来る。同様に,草花に種子となり球根となって休む季節あり,季節に冬があり,一日に夜があるように,年の節目を大事にしたい。生きるとは,節目を繋ぐことだから。


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パラグアイ神話の主人公

2013-06-26 17:12:15 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

先住民グアラニーは多くの神話を伝承してきた

今でもパラグアイのママたちは,

「さあ,シエスタ(昼寝)の時間ですよ。ジャシ・ジャテレ* がいるから外に出ては駄目,静かにシエスタしましょう」

「一人で遠くまで行ったらいけません。ジャシ・ジャテレ* に森につれて行かれますよ」

と,妖怪を引き合いにして悪戯を戒めている。

 

ジャシ・ジャテレ*Jasyjatere、Yasí-Yateréは,グアラニーの神タウとケラナの子供の一人で,ウエーブがかかった金髪の裸の子供の姿をしていて,鳥の鳴き声に似た口笛を吹きステッキを鳴らしながら昼休みの時間に一人で彷徨い,子供たちをおびき寄せ森に連れて行く。連れて行かれた子供たちは,惚けてしまい耳や口が聞こえなくなってしまう1)そうだ。 ところで,タウ(Tau)は悪の心を持つ神,ケラナ(Kerana)は並外れて美しい眠りの女神とされる。彼らには,先のジャシ・ジャテレを含め7人の子供があり,それぞれが神話の主人公として語られる1)

1番目:テジュ・ジャグア(Tejú-jaguá

2番目:ボイ・トウイ(Mboi-tuí

3番目:モニャイ(Moñai

4番目:ジャシ・ジャテレ*Jasyjatere、Yasí-yateré*

5番目:クルピ(El kurupí

6番目:アオ・アオ(Ao-ao

7番目:ルイソン(Luison

 

例えば,テジュ・ジャグア(Tejú-jaguá

Tejú-jaguá: Personaje mitológico con cuerpo de lagorto y cabeza de perroNataria Krivoshein y Fericiano A. Alcaraz編辞典;トカゲの胴体とイヌの頭をもった神話上の人物,モンスター),これは辞書の説明。手元の資料1)を要約すれば,洞窟の主で,果物と果樹の守り神。夜行性で夜になると狂暴になり恐ろしいうなり声をあげる。草食にもかかわらず,夜道を歩いている人間を捕まえては食べてしまうと言う。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「テジュ・ジャグア」)

 

例えば,ボイ・トウイ(Mboi-tui

Mboi-tui : Ser mitológico, enorme animal con cuerpo de reptile y cabeza de loroNataria Krivoshein y Fericiano A. Alcaraz編辞典;爬虫類の胴とオウムの頭をもった巨大な神話上の動物)。胴体は巨大なヘビで,サソリのような毒を出すしっぽと,オウムのような嘴をもっている。大きな沼に住み,林や草の中で目立たず,果物だけを食べ,消して姿を見せない。水生動物,両生動物,霧,露,花の守り神1)。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「ボイ・トウイ」)

 

例えば,クルピ(El kurupí

El kurupí : Ser mitológico, protector de bosques y animals silvestres, raptor de mujeres y niñosOlga Troxler Vda.編辞典;森と野生動物の守護神,女性と子供の誘拐者,神話上の存在)。森に住み,滅多に姿を見せない。背が低く,醜く,黒い目,日焼けした黒い肌,髪は黒く真っ直ぐ伸びている。好色家で巨大な男根を体に巻きつけている(辞書には神話博物館由来の挿絵がある)。

受胎の守護神でもあり,豊穣,恵みの雨の神でもある。クルピが牛の腹に触ると双子の子牛が生まれ,クルピが休んだところのマンジョカ(キャッサバ)やバタタ(サツマイモ)は見間違うほど大きくなったと言う。

 森の守護神であるクルピは,必要以上に木を切り倒して森を破壊する人々には罰を与え,人々は道に迷い永遠に森を彷徨い続けることになるのだと言う。クルピの足が反対を向いているのは,彼を捕まえようとする人間から逃れるためだとされる1)。(写真はアスンシオンの民芸店で購入したバルサ材の「クルピ」)

参照アスンシオン民芸店で入手した説明文(3枚のペーパー,出典不詳)を参照した。原典を確認していない。 

 

 

 

追記2023.12.26

*匿名さん(2023.12.25)から、ジャシ・ジャテレ(Jasyjatere、Yasí-Yateré)についてコメントを頂きました。有難うございます。

本文は参照資料の訳文(日本語)をそのまま引用ししましたが、グアラニー語では「ジャス・ジャテレ」と発音するとのご指摘です。

また、この資料では「Yasí-Yateré」となっていますが(西語表記したものでしょう)、辞典にあるように「Jasyjatere」を使った方が良いと思います。

参考までに、「Gran Diccionario Guarani-Espanol」TEA S.R.L.2004 の「Jasyjatere」項目ページを引用させて頂きます。

コメント (3)
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