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恵庭の寺-9,紫雲台孝子堂宝物館で知られる 「紫雲山宝林寺」

2015-03-27 13:38:37 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭市史(昭和54)には,前回までに訪れた寺院(本ブログ,恵庭の寺-1から8)の他に,「紫雲山宝林寺」が掲載されている。インターネットで検索すると,「紫雲山」ではなく「紫雲台宝林寺」と呼ばれ(宗教法人),むしろ「紫雲台孝子堂宝物館」として名前が知られているようだ。恵庭の仏教施設一覧(Wikipedia2015/3/22)にも,「宝林寺」でなく「紫雲台孝子堂宝物館」名で記載されている。

宝物館の名前は,かつてJR恵庭駅のホームで見たような記憶がある。気にはなっていたが,これまで訪れたことがなかった。思い立って,車を駆った。

 

9.紫雲山宝林寺(しうんざんほうりんじ),単立(無宗派)

所在地は恵庭市柏木。JR恵庭駅の西方向2.8km(JR恵み野駅の南西方向ほぼ同距離),恵庭市エコバスを利用すれば「セイコーマート文京店前」が最も近い停留所。茂漁川河川緑地を経て,茂漁川対岸の上流に位置する。バス停から約1km,徒歩15分程の距離にあるが,分かりにくい。訪れるには自家用車が便利だ。恵庭柏木通りの文京町3丁目信号から西側(恵庭中学校の筋向い)に入り,左手に盤尻用水記念碑を見てしばらく進むと,「紫雲山孝子堂宝物館」の案内標識がある。

山門を入ると桜並木があり,左手は茂漁川が流れる。正面には二階建ての建物(二階が本堂,一階が宝物館になっている)があり,江別産のレンガ造りが印象に残る。歴史を感じさせる建造物だ。この建物の脇を抜けて,裏の小高い山に参道が続いている(写真は2015.3.21撮影)。

この寺は,昭和33年(1958)林茂栄が円鑑不味禅師の開山命名を得て,島松村柏木611-12に紫雲台孝子堂と仮称して発足したことに始まる。昭和35年(1960)に宗教法人として登記,紫雲山宝林寺と呼んだ。資料には単立(無宗派)とあるが,宝林寺でお尋ねしたところ「曹洞宗系」だと言う。

開山にあたった林茂榮は,その頃東京日日新聞(現在の毎日新聞)に勤め横浜在住であったが,故郷に残した両親を思い孝子堂の建設をこの地に企画したという。建築に携わったのは弟の林佐一郎(恵庭在住)で,大工の棟梁や村人の協力も得て落成を見ている。建材は朱鞠内からも搬入し,煉瓦は江別産に拘ったと言う。

訪れたのは春の彼岸の頃であったが,参道には残雪があり,宝物館もまだ開館していなかった。冬季は休館し,雪解けを待って4月以降に開館するのだと言う。なお,宝物館参観には前日までの電話予約が必要とある。

境内には桜並木がある。花の咲く頃,訪れたら素晴らしいことだろう。歴史的文化遺産も是非鑑賞したいものだ。

◆紫雲山宝林寺の概要

所在地:恵庭市柏木

本尊: 阿弥陀如来

開創・開山:昭和33年,林茂栄

主管者(代表役員):林茂栄(初代),林輝栄(二代),林富子(三代)

沿革(歴史)

昭和33年(1958)8月:円鑑不味禅師の開山命名を得て,紫雲山宝林寺という。紫雲台孝子堂と仮称して発足(島松村柏木611-12)。

昭和35年(1960)7月:宗教法人として登記。私財を投じて本堂及び宝物館を建設。

なお,「孝子堂宝物館の仏像と宝物」は林茂栄が永年にわたり私財を投じて収集した品である。恵庭市史には,以下の17点の「仏像並びに宝物」が記載されている。①阿弥陀如来像(円仁慈覚大師作),②阿弥陀如来像(日蓮上人開眼快慶作),③仙台伊達陸奥守所領道中槍穂,④蜂須賀阿波守所領大鎧,⑤刀剣(貞宗,則重,則吉,同田貫,虎徹,国重,忠広,重国,信秀など)⑥鼎銅鐸,⑦天童寺青磁大皿(宗竜泉窯),⑧浮牡丹天目釉大壺(銘大黒殿),⑨絵高麗黒花大壺(銘雲上),⑩古代青磁耳付薬壺(越洲窯),⑪須恵器大壺(銘大雲),⑫漢の瓦壺(銘雲上),⑬伊満里錦平蘭紋大皿,⑭伊満里錦平大皿,⑮粟田焼大壺(仁清絵付酒井抱一),⑯呂宋茶壺(絵本蓮花王),⑰鎧具足(肥前島原城主松平主殿所用)

歴史が浅い恵庭にも文化遺産があることは嬉しい。これら仏像や宝物の管理にはご苦労が多いと推察されるが,是非,大事に維持されることを期待したい。

参照:恵庭市史(昭和54),恵庭ロケーション推進の会DVD「紫雲台宝林寺孝子堂宝物館」(平27)

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

 

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恵庭の寺-8,日蓮宗の寺 「龍王山妙正寺」

2015-03-26 11:41:10 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

漁村と島松村を合せて「恵庭村」が発足した頃(明治39年),我が国は日清戦争及び日露戦争が終わり高揚した時代に入っていた。その高揚感は大正時代も続いたが(第一次世界大戦による景気浮揚もあった),大正12年には関東大震災,昭和時代に入ると一転して世界恐慌・昭和恐慌が起こり,我が国は満州事変へと突入する。そして,我が国は第二次世界大戦,太平洋戦争へと転がり始める。

このような時代背景のなか,恵庭村に日蓮宗の法務所(日蓮宗恵庭説教所,現・妙正寺)が開設された。昭和4年のことであった。

龍王山妙正寺を訪れた。

 

8.龍王山妙正寺(りゅうおうざんみょうしょうじ),日蓮宗

所在地は恵庭市桜町2丁目。地図で所在地を確認し,恵庭駅通りを南西に桜町地区まで進むのが分かりやすい。JR恵庭駅の南西1.3km,徒歩で20分弱の距離にある。近くに市営住宅桜町団地があるが,寺院はやや高台に位置するのでよく目立つ。

山門は,右に「日蓮宗」左に「妙正寺」と彫られた門柱で,その脇には「南無妙法蓮華経,龍王山妙正寺」の碑が建っている。山門を入ると駐車スペースがあり,正面に本堂が配置されているが,その寺院建築の姿は朝陽に映え荘厳でさえあった。訪れたのは春の彼岸中日(春分の日)で,彼岸会に参詣する信者で賑わっていた(写真は2015.3.21撮影)。

この寺は,昭和4年(1929)に藤岡智龍師が日蓮宗広宣寺法務所を設置したことに始まる(広宣寺は由仁町にある日蓮宗の寺)。翌年の昭和5年(1930)には日蓮宗恵庭説教所と公称し,昭和10年(1935)に日蓮宗恵庭説教所設置許可を得て布教に努めた。当時の信徒総代は,杉本熊次郎,菊澤源兵衛,島田清一郎とある。

第二次世界大戦後の昭和28年(1953)に宗教法人妙正寺の設立登記がなされ,現在に至っている。

◆龍王山「妙正寺」の概要

所在地:恵庭市桜町2丁目

祖山:身延山久遠寺(山梨県身延町)

本尊:日蓮上人尊定の大曼荼羅

開創:昭和4年

歴代住職:藤岡智龍(初代),藤岡智淨(二世),藤岡智祥(三世),藤岡智旭(四世)

沿革(歴史)

昭和4年(1929)4月:藤岡智龍師,日蓮宗広宣寺法務所を設置。

昭和5年(1930)10月:日蓮宗恵庭説教所と公称。

昭和10年(1935)2月:日蓮宗恵庭説教所設置許可を得る(昭和9年8月,恵庭村大字漁村8-30,桜町に設置許可を申請)。

昭和28年(1953)3月:宗教法人妙正寺の設立登記。

昭和50年(1975)11月:本堂,庫裏を改築完成。

参照:恵庭市史(昭和54)

 

◆日蓮宗

デジタル大辞典(小学館)によれば,日蓮宗「仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依とし,南妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ,折伏・摂受の二門を立て,現実における仏国土建設をめざす。のち,分派を形成。法華宗」とある。

宗祖(開山):日蓮聖人(1222-1282)

本尊:久遠寺には日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたものがある。

総本山(祖山):身延山久遠寺(山梨県身延町)

経典:法華経

題目:南無妙法蓮華経

教義:「法華経」(来世でなく現世の生き方を問う)こそ,混迷した世の人々を救う「お釈迦様の真の教え」であると説く。自らの幸せを願うより,まず社会の安穏を願うべきである。お題目「南無妙法蓮華経」を口に出して唱えることで,己の中の仏心を呼び現し,誰もが仏になることが出来るとする。「南無」とは一心に仏を信じる事,「妙法蓮華経」とは釈迦が説いた知恵と慈悲の功徳を意味し,法華経に帰依することを念じる行為である。日蓮宗ポータルサイトでは「合掌の心を世界へ,未来へ」と謳っている。

日蓮宗は全国に5,000の寺院があり,信徒は300万人と言われている。本仏の位置づけ,妙法蓮華経の解釈から分派(門流)・合流を繰り返した歴史がある。その流れは複雑で素人には理解できない。現在,門下連合会を結成しているのは,法華宗本門流,顕本法華宗,法華宗陣門流,本門佛立宗,法華宗真門流,国柱会,日本山妙法寺,日蓮本宗,本門法華宗,京都門下連合会である。

現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山,霊跡寺院,由緒寺院,一般寺院に分けられているが,総本山・大本山・本山の称号も用いられている。なお,教育分野では,立正大学,身延山大学などが知られる。

日蓮宗宗定法要式に定めた作法には,線香の本数1本もしくは3本,焼香の回数3回(導師や特別な役割の僧侶)または1回(前記以外の僧侶及び檀信徒),手順は「合掌・一礼」~「焼香」~「合掌・一礼」とある。

なお,日蓮宗ポータルサイトには,恵庭市にある日蓮宗寺院として妙正寺と妙輝結社(北柏木町)が掲載されている。

参照:日蓮宗ポータルサイトほか

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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恵庭の寺-7,恵庭開拓時代に役割を果たした 「日勝寺」(法華宗真門流)

2015-03-25 17:03:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭開拓の歴史の中で,神社仏閣が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。そして,時代の流れの中で新たに布教が始まる施設もあれば,諸般の事情で統合や廃寺を余儀なくされる場合もあるだろう。

今回の恵庭の寺を訪ねるシリーズで,所在が分からなかった寺がある。インターネットで「日勝寺」を検索すると,JR島松駅の西側にあることになっている。地図を頼りに2回訪れたが,寺院らしき建造物を見つけることが出来なかった。その場所は,かつて西島松(地区名)であったが,現在は寿町と呼ばれる市街地である。地元の老人に訪ねたが「知らない」と言う。

住所番地を確認すると,どうやら方向違いであったようだ。西島松はかなり広い地域に広がっている。3月下旬のある日,所在地表記の場所に行ってみると,確かにありました。寺の風情は既になく,畑の一隅に荒れ果てた空間があり,かつて本堂であったらしき祠が残っている。周辺にロープが張られ,「日勝寺」の標識と立ち入り禁止の札(連絡先も)があった。雑草が大きく伸び放題になっている。そう言えば,ここには小さな森と堂宇があったような気がする。二十年前の記憶が蘇った(写真は2015.3.25撮影)。

  

法華宗真門流.日勝寺(にっしょうじ)

所在地は恵庭市西島松。恵庭市恵み野団地(恵み野北)の西側,団地環状通が北海道々600号島松千歳線に交差する一画である。島松共同用水記念碑の道路挟んで反対側にあたる。本堂であったのか小さな祠が面影を残すのみで,畑の一隅と思える状況にある。JR島松駅から南東1.1km,徒歩16分ほどの距離にある。

恵庭市史(昭和54)によると,日勝寺は「本妙法華集日勝寺」と記載され,「大正4年(1915)10月総代坂上留五郎の発願で,同年6月11日付允許を得た教会所の創立に始まる」とある。大正6年(1917)に日勝寺の寺号公称が許可され,昭和2年(1927)に島松村西五線二十二号に移転,昭和28年(1953)に宗教法人寺号認証がなされた。

その後,当寺は札幌市中央区の日泰寺(法華宗真門流)住職,安井勝龍,勝仁師が兼務する状態が続き,現在は安井勝久師(五世)が住職となっている(栗沢町勝泉寺住職を兼ねる)。年間行事としては春彼岸会,盂蘭盆会,秋彼岸会,御会式を催行とある。ただし,日勝寺の登記住所に礼拝できる空間や庫裏等は既になく,小さな祠が残っているのみで,住職が常駐しているわけでもない。日泰寺に伺うと,本年(平成27)夏ごろまでに札幌の日泰寺に合併する計画だと言う。

この寺は,恵庭の開拓歴史の中で役割を終えた寺院と言うことになろうか。

◆日勝寺の概要

所在地:恵庭市西島松

本寺:本隆寺

本尊:日蓮上人尊定の大曼荼羅

開創:大正4年

歴代住職:林勝道(勝道院日健上人,初代),林恵正(二世),安井勝龍(勝龍院日浄上人,三世),安井勝仁(勝仁院日研上人,四世),安井勝久(五世)

沿革(歴史)

大正4年(1915)6月:認可を得て教会所を創立(同年4月,坂上留五郎の発願)。

大正6年(1917)11月:寺号公称が許可される(日勝寺)。島松村字茂漁63(西四線西二一号)に本堂,庫裏を建設。

大正11年(1922):檀信徒一同から敷地の寄進をうける。

昭和2年(1927)3月:島松村西五線二十二号(現在地)に移転,本堂,庫裏等を増築。

昭和28年(1953)4月:宗教法人寺号認証が行われた。

参照:恵庭市史(昭和54)ほか

◆法華宗真門流

日蓮を高祖とし,日真(1444-1528)を派祖とする,日蓮宗(法華宗)門下の一派。

開祖:日真大和尚(祖承は,釈尊―日蓮―日像―日真とされる)。長享2年(1488)に妙顕寺を出て,四条大宮に本隆寺を開創。

本仏:釈迦牟尼世尊

総本山:本隆寺(京都市西陣,慧光無量山本妙興隆寺と号し,略して慧光山本隆寺という)。なお,福井県下に三本山(鯖江市妙法蓮華経山平等会寺,越前市智光山本興寺,小浜市恵光山本境寺)を有する。

経典:妙法蓮華経

題目:「南無妙法蓮華経」「本果実証」

教義・目的:お題目の修業によって世界平和を目指すとある。日蓮宗の教義は,「法華経」(来世でなく現世の生き方を問う)こそ,混迷した世の人々を救う「お釈迦様の真の教え」であるとする。即ち,「現世安穏・後生善処」,「現世は穏やかに,後世は善い所に生まれる」よう,祈りの生活の日々を送ることが重要なのだと説く。自らの幸せを願うより,まず社会の安穏を願うべきであるとする。

お題目「南無妙法蓮華経」を口に出して唱えることで,己の中の仏心を呼び現し,誰もが仏になることが出来るとする。「南無」とは一心に仏を信じる事,「妙法蓮華経」とは釈迦が説いた知恵と慈悲の功徳を意味し,法華経に帰依することを念じる。

なお,法華宗真門流HPの全国寺院名簿によると,北海道には真門流寺院が28寺ある。

参照:法華宗真門流HP(2015/3/23)など

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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恵庭の寺-6,弘法大師を祀る寺 「金毘羅山弘隆寺」(高野山真言宗派)

2015-03-15 15:52:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭における開拓移住が後半に入った頃(大正から昭和の初期であるが),浄土真宗や禅宗以外の寺院(例えば,真言宗,日蓮宗,法華宗など)が次々と創建されている。移住当初は浄土真宗信仰者が多い山口や北陸地方,禅宗が優越していた東北地方出身者が多かったが,その後,全国各地からの移住が進み定住人口が増加するにつれ,2宗派以外の寺院も必要になったと言うことだろう。

高野山真言宗派の金毘羅山弘隆寺も大正時代の布教から始まる。

  

6.金毘羅山弘隆寺(こんぴらさんこうりゅうじ),高野山真言宗派

所在地は,恵庭市文京町4丁目。JR恵庭駅の西方向1.7km,徒歩で25分ほどの距離にある。恵南柏木通の美咲野2丁目と文京町4丁目の交差点(信号)から,北東方向へ向かう道路を入った所と説明した方が分かりやすいかも知れない。

この寺は,大正8年(1919)秋山宥猛師が本尊を金毘羅大権現として布教を始めたのが金毘羅寺始まりとされる。恵庭市史には「小樽市古義真言宗高野派金毘羅大本院住職秋山宥猛師が,恵庭村大字漁村453番地に千歳郡説教所設置願を提出」とあることから,小樽市金毘羅大本院と弘隆寺を兼務する形であったのだろう。なお,秋山宥猛和尚は明治41年(1908)に倶知安町にある金毘羅寺をも建立している(金毘羅寺開基和尚)。布教に熱心な僧侶だったのだろう。

その後弘隆寺は,昭和3年(1928)に説教所の認可を受け,昭和10年(1935)漁村472番地(文京町)への移転,昭和40年(1965)宗教法人千歳教会の認証認可,昭和48年(1973)弘隆寺の寺号認可を得て,現在に至っている。

山門の門柱には金剛力士像が置かれ,境内には桜の木が数本植えられている。正面には金毘羅大権現を祀る本堂があり,本堂の左手には八十八ヶ所地蔵尊,馬頭観音菩薩の碑,愛玩動物畜生道解脱の碑などが建立されている。参詣に訪れる人も多いようだ。本堂前のユルキャラ「こうやくん」が,今風に参詣者を迎えている(写真は2014.12.5撮影)。

弘隆寺のHPによると,年中行事として,元朝祈願会並びに供養会(新年を迎える零時刻),節分会,彼岸会(春秋),新四国八十八ヶ所山開き・山納め法会(年2回),愛玩動物供養・馬頭観音菩薩会(年2回),弘法大師正御影供養・降誕会・仏生会・成道会,孟蘭盆施餓鬼会・塔婆供養会,諸祈願などが施行されている。

この寺では,「葬儀・諸供養」のほか,「諸祈願」にも幅広く対応している。祈願に重きを置くのは,この寺がいわゆる密教の流れを汲む宗派だからだろう。即ち,空海の真言宗系の密教(東密)で,大日如来を本尊とする深遠秘密の教えであり,加持,祈祷を重んじることによる。「三密」と言う言葉がある。即ち,身密(手に諸尊の印相を結ぶ),口密(口に真言を読誦する),心密(心に曼荼羅を観想する)の修業により,大日如来と一体となり,即身成仏が可能となるとの教えである。

◆金毘羅山弘隆寺の概要

所在地:恵庭市文京町4丁目

本寺:高野山金剛峰寺

本尊:金毘羅大権現(弘法大師・波切不動明王)

住職:秋山宥猛(初代,小樽),山本隆親(二代),○○(三代,倶知安金毘羅寺住職兼務),秋山有洋(四代)

沿革(歴史)

大正8年(1919)5月:本尊を金毘羅大権現とし,布教を始める。

昭和3年(1928)7月:千歳郡説教所の設置が認可される(同年4月小樽市古義真言宗高野派金毘羅大本院住職秋山宥猛師が,恵庭村大字漁村453番地に設置願を提出)。建物を建設し布教につとめる。

昭和10年(1935)9月:漁村472番地(文京町)への移転認可を受け,建物を建設(なお旧建物は昭和6年火災により焼失)。

昭和16年(1941)3月:真言宗千歳教会と改称。

昭和40年(1965)3月:宗教法人千歳教会の認証許可を得る。

昭和48年(1973)9月:弘隆寺の寺号公称が許可される。

参照:恵庭市史,弘隆寺HP

  

◆2016年改築建立なった金毘羅山弘隆寺

 

◆高野山真言宗

高野山真言宗は,真言宗の宗派の一つである(高野宗,高野派ともいう)。

なお,真言宗は,平安時代(9世紀初頭)に空海(弘法大師)が開いた日本仏教の宗派で,最澄が開いた天台宗とともに「平安仏教」と呼ばれる。いわば,日本仏教の源となる仏教思想である。空海は,長安(唐)の青龍寺で恵果から密教を学び,帰国後に真言宗を開いている。即ち,弘仁7年(816)に高野山金剛峰寺を修禅の道場として開創の勅許を得た。

因みに,宗祖空海は讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の生まれで,仏教者であるほか,思想家,著述家,能書家(三筆と呼ばれた)としても名を残している。

真言宗は日本の仏教宗派の中で最も多く分裂派生していると言われ,その流れは理解できないが,大きく分けると弘法大師の直系的な古義真言宗と,真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)上人の教学を元とした新義真言宗に分けられる。更にそこから多種多様に分裂派生し,現在では主要な門派が18に大別され,「真言宗十八本山」と呼ばれるようになったと言う。

高野山真言宗派は,古義真言宗系の一派で金剛峰寺を総本山としている。属する寺院数は3,000を超え,信徒は約1,000万人と言われる。僧格を細かく定め,寺格も総本山,本山,別院,一般寺院などに分類される。真言宗系の教育機関としては,高野山大学ほか,高校,中学校も数多い。

開山:空海(弘法大師,774-835),弘仁7年(816)開創。現在の座主(管長)は413世。

本尊:大日如来

総本山:高野山金剛峰寺(高野山全体が総本山とされる)

経典:大日経,金剛頂経ほか

教義:即身成仏(この肉身のまま究極の悟りを開き仏となる),密厳国土を教義とする。中心の本尊は宇宙の本体であり,絶対の真理である大日如来である。いわゆる密教は,「大日如来を本尊とする深遠秘密の教え,加持,祈祷を重んじる。空海の真言宗系を東密,最澄の天台宗系を台密とよぶ」(小学館,デジタル大辞典)。

後に,様々な大師信仰が生まれている。例えば「入定信仰」,弘法大師が奥の院に生き続けるとする。例えば「遍路巡拝と同行二人」,八十八か所の遍路修行をすること,我は大師と二人連れなりと考える。例えば「九度山頂石道」,九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道(町石道)を信仰の道と考える,等々である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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恵庭の寺-5,六線のお寺 「恵庭山島松寺」(真宗大谷派)

2015-03-13 17:40:57 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

北海道では,開拓者たちが故郷で信仰していた宗派の寺院を建立したいとの切々なる思いから,開基された寺院が多い。恵庭市においても例外ではなく,開拓初期には山口県や北陸からの開拓移住者たちが寺院建立を主導している。

北海道への開拓移住は,明治19年(1886)から昭和11年(1936)頃までがピークで,東北6県からの移住者が最も多く289,217戸(41%),次いで北陸4県からが184,064戸(26%)とされる。東北は禅宗(特に曹洞宗)系寺院が多い地域であり,北陸は浄土真宗系が多い地域であるため,北海道における寺院も,浄土真宗系990寺(43%),禅宗系476寺(21%)が多数を占めている。因みに,日蓮宗系336寺(15%),真言宗系265寺(12%),浄土宗系155寺(7%)であると言う。

また,道内で早い時期に開拓された豊穣地域には真宗大谷派が多く,海岸地域では曹洞宗が優占するなど地域差が見られるが,これは移住者の出身地域と移住年次に影響された結果である。いずれにせよ,北海道では浄土真宗系と禅宗(曹洞宗)寺院が優位を分かち合っている(参照:永幡豊2013「北海道における仏教寺院の分布について」地理学論集88-1)。

恵庭では,浄土真宗系(大谷派と本願寺派)寺院が4寺を数え最も多い。これらの寺院は開拓初期にあたる明治20年代が開創で,恵庭の開拓が山口県と富山・福井・石川県など北陸出身者の団体移住で始まったことを如実に物語っている。

今回も,開拓民と共に歩んできた寺院を訪ねる。住民から「六線のお寺」と呼ばれた恵庭山島松寺である。

  

5.恵庭山島松寺(えにわさんとうしょうじ),真宗大谷派

所在地は恵庭市下島松。JR島松駅からは北東の方向にあたる。島松市街をはずれて六線道路に面し,周辺に畑が広がる地域だ。道道46号江別恵庭線やJR千歳線からは本田記念病院が目印になるかも知れない。道道46号江別恵庭線から入ると,本田記念病院を過ぎ,ルルマップ川を越えたところにある。JR島松駅からは1.5km,徒歩で18分の距離である。

この寺は,明治30年(1897)廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立したことに始まる。明治33年(1900)には,美濃国の西照寺から吉田了貫師を迎え,明治37年(1904)に本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与され,明治39年(1906)に寺号公称認可を得て,恵庭山島松寺と称すことになった。開基和尚了貫師は信徒からの信頼厚く,盤尻に説教場を開くなど布教に努めた。了貫師は書画にも秀でており,師の作品が多数残されている。

火災による災害もあったが,檀信徒らの尽力により再建を果たしている。また,昭和36年(1961)から本堂を解放して季節保育を開始するなど,幼児教育にも力を注いだ(保育園は平成7年閉園)。三世堂守吉田顕子,四世住職吉田法純師のご苦労は多かったことであろう。平成9年(1997)には,開教百年記念慶讃法要・式典を挙行している。

境内に入ると,正面に本堂,左手に「親鸞聖人御像」がある(写真は2014.12.4撮影)。この親鸞像は平成8年9月鷲田清が寄進したもので,標板には「鷲田清氏は明治三十二年二月十五日福井県坂井郷に生まれる。八歳の時父仁作に伴われ来道,江別を経て明治四十一年盤尻に入植,苦難の少年時代を過ごし成人を向迎う。剛健実直な人柄で衆望を荷負って村会議員に当選,以来五期二十年に渉り市政発展に尽くした。又法義相続の念厚く島松寺代表役員として寺門発展の為盡力,納骨堂や本堂の建設委員長として今日の島松寺の礎を築いた功績は大なるものがある。恵庭市名誉市民,勲六等単光旭日章をはじめ数々の表彰を受けている。島松寺四世住職釈法院記す」とある。なお,父の鷲田仁作は,かつて相撲界に身を置いた「實勇」である(盤尻に記念碑がある)。

平成九年九月中川貞男寄進による「開教百年記念本願相続,島松寺第四世釈法純書」の石碑がある。開教百年を記念して建立された。

◆恵庭山島松寺の概要

所在地:恵庭市下島松

本寺:真宗本廟(東本願寺)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治30年

開基:(金山大恵,桂樹義教)吉田了貫

歴代住職:吉田了貫(開基),吉田究(二世),吉田純正(三世),住職代務者吉田顕子(三世坊守),吉田法純(四世),吉田敦史

沿革(歴史)

明治30年(1897)5月:廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立。

明治31年(1898)9月:金山大恵師(近江国法雲寺住職に赴任)に替わり桂樹義教師となる。

明治33年(1900)10月:桂樹義教師(同年9月新十津川村に転出)に替わり,美濃国西照寺から吉田了貫師が継承。

明治37年(1904)10月:本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与される。

明治39年(1906)3月:寺号公称認可(同38年出願)を得て,恵庭山島松寺と称す。了貫師盤尻に説教場を開き,後に岐阜出身の林空真が布教のかたわら寺小屋を開く(鷲田政太郎が建物を寄進)。盤尻分教場の創設により林空真は教師に任命され,説教所は吉田俊恩師が継いだ。盤尻説教場は大正2年廃止。

明治40年(1907):山口権六から境内地の寄進を受け(西七線十八号),同年11月に本堂,向拝,庫裏等の落成を見る。

昭和5年(1930):火災によって焼失。同年8月村役場の旧議事堂の払い下げを受け再建。

昭和25年(1950):客殿新築。

昭和36年(1961)4月:本堂を解放し季節保育を開始。

昭和39年(1964):納骨堂建立。

昭和41年(1966):客殿の増築。保育園舎完成(平成7年3月,少子化が進み閉園)。

昭和46年(1971):庫裏改築。

昭和55年(1980)6月:本堂の全面改築(鉄筋コンクリート造り,福井市高木相良設計,勝村建設施工)。

平成9年(1997):開教百年記念慶讃法要・式典。

平成10年(1998):記念誌発刊。

参照:恵庭市史(昭和54),山崎英雄「六線のお寺,島松寺のあゆみ」(昭和57),島松寺開教百年記念誌(平成10)      

◆真宗大谷派(東本願寺)

それでは,真言宗大谷派とは何か? 天融寺の項(本ブログ,恵庭の寺-1,2015.2.21)で触れたように,真宗大谷派は親鸞及び覚如を宗祖とする浄土真宗の宗派の一つである。京都市の真宗本廟(東本願寺)を本山とし,所属寺院数が全国で8,900寺を数える大きな教団である。なお,浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である浄土真宗本願寺派(西本願寺)がある。後者は,龍谷山本願寺(大谷祖廟)を本山とする。信者の皆さんは,前者を「お東さん」,後者を「お西さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1262),第三代覚如(1271-1351)が本願寺の実質的開基とされる。

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:真宗本廟(東本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

各種資料によると,真言宗大谷派の作法は以下のとおりだと言う。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず,戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく布教活動も多岐に亘っている。学校法人,大谷保育協会(全国に500の保育所をもつ)などの実績は,私たちの知るところである。

恵庭市内にある真宗大谷派寺院は,千歳山天融寺(恵庭市上山口)と恵庭山島松寺(恵庭市下島松)である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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恵庭の寺-4,漁村のお西さん 「敬念寺」(浄土真宗本願寺派)

2015-03-10 17:34:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

旅の途中で,或いは歴史を訪ねて神社仏閣に参拝した際はいつも,建造物の荘厳さや佇まい,建物に施されている彫刻の芸術性などに圧倒される。この感覚は,海外で古い教会を訪れた時に感じるものと同様である。宗教建築物や芸術性高い作品群は,殆ど全てが寄進によるものであろうが,当代の一流芸術家や技術者が製作して人類遺産となったものが多い。

ところで,私たちが一般に思い描く寺院はどんな姿だろう? 屋根が大きく緩やかに反った木造の大規模な建築物,装飾された建具などをイメージするのではないだろうか。

寺院の建築様式は,「和洋」「禅宗様」「大仏様」「折衷様」「寝殿造」「書院造」に分類されると言う。仏教とともに中国から伝わった様式に,日本人の好みや技法が加わり,伝統的な木造寺院建築が作り出された経緯がある。

しかし,建築基準法や消防法の規定で,法が定める規模を超える建物は鉄筋コンクリートとすることが義務化されるようになり,寺院とは言え昔のように大きな建物を木造で建てることは出来なくなった。そのため,鉄筋コンクリート造りの寺院が増え,外観のデザインも多様化している。

恵庭市の寺院も,近年に改築されたものは鉄筋コンクリート造りである。従来の寺院建築様式を偲ばせるよう工夫されたものもあるが,洒落た建造物になっている場合も見られる。今回訪ねるのは,モダンな建造物の寺院と言うことになる。

 

4.敬念寺(きょうねんじ),浄土真宗本願寺派

所在地は恵庭市本町。道道46号江別恵庭線(旧国道36号線)から,道道117号恵庭岳公園線に入ってすぐ右手の場所,旧道に面して山門がある。周辺は商店と住宅に囲まれた一角で,本堂・書院は三階建てになっている。JR恵庭駅の西方向,駅から1.3km,徒歩で16分ほどの距離にある。

この寺は,明治27年(1894)4月,漁村の嘉屋菊之助,和田勝太郎,木村長右衛門らが西本願寺札幌別院内北海道教区教務所に対し漁村への説教所設置を要請し,それを受けて原龍海師が漁村へ出張し布教に努めたのが創始とされる。同年9月には槇島善七,児玉作太郎から境内地の寄進を受け,説教所と庫裏を建設し,同年11月1日入仏式が行われた。また,明治34年(1901)富山県西三郷村敬念寺の寺跡移転願を受けて合併した後,敬念寺として歩んでいる。宗派は浄土真宗本願寺派。親鸞聖人を宗祖とし,京都西本願寺を本山とする「お西さん」である。

この寺も恵庭にある古刹の一つと言えようか,開拓移住初期の明治27年(1894)に説教所が設けられている。春とは言え,まだ境内に雪が残る時期に訪れた。門を入ると境内は駐車場になっており,正面に近代的な三階建ての建物がある。段差のある敷地を使って建立されているため,正面から二階に入るようになっていて,二・三階が本堂及び客殿となっている。そして,左奥に納骨堂が配置されている。納骨堂の前には開基僧侶原龍海師の碑(開基衛徳院之碑)が建っている。

敬念寺では,春秋の彼岸会,春秋の永代経,報恩講,御初穂感謝など年間行事の他に,毎月16日と22日に定例法座を開いている。恵庭市立図書館が主導する「恵庭まちじゅう図書館」にも参画していて,「恵庭で一番来づらくて,入りづらい図書館!? いえいえ,どなたでもお気軽に。昔ながらの懐かしい絵本が並ぶお寺です」とある。

◆敬念寺の概要

所在地:恵庭市本町

本寺:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治27年

開基:原龍海

歴代住職:原是清(初代),原義証(二代),原敬輝(三代),原宗法(四代)

沿革(歴史)

明治27年(1894):同年4月,漁村の嘉屋菊之助,和田勝太郎,木村長右衛門らが,西本願寺札幌別院内北海道教区教務所に対し,漁村への説教所設置を要請。原龍海師が漁村へ出張し布教に努めた。同年9月には槇島善七,児玉作太郎から境内地の寄贈を受け,説教所と庫裏を建設。同年11月1日入仏式が行われた。

明治29年(1896):小梵鐘供養式を執行。

明治34年(1901):富山県西三郷村敬念寺から漁村へ寺跡移転願が出され,説教所と合併した。原是清が初代住職となる。

明治36年(1903):原ヤスから用地の寄付を受ける。

明治41年(1908):漁村8番地に本堂,向拝,庫裏等を建設。

大正6年(1917):本堂増築。

昭和5年(1930):庫裏を新築。

昭和8年(1933):小樽市浅野亀次郎から梵鐘の寄進(本誓寺と同じ寄進者)。

昭和19年(1944):第二次世界大戦激しさを増し,梵鐘供出。

昭和36年(1961):本堂改築。

昭和43年(1968):納骨堂建設。

昭和46年(1971):書院新築。

参照:恵庭市史,浄土真宗本願寺派札幌組HP,恵庭市図書館HP

 

◆浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派については,弘誓山本誓寺の項(本ブログ,恵庭の寺-3,2015.2.25)で触れたが再掲しよう。本願寺派は浄土真宗の一つの宗派である。親鸞聖人の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする本願寺(通称西本願寺)を本山とし,末寺数が全国で10,500寺院,信者数695万人と言われる大きな教団である。浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派が組織)には,もう一つ大きな宗派である真宗大谷派(通称東本願寺,本山は「真宗本廟(東本願寺)」があり,本願寺派を「お西さん」,大谷派を「お東さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1263)

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

親鸞の教えを教義とするので,浄土真宗本願寺派と真宗大谷派との間に基本的作法の差はない(バリエーションは存在する)。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず(参観記念スタンプで対応する寺院はある),戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(1回,大谷派は2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく,布教活動も海外にまで及んでいる。学校法人龍谷学園以下,幼稚園教育までの実績も,私たちの知るところである。

恵庭市内の浄土真言宗本願寺派寺院は,この寺と本誓寺(恵庭市南島松)である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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