豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ(旅の記録-バルパライソ)

2012-03-25 17:17:53 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

ネルーダの別荘(現在博物館)を訪れる

カストロとともにキューバ革命を成し遂げ,革命の時代を駆け抜けたヒューマニスト,エルネスト・ゲバラ。彼に関する著作は多い。その中の一冊,「チエ・ゲバラの遥かな旅(戸井十月著,集英社)」には,パブロ・ネルーダの詩が7か所引用されている。

最初は,アルゼンチンのロサリオで生まれたゲバラが,コルドバで中等教育を受けていた頃,スペイン内戦をテーマにしたネルーダの詩に深い感銘を受け心酔する件で。二回目は,アルベルト・グラナダスとの南米旅行の途中,チリ北部のチュキカマタ銅山でアメリカ資本による収益収奪の状況を目の当たりにしたとき。三回目は,この旅の途中マチュピチュの遺跡に立った折に。

 

四回目の引用は,革命に揺れるボリビアで民衆のエネルギーを体に感じながら。五回目は,グアテマラで「ユナイテッド・フルーツ社」が広大な土地,鉄道,港湾,船舶,電信電話を占有している状況に触れ,アメリカ資本に甘い蜜を吸い取られ枯渇してゆくガテマラをみた時。六回目は,キューバでアメリカによる国交断絶,爆撃を受けた時。七回目は,ボリビアでのゲリラ戦で捕虜になった最終場面においてである。

 

著者は,ゲバラの人生の節目にネルーダの詩を配し,ネルーダの詩が革命家ゲバラの気持ちを支えていたことを述べたかったのだろう。事実,ゲバラ自身もネルーダの影響を受けた詩を作っている。ネルーダの詩がゲバラの夢を勇気づけていたことに間違いあるまい。

 

さて,そのパブロ・ネルーダは1904年生まれ,ゲバラより24歳上である。ネルーダは,チリの国民的英雄であり詩人であり外交官であった。1934年外交官としてスペインに赴任したときスペイン内戦に遭い,人民戦線を支援。1945年上院議員。1948年共産党が非合法化されたためイタリアへ亡命。1970年アジェンデ社会主義政権の下で駐仏大使。1971年ノーベル文学賞。1972年ガンを発病しチリに帰国。1973年ピノチエットのクーデターでアジェンデ政権が滅ぶと,軍事政権により家を壊滅的に破壊されている。クーデター後危篤状態で病院に向かう途中,軍の検問で救急車から引きずり出され,病院に着いたときは死亡していたとされる(20115月になって,チリ共産党は「毒殺」の疑いありとして控訴裁判所へ告訴状を提出した)。

 

ネルーダは,ファシズムに対して,詩をもってヒューマニズムを訴え続け,身をもって抵抗した英雄詩人と称される。ノーベル文学賞の受賞理由に「一国の運命と多くの人々の夢に生気を与える源泉となった,力強い詩的作品に対して文学賞を贈る」と述べられているという。彼の詩には,比喩のうまさが卓越してみられ,自然の美しさが詠われている。

 

2007年,チリのバルパライソ,ベジャビスタの丘にあるネルーダの別荘(現在博物館,写真)を訪れた。5階建ての建物には,書斎,寝室,居間などがそのまま残されており,窓からは港が眺められる。入り口にはハカランダの花が咲いていた。詩集を抱えた旅人,老夫婦などが,しばしの時を過ごしている。映画「郵便配達人」の舞台として使われたので,その場面を大事に思い出しているのかもしれない。ゲバラの夢を支えたネルーダの詩を口ずさんでみるのも良い。

 

バルパライソはチリの首都サンチアゴから120km,バスの本数も多いので日帰り可能。もう一度訪れたい町である(写真)。

 

 

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海外技術協力の一事例(パラグアイ大豆育種)

2012-03-24 18:08:49 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

1)第3フェーズ技術協力1997-2002

背景:わが国は,パラグアイの農業政策に沿った協力要請に応じて,「南部パラグアイ農林業開発計画,1979-1988」,「主用穀物生産強化研究,1990-1997」を実施し,大豆・小麦に関する遺伝資源,育種,種子生産,栽培,土壌管理等の各分野において研究体制の改善に協力してきた。大豆育種分野では,両プロジェクトを通じて系統育種法,集団育種法等の技術移転を行い,1985年にCRIA-1(導入ブラジル系統からの純系分離),1997年にUnialaAurora(在来種ALA-60から純系分離,因みに両品種は現在14,000haの栽培がある)を育成した。

 

わが国技術協力の進捗に歩みを合せるように,同国の大豆生産は年々増加し,1979年には250万トンを超え,国家経済を支える最重要な輸出作物(総輸出額の41-43%を占める)の位置を占めるに至った。従って,パラグアイ国にとって大豆生産の持続的発展は極めて重要なテーマであり,ブラジルで被害が急速に拡大しているダイズシストセンチュウへの対策(パラグアイへの侵入が懸念され,甚大な被害が予想される)の他,前後作の多様化技術や土壌劣化防止対策等が重要な課題として解決を求められていた。

 

係る背景のもと,第3フェーズ「大豆生産技術研究計画,1997-2002」が計画され,育種分野では (1)イタプア・アルトパラナ地域向け安定多収品種の育成,(2)イタプア・アルトパラナ地域向け特定作期向き品種の育成,(3)ダイズシストセンチュウ抵抗性素材の育種を課題として設定し,上述の緊急課題の解決を目指すことにした。これら課題のうち,「特定作期向き品種の育成」並びに「ダイズシストセンチュウ抵抗性素材の育種」については本プロジェクトで新たに加えた目標であるため,更なる技術移転が必要であった。

 

成果の一部は専門家業務完了報告書にまとめられている(大豆育種専門家業務完了報告書,Informe final del expert 2002)。

 

2)フェニックスプロジェクト2006-08

背景:大豆はパラグアイの国家経済を支える最も重要な作物で(大豆輸出は総輸出額の50%:パラグアイ中央銀行),多くの人々が大豆関連産業に依存している。しかしながら,2001年に南米大陸で大豆さび病(病原性の強いアジア型)が発見され,20031月にはシスト線虫の発生がパラグアイ国内において確認され,被害拡大が危惧されている。現在,パ国農牧省はこれらの病害虫対策を最優先課題としている。

 

農牧省地域農業研究センター(CRIA)は,当国における唯一の国立大豆研究機関で「国家大豆研究プログラム」に位置づけられ,重要な役割を担っている。大豆生産者及び生産者団体(農協等)はCRIAに対して,病害虫の抵抗性品種を開発することを強く期待しているものの,CRIAの研究者にとって,これら病害虫に対する知見は極めて乏しい。

 

かかる状況の中,終了済み案件である旧プロジェクト技術協力「大豆生産技術研究計画」を再活性化し,シスト線虫及び大豆さび病抵抗性品種の選抜・育種への協力を求め,日本国政府に本案件が要請された。そして,2年間実施した。

 

成果の一部は専門家業務完了報告書にまとめられている(大豆育種専門家業務完了報告書,Informe final del expert 2008)。

 

 

 

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大豆試験圃場でのできごと,南米編-1

2012-03-18 11:24:12 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

ピリリータ

パラグアイの地域農業研究センター(CRIA)で,芝生の上に遊ぶ鳥を見つけ,窓越しにカメラに収めた(写真)。帰国後,名前が思い出せなくてパラグアイの早川さんにメールで問い合わせたら,名前はピリリータpiririta)だと教えてくれた。ピリリータといえば,パラグアイのロス・ドウアルテ演奏アルパの名曲,賑やかにさえずる鳥の声で構成される「ピリリータ」ではないか。そう思うと,写真の鳥の冠もまぶしい。

 この鳥と同一であったかどうか確かでないが,試験圃場で騒々しく「ギャー,ギャー」と鳴きながら,圃場侵入者へ攻撃を仕掛けてくる鳥がいた。主に牧野に巣をつくり繁殖している。雛を守るために親鳥は極めて攻撃的で,侵入者の頭をめがけて急降下してくる。先輩のKさんは,直撃を受けて怪我をしたこともあるという。圃場に出るときはなるべく刺激しないように遠回りするか,頭の上に野帳をかかげて,身を守りながら通り過ぎなければならなかった。また,考え事をしながら歩いていて,顔の横を急襲され飛び上がらんばかりに驚くこともあった。

 

しかし,よく考えてみれば,我々が迷惑に思うのは筋違いで,彼らのテリトリーに我々が侵入しているのだ。

 

 

試験圃の畦間に潜む毒蛇

ブラジルのマトグロッソ財団種子生産農場を訪問した時のことである。案内に立った技術者が頑丈な脛あてをしている。昼食に戻ってきた労働者達も皆が,脛あてを外して休憩している。おお・・・,これは何だ。

「何のためにしているのか?」

「毒蛇から脚を守るのだ」と答える。

これは,一寸ばかり厄介だと思った。何しろ,ブラジルには400種を超える毒蛇が生息しているという。大豆畑に毒蛇がいてもおかしくない。

 

パラグアイでも毒蛇の話は聞いた(外務省医務官情報にも載っている)。農耕が繰り返されている大豆畑で被害に遭うことはないと思うが,調査で畦間に入るときは12mほどの棒で大豆を叩きながら進むことにした。驚いた蛇は棒に噛みつくか,音で逃げてくれるだろう。

 

タランチュラには気をつけろ

畑で作業することが多かったので,注意を受けたことがある。

「毒蛇とタランチュラに気をつけろ」

 

タランチュラとは何だ。聞くところによると,イタリアの港町タラントに毒蜘蛛の伝説があて,それを知っているヨーロッパ人が新大陸に渡ったとき,恐ろしい姿の大きな蜘蛛を見てタランチュラ(tarantula)と呼んだのが語源だと言う。パラグアイでは真っ黒でゴロッとした蜘蛛をこう呼んでいた。動きは鈍いが,余計に気味が悪い。詳細に確認したわけではないが,オオツチグモ科の一種だろう。

 

借家の換気扇から出てきたときは驚いたね。工事のテクニコは,「つがいで住む習性がある。もう一匹いるんじゃないか」と言った。

 

アルマジロはご馳走だった

アルゼンチンで最初に暮らした時のこと。大豆試験圃場の準備をしていたら,労働者達が急に声を上げて走り出した。

 「アルマデイジョ! アルマデイジョ!」と,多分叫んだのだろう。「キルキンチョ! キルキンチョ!」だったかも知れない。数分して戻ってきた労働者の手元には,アルマジロがぶら下がっていた。全身ないし背面は体毛が変化した鱗状の堅い板(鱗甲板)で覆われている。

 「この肉は美味しい」,スペイン語がまだ十分でない私に向かって,手真似で話してくれた。

 

アルマジロArmadillo)という名はスペイン語で「武装したもの」を意味するarmadoに由来するという。ケチュア語ではケナガアルマジロを「キルキンチョ」もしくは「キルキンチュ」と呼び,ボリビアやペルーではこちらの方が通称だという。 

 

時を経て,パラグアイのチャベス移住地に日系一世のUさんを訪ねた。壁にはアルマジロの甲羅が飾ってあり,ご馳走になった肉は鶏肉のようだった。開拓当時はアルマジロをよく食べた,ご馳走だったとも語ってくれた。

 南米では,アルマジロの肉を食用としてきたほか,甲羅はチャランゴ(写真),マトラカなどの楽器の材料に使われている。開拓の頃に比べたらその数は減少している。一方,南米原産のアルマジロが北米にまで広がり,テネシー州では野生のアルマジロが増えすぎ,狩猟して良いことになっているという。

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セニョリータと呼ばれたくない?

2012-03-17 10:46:11 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

英語を習い始めた中学生の頃に,ミスター(Mr./misterは男性に,ミス(Miss/mistressは未婚女性に,ミセス(Mrs./mistressは既婚女性に対し敬称として使用すると教えられた 。例えば,スミスさん(Mr. Smith)のようにとあった。また,「ミス」は未知の若い女性,ウエイトレス,店員に呼びかけるときに名前をつけないで使い,英国では古くから既婚未婚を問わず女性教師にも使用している。

これに対応するスペイン語が,セニョール(Sr./Señor),セニョリータ(Srta./Señorita),セニョーラ(Sra./Señora)であることは,多くの方がご存知だと思う。

しかし,女性に相対するとき,セニョリータと呼ぶか,セニョーラにするかは,かなり悩ましい。夫婦同伴の場合や自己紹介された場合,或いはドクトーラ(Doctora)とかインへニエラ(Ingeniera)と公式敬称で呼べる場合は問題がないが・・・。

以下は,南米での体験である。

 

◆アンデス上空で女学生を叱責するCA

チリのサンチアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かう飛行機で,修学旅行と思われる女生徒の一団と乗り合わせた。騒がしいほど賑やかに,少女達は盛り上がっている。アテンダントがマイクを使い,席に着くようにと声をかける。

 

それでも静まらない女生徒に向かって,「Señoríta! Siéntese por favor. お嬢・・・さん,お座り下さい」。セニョリータの「」に強いアクセントを置いて呼びかけると,さすがにシーンとなった。なるほど,母親が子供を叱るとき,このように叫ぶのかと思った。英国でも,特に生意気(不作法)な少女や女学生に対して,強く「ミス」と呼びかけるそうだが,共通している。

 

◆パラグアイの編み物教室での一コマ

パラグアイでのこと,数名の日本人セニョーラ達(いずれも5060代)が,老先生(Profesora)から民芸品(アオ・ポイ,ニャドウテイ)の編み物製作を習っていた。先生の指示に対して,生徒達は図面とにらめっこで作業を始める。

一人のセニョーラが,いつものように音を上げる。

「先生,これ,どうするの,出来ないわ」

「こちらから,この編み目を拾って・・・」と老先生は説明を繰り返す。

 

「出来ない,先生やってみて」

「まあ,まあ,セニョリータ! どれどれ・・・」

 

セニョーラがセニョリータと呼ばれても,「若くみられたものだ」と喜んでばかりはいられない。むしろ,何と子供なの・・・という意味あいで,呆れている感じが透けて見える。裏のニュアンスだ。日本語でも似たような言い方をしますね。

 

◆女性教師はセニョリータ

 アルゼンチンで暮らし始めたとき,そこは田舎町であったため日本語学校などもちろん無く,子供たちは現地の公立学校へ通うことになった。お世話になったのがベテランの女性教師で,セニョリータ・モッシイと紹介された。えつ,セニョリータなの,セニョーラでないの? が,無知なる初印象であったが,セニョリータと呼ぶのですね。修道女が教育に携わった歴史に由来するのかも知れないと,そのとき思った。

これも,家族同士の交流の場面ではセニョーラとなる。

 

◆ミズ(Ms./Ms

英語では,既婚と未婚を区別しないミスとミセスの混成語ミズ(Ms./Ms)が使われる場面が多くなった。男女差別を解消しようとの中で生まれ,1973年以降国連でも正式に採用されたという。が,味気ない感じがしないでもない。

 

スペイン語でミズに対応する言葉があるか否か,残念ながら浅学にして知らない。だが,セニョリータと呼ばれたいセニョーラがいても,セニョリータとは決して呼ばれたくない女性がいても,良いではないか・・・。日本語には,もっともっと複雑な言い方がある

 

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南米の蟻と蟻塚(anthill, hormiguero),大豆畑でも蟻にはご用心

2012-03-14 17:47:58 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

子供の頃の絵本に蟻塚の絵があって,見知らぬ世界に興味を抱いたことがあった。蟻塚は傍らに立っている少女の背丈ほどもあり,赤土で作られた形は極めて印象的であった。山奥生まれの田舎育ちであったため,蜜を求めて樹の肌を上り下りする蟻の姿や,トンボや蝉の死骸に列をなす蟻,庭の石垣を崩すと溢れ出る蟻の群,隊列の途中に障害物を置いてもそれを乗り越えて進む姿など見慣れたもので,蟻の観察は遊びの範疇に属していたが,絵本で見る赤い蟻塚はさすがに異質のものであった。その時,世界は広いのだと,悟った。

 

その後実際に蟻塚を見たのは,1979年(昭和54)であったろうか,アルゼンチン北部のミシオネス県ポサダス市からイグアスへ向かう乗合バスの窓からであった。森を拓いた牧場に点々と蟻塚が並び,やはり赤土で出来ていた。絵本でみた風景と瓜二つで,子供の頃の印象が蘇ってきた。

 

同行していた9才と10才の息子に,「あれは,何か,分かるかい?・・・蟻塚だよ」,子供の頃を思い出しながら話した。

 

「この前,コルドバで見たハキリアリとは違う種類だ。シロアリの一種だ」

「何故,蟻塚を作るかって? ここは亜熱帯で,暑いし,スコールもあるだろう。小さい蟻たちは暑さを防ぎ,大雨に流されないために考えたのさ。蟻塚の中は,空調が効いて快適だと思うよ」

 

当時のアルゼンチンの生活で,千切った木の葉をセッセと運ぶハキリアリの隊列を初めて目にして,しばし見入ったことがあるが,図鑑で見た知識が具現化したとき,何故か嬉しさが湧き上がってくるものだ。

 

ハキリアリは,主に中南米の熱帯雨林に生息している。集団で行列を組んで様々な種類の木の葉を円く切り取って巣の中へ運び,その葉で培養した菌類を主食にするのだそうな。人間以外でいわゆる「農業」を行うという珍しい蟻である(農作物を荒らす害虫として駆除の対象にもなっている)。

 

パラグアイでは,イグアスの滝があるアルトパラナ県シウダ・デル・エステ市からエルナンダリアス市を抜け北へ進んだ辺りに,牧野に群居している蟻塚を眺めた。この道路は,カニンデジュ県イホヴィで実施していた大豆調査のため何回も通ったが(200608年当時),このカンポの蟻塚の数が減ることはなかった。粗放な牧野といえるのだろう。車を停めて写真を撮ろうと思ったが,いつも先を急ぐ旅程でそれもかなわなかった。

 

ただ,イタプア県カピタン・ミランダ市にある農業試験場でも蟻塚を見ることが出来た(写真)。草刈りをしているムチャチョは,蟻塚が成長すると鍬で壊していたので,写真はそれほど大きくないが,蟻塚は蹴飛ばしても壊れない。想像以上に硬く出来ていた。

 

一方,大豆の試験圃場にも蟻の巣が彼方此方にあった。開花時期が過ぎて選抜作業にかかる頃の蟻は結構厄介である。野帳を片手に圃場を歩いていると,知らぬ間に蟻の巣を踏みつけ,多数の蟻が脚を這い上がってくる。そうなると大変で,ジタバタ振るい落とそうとしても手に負えない。先輩のKさんは,圃場での作業中に蟻に噛まれて,腫れと熱のため病院で治療を受ける羽目になったほどである。蟻への対策は,巣を踏まないこと,ズボンの裾から入り込まれないことに尽きる。

 

パラグアイではないが,マレーシアで蟻に噛まれる体験をしたことがある(1991年)。同行していた運転手たちが,「この公園で少し待っていて下さい」と礼拝に出かけたあと,公園の芝生に立ってモスクの写真を撮っていたら,太腿の奥を一撃された。足下を見ると多数の蟻が動いている。「蟻だ,蟻にやられた」,と慌てたものの,そこでズボンを下ろすわけにも行かず,急いでトイレに飛び込んだ。憎き一匹を摘んでトイレに流し,事なきを得たが,努々油断すべからずということだ。

 

お蔭で,マレーシアの公衆トイレを観察することができた。ドアがない,水を溜めたバケツは何のため? 等々,これも印象に残っている。

 

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パラグアイの豆乳飲料,フルテイカ社を訪ねる

2012-03-11 09:17:47 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイに滞在していた頃,農業法人フルテイカ社(Frutica S.R.L.)を訪れた。およそ10年前の9月(2001年),初春のことである。この会社の製品はスーパーマーケットでよく見かけ(写真),同国ではよく知られた会社である。清涼飲料といえばコカコーラというお国柄,ジュース類は隣国ブラジルやアルゼンチンからの輸入品が多い中で,唯一パラグアイで成功している会社との予備知識があった。

 フルテイカ社は,国道6号線をEncarnacio市からCiuda del Este市に向かって150kmほど走り,右折して割石舗装の道路を東に20km入ったカルロス・アントニオ・ロぺス市(Carlos Antonio Lopez)にある。

 

同社は,1978年にドイツから移住したクレス夫妻により始められた農業生産グループの一翼を成している。グループは穀物果実生産部門のベアテ農場(Estancia Beate),穀物の調整保管出荷を担うキメックス社(Kimex S.R.L.),及び果実の加工調製出荷を担うフルテイカ社(Frutica S.R.L.)で構成されている。

 

所有する総面積13,000haのうち,畑地では冬作として小麦1,300ha,とうもろこし5,000ha,ひまわり若干,夏作はすべて大豆である。果樹園は1,300haあり,オレンジ類600ha,ポンカン140ha,その他レモン,桃,ネクタリン,李,パッションフルーツ,グワバ等が植えられている。広大な林地からは,出荷用の木箱等の資材を生産し,植林も進めている。

 

作業機は大型トラクターやコンバイン,薬剤散布用の小型飛行機2機などを所有し,GPSを搭載した精密農業がおこなわれていた。当時のパラグアイ農業の実態と比べれば,驚くほどの先進性である。また,海外から果樹品種輸入し試験圃を設けるなど,堅実な努力がなされている。

 

ダイナミックで大規模な農業生産法人であるが,同国の小規模果樹農家から購入したグレープフルーツで果汁を生産,オランダから有機栽培ジュース生産工場の認定を得るなど,きめ細かな一面もみせていた。また,紙パック詰め機械はスイスから導入し,メンテナンスは納入会社に委託していた。生産された濃縮果汁や生食用果実の70%はヨーロッパ初め国外に輸出されている。

 

ベアテ農場では常雇250人,収穫時には臨時350人を雇用している。フルテイカ社では常雇40人,繁忙期には臨時に60人を雇用しているという。冒頭で,フルテイカ社はカルロス・アントニオ・ロぺス市にあると述べたが,フルテイカ社の発展につれ周辺に人が集まり,企業城下町が形成されたのが実態であろう。このような町では,保育所や学校なども企業が運営する場合が多い。

 

クレス夫妻が1978年に入植してから二十数年で,南米でも屈指の優良企業といわれるまでになった。同時に,パラグアイの片田舎に産業を起こし,雇用の場を生み出し,小さいながらも城下町が形成するまでにしたクレス夫妻の貢献は大きいといえよう。

 

誰もが,「社長は,会社の誰よりも働く人であった。朝早くから夜遅くまで,車を運転して農場を見回っていた」と,その働きぶりを伝説のように話した。

 

「ある朝,クレス氏は農場見回り中に車が転倒し亡くなった。しっかり者の夫人が社長を務めている」と聞いた。

 

メジャー企業との関わりのない一人の移住者によって築かれた会社で,パラグアイ人によって生産される農産物が,辺鄙な片田舎から世界に積み出されて行く,爽快な話ではある。だが一方,この企業も安価な労働力によって支えられていることは事実である。

 

参照:丹羽勝・土屋武彦・豊田政一・塩崎尚郎・大杉恭男 2002「パラグアイ農業の諸相」専門家技術情報第5号,パラグアイ大豆生産技術研究計画

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サボテンの民芸品,アルゼンチンのフフイにて

2012-03-04 11:28:29 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

アルゼンチンの北部,サルタ市を抜け国道9号線をフフイ市に入る。さらに,ボリビアのポトシ市に通じる国境越えの国道を進むと,山肌が赤,青,緑,黄色などカラフルに層をなす珍しい風景が現れる。岩石に含まれる成分によって色が変わり,太陽が傾くと美しさが際立つ。七色の丘ウマワカ渓谷,アンデス山脈につながる地形で,標高2,900mほどのところにある。サボテンが山肌に群生している(写真)。

 

突然現れた集落(Uquia)に,小さな古い教会(1691年建設)が建っている。信心深い旅人は立ち寄ってお参りするが,それは古いことだけが価値だと感じさせるような教会である。ここまでくれば,気取ったアルゼンチンの面影はない。インデイオの世界である。

 

教会の近くに民芸品の工房があり,土産物として製品が陳列されていた。

 

写真はサボテン木質で作った皿,お菓子や果物を盛ってテーブルに置けば洒落ている。色は淡泊で無垢,極めて軽い。サボテンの繊維は所々に空隙があり,曲がった繊維を貼り合わせたようにも見える。その他にも工芸品はいろいろあるが,電気スタンドの笠が面白い。電気を点けると,サボテン木質の隙間から光が漏れて,天井や壁に不思議な模様が浮き上がる。

 

サボテンの木質部をどう利用するか,それまで考えたこともなかったが,世にはアイデア豊富な職人がいるものだ。この地方では,建材として天井に張ることもある(写真-フォルクローレを踊るレストランの天井)。

 

参照 1) www.turismo.jujuy.gov.ar,2) 土屋武彦「アルゼンチン北部サルタ・フフイ,雲の列車とウマワカ渓谷」

 
 

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ケブラッチョ,斧も折れる硬さ,皮の「なめし」に使われた

2012-03-03 10:07:08 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の樹-4

アルゼンチン北部,ボリビア南部からパラグアイ北部にかけてのグラン・チャコと呼ばれる地帯に植生する「ケブラッチョ」という樹がある

 

最初にこの名前を聞いたのは,1978年(昭和53)アルゼンチンに滞在していた頃のことであったと思う。

「ケブラッチョ,極めて硬い木だ。牧場の柵,鉄道の枕木にしか使えない。この木から取れる渋(植物性タンニン)が昔から皮の鞣しに使われたこと,鉄道敷設が進み需要が増えたため,乱伐が進んだ」

大使館の松田さんが話してくれた。

 

「ケブラッチョですか?」

「材が硬いことから斧を折る,という意味があるのだそうだ」

 

斧が折れるほど硬いと言うことなのだろう。Quebrado(割れた,壊れた),Quebradizo(割れやすい,壊れやすい)の意味から来たのか・・・。

Que! Braceado(何てこっちゃ,何度も斧を振らせやがって)としたら,こじつけですか?」

 

思いつきを言ってみた。だが,返答はなかなかったような気がする。聞いたかも知れないが,覚えていない。ただ,その時のケブラッチョと言ったMさんの発音と,何しろ硬い,枕木,タンニンの単語だけが記憶に残っている。確かな語源を聞いておけばよかった。

 

ケブラッチョの名前は近年,日本でもよく耳にする。アルゼンチンの優れた市場材として認知度が高い。

 

ケブラッチョQUEBRACHO, Schinopsis lorentzii

心材は赤褐色で極めて硬く,加工も難しい。枕木,牧場の柵など耐用性を重視する材として使用された(枕木として4050年はもつという)。皮なめしに使う「渋」(タンニン)を取るため大量に伐採された。植物性タンニンは日本も輸入している。

 

高さ1020m,直径5060cm,花色は淡い黄緑,木肌は白色と褐色の二種類がある。辺材は肌色と褐色であるが,内部より渋が出て紫黒色となる。

 

なめし技術には,植物性担任を使う「タンニンなめし」と塩基性硫酸クロムを使う「クロムなめし」がある。クロムなめしは,工程の省力化,製品のソフト感などメリットもあるが,焼却により六価クロムが発生するなどの問題があり,処分には注意が必要だという。

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酔っぱらいの樹,パロ・ボラーチョ

2012-03-02 18:16:19 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の樹-3

初めて南米を訪れたのは1977年(昭和523月であったろうか,三十代の頃である。アルゼンチンのブエノス・アイレスに到着し,ヌエベ・デ・フリオ大通り(Ave. 9 de julio)にあるホテルに投宿した。この大通りは,長さ1km,幅100m,独立記念塔が中央にあり,両側にはコロン劇場など昔の栄華を偲ばせる古い建造物が並んでいる。黄色と黒に彩られたタクシーが我先にと走る賑やかな大通りであるが,店の前に置かれたカフェテリアの椅子にはポルテーニョ達が寛いでいる。ハカランダやセイボの街路樹が影を落としていたが,この大通り中間帯には派手なピンクの花をつける樹が何本も植えられていた。

 

あのピンクの花が咲いている樹は?」

ああ,パロ・ボラーチョ,酔っぱらいの樹だ。幹がビア樽のようでしょう。私には似てないが・・・」レストランのモッソ(給仕)は突き出た腹を抱えて笑った。

 

「確かに・・・?」

“突き出た腹”と“酔っぱらい”は結びつかなかったが,同行の友はすっかり納得して言った。

「ワインを毎日飲んで赤ら顔のヨーロッパ人達は,確かに腹が出ているわ」

「待てよ,酔っぱらいというより,これはビア樽からの連想じゃないのか・・・」

 

謂われはさておき,兎にも角にも,これは「酔っぱらいの樹」だ。なにしろ,ド派手な花をつけ,腹を突き出し,幹は背筋がまっすぐ伸びているとはとても言い難い。酔っぱらいのように斜に構えている。そして,ピンクの花には青空がよく似合う(写真)。華やかである。現在では,園芸樹として世界の各地に植えられている。

 

この樹を英語ではDrunk treeと表現するし,スペイン語では「Está borracha de cerveza.彼女はビールで酔っぱらっている」との表現がある。

 

パラグアイの古戦場(ボケロン県,チャコ戦争1932-1938)に,くり抜いたパロ・ボラーチョの中に隠れて敵を待ち伏せしたと伝えられる樹がある。なるほどこんな使い方もあるのか。こんな戦いの時代があったのか。80年前には(写真)。

 

トックリキワタ(西語名Palo borracho英名Floss silk tree, Drunk treeCeiba speciosa Ravennna

アオイ目パンヤ科(アオイ科)セイバ属。ブラジル南部からパラグアイ,アルゼンチンにかけての南アメリカ中部が原産。街路樹として植樹される。ビア樽のような幹が特徴,名前の由来でもある。若木の幹や枝にはトゲがあり,幹や葉は瑞々しい。花は大型で,ピンク,次いで白が多く,小鳥を引きつける。紡錘形の大きな実(直径15cmほど)が割れると,綿毛にくるまれた種子が風に舞う。クッションや縫いぐるみの詰め物にすることもあるという。

 

 

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パロ・サント(聖なる木)

2012-03-01 11:08:48 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の樹-2

パラグアイ国エンカルナシオン市に住み始めた頃(20008月),チャコ地方へ旅行する機会があった。エンカルナシオンからアスンシオンへ,さらにパラグアイ河を渡ってチャコ地方へ入る道程である。エンカルナシオンからアスンシオンへは国道1号線をひたすら走るが,しばらくは大豆畑や背中にコブのある牛が長閑に草をはむ放牧地が続く。

 

アスンシオンの雑踏を過ぎチャコ地方に入ると,植生や農業形態が大きく変化しはじめ,パンタナールの下流の湿地帯には椰子の林が広がり開発途上の放牧地が広がる。次第に乾燥地帯へと移行すると樹木も低木に変わり,土埃が車の中まで進入してくる。ボリビアに近づけば植生が途切れいずれは荒涼たる山になるのだが,その手前に位置する辺境の地にドイツ系メノニータが拓いた町がある。フィラデルフィア(ソビエトを経て移住),ロス・プラタ(カナダをへて移住)などである。冬季は全く雨の降らない地帯だ。

 

フィラデルフィア市ホテル・カルフォルニアの隣に民芸品を売る小さな店があり,覗いてみると床の隅に木製の皿や壺が無造作に置かれていた。埃を被ってはいたが手にとると,重量感がある。重い。素朴に削って,色合いが渋く,手作り感がある。店の主人が話しかけてきた。

 

パロ・サントだ。この地方の原住民が作っている。水に浸すと緑色が濃くなるし,長持ちするそれに,良い香りがする・・・

 

初めて聞いた名前だった。パロ・サント:聖なる木(木材,棒)とは,洒落た命名ではないか。

「何故,パロ・サントというのですか?」

心を落ち着かせる芳香がする。教会でミサの時に焚くので名付けられたのです

 

今でも実際に教会で使われることがあるらしい。その後,注意していると,マテ茶を煎れる容器,壺,サラダ用のフォークとスプーン,置物,アクセサリー等々に本材が使われていることに気づく。

 

木目色彩の美しさ,香りが珍重の理由だろう。

 

パロ・サントPALOSANTO, Holly wood, Bulnesia sarmientoi Lorentz et Gris

南アメリカのグランチャコ原産。辺材は白黄色,心材は黄褐色~青緑,なめらかな光沢,濃色縞帯を呈す。材は,重く硬く頑強,菌や虫への抵抗性があり耐久性が高い。心材部に精油物質を含み,良い香りがある。教会で焚く香として使われるためパロ・サント(聖なる木)の名前が付いた。材から得られる精油が香料原料として取引されていると,解説書にある。

 

近年,日本ではアロマテラピーが流行り,各種アロマオイルなどが販売され,「パロ・サント」の名前も広く知られるようになった。また,日本では仏具店で数珠や仏像を彫り,通称「緑檀」の名前で販売している例がある。キャッチコピーは大方の場合,「インカ帝国の時代儀式の時に焚いて,良い精霊を呼び寄せ,悪い精霊を追い払う」との伝承がある,「心を落ち着かせるアロマ効果」と語られている。

 

アメリカ原産のユソウボク属Guaiacum spp.の樹種の心材,南米原産のBursera graveolensもパロ・サントと呼ぶことがあり,類似する木材がパロ・サントの名で流通しているのではないかと思われる。パロ・サントは,現在「ワシントン条約」第Ⅱ類に指定され,一部商取引ができるものの輸出入許可証など商取引の規制が厳しく制限されている(日本国では201010月に発効)という。

 

写真はパロ・サントの皿,マテ茶容器など。

 

廣野郁夫「木のメモ帳」,Daikins木材図鑑,土屋武彦「ボケロンのユートピア,原住民はどう思う」

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