豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

なぜ、北海道で豆の栽培が盛んになったか?

2011-05-28 16:26:43 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道新聞の土曜日版夕刊に,週刊フムフム,世界と日本大図鑑(学校の教材に役立つ大図鑑)という子供向けの連載が組まれている。

 

去る平成23129日,大図鑑378として,豆王国HOKKAIDOが特集された。「日本で稲作が始まる前から食べられていた豆。北海道は,大豆,小豆,インゲンの生産量日本一を誇る豆王国です。23日の節分を前に,北海道の広大な畑で育つ道産豆を紹介します」と,豆の全てが理解できるように,データも含めて幅広く分かりやすく解説されている。

 

取材協力の依頼を受け,次の一文を寄せた。ご覧になった方,いらっしゃいますか?

 

なぜ,北海道で豆の栽培が盛んになったか?

地球上に豆科の植物は18000種,食用に供される豆は約80種あるといわれる。

 

アジア原産の大豆と小豆は,古事記や日本書紀に記述があるように,日本でも古くから栽培され,みそ,しょうゆ,豆腐,納豆,赤飯,あんなど伝統食品として食されてきた。一方,いんげん,落花生は中南米,えんどうは地中海が原産地で,日本に導入されたのは江戸時代以降のことである。

 

北海道における豆類の栽培は,江戸時代に,渡島,檜山地域へ和人がもたらしたとの記録があるが,主として明治に入り開拓者が道外から種子を持ち込み,みそなどの原料を得ようと種をまいたことに始まる。また,開拓使や札幌農学校も,いんげんやえんどうの種子を欧米から導入し,北海道に適する品種を選んで植えた。開拓が進むにつれ,栽培は道南から道央,道東へ広まり,道内各地に豆の産地が形成された。

 

北海道に豆作が定着した要因は,①豆類が北海道の気候,特に内陸的気候に適する②労力が少なくて済み,大規模栽培ができる③少ない肥料で栽培でき,地力を消耗しない④貯蔵や運搬が容易で商品として優れるなど,いくつか考えられる。

 

その後,生産者や農業試験場など関係者の尽力により,品種や栽培技術が飛躍的に改善され,道産の豆は品質面で高い評価を得るようになった。有機物を導入した土作り,輪作体系が確立したことに加えて,日夜の気温較差が大きく,冷涼な秋風の中での乾燥など,北海道の自然環境が高品質でおいしい豆を生産するのに役立っている。

 

豆類は,高タンパクで必須アミノ酸や脂肪酸組成の優れた食品として知られている。さらに近年の研究から,食物繊維やポリフェノールなど機能性成分を多く含み,健康食品として優れていることが明らかになってきた。ところが残念なことに,家庭では豆を食べる機会が減っているという。豆を食べ,今年もマメに暮らしたいものだ。

 

参照:北海道新聞夕刊,2011129

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マレー半島,遺伝資源探索の旅で何をしたか?

2011-05-28 15:30:17 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

古い話になるが・・・マレーシアを約1か月間,豆類遺伝資源(在来種など)探索行した時のメモ

 

近代的な農業の発展とともに在来種が姿を消しつつあり,また地球規模での開発が野生植物を消滅させている。生物の多様性を守ることは世界の優先課題である。そのためにも,遺伝資源の収集及び保存は極めて重要で,農林水産省はジーンバンク事業を展開し,筑波に20万点を超える遺伝資源を保存している。また,北海道でも植物遺伝資源センターを中心に約3万点を保存している。さらに,国際機関が有する遺伝資源は60万点,世界的な總点数は600万点と言われる。

 

これら遺伝資源は育種場面に活用され,有用な新品種が数多く開発されている。例えば,北海道におけるマメ育種の例で拾ってみると,道内在来種から耐冷性を導入した「カリカチ」や「トヨコマチ」,中国品種から線虫抵抗性やわい化病抵抗性を導入した「スズヒメ」や「ツルコガネ」,アメリカやタイ国の品種から難裂莢性を導入した「カリユタカ」や「ハヤヒカリ」,韓国品種から落葉病抵抗性を導入した「ハツネショウズ」や「アケノワセ」,アメリカ品種から有限伸育性と耐冷性を導入した「姫手亡」,ヨーロッパ品種から炭素病抵抗性を導入した「雪手亡」など,導入遺伝資源活用の事例は多い。このように,遺伝資源の収集とその利用は品種開発を進める上で大きな原動力になっている。

 

ここでは,1991年にマレーシアで実施した豆類遺伝資源収集の事例から,「遺伝資源探索のために何をしたか」整理して置こうと思う。この探索事業は,わが国の農業生物資源研究所とマレーシアの農業開発研究所との共同研究として実施された。この旅では,長野県中信農業試験場の大豆育種家YK氏と一緒に行動し,マレーシア側の責任者ラムリ博士を初め多くのマメ研究者とマメについて語り合った。

 

計画立案

遺伝資源収集は,何を収集するか,目標地域を何処にするか,ルートの選定,収集の時期と期間について検討することから始まる。さらに,現地での収集の可能性や安全性等も考慮される。1992年に生物の多様性に関する条約が発表され,遺伝資源に関する主権的権利が保護されるようになったため,遺伝資源収集に当たっては保有国との事前協議が必要になっている。このような遺伝資源ナショナリズムの台頭に対しては,開発途上国の未開発遺伝資源をその国の活用に役立てることを第一義にして,共同探索を実施するなどのシステムが整いつつある。

 

事前調査と旅行計画

効果的な探索を行うためには,現地機関への連絡と事前打合せ,事前情報の収集など綿密な事前調査が大事である。事前調査のために6か月から1年間の余裕が欲しい。旅行計画は,探索チームの編成,準備会の開催と役割分担,植物防疫所への連絡を行う。探索チームの編成は,造詣の深い専門家と次の派遣チームの中心となるべき若い研究者がペアを組むなど,単独より2名の方が何かと都合がよい。準備会では,派遣組織の関係者と派遣専門家が一堂に会して,調査隊の名称,役割分担,調査時期及び期間,調査予定地域,調査手段,相手国の機関及び責任者,国内本部及び連絡網,調査計画,未解決事項とその処置などを協議する。植物遺伝資源の導入を円滑に行うためには,輸入予定日の2か月前までに遺伝資源導入計画書を提出する。

 

装備と収集行動の準備

収集品収納袋は,乾燥子実用の紙袋と未乾燥の草本用に網袋を用意する。採集記録野帳は収集品個表と収集品現地総括表を準備し,ノート,地図,ロードマップ,ナイフ,ハサミ,ステプラーなども役立つ。調査用具としては,高度計,距離計を用意し収集地の情報を記録する。また,カメラ,メジャー,虫眼鏡,種子クリーニング用品等を用意し,収集品の特性調査とその環境を記録する。収集品は病虫害の発生に特に注意し,場合によっては消毒する。

 

行動は朝日とともに出発し,夕方は早めに切り上げるのが望ましい。収集品の整理と記録はその日のうちに完結させねばならないので,その分の時間を前もって考慮に入れておくと良い。宿泊は個室を準備し,連泊できるルート設定が望ましい。運転手など現地の雇用者との人間関係が大事である。温度変化に対応できる服装で,帽子と雨具は必需品。靴は野山を歩けるものと訪問先で失礼にならないもの。胃腸薬,風邪薬,防虫剤など医薬品を用意する。

 

収集品の整理,取り扱い

収集品の整理,野帳への記入は,収集当日に行うことを基本とする。宿舎に戻ってから,収集品をクリーニングし,相手国に残す分を分割し,調査個表の確認と現地総括表を作成する。記録は,調査隊2人のメモを確認しながら実施する。

 

現地での報告会では,共同研究に対する謝意を表すとともに,現地で作成した報告書(英文)を提出する。報告書には,収集の日程,収集の場所,収集品のリストなど成果を記録し,今後の取り扱いについて述べる。収集した遺伝資源は2等分し,片方を相手国に残し一部を日本に持ち帰ることを確認する。さらに,遺伝資源収集を初め情報交換の協力を約束した。

 

帰国後の整理 

収集した遺伝資源は,パスポートデータとともに農業生物資源研究所生物遺伝資源管理施設に保管する。その後,専門場所で特性調査を実施し,情報の公開と活用が図られることになる。

 

参照:1) 土屋武彦2000「豆の育種のマメな話」北海道協同組合通信社,詳細については, 2) 土屋武彦・矢ヶ埼和弘・Ramli Bin Mohdnor 1991「マレーシアにおける豆類遺伝資源の探索1991年」植物遺伝資源探索導入調査報告書 7,177-204.   3) 土屋武彦 1991「海外植物遺伝資源収集報告書,マレーシアにおける豆類遺伝資源の探索1991年」北海道立十勝農業試験場.

 

 

528a_web 528_web

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君はアンヘルモでクラントを食べたか?

2011-05-26 14:34:20 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

サンチアゴから南に1,000km、プエルトモンがある。この町はドイツ人移民によって開かれた町で、観光の拠点として名前が知られている。山と湖巡りが人気の地で、アルゼンチンのバリロッチエ(南米のスイスと呼ばれる、スイス系移民によって開かれた)への国境を越えるツアーを利用する旅人が多い。

 

また、南部の氷河クルーズもここが出発点。チリパタゴニアを旅する人のゲート。冬場は閑散としているが、夏場はいくつかの湖をめぐる自然探訪と新鮮な魚貝類を目当てに観光客が集まる。市内から2kmの所にアンヘルモ漁港、魚市場があり、ウニ、ピコロコ貝、ホタテ、サーモンなど新鮮である。とはいえ、旅人の体験から言えば、生ものを食べるのは注意した方が良い。

 

近くのチエロ島を訪れるのも楽しい。チリの他の地域とは異なる文化が残り、木造の教会など建物の造りも特徴がある。教会は世界遺産に登録されている。

 

最近は、日本のスーパーにチリ産の鮭が並んでいる。チリにおける養殖事業は、日本の技術者が長年にわたりこの地の南方で苦労した技術協力の成果である。

 

002_web 004a_web

006web 005a_web

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンチアゴに雨が降る

2011-05-26 14:29:52 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

再びチリの旅を続けよう。

サンチアゴはチリ共和国の首都で、国土の中央部に位置する。アンデスの山々に囲まれた盆地で、標高520m、約600万の人々が暮らす。市街地を遠望すると、アンデスの山を背景に霞んで見える。スモッグと砂埃が原因だが、雨が降れば青く澄み街路樹は生き返る。また、バスで海岸の観光地ビーニャデマルや世界遺産の町バルパライソまで脚を伸ばせば、休日を楽しめる。

 

街は、歴史的な建造物や生活感のあふれる旧市街地と、南東部に開けた新市街地に分かれる。旧市街地は、アルマス広場を中心に大聖堂(カテドラル)や国立歴史博物館、モネダ宮殿や旧国会議事堂など歴史を感じさせる建物が多い。深田祐介著「革命商人」を読み、映画「サンチアゴに雨が降る」を見てから旧市街地を歩めば、印象はまた一つ違う。

 

アルマス広場から歩いて直ぐのところに中央市場があり、魚貝類や食材が豊富に揃っている。食堂もいくつかあり、食を楽しむことも出来る。旧市街地では歴史探訪のかたわら、歩行者天国通りの商店街、アーケード、混雑する食堂に立ち寄るのも楽しい。

 

新市街地のプロビデンシア地区、ラス・コンデス地区には、オフィス、ホテル、ショッピングセンターが立ち並び、洒落たレストランもある。

 

サンチアゴは旅の中継点でもある。パタゴニアから最初にサンチアゴを訪れたときは旧市街地サンフランシスコ教会の傍のホテル、プラザ・サン・フランシスコに泊まったが、その後のイースター島旅行、アリカ旅行、メキシコ旅行で立ち寄った時は新市街地に宿を取った。新市街地は、高級ホテルもあるが、比較的安価で小綺麗なホテルを見つけることが出来る。市内の移動には路線バスがあるが、旅人にとって地下鉄が利用しやすい。

 

 

 Img_1208  001_web

001aa_web 007web

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やはり野に置け蓮華草,冬の水田を活用した花畑(松崎町)

2011-05-24 18:27:35 | 伊豆だより<里山を歩く>

突然ですが,伊豆からの便り第1報(松崎町)

 

北海道でも春の陽射しに,クロッカスなど庭の花が咲き始めましたが,如何お過ごしですか。

 

西伊豆の小さな町「松崎町」が,冬の水田を活用した「花畑」で人寄せを行っていることはご存じかと思いますが,先日寄り道をしてきましたので,写真を添付します。ご笑覧下さい。

 

写真は424日撮影。近くの堤防沿いの桜は既に散ってしまいましたが,4月上旬ですと双方が鑑賞できるとのこと。ゴールデンウイークには,訪問者を田んぼに入れて,花摘みもOKとか。

 

数種の草花を混播していまが,一面ゲンゲ(紫雲英)の水田も見られます。ゲンゲはレンゲ蓮華草とも呼び,学名はAstrangalus sinicus,マメ科の緑肥植物です。家畜の飼料にも使いましたね。子供のころ,どこの水田裏作にも植えられていました。一面の蓮華草の中に寝ころび,空を見上げ,青草の匂いに咽ていたころが思い出されました。

 

因みにこの町は,江戸時代に漆喰芸術を極めた伊豆長八,漢学者土屋三余,この塾(三余塾)で学んだ教育者依田佐二平(M12私立豆陽学校創設,豆陽中学校を経て現在下田高校),十勝開拓者依田勉三の出身地としても知られています。駿河湾に面した漁港と山沿いの村を抱える人口7,900人の小さな町ですが,棚田サミット開催,桜葉の生産日本一など,頑張りが見えます。

 

 

Img_4093web Img_4089web

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イースター島の旅,モアイは歩いたのか? 悲しみの顔は何を語る

2011-05-22 09:14:45 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

南太平洋のポリネシアトライアングルと呼ばれる島々の東端にイースター島がある。南アメリカ大陸のチリ海岸から3,700km,タヒチ島から4,000km,一番近くの島でも1,900km離れている,絶海の孤島である。海底火山の噴火によってできた周囲60kmの島。幾百年ものあいだ風雨にさらされ,悲しみを感じさせるモアイ像で知られる。

この島にポリネシア人が住み始めたのは45世紀。当時は,亜熱帯雨林の島で巨大椰子が生い茂っていたと推測される。8世紀ころには,島の凝灰岩を利用して石の祭壇やモアイ像が作られ始め,繁栄のうちに島の人口が爆発的に増加。絶海の小島ゆえに人口増加は食糧不足を生み,樹木を伐採しタロイモを植えても飢餓は救えず,部族間の武力闘争が激しくなる。武力闘争では,モアイを倒し,霊力が宿ると信じられた眼を壊した。大方のモアイは今でも倒れたままである。最盛期に12万人とも言われた人口は,奴隷として連れ去られたこともあり,1872年は僅か111人にまで減少したという。閉鎖された空間に存在した文明,無計画な開発と環境破壊を続け,資源を消費し尽し消滅したという歴史は,現代への警鐘かもしれない。

 

1722年の復活祭の日,オランダ海軍の提督ヤコブ・ロッゲフェーンがこの島に上陸したことからイースター島と呼ばれるようになるが,現地語ではラパ・ヌイ。1888年チリ領になってからは,スペイン語でイスラ・デ・パスクアと称される。

 

巨大なモアイ像の切り出し跡が残っているラノ・ラクラの丘から,モアイは海岸まで歩き,海を背にしてアフの上に立っている。巨大なこの像をどのように運んだのか,インカの石組みにも通じるアフ・ビナプの精巧な石組み,ラノ・カウの火口湖に生えるトトラ葦がチチカカ湖のものと同種であることなど,謎に包まれている。いまだ解明が進まぬロンゴロンゴ文字,オロンゴの鳥人儀礼,伝説の数々。

 

この島には,サンチアゴからランチリ航空で訪れた。所要約5時間。タヒチからの便もあるが,サンチアゴからが便利。観光には1日あれば周遊できるが,ハンガロア村に34泊してモアイと共に夕日を眺め,マグロを食べ,歴史の神秘を感じるスローな時を過ごせば,思い出は倍増することだろう。

 

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンバイン収穫に道を拓いた「カリユタカ」の誕生と収穫調製技術

2011-05-21 15:49:41 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

今からおよそ40年前,北海道農業は人力・馬耕の時代からトラクタによる機械化農業へと転換し,生産性の高い農業が営まれるようになった。昭和40年代後半には農家1戸に1台のトラクタが完備され,馬鈴薯や甜菜の収穫機も導入されるなど,畑作の機械化作業体系が完成したと言われた。

 

大豆の収穫も昭和43年にビーンハーベスタが開発され,収穫作業は鎌による手刈りからハーベスタによる収穫へと移行したが,ハーベスタによる刈り取りは裂莢による損失を避けるため朝露のある早朝に実施しなければならなかった。また,乾燥のためにニオ積み作業が必要で,この作業は腰を屈めて行うつらい作業であった。これは,わが国の品種が裂莢し易いこと,大粒であること,流通上外観品質が重要視される事などから,収穫・脱穀・調製作業に相変わらずの手作業を余儀なくされていたことによる。

 

しかし,農家戸数が年々減り,高齢化や農業労働力の不足が顕在化し,一層の省力化が求められる中で,早急にコンバイン収穫による機械化体系が確立されなければ,北海道から大豆栽培が姿を消すのではないかと危惧される状況にあった。

 

わが国初のコンバイン収穫向き品種カリユタカ

十勝農試では昭和50年に機械化適応性品種の開発を開始し,わが国の白目大粒の良質品種へ外国品種の難裂莢因子導入を計画した。筆者らは,難裂莢性の遺伝資源として,東南アジア,アメリカ,中国からの導入品種を片親にして交配を繰返し,優良形質の集積を図った。しかし,難裂莢性の外国品種は,晩熟,小粒で,耐冷性,耐倒伏性が劣るなど,育成は困難を極めた。

 

そして平成3年,幾多の困難を克服してわが国で最初のコンバイン収穫向き品種カリユタカが開発された。カリユタカは,北海道の白目大粒品種ヒメユタカとUSAから導入したClark Dt2を昭和五五年に交配し,11年かけて選抜育成したものである。カリユタカの誕生は,北海道でも大豆のコンバイン収穫が可能であることを証明し,関係者に大豆生産拡大の希望を抱かせるものであった。本品種開発の意義は大きいといえる。

 

南国の難裂性遺伝子が北国で花開く

カリユタカ育成から七年後の平成10年には,早生のコンバイン収穫向き品種ハヤヒカリが育成された。この品種のルーツは,実はタイ国にある。昭和45年,タイ国チエンマイのメジョー農試で,北海道品種カリカチとタイ国品種SJ-2の交配が行われた。カリカチとSJ-2との交配から生まれた10粒の種子は,雑種第4代までタイ国で育てられ,その中からタイ国では熟期が早すぎて利用できない一部の材料が,タイ国農務局の同意を得て十勝農試へ譲渡された。筆者らは,昭和49年に導入されたこれら材料を試験圃場へ播種し,熟期,耐倒伏性,品質等が優れる6系統を選抜した。しかし,これらの系統は,百粒重が20g程度と小粒で,耐倒伏性も十分でなく,残念ながら実用品種に耐えうるものではなかった。その後SJ-2の難裂莢性遺伝子は,タイ7012-56,十系679号と3サイクルの改良を経て,ハヤヒカリとして結実した。

 

複合抵抗性を付与したユキホマレ,トヨハルカ

さらに,平成13年に新品種となったユキホマレも難裂莢性遺伝子をタイ国のSJ-2から引き継いでいる。SJ-2の難裂莢性遺伝子は,タイ7012-28,十育207号,十系783号を経てユキホマレとして結実した。ユキホマレは,31年間に及ぶ4サイクルの育種過程を積み重ねて育成された,早生,耐冷性,シスト線虫抵抗性を有するコンバイン収穫向き品種である。そして平成15年には,カリユタカの血を受け継ぐ新品種トヨハルカが世に出た。トヨハルカは,耐冷性,シスト線虫抵抗性など複合抵抗性を有し,かつ大粒白目で良質のコンバイン収穫向き品種である。本品種の草型は分枝が少ない主茎型であるため,密植栽培で実力を発揮するだろう。

 

繊細な収穫調製技術が良質生産を支える

品種育成と並行して機械開発の分野でも多くの成果が見られた。昭和42年に開発されたビーンハーベスタは「豆産地・十勝」が世に送り出した世界に類のない農業機械であったが,その後開発された大豆用コンバイン,汎用コンバイン,ニオ積機,ピックアップ収穫,子実クリーナ等もわが国の環境に適合した秀逸な農業機械・システムといえよう。湿潤な秋の気象条件下,大粒で良質な子実を損傷させることなく収穫調製するために,わが国の機械屋の英知が結集された製品である。

 

大豆の省力化は,他の畑作物に比較し飛躍的に向上したとは残念ながら言いがたいが,本稿で述べたように育種屋と機械屋の協力によってコンバイン収穫向品種や農機具開発が着実に進展し,機械化作業体系は生産現場で現実のものとなった。平成16年の実態調査によると,大豆のコンバイン収穫が全道で約70%,空知・後志管内では9095%に達していると推定された。10a当たり投下労働時間も,昭和40年の30時間から12時間に減少し,先進的生産者の中には,さらなる省力化の事例が多くみられる。

 

十勝農試が機械化適応性品種の開発を始めてから30年,コンバインで刈れるマメを創りたい,大豆生産の省力化を図りたいとの夢は現実となった。カリユタカの誕生及びそれにともなう独創的な日本型収穫調製機械の開発は,北海道農業(大豆生産)の分岐点で重要な役割を果たした技術と位置づけられよう。


参照:土屋武彦2006北海道農業の分岐点-大豆2,コンバイン収穫に道を開いた「カリユタカ」の誕生と良質生産を可能にした収穫調製技術」ニューカントリー53(2),62-63

 

 

Aa 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

輸入自由化後の大豆生産を支えた「トヨスズ」

2011-05-20 18:14:54 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

北海道大豆栽培の歴史を振り返ると,大谷地2号,十勝長葉,北見白,トヨスズ等の名前が思い出される。大谷地2号は開拓の時代を支え,十勝長葉は多収品種として第2次世界大戦後の復興を支え(生産者は十勝長葉育成者頌徳碑を建設し,育成者の努力を称えた。現在,記念碑は十勝農試前庭にある),北見白は冷害年にも安定した品種として昭和30年代の大豆生産を支えた。

 

このように,北海道農業に貢献した品種や革新技術はいくつかあるが,本稿ではトヨスズを取り上げる。トヨスズの開発は,シスト線虫抵抗性を付与した最初の品種として被害軽減に大きく貢献し,同時に大豆輸入自由化後の厳しい環境の中で北海道の大豆生産を支えるなど,北海道農業の分岐点で大きな役割を果たした。

 

最初のシスト線虫抵抗性品種

昭和30年代後半,主産地の十勝では豆類の作付けが50%を超える過作状況にあり,ダイズシストセンチュウによる被害が大問題となっていた(発生面積32%,被害面積9%)。北海道立農業試験場十勝支場(現十勝農試)は,シスト線虫抵抗性品種の育成をめざし,昭和30年に東北産の下田不知1号を母,樺太産の十支第7910号を父として人工交配を行い,その後現地選抜圃場等で選抜を繰り返し,12年の歳月を経た昭和41年トヨスズを世に出した。

 

育成者の砂田喜與志氏は,「シスト線虫抵抗性品種の開発を目標としていたが,白目大粒で良質な系統(十系114号)が目に付いた。十育118号の番号で現地試験を行ったが,それまでの品種に比べると主茎節数が10節程度の短稈であるため多収が望めないと,品種として出すことに異議を唱える者もいた」と,開発当時の苦労を語っている。

 

しかし,トヨスズが世に出ると,シスト線虫に抵抗性を有することとから北見白等これまでの感受性品種に置換わり,また短稈で倒れにくいため作りやすいとの評判も加わり急速に普及が進み,昭和46年から55年にかけてトヨスズは全作付面積の50%を占めるに至った。

 

本品種は,主茎長が50㎝内外と短く直立型の草姿で,花色は鮮やかな赤紫色,白毛,開花後には葉色が極端に濃緑になるなど特徴ある生育特性を示す品種である。感受性品種の大豆畑ではシスト線虫の被害により黄化萎凋したスポットが見られ減収著しいのに対し,トヨスズの濃い緑の絨毯は技術の勝利を感じさせるものであった。

 

十勝農業協同組合連合会が主催する十勝農作物増収記録会では,池田町の八田秀昭氏が昭和53年に本品種で449kg/10aの多収記録を達成するなど(注,平成6年に後述のトヨムスメで坪坂誠一氏が535kg/10aの記録更新),生産者の栽培技術も加わってトヨスズは一時代を築いた。

 

良質が国際競争に勝った

昭和30年代後半に北海道の大豆作付面積は約7万ヘクタール,収穫量は10万トンを超えていたが,昭和36年輸入が自由化されると10年後の昭和45年には輸入量が3倍になり,作付面積が1ha,収穫量は16千トンまで激減した。自給率も自由化前の28%(食用自給率61%)から4%(同16%)へ減少し,その後幾多の施策はとられているものの現在までこの状況は変わっていない。

 

このように,生産者の大豆生産意欲が減少し,北海道の大豆生産が壊滅するのではないかと危惧される中,トヨスズは大粒白目,煮豆加工適性に優れるなど輸入物では代替できない品質が実需者から評価され(トヨスズ銘柄が確立した),一筋の灯火として北海道大豆生産農家の救世主となったのである。良質が国際競争に勝った瞬間であり,この頃から北海道における大豆生産意識も量から質へと大きく転換した。

 

トヨスズの特性を引き継ぐ新しい品種群

一方,トヨスズは十勝地方では晩熟なためしばしば冷害に遭遇した。特に個体あたり開花期間が短いため障害型の冷害を受けやすく,着色粒の発生など品質の低下が見られることもあって,その後はトヨスズの早生化及び低温抵抗性を付与する改良が精力的に進められた。その結果,トヨムスメ(昭和60年),トヨコマチ(昭和63年),ユキホマレ(平成13年),トヨハルカ(平成17年)等改良種が誕生し,これらは現在「とよまさり」銘柄で取引され道産大豆の顔となっている(全作付面積の約60%を占める)。

 

これらの品種は,シスト線虫抵抗性を必須形質として備え,かつ大粒白目,良質というトヨスズの特性を引き継いでいる。トヨスズ誕生から40年,現在北海道で栽培される大豆の中にはトヨスズの血が今も綿々と流れている。

 

参照:土屋武彦2006「北海道農業の分岐点-大豆1,輸入自由化後の生産を支えた「トヨスズ」ニューカントリー53(1);82-83

 

Cweb

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラグアイ国に対する大豆シスト線虫及びさび病抵抗性品種の育成(フェニックスプロジェクト)の総括

2011-05-19 15:56:40 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

フェニックスプロジェクト総括

 

日本がパラグアイ共和国に対して実施した技術協力(シスト線虫及び大豆さび病抵抗性品種の育成-フェニックスプロジェクト)が2008年に終了した。その総括です。

 

1.プロジェクトの背景を知ることから始める

専門家またはボランテイアとして海外の技術協力に参加するとき,まず何を確認すべきでしょうか。プロジェクト実施に至る背景を知ることだと思います。これによって,専門家自身の立つ位置,協力のスタンスを認識することになります。

 

標記のプロジェクト(シスト線虫及び大豆さび病抵抗性品種の育成:フェニックスプロジェクト)は,日本とパラグアイ両国の利益に適うものであり,かつ四半世紀にわたる協力の延長線上にあり,このプロジェクトの成功によって,成果が見込めるものでした。

 

2.どう活動しましたか?

プロジェクトはPDMにおいて,上位目標,プロジェクト目標,期待される成果,活動項目,投入項目等が決められ,両国間で合意されている。これに沿って活動するわけですが,本プロジェクトでは評価をより具体化するために,目標の数値化を行いました。すなわち,育種規模,発表論文数,カウンターパートの能力指数などを,プロジェクトの開始時と終了時で比較しようとするもので,これを「フェニックス効果」として示しました。

 

3.成果はどのようなものですか?

プロジェクト成果は次のように要約されます。①シスト線虫抵抗性の新品種が開発された(CRIA-6 Yjhovy,選抜場所の地名から命名した,パラグアイ初の抵抗性品種),②カウンターパートはシスト線虫の検定,選抜など抵抗性育種を自立して出来るようになった,③さび病抵抗性素材が選定された,④2年間で20点の研究成果及び資料をマニュアル等に取りまとめた,⑤フェニックス効果は230%と推定された。

 

4.課題はありますか?

問題点もいくつかありました。①国家公務員である研究員の低給与,研究費の不足からカウンターパートが民間企業へ転出,②病害虫(さび病,シスト線虫,炭腐れ病等)の被害が拡大,③遺伝子組換え大豆への行政対応の遅れ等です。

 

5.提言は?

プロジェクト終了にあたり,相手機関に提言を行いました。①技術革新が国の未来を開くことから,公的研究機関の水準向上に努めるべきである,②育種は農業研究の中核であるので,育種研究を継続すべきである,③大豆では,病害虫抵抗性(クリーンな持続性農業のために),食品加工用(付加価値を高めるために)品種の開発強化が課題である。

 

6.今後の協力のあり方について

今後シニアボランテイアの投入が想定されますが,研究協力としての側面を強くする必要があると思われます。自立発展を見守りながら,長期的視野でのスポット的な協力投入の体制を構築することが望まれます。なお,本プロジェクトはCETAPARJIRCAS,他の農牧省研究機関,民間研究所等と連携して事業を推進してきましたが,今後は共同研究や委託研究を含め,さらなる連携強化が必要になるでしょう。

 

7.展望

29年間の協力により蓄積された技術成果はこの国に深く根を張り,パラグアイでは大豆が国家経済を支えるまでになりました。一方,わが国にとっても大豆の安定供給が可能になったといえることです。躍進著しい南米大豆生産は,世界の食糧基地として今後一層重要になるに違いありません。

 

参照:土屋武彦2008「ダイズシストセンチュウ及び大豆さび病抵抗性品種の育成(フェニックスプロジェクト)を総括する」JICAパラグアイ事務所だより2008.4

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラグアイの大豆,日本の技術協力と栽培実態(技術協力の成果)

2011-05-19 15:48:52 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

パラグアイ大豆(技術協力の成果)

 

323年間続いたパラグアイ農業開発技術協力は2002年に終結した。成果は多方面にわたるが,中でも同国の大豆生産向上に果たした役割が極めて大きい。わが国が技術協力を開始した時点に比べ,大豆の栽培面積は3.5倍,生産量は5.5倍に増加し,同国総輸出額の40%を超えるまでに至り,国家経済を支えている。また,不耕起栽培技術の普及や耐病性新品種の開発により生産性が向上し,単収は世界の最高水準にある。

 

パラグアイの地域農業研究センター(CRIA)を研究サイトとして進めてきた技術協力が,23年に及ぶ歴史を閉じたのは2002年の9月である。筆者はこのプロジェクトの最終段階に大豆育種専門家として参画し,また終了後の翌年もフォローアップのため同国に滞在して相手国の自立の姿を見届ける役割を担った。本報では,本技術協力の成果と大豆栽培の現状について紹介する。なお,本課題に関連する記述としては,JICA2003),丹羽(2004),土屋(2002,2004,2005)が参考になる。

 

1. 技術協力の成果

 

1)プロジェクト形成の背景

1973年のUSAによる大豆禁輸措置,第1次石油ショックを背景として,1975年にラプラタ河流域経済開発調査団が派遣され,各国からの強い要請を受けた日本政府は,1977年にアルゼンチンと「大豆育種技術協力」を,1979年にはブラジルと「セラード開発事業」,パラグアイと「農業開発技術協力」をスタートさせた。これら3事業は南米大豆生産の飛躍をもたらした(現在,南米3国の大豆生産量は6,800tに達し世界総生産量の40%弱を占める)。これら諸国では大豆が国家経済を支えるまでに成長し,結果としてわが国にとって大豆の供給安定性が増している。

 

しかし,多大な成果を讃えられたセラード開発事業が2001年に終了し,2002年にはパラグアイ農業開発技術協力が終了するなど,時代は長大型農業技術協力が軒並み終結する転換期にある。

 

2323年にわたる技術協力

パラグアイへの技術協力は,第1期の「南部パラグアイ農林業開発研究」(1979-1988),第2期の「主要穀物生産強化計画」(1990-1997),第3期の「大豆生産技術研究計画」(1997-2002)として進められた。第1期では地域農業研究センター,農業機械センター及び林業開発センターの3機関を整備し試験研究体制の強化を図り,第2期では大豆及び小麦など主要穀物の生産性向上を目指し,第3期では大豆に特化して,育種,栽培及び土壌分野の研究能力向上を図った。この323年間に及ぶ技術協力の中で,大豆は継続して実施されたテーマであった。

 

3)技術協力の進捗に合わせ生産が拡大

第1期のプロジェクトが開始された1979年当時,パラグアイにおける大豆の栽培面積は40万ha,生産量は77万tであった。その後,栽培面積及び生産量は毎年増加し,第1期のプロジェクトが終了する1988年には90万ha(180万t),第2期のプロジェクトが終了する1997年には94万ha(267万t),第3期のプロジェクトが終了した2004年には140万ha(420万t)を超えた。わが国が技術協力を開始した時点に比べ,栽培面積は3.5倍,生産量は5.5倍に増加したことになる。

 

また,特筆すべきは単収の増加であり,当初1.8 t/haであったものが,2.7t/haまで向上している。単収の増加は,気象条件に適応し病害に強く能力の高い品種が導入されたこと,不耕起栽培が定着したことなど,プロジェクトの成果が反映された結果である。

 

4)育種分野の対応

ここでは大豆育種分野の成果にふれよう。専門家が目標にしたのは,「個々の技術移転だけでなく,最終的に実用品種を育成すること」だった。たとえ研究者の技術が向上しても,品種を育成できなければ育種機関の存在が問われよう。CRIAは,プロジェクト終了後も自立して育種事業を進め,新品種を継続して発表出来る体制にならなければならないとの認識である。

 

育種の効率化:大卒の研究者1-2名と研究補助者3-4名(標準的研究単位)のみで育種事業を推進することを念頭に(財政的な理由で組織の拡大は継続しない),試験区の機械化,測定項目の簡略化,育種法の改善,茎かいよう病の幼苗検定システム化など効率化を推進した。

 

育種規模の拡大:実用品種を開発するためには育種材料の蓄積が必要である。規模拡大を進めた結果,育種材料は最後の5年間で2.6-8.6倍になった(表1)。すなわち,人工交配を毎年50-80組合せ行い,年間240組合せについて200集団及び1,000系統を超える材料の選抜を行い,140系統及び品種の生産力検定を実施するまでになった。この規模は,ブラジル,アルゼンチン等に比べると小さいが,わが国の育種規模に勝る大きさである。

 

関係機関との連携強化:JICAパラグアイ農業総合試験場(CETAPAR)とは連携を密にした。また,JIRCAS南米大豆プロジェクト,ブラジル研究公社大豆研究所及びマトグロッソ財団研究所には,シストセンチュウ抵抗性検定などで支援を受けた。

 

パラグアイ初の新品種誕生:1997年には同国で最初の登録品種「Uniala」「Aurora」が育成され,2001年には本格的な交雑育成品種「Don Rufo」「Pua-E」が発表された。「Aurora」については豆腐加工適性が高く,日系農協と日本の豆腐業者との契約栽培が進められている。

 

現在,栽培品種の主体は生育日数が126-142日,百粒重は15-18gで日本の品種に比べ小さいが,収量は3t/haを超える。優良品種の開発が進んだ結果,現在の栽培品種の能力は高い水準にあるといえよう。

 

ここに至までには,「財政的に困窮するパラグアイで育種を実施する必要があるのか。ブラジル品種で対応できないか」との議論が頻繁にあったという。しかし,育種の成果が目に見えてきた現在,CRIAでの新品種発表セレモニーには農牧大臣が出席して多くの生産者等と展示圃場を歩き,新品種誕生を祝う姿が見られる。

 

参照:土屋武彦2005「パラグアイの大豆栽培」農林水産技術研究ジャーナル28(5)42-45

 

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする