豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

冊子「北条水軍の拠点・下田城」が面白い

2024-04-21 13:21:06 | 伊豆だより<里山を歩く>

友からの便り

今年(2024)七草粥の頃だったろうか、旧友から郵便小包が届いた。正月早々の贈物を開封すると冊子が入っていて、一冊は下田城の解説冊子「北条水軍の拠点・下田城」、もう一冊は横浜にあるエッセイ教室の同人誌で旧友の紀行文も掲載されている。能登半島地震や日航機の事故など衝撃の年明けに、懐かしき友からの便りは心温まるものがあった。友は下田北高校の同級生である。

早速、次のような礼状を書いた。

・・・この度は、冊子「北条水軍の拠点、下田城」「芽ぶき」等をご恵送賜り有難うございます。早速拝読、ご活躍に敬意を表します。下田城読本は写真や図もすばらしく、年代を問わず多くの方々に手に取って頂けることでしょう。小生も大変勉強にもなりました。貴兄が下田城保存推進会で頑張っておられることは承知していましたが、立派な冊子出版は同慶の至りです。関心が深まることを期待します・・・

◆冊子「北条水軍の拠点・下田城」について

発行:下田城の保存を推進する会、編集制作:碧水社、編集協力:外岡龍二、初版:令和5年10月23日発行、A4判30ページの冊子である。

目次から内容を追ってみよう。①下田城を歩く、②下田城の戦い、③下田城将・清水康秀、④北条早雲と戦国の伊豆、⑤小田原城を歩く、⑥海の関所・下田、の構成となっている。写真や図を豊富に取り入れ、読みやすい構成だ。

本書の出版背景と目的を理解するため、「はしがき」「あとがき」を抜粋しよう。

・・・(はしがき抜粋)私たちの町下田は、昔から海と深く関わってきました。戦国時代に伊豆に入国して、関東の覇者となった小田原北条氏によって、下田は海上交通の要となりました。下田城が築かれ、行き来する船の検査や監視を行い、海上の戦いになった場合には、水軍の基地になりました。1590(天正18)年、天下統一を目前にした豊臣秀吉がおおよそ20万の兵を率いて、小田原の北条氏目がけて押し寄せます。下田城は1万4000の豊臣水軍に取り囲まれましたが、わずか600余の守備兵で城を守って戦いました。50日後、城は開城しましたが、下田城は優れた海賊城としての力をいかんなく発揮したのでした。

下田城は1973(昭和48)年に下田市の史跡に指定されました。その後、下田城の保存を推進する会も創立されて、市民の間にも下田城址を守る動きが進んでいます。

この本では、下田城を舞台に戦われた海戦の有り様を復元CGによって紹介し、現在の下田城址を歩いて、代表的な海賊城である下田城の姿をたどります。また、伊豆の歴史と深い関わりをもつ北条早雲の活躍と、小田原北条氏の本城となった小田原城についても解説します・・・

・・・(あとがき抜粋)本書は我が郷土の「下田城」について、小学生から成人まで楽しく読んで、そして理解を深める格好の書と確信しております。同時に下田城を通して、戦国時代のロマンを感じていただけることと思います。

令和6年には当会発足15年を迎えますが、その記念事業として本書を発行することになりました。本書が皆様、特に若い人の下田城への関心を一層深める一助になれば、本会会員一同にとって、このうえない喜びです。令和5年9月吉日、下田城の保存を推進する会 会長 澤村紀一郎・・・

◆関連して

下田城についての詳しい解説書は他にも数多くあるが、本冊子は簡易明瞭でとても分かりやすい。伊豆旅に携え行けば、楽しみが深まること間違いない。

そして、蛇足ながら、拙ブログ2020.7.24「下田の城、深根城と下田城」、拙ブログ2021.4.2「一冊の本、伊豆の下田の歴史びと」、拙ブログ2021.4.3「一冊の本、伊豆下田 里山を歩く」もご覧頂ければ有難い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の古道、米山薬師路から稲梓駅へ

2022-03-31 18:27:28 | 伊豆だより<里山を歩く>

拙ブログ宛てにメールを頂いた

・・・鵜島城の検索をしているうちに、貴サイトを拝見しました。私も25年ほど前から下田市の古道を歩き始め、今は南伊豆町へも足を伸ばしています。先日、坂戸の伝「土屋氏の墓」を訪ねたところ、宝篋印塔は藪の中で無残に崩れていました。4月までに坂戸から落合と箕作に下りる古道を歩いてみたいと思います・・・とある。

拙ブログには「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」など歴史や古道の記事を載せ、「古道を歩く旅」を提唱していたのでご覧になったのだろう。便りの文面を辿るにつれ懐かしさと伊豆の景色が鮮明に蘇ってきた。そして、感傷は何故か或る一つの事象、故郷から北海道へ出立する朝に米山薬師路から稲梓駅へ歩いた古道の記憶に集約されて行った。

今でも、この古道を辿ることが出来るだろうか?

◆米山薬師の山道

昭和37年(1962)4月4日。北海道の大学へ進学することになり、住み慣れた伊豆の里から新天地への旅立つ日のことである。午前4時30起床、風が強く寒いと日記にある。家族や知人の見送りを受けて(当時の餞別500~1,000円)、バス停「坂戸口」から東海バス(平成30年からコミュニテイバス)に乗車。祖母と妹、叔父が伊豆急行の駅まで見送ると言う。伊豆急行電鉄が開通したのは数か月前(昭和36年12月)だったので、妹たちは電車見たさがあったのかも知れない。

バス停「米山薬師」で下車した私たちは、小高い場所にある米山薬師本堂を目指して上り、本堂を回り込むようにして伊豆急行稲梓駅近くに下った。一つ先のバス停「落合」で下車するより近道らしい。祖母がこの山道を知っていたのか、叔父が知っていたのか、初めて通る古道はかなり急峻で、旅の前途を予感させるかのようだった。

現在の下田街道は稲生沢川に沿って走っている。米山薬師と落合間は切り立つ崖が川に落ち込むような川縁に道路が造られている。掘削した地形から推察すると、自動車道開通以前は山越えしていたに違いない。旅立ちの日に通ったこの道が、箕作から落合に抜ける古道であったのだろうか。

この古道を通ったのは後にも先にも、この時の一回だけだった。時代を経た今、この道を歩く人は誰も居ないだろう。

稲梓から札幌へ

さて、さて、その後、稲梓駅8時07分発に乗車(無人駅となってから久しいが、当時は駅員がいた)。東京までは2時間半、バスに比べて便利になったものだと思いながら上野駅に着く。上野で札幌までの乗車券を購入。特急券が手に入らず、15時10分発の急行に乗る。今なら新幹線か特急でと言うことになり切符の手配も容易だが、田舎住まいだった若者にとっては、切符手配の仕組みも分からず準備する余裕も無かった。ただ、ただ、夜行列車に揺られて目的地を目指すだけ、初の北海道行は苦行の旅となった。

青森に到着する。乗客は何故か桟橋に向け一斉に駆け出す。それは連絡船で寛げる場所を確保するためだと後になって理解する。畳敷きの広間に隙間を見つけて横になる。函館に到着すると、また汽車の座席を確保するためにホームを走る。座席を確保できず、立ったまま札幌行き国鉄車両の客となった。脚の疲れも限界に近く、通路に腰を下ろす。森駅を過ぎ長万部の辺りだったろうか、ぼんやりと車窓に眼をやれば雪が舞う殺伐とした景色。温暖な奥伊豆育ちの若者は「遥々遠くに来たものだ」の感を強くした。上野~札幌間を約25時間かけて4月5日16時06分に到着。今から60年前の道中の顛末である。

米山薬師について

下田市箕作の米山薬師(砥石山米山寺、伊豆八十八霊場四十六番札所)については、以下のような言い伝えがある。

・・・日本三薬師(伊豆、越後、伊豫)の一つとして世に知られる。本尊の薬師如来は釈道牛の「由来記」(文安四年)によると、天平五年五月十五日に僧行基がこの地に来られた折のもので、これを作るのに行基は茶粉と苦芋(ところ芋)を合わせたものを用い、斎戒沐浴、精魂を傾けて、漸く四十八日目に完成、入仏占眼したのは同年十月二十日であったという。この時行基は六十五歳。霊験あらたな薬師如来さまである・・・(下田市教育委員会「下田市の民話と伝説第1集」、参照土屋俊輔「伊豆の伝説」)

なお同書によれば、米山薬師のある「箕作」という部落の名のおこりは以下の通り。

・・・この箕作に箕作八幡の社があるが、これは「礪杵道作(ときのみちつくり)」の霊を祀ったものである。持統天皇の御宇、大津の皇子の謀叛に連座した礪杵道作は、この箕作に流されたが、これが伊豆の国へ流罪を受けた最初の人であった。「箕作」という地名もこの「ときのみちつくり」から出たものと言われている・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豆の田舎の「ウバメガシ(姥目樫)」

2021-11-12 10:30:39 | 伊豆だより<里山を歩く>

伊豆の田舎には啓山石堂(啓二)が植えた3本のウバメガシ(姥目樫)がある。今回も墓参のついでに、庭のウバメガシに鋏を入れた。季節は10月下旬、ちょうど堅果(ドングリ)が熟する頃であった。子供の頃にドングリと言えばブナ(橅)やコナラ(小楢)の印象が強くウバメガシにもドングリが結実するのを見た記憶がなかったので、ドングリを見つけた時は新鮮で思わず写真を撮った。

ウバメガシ(学名Quercus phillyraeoides)は、ブナ科コナラ属の常緑広葉樹。別名イマメガシ(今芽樫)、ウマメガシ(馬目樫)とも言う。日本では房総半島、三浦半島、伊豆半島以西の太平洋側、四国、九州、沖縄に分布する。乾燥や刈り込みに強いことから庭木や街路樹として使われ、備長炭の材料となることでもよく知られている。

樹形は通常は5~6m程度。葉は互生し(枝先は輪生状)、長さ3~6cmと小さい倒卵形で硬く、やや表側に盛り上がり、葉縁は鋸歯。葉の表面は濃緑色でやや光沢、裏面は淡緑色をしている。雌雄同株で、開花は4~5月。黄色い雄花は枝の下部から穂状に垂れ下がり、黄緑色の雌花は楕円形で、上部の葉の付け根に1~2個着くと言うが、花の印象は薄い。堅果は長さ2cm前後で楕円形、10月になると褐色に熟す。

下田富士や下田公園など伊豆半島でもよく見られる。潮風や乾燥に強いため、海岸付近の乾燥した斜面に群落を作ることが多いそうだ。和歌山県の木、南伊豆町の木に指定されている。

◇備長炭

紀伊国の商人備中屋長左衛門が、ウバメガシを材料に作り販売を始めたことから、その名をとって「備長炭」の名がついたと言われる。一般に樫の炭全般を備長炭と呼ぶが、狭義にはウバメガシの炭のみが備長炭とされる。備長炭は普通の黒炭よりも硬くて叩くと金属音がする。白炭(備長炭)は製造時に高温で焼かれることから炭素以外の油分やガス等可燃成分含有量が少なく、かつ長時間燃焼に堪える。また、炎や煙も出にくいので焼き肉など調理に向いている。

江戸時代から伊豆の山村では木炭製造が盛んであった。幼少時の記憶にも炭焼き体験がある。祖父や父は窯の中に原木を並べ、釜口から火をつけ、昼夜を通し煙の色を観察しながら釜口の空気流入を調節、頃合いを見て蓋を閉じる。そして、窯の温度が下がる頃、家族総出で炭を取り出し規格に合わせて切断して炭俵に詰める。鼻や目の周りを真っ黒にして働く姿が彼方此方にあった。炭俵は祖母が夜なべ仕事で茅を編んだ。炭俵を背負子に背負って馬車道まで運び出した。現在、裏山にも長久保の山にも炭焼き窯の跡が残っている。

紀州備長炭、土佐備長炭、日向備長炭などの銘柄があり、備長炭は高額で取引されている。伊豆半島にもウバメガシが群生するのに伊豆備長炭はないのだろうか? ウエブ情報によれば、いくつかの試み(萌芽)があるものの事業化まで至っていないようだ。山林所有者、炭焼き(技術労働者)、販売専門家を結ぶネットワーク、組織化する行政力が必要だと言うことだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが裏庭で「鹿角」を拾う

2021-11-08 10:11:03 | 伊豆だより<里山を歩く>

今年(2021)も伊豆下田へ行ってきた。新型コロナ感染第5波の山がようやく下火になり、全国的に緊急事態宣言が解除された10月下旬のことである。目的は墓参と空き家の管理である。中でも村道から家までのアプローチ小径と庭の草刈りが大仕事。コロナ禍の外出自粛で一年ぶりの下田行であったので茅は伸び放題、猪と鹿が通った獣道を辿って家に着く有様だった。

刈払い機を振り回し、刈り倒した茅を片付ける。庭木を剪定する。慣れない仕事に老体が悲鳴をあげるが、「もう歳だから、無理しないでね」と労わりながら、何とか4日で予定の作業を終えた。刈り払った残渣を裏庭の隅に堆積しようと運んでいると、「鹿角」が落ちているのを見つけた。持ち帰って、孫へのお土産にしよう。

奥伊豆のこの村落も猪や鹿が増え、農業は防護柵を設置しないと成り立たない状況になっている。家庭菜園さえもが野生の猪、鹿、猿など鳥獣被害にさらされている。わが家の庭へは夜ごと猪がやって来るし、鹿の糞が落ちていたこともあるので「鹿角」が落ちていたとしても大きな驚きはない。

鹿は雄にのみ角が生える。外敵から身を守るため、群れの中で優位性を保持するためだと言われている。4月頃「袋角」ができ、5~8月にかけて角は2又、3又と分岐して急成長、9月頃には立派な角が完成。9~11月の繁殖期にはオス同士が競うのに使用され、3月頃には抜け落ち、毎年生え変わると言う。

1歳の鹿はまだ分岐していない細い1本角、2歳になると2又に分岐する鹿もいるが太さは細く、3歳になると2又か3又で大きな角が生え、4歳以上の鹿は3又に分かれて太さも太く立派な角になるそうだ。裏庭で拾った角は三又に分かれているので3歳以上の鹿と言うことになろうか。

鹿角は、日本では加工して工芸品として利用されることが多い。中国では漢方薬「鹿茸(ろくじょう)」として活用されるが、この鹿茸は春先に生え始めたばかりの柔らかい鹿の角「袋角(ふくろづの)」から作られるらしい。

近年、増えすぎた鹿を駆除して、或いは飼育して、鹿肉を食用として利用する動きがみられるようになった。縄文時代の人々の狩猟対象は主として猪と鹿であったと言うから、食用として利用するのに抵抗感はあるまい。鹿肉は高タンパクで低脂肪、鉄分の含有量も非常に高い特徴がある。ただし、生食ではE型肝炎や住肉胞子虫による食中毒になった報告があるので注意。加熱調理が必須である。

奥伊豆の山間にあるこの家はしばらく空き家にしているので、猪や鹿にとっては楽園みたいなものだ。裏山には猪が泥水浴する水溜まり(沼田場)が出来ているし、身体を擦りつける丸太は皮が剥げている。毎夜のように里へ下りて来る獣道には偶蹄の痕跡が残っている。崖にも猪突猛進して道を作る。鹿は群れを成して動き、一か所に糞を残して行く。

2019年の夏が終わる頃だったろうか白骨化した動物の骨に出くわしたことがある。骨格から鹿であろうと推察したが、何故そこに放置されたのか分からない。崖の獣道に近かったので、滑り落ちた鹿が足を骨折し動けなくなり、朽ち果てたとしか想像できない。息絶えた鹿は風雨にさらされ、野生の動物、鳥、虫、バクテリアなどが関与して自然に化す循環、自然の摂理があったのだろう。田舎に行くと色んな場面に遭遇する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下賀茂温泉の「湯雨竹(ゆめたけ、竹製温泉冷却装置)」

2021-11-07 16:44:48 | 伊豆だより<里山を歩く>

湯雨竹(ゆめたけ)

2021年10月下旬、南伊豆の下賀茂温泉ホテル河内屋に宿泊した。新型コロナウイルスCOVID-19の第5波が収束に近づき緊急事態宣言が解除された後だが、まだ温泉場は閑散として客は数組しかいなかった。ホテル河内屋を選んだのは竹製の温泉冷却装置(湯雨竹)を備えていると謳っているので、その状況を眺め、温泉を体感しようと思ったからである。

下賀茂温泉は青野川沿いの山間に広がる温泉場で、ホテルや温泉宿が数軒あるだけの静かな佇まいを見せている。開湯は永禄年間と言うから約460年も昔の室町時代、武田信玄や織田信長が桶狭間や川中島で戦っていた頃のことで、トビが湯で傷を癒すのを見て発見されたと伝えられている。高温の源泉が多く、「杖知らず、医者いらずの湯」とも言われ古くから湯治場として知られていた。泉質は塩化物泉、効能は神経痛、冷え症、婦人病、皮膚病、創傷などとある。

 

(上の写真はホテル河内屋の資料)

ホテルの資料には「・・・明治37年創業以来、念願でありました源泉100%が実現したのでここにお知らせします。以前までは敷地内26mより90℃と高温で良質な源泉が湧きだしているにもかかわらず、高温すぎる源泉のため加水して温度調節してまいりました。今回中庭に設置いたしました「湯雨竹(ゆめたけ)」は竹製の冷却装置でございます。汲み上げた源泉が装置上部から竹をつたって落ちることで、50℃程度の温度に調節でき、夢の源泉かけ流しが実現いたしました。下賀茂温泉では初の源泉かけ流し100%をお楽しみ下さい・・・」とある。

女将に「湯雨竹」の由来を尋ねたら「別府の人に創ってもらった」と言う。子供の頃(昭和20年頃か)「竹製枝条架」の風景を見たような記憶があったので、古く江戸時代から存在していたのではないかと思い込んでいたが、そうでもないらしい。そこで、別府市鉄輪「ひょうたん温泉(屋号)」のHPを見ると、「湯雨竹」の開発の苦労やネーミングの過程が詳しく紹介されている。

同HPの「施工日記」「ネーミング秘話」によれば、株式会社ユーネット(ひょうたん温泉会社名)社長河野純一、同専務河野健が大分県産業科学技術センターの斉藤雅樹、大分県竹工芸訓練支援センターの豊田修身氏らの技術開発支援を得て完成したもので、「湯雨竹」の命名は海洋問題研究家・作家の東海大教授山田吉彦(大橋郁)氏であると言う。別府や雲仙温泉での普及例も紹介されている。

さて、筆者の脳裏に残っていた「竹製枝条架」は何だったのだろう? 東海道五十三次に描かれた「はさがけ(稲架がけ)」からの連想だったのか? 改めて記憶を辿ると河津町谷津温泉の風景であったような気がする。そこには製塩工場があり、今思えば製塩課程の一場面だったのだろう(現在、温泉施設がある)。

昭和20年代、製塩方法は入浜塩田方式から流下式塩田方式に改善され、海水の濃縮技術として「柱に竹の小枝を階段状につるした枝条架に、ポンプで汲み揚げた海水を流して太陽熱と風で水分を蒸発させる方法」が普及していた。あの時、竹の枝にキラリと光ったのは、温泉の水滴ではなく塩の結晶だったのか。

源泉かけ流しの下賀茂温泉は確かにまろやかだった。加水しない源泉の良さを体感。温泉に浸かって、ゆったりと目を閉じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一冊の本「伊豆下田、里山を歩く」

2021-04-03 13:07:52 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルス(COVID-19)がなかなか収束しない。外出自粛で生まれた時間の活用法はいろいろあるが、冊子の編纂もその一つだろう。ここに紹介する「伊豆下田、里山を歩く」(土屋武彦著、A5版231ページ、2021年6月1日発行)もコロナ禍の中で誕生した 。伊豆下田生まれ、北海道在住の著者が幼少期の記憶を辿る。

本書の「はしがき」「目次」「あとがき」を引用する。

 

◇はじめに

伊豆の下田と聞いて思い浮かぶのは、「開国の港」「唐人お吉」「豊富な温泉」「美しい海と山」「金目鯛の煮つけ」「鯵の干物」等だろうか。或いは、「温暖な気候」「長閑な田舎」「人の好さ」「河津桜」を思い浮かべる方がいらっしゃるかも知れない。伊豆の下田は訪れた人々に心のやすらぎと多様な顔を見せてくれる。

温泉に心と身体を癒し、山海の幸を味わう。南国の日差しを浴びて波に戯れる。史跡を巡る等々、伊豆の楽しみ方は沢山あるが、足を延ばして里山を歩く時間をとることをお勧めしたい。田舎の陽だまり路を歩めば、村人が「何処から来なさった?」と声をかける。旅の楽しみは一層増幅するに違いない。

満開のカワヅザクラを鑑賞しながら「カワヅザクラはどのように育成され普及したのか?」と思い、熱海のハカランダを眺めては「町おこしに使えないのか?」と考える。古びた神社に開創の時代を想い、廃校跡地の門柱や銀杏の古木に子供らの声を聴く。里山を歩いていると、思いがけず陽だまりの美術館に出くわしホッとする。青野川沿いを歩きながら「コシヒカリの祖先は江戸時代この平野で栽培されていたのか」と感慨にふける。古代米を醸造した地酒を味わう。伊豆下田のランドマーク「下田富士」「寝姿山と武山」の民話伝説や歴史を学び、「あの山には深根城があり、この丘陵は下田城祉」と、静かな佇まいに北條早雲の盛衰を偲ぶことも出来る。

伊豆下田は私の生誕地である。下田市街北方に位置する山奥で幼少時を過ごし、高校卒業後は伊豆を離れて北海道で暮らした。早くも60年が過ぎようとしている。時が経つと不思議なもので、幼少時の記憶が断片的に思い出され、帰省のたびに想い出を紡ぎながら伊豆の里山を歩いている。本書は、拙ブログ「豆の育種のマメな話」の中で情報発信してきた記事を補筆し、「伊豆下田、里山を歩く」と題して取りまとめたものである。里山で触れる自然や遺跡、物語など幼少時の記憶を中心に取りまとめたのでご笑覧頂きたい。

私にとって伊豆下田は、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・」(文部省唱歌、高野辰之、岡野貞一)の景色そのものだが、一方室生犀星「小景異情」の一節「故郷は遠きにありて思ふもの・・・」と重なる部分もある。魯迅が「故郷」で描いたほどの深刻さはないが、故郷は感傷だけで解決できない多くの課題をも抱えている。本書を手にされた皆様が、伊豆観光のつれづれに里山を歩いてみようと思って頂けると有難い。本書が伊豆下田をご理解頂く一助になれば、故郷を愛する筆者にとって望外の喜びである。

なお、本書は拙著「伊豆の下田の歴史びと」の姉妹編であることを付け加えさせて頂く。

◇目次

はじめに

目 次

第一章 里山を歩く 

1 カワヅザクラ(河津桜)を育てた人々 

2 南伊豆の「早咲きサクラ」を知っていますか? 

3 熱海のハカランダ 

4 コシヒカリ、ゆめぴりか、起源を辿れば南伊豆 

5 上原近代美術館、伊豆の田舎の陽だまり美術館 

6 須原小学校、昭和二十七年度卒業生が六十年ぶりに通学路を歩く 

7 坂戸から谷津へ、河津三郎の里を歩く 

8 坂戸「子之神社」でパワーは得られるか? 

9 屋号、奥伊豆では今も使われる 

10 須原小学校(下田市)、「長松舎」から始まる九十九年の歴史 

11 古松山「三玄寺」、開創は竜王祖泉禅師 

12 竹一筋に、奥伊豆の友 

13 西伊豆の小さな漁村戸田港と「造船郷土資料博物館」 

14 下田富士と民話伝説 

15 寝姿山と武山 

16 下田の城(深根城と下田城) 

17 稲梓郷稲梓里、伊豆下田の地名考 

18 伊豆の土屋郷(須原村)と土屋氏 

19 夏のウグイス、裏山のイノシシ一家 

20 サルが渋柿をかじり、シカが遊ぶやわが家の庭に 

21 北海道で咲いた伊豆の花(マンリョウとシャガ) 

22 やはり野に置け蓮華草、冬の水田を利用した花畑 

23 彼岸花(曼殊沙華)咲く 

第二章 記憶の断章

1一枚の写真  

2 囲炉裏端は「学び」の場 

3 異邦人のような来訪者たち 

4 百姓の時代 

5 イラクサ、カラムシを食い尽くした毛虫 

6 山で摘んだ珠玉の味が忘れられない 

7 メジロと「鳥もち」 

8 ヤブツバキと椿油  

9 竹、今昔物語 

10 稲梓中学校昭和三十年度卒業生 

11 下田北高第十一回生 

12 下田北高の校訓を思い出す 

13 寂空常然の生涯 

14 禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」 

15 四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券 

16 伯父「朝義」のこと 

17 啓山石堂が生きた時代 

18牛飼い 

19 祝日と国旗掲揚 

20 石堂が植えた「ヒイラギ」と「イヌマキ」 

資料1農業の時代/付表1須原小学校九十九年の沿革/付表2古松山三玄寺/付表3村落の形成と変遷(稲梓郷稲梓里)/資料2寂空常然の系図/資料3 明治・大正・昭和時代の記録簿等/

あとがき 

◇あとがき

伊豆の下田で私は生まれた。賀茂郡稲梓村須原××番地。稲梓村は下田の北部に位置する山村で、昭和30年に近隣6町村が合併し下田町となり、昭和46年に市制が施行され下田市となった。生家は山奥の小さな百姓だったので、子供時代は家の手伝いもしたが山野を駆け回って遊び暮らした。時代は太平洋戦争突入から敗戦に至る時期、戦後の暮らしの変貌も子供ながらにこの田舎で体感した。誰もが貧しい時代だった。学校は須原小学校から稲梓中学校を経て、下田北高等学校で学んだ。家から学校まで遠かったので小・中学時代は道草が楽しく、勉強よりも山や川で遊んだことばかりが印象に残っている。

卒業後は伊豆を離れて北海道で暮らすことになった。札幌での学生生活を経て農業試験場に入り、十勝、上川、道央、道南、南米アルゼンチン・パラグアイで生活する機会があった。現在、恵庭市恵み野に住居を構えているが、伊豆を出てから早くも60年が過ぎようとしている。時が経つと不思議なもので幼少時の記憶が断片的に思い出され、帰省のたびに想い出を紡ぎながら伊豆の里山を歩いている。

そのような中、ふるさと応援団として何が出来るだろうかと考え、「開国の舞台下田」のこと、歴史に名を遺す「下田生まれの歴史びと」のこと、「里山」のこと、「幼少時の記憶」のことなどを少しずつ紡ぎ、拙ブログ「豆の育種のマメな話」の中で情報発信してきた。このたび書籍化を思い立ち、編纂作業を進める過程で伊豆の歴史や自然を再認識し、陽だまりの里(伊豆)の長閑さや人の良さを振り返ることが出来たのは嬉しいことだった。

令和2年(2020)新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、日本でも外出自粛を余儀なくされた。この機会を利用して本書の編集・製本作業を進めた。完成度は高くないが手作りの私家本完成と言うことで満足している。

2021年6月1日                 恵庭市恵み野草庵にて 著者○○

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛飼い

2021-03-19 10:28:54 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の4:記憶の断章「牛飼い」のこと・・・。

◇◇◇牛飼い

生れて初めて見た光景として記憶に残っているのは何だろう? 何処かでキラリと光った水滴の輝きだったか、囲炉裏の赤い炎だったか、そんな一筋の光明が最初の記憶だったような気もするが確かではない。ただ、物心ついた頃には牛舎に二~三頭の牛がいたことを覚えている。

初めて乳牛を見たとき図体の大きさに圧倒され、大きな目に睨まれ、鼻息の湯気に後ずさりした記憶が蘇る。そして何よりも驚いたのは、滝のように流れ落ちる放尿の凄まじさだった。温湯の小便は音を立てて床を叩いた。子供なら簡単に吹き飛ばされてしまうほどの勢いだった。二~三歳になる頃には、牛が動きを止め背中を丸めるのは放尿や排便の予兆だと学習し、しぶきの洗礼を受けることもなかったが。

牛は横になっても咀嚼を続け、時には涎を垂らしている。「どうしてだ?」と母に聞いたら、「牛には四つの胃があって、食べたものを戻して噛んでいるのだ」と言う。その時、「牛は堅い草を食べるからゆっくり時間をかけて咀嚼する必要がある。草原で敵に襲われないように急いで食べて、安全なところへ行って噛み直す習慣からそうなった」とでも母親が応えていれば、将来動物学者になっていたかもしれない。

「食べてすぐ寝ると牛になる」と言われ、「人間が牛になるはずがない」と思いながらも素直に従う子供だったが、時には食べ過ぎて苦しくなり仰向けに寝ることもあった。そのような時、「牛なら反芻するのだが・・・」と妙に納得したことを思い出す。四つの胃は、植物繊維を分解する第一胃、餌を食道まで押し戻す第二胃、第四胃へ入る量を調節する第三胃、胃液を分布し消化をする第四胃と役割分担していることは後から知った。反芻動物はウシ、ヤギ、ヒツジ、シカ、キリン、ラクダなどいずれも草食動物である。

牛の尻尾に殴られると痛かった。夏になると虻や蝿(サシバエ)が背中に群がり吸血するのを牛は器用に尻尾で払うのだが、近くに子供がいても容赦なく一撃する。「馬は後足で蹴るから不用意に後ろから近づくな、牛の武器は角だから前から近づくときは注意しろ」と爺さんから教わっていたので、後方は安全だろうと近づき、背中の虻を捕まえようとして尻尾で叩かれることもあった。なお、牛に集まる蝿はサシバエ(Stomoxys calcitrans)で吸血性、形は似ているが「やれ打つな 蠅が手をする 足をする(小林一茶)」で馴染みのイエバエ(Musca domestica)とは属が異なることを学んだ。

飼育していたのは白黒斑紋のホルスタイン種で、搾乳と厩肥生産が目的だった。その頃集落には黒牛もいたが主に農耕作業に使っていた。牛にジャージー種、ヘレフォード種、アンガス種、黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種など多くの種類があるのを知ったのは後年のこと、耐暑性が強いアジア原産のコブウシ系統牛が放牧されているのを見たのは五十年後の南米だった。

朝夕に搾乳した牛乳は流水で冷却したのち検査し集乳缶に入れ集荷場に集め工場へ搬出していたが、自家用としても利用していた。幼い頃は風邪をひきやすく、どちらかと言えば虚弱体質だったので牛乳は毎日飲んでいた。母は沸騰するときの匂いさえも嫌で全く飲めなかったが、遊び疲れて飲む牛乳は美味しかった。祖父は体質改善にとマムシの骨を焼いて食べろと言うが、これには辟易した。祖母は生卵を飲めと言う。ご飯にかけた生卵は美味しいが、そのまま飲み込むと黄身は何とも言えぬ不思議な味がした。

乳牛の餌は生草の場合もあるが、稲藁にカブや青木葉を加え濃厚飼料を混ぜて与えていた。生草や稲藁、青木葉は「押切り機」で裁断するが、この道具は危険なため子供は使わせてもらえなかった。大人でも誤って指を切り落とす事故が多かった。その代わり、カブを桶に入れ采の目に突くのは子供の仕事だった。牛飼いを生業とすれば搾乳、給餌、給水、敷き藁交換と終日忙しく、しかも一年中休めない。子供心にも自然と手伝わねばと思うような環境だったので、率先して手伝ったような思いがある。

牛舎を清潔に保つためには、排出物の片づけと敷き藁交換が必要で大変な作業だったが、厩肥生産は当時の百姓にとって重要だった。化学肥料が潤沢でなく高価だった時代である。堆肥を積み発酵させ、田畑に施し作物を育てた。そんな意味でも乳牛は大切な存在であった。ブラシ掛けして牛体をいつも磨き上げていた。嫁探しに初めての家を訪ねるとき「牛を見せて下さい」と声をかけると爺さんは内輪話をしていたが、牛の飼育状態を見れば其処の家族の働きぶりが分かるということだったのだろうか。

牛舎で飼育していると蹄が延びる。牛の脚を折るように持ち上げ自分の膝に乗せ、小さな専用鎌で蹄を削るのを見た時は、これぞ職人技だと感心した。牛の蹄は二つに分かれている。いわゆる偶蹄類で、第一指が退化、第三指と第四指が発達したのだと言う。これも草原を走るために進化したもので、奇蹄類ウマは第三指(中指)だけが進歩したのでより速く走れるのだと聞いた。

乳生産を続けるためには子牛を出産させなければならない。牛の発情状況を観察し獣医師に連絡すると、技師はオートバイでやってきて冷凍精液を取り出して人工授精する。数ヶ月後には着床と体内子牛の生育状態を観察するため、肛門から腕を入れ触診する様子には子供心に驚いた。子牛は牝であれば血統によってそれなりの値が付くが、牡は肉用にと早々に引き取られて行った。これは悲しい出来事だった。

乳量のコンクールや牛の品評会が毎年行われていた。乳量コンクールでは例年良い成績を収めおり、骨格がどうだ、乳房の大きさがどうだと大人たちは話していた。乳量を増やすには餌の管理が重要だが、祖母がそっと濃厚飼料を追加給餌する姿を見たことがある。家族全員が家畜を宝のように扱っていたのだろう。高学年になると牛を牽いて歩く事もあったが、手綱を緩めて牛に任せておけばどんな細い路でも踏み外さないことを知った。

 

古い資料を整理していたら、血統証明書(血統証券)や種付け証明書、伝染病検査書(畜牛結核病検査受験票、伝染性流産トリコモナス検定証など)が保管されているのを見つけた。血統証明書には当該種の名前、両親の名前、出生日、毛色、毛斑の特徴(後に鼻紋も)、所有者名等が記載されている。

振り返れば、父(啓山石堂)の代も畑仕事や山仕事の傍ら牛飼いを続けていた。牛の匂いを纏った暮らしだったと言えるかもしれない。子供らも給餌、給水、厩肥搬出などの手伝いは勿論だが、代掻きに牛を御し、お産に一人立ち会うこともあった。大学受験で浪人中も牛の世話をしながら、雑誌「蛍雪時代」と通信教育の添削で過ごした。北海道へ渡ることに決まった時、「牛飼いにでも行くのだろうさ」と話す声が何処からともなく聞こえてきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伯父「朝義」のこと

2021-03-18 14:27:39 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の3:伯父「朝義」のこと・・・。

◇伯父「朝義」のこと

古いアルバムに軍服姿の青年の写真がある。

「これは誰だ?」と尋ねたら、「長男の朝義で・・・死んでしまった」と祖母常然(つね)は答えた。祖母の淋しそうな顔を見てそれ以上詳しい話は聞けなかったが、父に兄がいたことを知った。生きていたらその兄が家を継ぐことになっていたのだろうと子供心に感じ、以降この話題は封印してきた。

最近になって古い資料を整理していたら、丁寧に保管された伯父朝義の卒業証書や賞状が出てきた。また、朝鮮出兵の折のアルバムには細かい説明が付されており、朝義名義の「天城山葵沢日記」には資材の調達や出荷先と出荷量、人夫出役記録など、山葵の生産販売記録が詳細に記録されている。祖父文義(文次郎)もそうだったが、朝義は几帳面な性格だったのだろう。私が生まれたのは伯父逝去後なので面識はなく、残された資料を見て想像するしかないのだが・・・。

朝義が生まれたのは明治42年(1909)である。幼少期に第一次世界大戦が勃発し、日本は中国における勢力拡大と戦時景気による高揚感に満ちていた。尋常高等小学校卒業年には関東大震災が発生している。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義の台頭、米騒動、世界恐慌があった。青年期には満州事変が起こり、犬養首相の暗殺、国際連盟脱退、ヒットラー総統就任など日中戦争勃発に向かう激動の時代を生きた。僅か25年余の生涯は凝縮され濃密なものだったに違いない。没後87年、伯父朝義の足跡を辿る。

(1)生い立ち

◇明治42年(1909)3月7日、文義(文次郎)・常然(つね)の長男として生まれる。出生地は賀茂郡稲梓村須原5××番地、3歳上に姉喜代子がいた。

◇大正10年(1921)3月に賀茂郡稲梓尋常小学校卒業、同級生(大正9年度卒業)は28名だった。大正12年(1923)3月に尋常高等小学校(2年課程)を卒業。

◇大正15年(1926)3月、賀茂郡村立稲梓農業補習学校5年課程を卒業。尋常小学校卒業後は高等科と農業補習学校の双方で学んだのだろう。農業補習学校5年課程修了後は同研究科(2年課程)に進学し、昭和2年3月に「本校生徒ノ中堅トナリ克ク他生ノ善導ニ務メ其ノ功績顕著ナリ」、昭和三年三月には「孜々黽勉ニシテ一般生徒ノ模範タリ」と賞状を授与され研究科を修了している。

◇昭和2年(1927)から4年(1929)にかけては農業補習学校研究科に通いながら青年団でも活動している。昭和4年12月には賀茂郡稲梓青年訓練所の過程を修了し、「一般生徒ノ模範タリ」と表彰される。

◇文次郎は大正13年(1924)に幸蔵(新田)と謀り計2,000円を出資し、天城梨本で山葵の栽培を始めているが、朝義は学業や青年団活動の傍ら懸命に働いていた様子が伺える。朝義名義の「山葵沢日記」には諸経費(資材、出役など)や出荷記録(岡林商店、東京日本橋石川商店、東京京橋金子久太郎、東京京橋青物市場、田島商店、戸野部商店など取引先と出荷量)が残されている。

(2)二十歳代

◇昭和5年(1930)6月入営。昭和6年(1931)6月歩兵第76連隊所在地のある朝鮮羅南に渡った。歩兵第76連隊は大日本帝国陸軍の連隊の一つで、満州事変の勃発に伴い同年12月連隊の派兵が決定された。朝義は昭和7年(1932)陸軍歩兵第一等兵として務め、「賞状(小銃第二種徽章付与)」「善行證書」「賞状(射撃成績優等に付小銃特別徽章を付与)」「陸軍憲兵上等兵適任證書」等が残されている。

◇昭和8年(1933)除隊。実家に戻り家業に携わる傍ら青年団活動に関わる(静岡県賀茂郡青年団講習証書が残されている)。昭和9年(1934)7月15日下田町(旧岡方村)5番地にて逝去。享年26歳。三玄寺墓所に眠る。

伯父朝義が早逝した病名について聞いた覚えがない。軍隊での怪我が原因だったのか、若くして病死したのであれば結核だったのかと想像していたが、石堂(啓二)が昭和17年に契約した生命保険の被保険者審査報状に朝義の死因は急性肺炎と記載されているのを見つけた。

(3)入営時の餞別

入営(昭和5年6月29日)及び朝鮮入営(昭和6年6月21日)時の餞別覚書がある。恩師、三玄寺住職、親戚、友人、集落の方々の名前と金額が列記されている。多くは50銭から1円、親戚が3円から5円とある。

また、 昭和9年の葬儀記録(香典控簿)には多数の方々からお悔やみを頂いた記録がある。当時の香典は20銭から50銭、親戚が2円程であったようだ。また、3人の僧侶が葬儀を執行しているが、お布施は導師に10円、外2名の僧侶に各2円の記載がある。忌中見舞いとして白米1~2升などの記録もあり、村人が物品を持ち寄り総出で葬儀を執り行っていた様子が伺える。

集落の人々は弔事や祝い事のみならず、田植えや稲刈りなど多忙な農作業も協力し合っていた。いわゆる手間換え、結いの精神である。都会でも町内会が葬儀に関わるなど結びつきが強かったが、平成~令和時代になるとこの慣習は次第に薄れてしまった。さて、この慣習を「煩わしい」「と考えるか、「寂しい」と感じるか。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

2021-03-17 09:44:13 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の2:禮堂文義が保存していた「四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券」・・・。

◇四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

禮堂文義(文次郎)は第二次世界大戦前の国庫債券を保管していた。一枚は昭和9年(1934)発行の「大日本帝国政府四分利公債證書」(へ号、無記名)額面50円、他は昭和15年(1940)発行の「大日本帝国政府支那事変行賞賜賞国庫債券」(い号、記名)額面70円及び昭和16年(1941)発行の「大日本国政府支那事変国庫債券」(く号、無記名)額面25円である。

◇昭和九年発行「四分利公債證書」

写真は昭和9年(1934)に発行された「四分利公債證書」である。発行記号は「へ」、額面50円、表面に「(一)此国債ハ発行ノ年ヨリ五箇年据置キ其翌年ヨリ三十箇年内ニ之ヲ償還ス、(二)此国債ノ利率ハ年四分トス、(三)此国債ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」の記述があり、40枚の利札(6か月分の利金各1円)が付いている。利札は昭和20年前期までの22枚が切り取られ、それ以降の18枚が残っている。昭和20年に利子22円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

昭和初期の50円はどの位の価値があったのだろう? 比較は難しいが、消費者物価指数を基準にすると約2,000倍になると言う。現在の10万円程度であろうか。

◇昭和十五年発行「支那事変行賞賜賞国庫債券」、昭和十六年発行「支那事変国庫債券」

「支那事変行賞賜賞国庫債券」は昭和15年(1940)発行で、発行記号は「い」、額面70円、健吾叔父の名前が記されている。表面の記載によれば「(一)此債券ハ右ノ者ニ対シ支那事変ニ関スル一時賜金トシテ交付スル為之ヲ発行ス、(二)此債券ノ元金ハ昭和三十五年四月一日迄ニ之ヲ償還ス、(三)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(四)此債券ノ利子ハ毎年四月一日ニ於イテ其ノ日以前一箇年間ニ属スルモノヲ支払フ・・・」とあり、35枚の利札(各2

円55銭)が付いている。昭和24年4月1日までの20回分が切り取られて、それ以降は残っている。昭和20年までに利子51円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われていない。

もう一枚の「支那事変国庫債券」は昭和16年(1941)発行で、発行記号は「く」、額面25円、利率年3分半利の債券である。表面の記載事項は「(一)此債券ノ元金ハ昭和三十三年十二月一日迄ニ之ヲ償還ス、(二)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(三)此債券ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」とある。43銭の利札が35枚ついているが、昭和20年4月1日までの8回分が切り取られ、それ以降は残っている。昭和20年に利子3円44銭を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

因みに、支那事変は昭和12年(1937)盧溝橋事件を発端に始まった。日支事変、日華事変とも称されたが、後に日中国交正常化を受け1970年代以降は日中戦争と呼ばれている。日中戦争から太平洋戦争への流れの中で、大日本国帝国政府は多くの国庫債券を発行して財政を賄っていた。

 

◇賜金国庫債券を無効とする

賜金国庫債券は、日中戦争(支那事変)及び太平洋戦争(大東亜戦争)の論功行賞として金鵄勲章授与者等の功労者に対し支給する一時賜金に代えて交付された(昭和15年法律第69号)。しかし、終戦後、連合国最高司令官は日本政府に対し軍人等に対する恩給、給与等の支払停止に関する指令を発し(昭和20年11月24日)、賜金国庫債券も無効にすべきと指示した。この指令に基づき、政府は「賜金国庫債券ヲ無効トスルノ件」を閣議決定し(昭和21年2月26日)、昭和21年勅令第112号によって無効とする措置をとった。戦争に関わる対応とは言え、わが国でも法律によって国債を無効にした歴史がある。

◇放棄された戦時国債

禮堂文義は、賜金国庫債券以外の国庫債券を何故に放置したのだろうか。戦後4年間で東京の小売物価が80倍になったと言われる債券価値の下落が原因ではないかと想像できる。日本銀行調査によれば、昭和9~11年(1934~36)の消費者物価指数を1とした場合、昭和29年(1954)の物価指数は301.8(18年間で約300倍)。また、卸物価も昭和9~11年に比較し昭和24年(1949)までに約220倍、昭和20年(1945)後の4年間で約70倍のインフレーションだったと言われる。インフレの原因は、戦時国債や軍人退職金支払いのために日本銀行が国債を引受けたことによるが、戦時国債はこのスーパーインフレによってほとんど紙屑となった。庶民の僅かな預金も同様だった。

なお、保管されていた国庫債券は消滅時効が既に完成しているので現金化出来ない。たとえ紙屑同然だったとしても、禮堂文義(文次郎)や寂空常然(つね)が生きた時代の歴史遺産。大事なものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」

2021-03-16 09:54:32 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の1:禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」・・・。

◇感謝状と嘱託状

禮堂文義(文次郎)名の感謝状や委嘱状が何枚か残されている。それらの書類を最初に見たのは幼少の頃だったが、子供心に「祖父はこんなこともしたのか」と思い、祖父文次郎の性格や集落での立ち位置が理解出来た様な気がした。祖父が実直で間違いのない人間と評価されていたことは疑う余地がないだろう。

◇国勢調査「感謝状」

写真は昭和5年(1930)10月に実施された国勢調査に関わった折の感謝状である。文面には「本年十月施行ノ国勢調査ニ関シ克ク尽力セラレタリ茲ニ感謝ノ意ヲ表ス 昭和五年十二月二十日 内閣統計局長従四位勲三等長谷川赳夫」とある。国勢調査は大正9年(1920)に第1回を実施したのち5年ごとに実施されているので、文次郎が国勢調査員を務めたのは第3回国勢調査ということになる(因みに、直近の令和2年調査は第21回目)。

国勢調査とは、統計法(平成19年、法律第53号)に基づき「日本国内の外国籍を含むすべての人及び世帯」を対象に実施する、わが国の最も重要な基幹統計調査である。本法は個人情報保護法の適応外とされ、調査拒否や虚偽報告に対する罰則規定も定められている。このため、国勢調査員は総務大臣の任命による非常勤国家公務員と位置づけられている。このような国勢調査だが簡単に実施が決まったわけでなく、開始までには紆余曲折があったようだ。制度設定までの流れを追ってみよう。

(1)明治治28年(1895)日清戦争が終わった同年9月に国際統計協会から日本政府に対し「1900年世界人口センサス」への参加要請があった。これを契機に制度設定の機運が高まった。明治の初めにも、「沼津政表」「原政表」(明治2年)、「甲斐国現在人別調」(明治12年)など地方版調査が行われたが、全国レベルでの調査は実施されていなかった。

(2)明治35年(1902)「国勢調査ニ関スル法律」が公布され、明治38年の実施を予定したが、日露戦争のため実施は見送られた。

(3)大正4年(1915)第一次世界大戦の影響で実施が見送られた。

(4)大正9年(1920)第1回国勢調査実施。

国勢調査開始から100年が経過した。近年は国勢調査の未回収率が高まっているのだと言う。例えば、平成12年(2000)1.7%、平成17年(2005)4.4%、平成22年(2010)8.8%、平成27年(2015)13.1%と増加傾向にある。直近の令和2年(2020)の最終結果はまだ公表されていないが、郵送とインターネットによる回答数が前回より上昇しているので、未回収率は5~10%に留まるのではないかと推察される。未回収増加の大きな原因はプライバシーに対する意識変化であろう。

文次郎の孫の私も町内会役員時に国勢調査員を務めた経験があるが(昭和60年芽室町、平成17年恵庭市)、当時は調査票を各戸に配布し改修する手順になっていた。神経を使う大変な業務だった印象がある。郵送及びインターネット回答が可能になったことは個人情報保護の観点からも一歩前進だろう。

◇小麦増殖実行委員「委嘱状」、片倉製糸蚕種製造実行班長「嘱託状」

写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。

小麦については、食糧増産の掛け声のもと国内生産が推し進められていた時期である。農林省は「主要食糧農産物改良増殖奨励事業」を行い、優良品種普及のために種子増殖事業を全国で展開していた。昭和7年(1932)に89万トンだった小麦生産は、8年後の昭和15年(1940)には180万トンに達している。第二次世界大戦後も全国で約150万トンの生産を維持していたが、昭和30年(1955)関税貿易一般協定(GATT)に加盟後は貿易自由化によって輸入が増え国内生産は減少の一途を辿った(昭和51年、22万トン)。

写真は「静岡県小麦増殖実行委員ヲ嘱託ス 昭和七年十月十日」と表記された嘱託状と「坂戸分場土屋文次郎 右者実行班長ヲ嘱託ス 昭和八年四月壱日 片倉製糸紡績株式会社沼津蚕種製造所」と書かれた嘱託状である。

一方、養蚕も歴史の荒波にもまれた。幼少時の記憶には養蚕風景が鮮明に残っている。養蚕に使う部屋の消毒、種卵の配布、繭の集荷など製糸会社の技術者が巡回していたが彼らは片倉製糸沼津蚕種製造所の人間だったのだろうか。裏の畑にも桑が栽培されていた。葉を摘むために指にはめる刃のついた便利な道具があることを知った。大人のマネをして使ってみたが、子供の柔らかい指には危険だと体感したのもこの頃である。わが家では10年以上養蚕を行っていたが、戦後は生糸の需要が減少し集落から養蚕は消えて行った。

片倉製糸紡績株式会社は、明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であった絹糸の製造を行い、片倉財閥を構築した老舗企業である。かつて操業していた富岡工場(富岡製糸場)が日本の工業近代化の貴重な遺産として世界文化遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)に登録されている(2005年、富岡工場の土地・建物を富岡市に寄贈した)。第二次大戦後は化学繊維の普及が進んだため、平成6年(1994)に伝統事業である蚕糸事業から撤退し他部門へシフトした。

一枚の古い資料に歴史が蘇り、想像が広がる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする