豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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サルが渋柿をかじる?

2019-08-17 14:38:04 | 伊豆だより<里山を歩く>

両親が亡くなってからは毎年のことだが、お盆前には生家と墓地を清掃するために帰郷し、墓前に花を手向ける。今年も8月上旬の或る日、早朝に北海道を発ち伊豆下田へ向かった。日本列島の東にある高気圧の縁を、太平洋を北上する台風の熱気が回り込むように流れ込み、熱中症の警報が毎日のように発せられている暑い日だった。

日中の作業は無理だろうと、早朝の4時半ころから刈払い機で草刈りを始めるが半時も持たない。汗が流れる。水分補給する。休憩しシャツを換える。汗が流れる。奮闘するも、午前10時には作業終了。3日間で、庭と通路、墓地の清掃は何とか終わり、一息つく。

写真手前の花はヒガンバナ(彼岸花。曼殊沙華、死人花、捨て子花、天蓋花、幽霊花とも呼ぶ)。土手や水田の畦などに生え、秋の彼岸頃に花をつける。有毒植物とされるが、イノシシに掘られて(?)近年めっきり減ってしまった。

◆サルが渋柿をかじる?

イノシシは毎晩のように足跡を残しているが、今回はサルがやってきた。二日目の朝、青い柿の実が庭に数個落ちているのを見つけた。かじった痕跡が見える。裂けた枝が落ちている。姿を見た訳ではないが、痕跡からしてニホンサルに間違いあるまい。

裏山は天城山麓に連なるので、群れを成したサルの周遊範囲なのだろう。数十年前から「家の屋根に猿が来ていた」との話を聞いたことがある。この地方の農業・林業にとって、イノシシ、シカ、サルは鳥獣被害の三傑だという。農林水産省鳥獣対策室によれば、平成27年度の被害額は全国でシカ596千万円、イノシシ513千万円、サル109千万円だという。因みに静岡県では、イノシシ14千万円、シカ7800万円、サル3700万円。電気牧柵など鳥獣に対する防除策はいろいろと提案されているが、被害軽減は難しいようだ。

柿の実はまだ渋いはずなのに食べるとは、森に食べ物がないということだろうかと考える。

◆ダニ(マダニ)

北海道に戻ってシャワーを浴びた時、腰のあたりに硬貨大の赤い腫れがあるのに気づいた。触ってみると何かがついている。3日間も伊豆の山里で草刈りをしたのでダニだろうと予測はついたが、よく見えない場所で、自分で処置するのも難しいのでM皮膚科クリニックに行く。

病院では患部を観察しマダニであることを確認、局部麻酔で除去。感染症の恐れがあるということで、セフゾンカプセル100mg(感染症治療のためのセフェム系抗生物質、1日3回、7日分)を処方され、併せてビオフェルミンR錠(耐性乳酸菌製剤)を服用。服用してから1週間、ダニに食いつかれてから多分10日間が経過しているだろうが、刺し口周辺にはまだ紅斑が残っている(発熱/発疹はなし)。

マダニに食いつかれた幼時の記憶が蘇る。あの頃は、腫れることも無かったような気がするのだが・・・、免疫力が落ちたのだろうか。

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「下田北高」の校訓を思い出す(校訓考)

2019-08-02 19:03:28 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田北高の校訓(校訓考)

地域のFM放送に出演することになったとき、パーソナリテイのHさんから自己紹介を求められ、「高校は何処ですか?」と尋ねられた。「下田北高」と答えたが、北海道では知る人もいないだろうから、「十勝開拓で知られる晩成社の創始者依田佐二平(勉三の兄)が明治12年に創設した豆陽学校が創始で、現在の下田高等学校・・・校訓は至誠だったかな」と答える。

後日HPで調べると、下田高の校訓は「至誠/雄飛/献身」、「何事にも誠実に取り組む」「広く日本や世界で活躍する」「地域のために尽くす」とある。在籍当時の校訓を確認しようもないが、下田南校との合併など組織改変があったので校訓も変わった可能性はある。

小学館デジタル大辞典によれば、校訓とは「学校で、教育上特に必要と思われる教えを成文化し、学校生活の指針とするもの」とあるが、高校時代にどれだけ校訓を意識していたのか記憶はない。ましてや、校訓が後の人生に影響したなどと言うつもりは毛頭ないが、歳を取ると歩みし此の方を重ねて見たくもなる。

至誠:高校卒業後は縁あって北大農学部で学び、北海道の農業試験場では大豆育種に携わった。誠実な仕事ぶりと言う評価は当たらないと思うが、一つの仕事に長く関わり多くの新品種を世に出すことが出来た。育種事業は泥臭く何より地道な取り組みを必要とするので、伊豆気質と言われる性分(よろず一筋なり)はこの仕事にあっていたのかも知れない。

雄飛:北海道で大豆育種に関わっていた縁で、国際協力事業団の派遣専門家として海外で働く機会が巡ってきた。中でも、南米アルゼンチン共和国での2年6ヶ月(30代後半)、パラグアイ共和国での5年間(60代)は、苦労も、喜びも味わい、良い体験となった。幸いなことに、これらプロジェクト評価は高いものだったと聞く。奥伊豆から北海道へ、さらに南米へ、雄飛と言えるかどうかわからないが忙しい人生だったことは間違いない。

献身:晩年、恵庭に居を構えた。北海道の他の都市と同じく、明治の時代に府県から移住者を迎え開拓が進んだ街で、人口7万人弱、札幌近郊で新興住宅地が多い農村都市である。散歩がてらに、記念碑、野外彫刻、神社仏閣などを訪ね資料を収集し、一昨年「恵庭の記念碑」「恵庭の野外彫刻」「恵庭の神社・仏閣・教会堂」なる冊子を自費出版した。「歴史を知ること、地域を知ることが故郷を愛することになる」との思いをこめた、いわば、この街への贈り物。このような資料がなかったので、興味を懐かれた方も多かったようだ。

校訓とこれまでの歩みを重ねてみた。まあまあ良しとするか?(振り返れば、失敗の繰り返しで落ち込むことが多い人生だったが、凡々と暮らし何とか帳尻を合わせたものだ)。現役生の皆さんに、母校の校訓がどのような形で浸透しているのか気になるところではある。

◆恵庭所在校の校訓は?

ところで、今暮らしている恵庭の校訓はどんなものかと気になった。調べてみると、「校訓」の下に「教育目標」を掲げ、さらに重点目標、実行目標など具体的に示している場合が多い。

1.恵庭北高の校訓は「拓学」~心豊かに、真理を求めて~とあり、「この校訓には、先人が、雄々しく、力強く、豊かに郷土を拓いた、その不屈の精神で、一人一人が久遠の理想、真理を求め、学ぶという意味が込められています」と説明している。

2.恵庭南校の校訓は、「自主、協同、創造」とある。

3.小中学校の場合は、「教育目標」「目指す子供像」のような形で表現している。例えば、「知、情、意、体」「知、徳、体、労」などの言葉で示されている場合が多い。

◆教育目標

例えば恵庭北高では、校訓に続き教育目標を示している。即ち、「学校教育目標」として、~人生の生き方を自ら決定できる人間~、①知性を磨き、創造性豊かな人間を育成する、②社会性を重んじ、主体的に行動できる人間を育成する、③心身を鍛え、何事にも粘り強くやり通す人間を育成する、④自他の人格を尊重し、互いに協力し合える人間を育成する、の4項目を具体的に提示している。さらに「育成を目指す資質・能力」として到達点(具体像)を示し、「重点目標」を定めている。

校訓を頂点にピラミッド構造で下に基本目標、実行目標置いたと考えられる。が、言わずもがなの重複感は拭えない。

校訓を「教育上特に必要と思われる教えを成文化し、学校生活の指針とするもの」とするなら、シンプルでインパクトある言葉を設定し、個々の想像力に委ねるべきだろう。

コメント (1)
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