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恵庭の教会-4,その他の教会(キリスト教系の新宗教)

2015-04-20 15:16:35 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭の街を歩いていると,その他にもキリスト教系の伝道施設と思われる建物を見掛ける。JR恵庭駅の近くでは「末日聖徒イエス・キリスト教会」(通称モルモン教)を,北柏木町では「エホバの証人(ものみの塔聖書冊子教会)の王国会館」を見た。

因みに,この二つの教派と「世界基督教統一神霊教会」(通称統一教会)は,プロテスタント系教派の大多数によって,異端(亜流)と宣言されている(ものみの塔聖書冊子教会は,自らキリスト教世界に属していないと表明しているようだが)。

しかし,「異端」の定義は幅が広い。「異端」とは「正統」に対峙する用語なので,既成宗派から見れば新宗教はいずれも異端と言えなくもない。一般には,本流を自認する側が,異なる教義の宗派を指して言う。キリスト教の場合は,「聖書の他にも経典を有する」「キリスト以外を主と仰ぐ」等が,異端と位置づける大きな要素になっているようだ。歴史的にも異端論争は繰り返されてきたし,伝統教派では異端規定まで定めている。

5.その他の教会

キリスト系の新宗派は多数あり,把握しきれない。ここでは,恵庭で目についた二つを取り上げる。

◇末日聖徒イエス・キリスト教会千歳恵庭支部

恵庭市相生町,JR恵庭駅の西口を出て北西に300m,黄金北に渡る踏切近くにある。屋根の上には十字架でなく尖った塔があり,入り口の壁に「末日聖徒イエス・キリスト教会」とある。俗称「モルモン教」と呼ばれる教派の教会である。白シャツに黒ズボンの若い二人組外国人(専任宣教師)が,伝道に歩く姿をしばしば見かける。伝統的な教派であるカトリック・プロテスタント・正教会からは異端と呼ばれているが(聖書以外にモルモン書を聖典とし,三位一体を否認している),宗教学上はキリスト教の新宗教に分類される。

 

写真は2015年4月撮影

小学館デジタル大辞典によれば,「末日聖徒イエス・キリスト教会は,1830年に米国のジョセフ・スミスが神の啓示を受けたとして創立した傍系的キリスト教の一派。聖書の他に「モルモンの書」をも利用する。初期には一夫多妻主義が主張されたが,1890年に廃止。本部はユタ州ソルトレイクシテイ。第二次世界大戦後,日本でも伝道」とある。

教会の発表では,世界で1,500万人の会員を擁するとある(2010)。十戒の実践,純潔の律法,献金の義務など,人が自ら進んで守るべきものを戒律として定めている。(参照:末日聖徒イエス・キリスト教会HPなど)

◇エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)

恵庭市北柏木町で「エホバの証人の王国会館」を見掛けた。道道46号(旧国道36号線)に面する場所である。エホバの証人集会所(エホバの証人の恵庭市文京会衆)として使われている建物だろう。

写真は2015年4月撮影

エホバの証人は,アメリカ合衆国でチャールズ・テイズ・ラッセルらが1870年聖書研究を開始,1884年宗教法人に認可された(1932年にエホバの証人と呼称),キリスト教系宗教団体である(本部はニューヨーク)。日本では神奈川県に支部が置かれ,巡回区,会衆の組織で宣教している。宣教は二人一組で戸別訪問など行う。信徒は世界で820万人,日本で20万人と言われる。

キリストを崇拝対象とせず,旧約聖書の唯一神エホバを崇拝対象とする(神の名はエホバ,イエスは神の子であり,神ではない)。因みに,エホバは「旧約聖書におけるイスラエル民族の神で,天地万物の創造者,宇宙の支配者,人類の救済者で唯一絶対の神」とされる(小学館「デジタル辞典」)。

「神の王国教義」及び「三位一体説の否認」など教義面で正統教義と相容れないため,伝統教派からは異端とされる(自らはキリスト教会に属していないと言う)。宗教学上はキリスト教系の新宗教と分類されるが,兵役拒否,格闘技に参加しない,国旗敬礼や国歌斉唱をしない,輸血拒否など特異な行動様式を有するため,しばしば社会問題となることがある。(参照:ものみの塔聖書冊子協会HPなど)

◇カルト

犯罪行為を起こすような反社会的集団に対してカルト(セクト)と言う言葉が使われるが,この言葉は1990年代アメリカにおいて反社会的主教団体に使用したのが初めとされる。カルト(セクト)とは,崇拝,礼拝を意味するラテン語から派生した言葉で,本来は否定的な意味が無かったと言うが,現在は良い意味に使われていない。

かつて,信者900人の集団自殺事件(1978年),犯罪や洗脳など社会問題になる事件が多発したことを受け,アメリカやヨーロッパではカルト集団に対する議論が深まった。その結果,1995年にはフランスが議会報告書「フランスのセクト」「フランスにおけるセクト教団」「1995年度報告書」を発表,同国内で活動するセクト的傾向の団体を紹介し,社会問題への対処を提案した。更に,1996年にはオーストリアやドイツが,1997年にはベルギー議会調査委員会が監視団体リストを公表するなど動きが広まった。これ等のリスト公表は,カルト集団として認定したのではなく,監視する必要がある団体と言う意味だと言う。リストに宗教団体も含まれることから「信仰の自由」との兼ね合いが論じられたが,人権や法は宗教に優先する場合があるとの価値基準に一歩踏み込んだことになる。カルト集団による人権侵害や犯罪が目に余ることから起きた流れであり,この流れは世界に広がっている(わが国では未だこの動きはない)。

日本に本部を置く宗教団体の中にも,キリスト教・仏教を問わず,フランスやベルギー等の報告書にカルト(セクト)監視団体として名前を挙げられている団体がみられる(参照:Wikipediaなど)。ここでは具体名を挙げないが,カルト監視団体と判断される何らかの理由があったのだろう。

因みに,カルトの特徴は,指導者に対する絶対崇拝と盲信,教義の曖昧さと欺瞞,閉鎖性,金融面や性的利用(強制寄付,強制販売,性支配),人権侵害,未成年者への勧誘,反社会性,暴力性などにあると言う。カルト教信仰から生ずる悲劇は決して発生して欲しくない。

 

恵庭の神社・仏閣・教会を訪ねる「恵庭散歩」は,人間にとって宗教とは何か考える旅でもあった。

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恵庭の教会-3,恵庭にあるプロテスタント系教会

2015-04-19 14:48:04 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

初回に取り上げた「日本キリスト教団島松伝道所」はプロテスタント系教派と述べたが,恵庭にはその他にも「恵庭福音キリスト教会」「日本福音ルーテル恵み野教会」「インマヌエル恵庭キリスト教会」「めぐみ聖書バプテスト教会」などプロテスタント系教派の教会がある。

恵庭にあるプロテスタント系教会を訪ねる。

3.恵庭福音キリスト教会

所在地は恵庭市緑町1丁目,JR恵庭駅西口から恵庭駅通二つ目の信号で右折した所にある。恵庭駅から400m,徒歩で5~6分。外観は一般住宅と変わらない建物だが,入り口に「日本福音キリスト教会連合,恵庭福音キリスト教会」とある(写真は2015.3.30撮影)。いわゆる「日本福音キリスト教会連合」に所属するプロテスタント系教派の教会である。

この教会は,平成元年(1989)に千歳福音キリスト教会の恵庭伝道所として,国際宣教会の協力でスタートしている。宣教師時代が10年,日本人牧師になって10年余が経過した。礼拝の他に語学,文化,料理,子育てなどを媒体にしながら,宣教の活動が行われて来た。現在の牧師は中川昭一師。日曜礼拝,バイブルクラブ,ぶどうの会,祈り会,シャーロームの会など小集会形式の活動が行われていると言う。

小学館「デジタル大辞典」によれば,「福音キリスト教会はプロテスタント教会の一教派。19世紀初め,ルター派のジェイコブ・オールブライトがメソジスト派の影響を受けて北米ペンシルベニアに興した教会。日本には明治9年に伝わった」とある。その特色は,「信仰告白に基づく結合」「聖書の権威を全面的に受け入れる」と要約される。即ち,日本福音キリスト教連合は,福音主義に立つ教会群で,聖書を誤りのない神の言葉として信頼し,これに服従する歴史的プロテスタントの基本教理を堅持する立場をとっている。同時に,福音的な教派や教会とも広く協力し,各個教会の自立性を尊重するのが特徴だと言われる。

4.日本福音ルーテル恵み野教会

所在地は恵庭市恵み野東2丁目,恵み野中学校に隣接している。JR恵み野駅の東方向1.4km,徒歩で20分 の距離,団地中央通りと恵み野環状線が交差する場所にある(写真は2015.3.30撮影)。JR恵み野駅前通りを直進する団地環状線を進むと分かり易いだろう。

岡田薫牧師により日曜礼拝が行われている。この教派では,式文による礼拝が行われるのだと言う。即ち,礼拝は開会の部,みことばの部,聖餐の部,派遣の部に分かれており,礼拝に招かれ,神の恵みを受け,派遣されて行くと言う一連のストーリーがある。年間礼拝(行事)は,聖金曜日,復活祭,昇天主日,聖霊降臨祭,三位一体主日,宗教改革記念日,バザー,召天者記念礼拝,待降節第一主日,燭火礼拝,降誕祭等が計画されている。

なお,ルーテル教会は,16世紀初めドイツのマルテイン・ルターによって始められたキリスト教派で,プロテスタントの一つである。ドイツ及び北欧地域,移民先のアメリカ合衆国,カナダ,ブラジル等に信者が多く,その数は全世界で8,200万人を超えると言われる。

日本ルーテル教会は,アメリカからの二人の宣教師が明治26年(1893)に佐賀でイースターの礼拝を行ったことに始まるとされる。明治42年(1909)には牧師養成のための神学校を設立,幼稚園教育や福祉活動を行うと共に布教に努めた。昭和16年(1941)政府の指示でプロテスタント教会が合同を強いられ日本キリスト教団を作るが,戦後の昭和22年(1947)年に離脱し日本福音ルーテル教会として再出発している。昭和38年(1963)には,その他のルーテル諸派と合同し新しく「日本福音ルーテル教会」を組織し現在に至っている。全国に138の教会と幼稚園,老人ホームなどの施設を持つと言う。

また,北海道のルーテル教会は,大正5年(1916)フインランドの宣教師と日本の牧師によって始まったとされる。昭和9年(1934)札幌に教会が建てられ,昭和12年(1937)にはめばえ幼稚園を開設。第二次世界大戦後に,札幌北,函館,池田,釧路,帯広,新札幌,恵み野に教会を建て礼拝を行っている。北海道教区が発足したのは昭和56年(1981)のことで,教区としての活動が続けられている。

 

5.インマヌエル恵庭キリスト教会

所在地は,恵庭市柏木町3丁目,道道江別恵庭線(旧国道36号線)に面して立つ。柏木神社,柏木中央会館の近くである。或いは,葬儀場メモリアル香華殿の島松寄りと言った方が分かり易いだろうか。住宅の屋根に十字架,二階の壁に「インマヌエル恵庭キリスト教会」の看板が見える(写真は2015.4.19撮影)。。同教会の紹介欄には「ウェスレーの説いた「第二の恵み」としての聖化の信仰を追求し,一人ひとりの霊的経験を重んじる,家族的な教会です」とある(イムマヌエル総合伝道団HP)。小田満牧師が伝道する(日曜礼拝と木曜夜にも定期礼拝がある),イムマヌエル総合伝道団に属する教会である。

なお,イムマヌエル総合伝道団は,プロテスタント系の教派で,「聖書はすべて誤りのない神の言葉であって,信仰と生活における唯一の基準である」と告白する福音主義(いわゆる聖書信仰)の立場に立つ。メソジストの流れを汲み,ホーリネス派(きよめ派)と呼ばれる教派に属する。

昭和17年(1942)の宗教弾圧で検挙されたホーリネス系教職者であった蔦田二雄師らが,戦後に教団「イムマヌエル」を結成したことに始まる。聖書信仰・聖書的ホーリネス・世界宣教の三つを課題に活動していると言う。

  

6.めぐみ聖書バプテスト教会

所在地は恵庭市末広町。恵庭市民会館の裏側,会瀬洞門通りに面している(写真は2015.4.19撮影)。同教会HPでは,昭和62年(1987)バプテスト・バイブル・フェローシップ宣教師ケン・ビエール師によって始められ,平成22年(2010)3月独立式を行い地方教会として正規に発足したとされる。牧師は高橋昌史師で,日曜学校,日曜礼拝を行っている。

なお,本教会が所属する聖書バプテスト教会は,昭和24年(1949),米国バプテスト・バイブル・フェローシップ諸教会から派遣された宣教師によって福音宣教が開始され,徹底した聖書主義に立つ保守バプテストの原理と実践を受け継いだ教会として組織されたプロテスタント系の教派で,各地で開拓伝道を進めている。

参照:各教派のHPなど

◇恵庭のキリスト教会

以上からも分かるように,恵庭におけるプロテスタント系教会の布教活動は,第二次世界大戦以降に始まったと考えてよい。いずれの施設も,神社仏閣に比べて佇まいは質素に見える。恵庭においてキリスト教伝道は歴史が浅く,信徒も少ない故だろう。ヨーロッパや中南米のような歴史と豪華さを備えた教会と比べる訳にもいくまい。

ヨーロッパや中南米の旧市街地では,中央広場(公園)に面して市庁舎や議会と並び教会が威容を誇っているのをよく見掛ける。それだけ,欧米ではキリスト教が生活の中心にあった。一方,我が国は神道と仏教を拠り所にしてきた歴史があり,恵庭開拓時代には神社仏閣の建立が優先された経緯がある。キリスト教は現在も開拓宣教の時代にあると言えるのかも知れない。

◇プロテスタント系キリスト教の学校

因みに,北海道では北星学園,遺愛学園,酪農学園などがプロテスタント系学校として知られている。北星学園は,明治20年(1887)アメリカ長老教会の女性宣教師サラ・C・スミスが開いた「スミス塾」が前身である。

遺愛学園は,明治7年(1874)アメリカ,メソジスト教会宣教師M.C.ハリスが来函し日日学校を開いたのが始まりである。彼は,アメリカ合衆国領事を兼ね,英語教師として札幌農学校で教鞭をとり,札幌農学校の第一期生佐藤昌介,大島正健ら15人,二期生の内村鑑三,新渡戸稲造,宮部金吾ら7名の洗礼を授けたことでも知られている。

酪農学園は,昭和8年(1933)黒澤酉蔵がデンマークの歴史にならい創設した北海道酪農義塾が前身。教育は,黒澤翁が唱えた「建土健民」「三愛主義」の考えが基軸となっている。なお,黒澤酉蔵は明治42年(1909)札幌のメソジスト教会で洗礼を受けている。

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恵庭の教会-2,ローマ教皇を頂点に抱く 「カトリック恵庭教会」

2015-04-17 08:58:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭市史(昭54)に掲載されているもう一つの教会は,「カトリック札幌司教恵庭教会」である。同誌の1,143ページには僅か3行,「本教会は昭和四十八年七月二十日,駒場町に岡藤広造から境内地の寄付を受け,教会聖堂,司祭館を建設,伝道に当って今日に至っている」とあるが,その後どうなっているのだろう? 何処にあるのだろう?

  

2.カトリック恵庭教会

所在地は恵庭市駒場町5丁目,JR恵庭駅の南方向1.8km,徒歩だと25~30分かかる。恵庭公園大通りから,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場に向かう道路を進むと分かり易いかも知れない。住宅地の中にあるが,十字架と礼拝堂のレリーフが教会を印象付けている(写真は2015年3月撮影)。教会堂名は聖ヨセフ,カトリック札幌司教区に属するカトリック系の教会である。市街地であるが,教会内に駐車場スペースは確保されている。昭和48年(1973),駒場町に岡藤広造から境内地の寄付を受け,教会聖堂と司祭館を建設して伝道にあたった「カトリック札幌司教恵庭教会」が前身である。

カトリック札幌司教区のHP(2015.4.11)によれば,同教会の司祭は現在James J Mylet司祭(メリノール宗教会)とある。日曜日9時から主日のミサが行われている。なお,カトリック教会では,主の降誕(クリスマス,12月25日),復活の主日(復活祭,春分の日後の最初の満月後の主日),主の公現(1月2日~8日の間の主日),主の昇天(復活節第7主日),聖霊降誕の主日(復活の主日後50日目),聖母の被昇天(8月15日),諸聖人(11月1日)などが主な祝祭日とされる。

◇カトリック教会

なお,カトリック教会ローマ教皇を中心として,全世界に12億人以上の信徒を有すると言われるキリスト教最大の教派である。総本山は,バチカン市国のカトリック教会で,サン・ピエトロ大聖堂はよく知られている。ローマ教皇はバチカンに居住する(現在はフランシスコ教皇,先代ベネデイクト十六世,先々代ヨハネ・パウロ二世)。

カトリック教会の特徴は,ローマ教皇に使徒ペトロの後継者として絶対的な権力を集中した点であろう。教皇(使徒ペトロの後継者と位置づけ,カトリック教会の総代表者。全カトリック教会の裁治権と統治権を持つ),枢機教団(教皇の顧問団。教皇庁で働く高位聖職者や重要な司教区の司教から任命される),司教(教区の責任者として教区内の教会を統治する,キリストの代理者),司祭・助祭(司教を補助する)から成るピラミッド型組織で形成されている。更に,修道会組織があり,清貧・貞潔・従順の誓願を立て,祈りや修行に専念するほか,教育,福祉,医療など諸活動を行っている。

16世紀には,権力と手を結んだ教会体質の腐敗が進んだことから宗教改革が起き,プロテスタントが生まれた歴史を有する。その後は内部改革が進み,イエズス会のような世界宣教ミッションの活躍もあり,現在では多くの信徒を抱えている。かつて(1982年),イギリスとアルゼンチンが争った「フォークランド紛争(マルビナス戦争)」で,終戦の労をとれるのは教皇しかいないのではないかと囁かれていたことを思い出す。

◇日本におけるカトリック教会の歴史

日本における歴史を振り返ってみよう。

フランシスコ・ザビエル渡来と宣教:わが国におけるカトリックの宣教は天文18年(1549),イエズス会員聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来によって始まった。当時,イエズス会の他にもフランシスコ会,ドミニコ会,アウグスチノ会など会員が来日し布教に努めた。慶長9年(1614)には,信徒数が65万人を超えたと言われる。

禁教の時代:天正15年(1587)豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ,迫害が続いた。

再宣教開始:安政4年(1857)鎖国令が解除されると領事館付き司祭が来日,横浜に初めて教会が建てられた(1862)。また,長崎の大浦天主堂も建設された(1865)。

信教の自由と教会の発展:明治22年(1889)帝国憲法発布により信教の自由が確保され,各地に教会が建設された。同時に,修道会が招待され,学校,病院などの事業を進める傍ら宣教が行われた。

ローマ教皇庁との関係:第二次世界大戦後に,バチカンから大司教の任命派遣がなされた。

邦人機卿の誕生:昭和35年(1960)土井大司教がローマ教皇より日本人初の枢機卿に任じられた。

16教区3管区時代:現在わが国のカトリック教会は16教区に分かれ,それぞれ教区長には日本人司教が任命されている。

◇日本カトリック教会の現勢

ところで,カトリック教会の現勢はどのようなものか? カトリック中央協議会「カトリック教会現勢2013」によれば,全国信者数は447,719人(人口の0.35%,長崎が4.3%と多い),教会数(集会所を含む)は991,修道院が819,教育施設(幼稚園から大学まで)847,司祭(司教を含む)1,409人,助祭45人,聖職者1,454人,修道士177人,修道女5,303人となっている。

◇カトリック札幌司教区

カトリック札幌司教区は司教館及び教区事務所を札幌市北1条東6丁目においている。司教(札幌司教区の代表)が在籍する「北一条教会」が司教座聖堂である。現在の司教はベルナルド勝谷太治被選司教,ほか地主敏夫名誉司教及び17名の司祭を擁する。また,各地の宣教会や修道会・他教区で働く司祭は,フランシスコ会,パリ外国宣教会,メリノール宣教会,マリア会,厳律シート会,イエズス会,韓国護政府教区等から派遣されている。

例えば,トラピスト修道院(厳律シート会)や十勝カルメン修道院(カルメン修道会)は,クッキーやジャムなどを販売しているので観光客にも知られている。また,修道会・宣教会活動による北海道内教育機関は,光星中学・高校(マリア会),ラ・サール中学・高校(ラ・サール会),白百合学園(聖パウロ修道女会),藤女子大(フランシスコ修道会),聖心女子学院(聖心会),天使大学・幼稚園(フランシスコ会)等で,数が多い。

参照:恵庭市史(昭和54),日本カトリック中央協議会HP,カトリック札幌司教区HP

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恵庭の教会-1,恵庭で最初に活動を始めた 「日本キリスト教団島松伝道所」

2015-04-15 09:43:20 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭のキリスト教伝道施設(教会)

恵庭市街を歩いていると,キリスト教会(伝道施設)を見掛けることがある。「キリスト教伝道は恵庭開拓史の中でどう位置づけられるのか?」「現在,どのような宣教活動が行われているのか?」と,疑問が過ぎった。当然のことながら,神道や仏教と異なる位置づけにあるはずだ。

まず,恵庭市史(昭54)を紐解く。恵庭市史によると,恵庭市にキリスト教伝道施設が出来たのは,昭和29年(1954)の「日本キリスト教団島松伝道所」が嚆矢とされる。本伝道所は昭和29年5月に開設,伝道のかたわら幼児教育を始めたとされる。さらに,市史には昭和48年(1973)開設の「カトリック札幌司教区恵庭協会」が記載されている。恵庭市史の発刊が昭和54年(1979)であるから,この頃のキリスト教伝道施設は恵庭に二つ存在した(二つしか無かった)と言えるだろう。

さて,現在はどうなっているのか? 訪ねてみよう。

1.日本キリスト教団島松伝道所

島松本通と道道600号線の交差点の角地に一つの教会がある。看板には「日本キリスト教団島松伝道所」とある。所在地は恵庭市島松東町,JR島松駅の南南東方向600m,徒歩で10分ほどの距離である。三角屋根の上に白い十字架を抱き,礼拝堂は時代を感じさせる質素な建造物である。礼拝堂につながる庭は手狭な感じがするが,建物周辺の木々は大きく繁っている。伝道所が開設された当時に植えられたものだろう(写真は2015年3月撮影)。

恵庭市史(昭54)には,「昭和29年島松伝道所を開設,昭和33年に礼拝堂が完成,昭和34年には献堂式が行われ,初代牧師は青柳剛,二代牧師は土橋修」とある。また,本伝道所HPでも,昭和29年(1954)島松伝道所開設とあることから,この年に初めて礼拝堂が島松に置かれたと考えてよいだろう。

しかし当然のことながら,恵庭におけるキリスト教伝道は,それ以前に動き出していた。北一条教会員であった信徒が牧場地区で酪農を始めたのは1930年代,1950年代に入ると同地域の酪農家が千歳栄光教会で受洗している。また,桜森地区に入植した満州開拓者の中にキリスト教徒がいて,礼拝堂設立の機運があったことが記録されている。

◇島松伝道所の概要

教派:日本キリスト教団(プロテスタント系)

歴代牧師:岸本貞治(千歳栄光教会牧師1954),青柳剛(1955就任),土橋修(1974就任),池田隆夫(代務者1986),滝口孝(1987就任),後宮敬爾(代務者1990),浅野純(1991就任),辻中徹也・明子(1996就任)

歴史

昭和29年(1954):島松伝道所開設(茅葺屋根の礼拝堂),付属ナザレ幼稚園開園

昭和35年(1960):会堂献堂

昭和55年(1980):苫小牧地区共同牧会で牧師館を建築

昭和59年(1984):ナザレ幼稚園閉園

昭和62年(1987):「障害者と共にある教会形成」スタート

平成12年(2000):浦河伝道所との共同研究開始「弱さを元手に,けじめなく」

平成17年(2005):教会建築献金開始

平成18年(2006):地元農家の野菜を通信販売する「しままつ野菜だより」開始

平成19年(2007):「木の教会コンサート」開始

平成20年(2008):礼拝堂改修

平成21年(2009):油絵教室,ゴスペルクワイア活動開始

平成23年(2011):牧師館建築のための隣接地購入

平成24年(2012):「弱さを元手に,“ひだまり”はじめます」スタート

本教会では,主日礼拝,祈祷会,うどん食堂,家庭集会,油絵教室,ゴスペルクワイア,当事者研究,当事者研究カフェひだまり等の活動が行われている。福祉,子育て,趣味などの集まりを通じて,キリストの教えを学ぼうとしているのだろう。

なお,日本キリスト教団は,昭和16年(1941)に日本国内のプロテスタント33派が教派合同して教団となった組織であるが,その後昭和26年(1951)には日本キリスト教会や日本福音ルーテル教会などが離脱し,日本組合基督協会,メソジスト協会などが残留した歴史をもつ。日本キリスト教団はプロテスタント系合同教会派に分類されると言う。

参照:恵庭市史(昭和54),日本キリスト教団島松伝道所HP

 

◆キリスト教の教派

ところで,キリスト教は信徒の数でみると世界最大の宗教と言われる(キリスト教徒は世界人口の32~33%,イスラム教徒18~19%,ヒンズー教徒13%,仏教徒6%と推定される)。因みに,わが国の宗教統計調査(文科省)ではキリスト教徒300万人とある。しかし,この調査では神道系1億700万人,仏教系8,900万人となっていて,日本総人口の2倍にも達してしまうことから鑑みるに,わが国キリスト教徒は総人口の2~3%程度と推定されようか。

また,キリスト教は教派が多いことで知られる。長い歴史と世界中に宣教が行われたため,時代や地域(国)で教派教会が設立され,合同や離脱が繰り返された経緯がある。解説書はあるが,流れは複雑で分かり難い。しかし,仏教では宗派により主経典が異なり独自な形態も生まれているが,キリスト教ではどの教派も聖書を経典にしているので根本的な差異はないとも言われる(聖書以外の経典を掲げる宗派は異端とされる)。私たちが常識的に知りうるのは,カトリック,プロテスタント,正教会という三つの大きな流れがあり,プロテスタントは西欧や北米で優勢,カトリックは東欧や南米で優勢,正教会は東欧や南東欧で優勢であるなど地理的な特徴があるということ程度だ。また,日本の歴史に登場するフランシスコ・ザビエル(イエズス会)はカトリック系の男子修道会であったこと,このイエズス会は世界中に宣教活動を行い南米に理想郷を建設した歴史があること,などを知っている人も居られるだろう。

分かり難いキリスト教派の流れであるが,以下のような体系に分類されると言う。これも,一例に過ぎないが・・・。

1東方教会

1-1正教会(ギリシャ正教,東方正教会)

1-2東方諸教会(非カルケドン派,アッシリア東方教会など)

1-3その他東方系教会

2西方教会

2-1カトリック(カトリック教会,独立カトリック教会)

2-2伝統系諸派

2-3聖公会(アングリカン・チャーチ,分離聖公会)

2-4プロテスタント

2-4-1初期プロテスタント

2-4-2ルター派(ルーテル教会)

2-4-3改革派教会・長老派教会

2-4-4メソジスト系(メソジスト教会,ホーリネス教会)

2-4-5ペンテコステ派

2-4-6バプテスト派

2-4-7プロテスタント諸派(会衆派・組合教会など)

2-4-8プロテスタント合同教会(日本キリスト教団など)

2-5その他宗教改革派(クエーカーなど)

2-6アナバプテスト(再洗礼派)

3その他の教派

3-1歴史的に異端とされた教派

3-2新宗教系

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恵庭の彫像-14,大安寺山門に立つ 「金剛力士像」

2015-04-13 11:10:36 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

仏像を「恵庭の彫像」に含めるか否か,少し躊躇したが,今回紹介する金剛力士像は鑑賞に値すると思い掲載する。

◆曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺山門の金剛力士像(仁王像)

恵庭市大町町4丁目,曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺,山門に金剛力士像(仁王像)が立っている(写真は平成24年12月5日撮影)。像容は上半身裸形で,筋骨隆々の木彫である。門に向って右の阿形像(あぎょう,開口の像)は怒りの表情を顕わにし,左の吽形像(うんぎょう,口を結んだ像)は怒りを内に秘めた表情をしている。手に持っているのは金剛杵(こんごうしょ)で,仏敵を退散させる武器だと言う。

日本の寺院では,二体が一対となって山門に安置される事例が多い。即ち,金剛杵を持って仏法を守護する金剛力士が,大力をもって悪魔を降伏させる姿で,寺院内に仏敵が入るのを防いでいる。仁王,金剛手,金剛神などの呼び方がある。

現存する大安寺山門は,当寺の開創百年を記念して建立された。山門脇の「大安寺開創百年記念山門建立特別寄進者御芳名」碑には,昭和63年6月,四世應香積大和尚(押見香積 師),総代表小玉運吉(五代),副総代中村梅吉,檜物谷清一,渡邊由次,以下寄進者の氏名が記されている。この金剛力士像も開創百年を記念して建立されたのだろう。

住職に,「何方の作ですか(仏師のお名前は?)」と尋ねたが,「分からない」との回答であった。建立当時の関係者に伺えば分かるかもしれないが,未だ情報を得ていない。ご存知の檀徒の方が居られたら,情報提供を願いたい。

写真からも作品の素晴らしさを理解できようが,抑制のきいた表情ながら逞しく,圧倒されるような作品だ。大事に保管してほしい恵庭の仏像の一つと言える。

 

恵庭には,もう一つ金剛力士像がある。それは,高野山真言宗派金毘羅山弘隆寺の門柱に置かれている。

◆弘隆寺の「金剛力士像」

高野山真言宗派金毘羅山弘隆寺の山門に「金剛力士像」が建っている(写真は平成24年12月5日撮影)。こちらは木彫ではない。前者に比べると,少し小型で大仰な姿である。門柱の裏には,平成二十一年十一月吉日,田中佑子寄贈のプレートが填め込まれている。

  

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恵庭の碑-11,イザリブト番屋・船着場と 「恵庭神社遥拝所跡」の碑

2015-04-08 17:39:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

 

11. 恵庭神社遥拝所跡の碑

恵庭市林田地区,漁川の南十二号橋近くに「恵庭神社遥拝所跡」の碑がある(因みに「遥拝」とは,遠く隔たった所から拝むこと)。碑は平成8年(1996)11月に建立された新しいもので,碑の背面には「宮司本間明夫,総代表浅野重雄,副別所鉄夫,会計塚田惣松ほか,村本國治,田畑政雄,平野栄作,佐藤勇生,金田忠夫」の名前が刻まれている。

碑が置かれている境内地には,鳥居と古い一対の石灯籠が残されている。灯籠は,明治40年(1907)6月加越能開耕株式会社専務取締役林清一,取締役寿原重太郎,同大野九平,監査役林五郎平,同能嶋正次郎が献納したとある。かつて,この地区の開拓に入った加越能開耕株式会社の人々が祀っていたと推察できる。

一方,恵庭における神社の記録は,弘化3年(1846)松浦武四郎「再航蝦夷日記」の記録が初出で「イザリブトに弁天社あり」とある。また,明治元年(1868)の太政官「神仏判然令」では,この地に「稲荷の祠」があったと記録されている。

さらに,この地域に移住してきた加越能開耕社を中心とする,加賀,越中,能登の人々は,明治26年(1874)西三線南十五号の漁川堤防地に神籬を祀り,明治28年(1876)には漁村十七号の堤防地に祠を建立して郷里において尊崇していた神明,稲荷,春日の三社の祭神を奉斎し,春日神社と称している。この春日神社は,大正5年(1916)西三線南十九号に移され,大正10年(1921)には漁村612番地(現在地,恵庭中央)に社殿を改築した。そして,大正13年(1924)漁太にあった旧稲荷神社と,西三線南十四号にあった赤タモ神社(明治38年赤タモの樹を神木として祀った)を合祀し恵庭神社と改称創建を申請,昭和2年(1927)に認可されている。

この流れから推察すると,「恵庭神社遥拝所跡」は江戸時代から明治時代にかけて弁天社,稲荷神社として祀られ,大正13年(1924)に現在地の恵庭神社へ合祀された後は恵庭神社遥拝所として祀られていたのではあるまいか。そして現在,「恵庭神社遥拝所跡」の碑として姿を留めている。

ところで,この地帯は漁川が千歳川に合流する場所で,江戸時代には「番屋」が置かれ,明治期から昭和初期にかけて「船着場」があった場所である。番屋は,北方警備を重視し東蝦夷地を直轄地とした幕府が,文化4年(1807)この地に番屋を設置して官吏を置き交易を行うとともに,宿舎や漁業が行える施設として利用したものである。また,船着場は明治期から昭和初期にかけて,開拓民の移住や農産物の出荷など,恵庭の玄関口として重要な役割を果たした場所でもある。

◇イザリブト番屋と船着場

恵庭神社遥拝所跡境内に「イザリブト番屋と船着場」の説明板がある。内容は,松浦武四郎「再航蝦夷日誌」に描かれた「イザリブト番屋の図」がこの地点であることを説明したもので,平成18年9月に範囲の特定を行った旨記されている。改修される前の千歳川は蛇行し漁川と合流しているが,船着場を置くのに絶好の場所であったのだろう。恵庭から千歳にかけて低地湿地帯が広がっており,当時の交通手段が河川を利用していたことを考えれば,此処は交通・産業・文化の拠点,玄関口であったと言えよう(写真は2015.4.6,4.7撮影)。

今は,整備された堤防と河川敷が拡がるのみで,番屋と船着場の面影を残すような痕跡を見つけることは出来ない。また,周辺に目をやれば,開拓当初の湿原や曠野を想像するのも困難な拓かれた沃地となっている。訪れたのは4月の上旬,融雪後の秋播小麦は緑に映えていたが,堤防に立つと頬を打つ風はまだ冷たかった。

この場所が,恵庭開拓の歴史遺産として整備され,市民の記憶に残る場所になることを期待する。

(図は,説明板から転写)

参照:恵庭市史(昭和54),説明板「イザリブト番屋と船着場」,恵庭昭和史研究会「百年100話」(平成9)

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恵庭の寺-10,どうなる? 平成の 「お寺さん」

2015-04-02 16:20:34 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

散歩がてらに訪れた恵庭市内の寺は9寺を数える。それらは,①天融寺(真宗大谷派),②大安寺(曹洞宗),③本誓寺(浄土真宗本願寺派),④敬念寺(浄土真宗本願寺派),⑤島松寺(真宗大谷派),⑥弘隆寺(高野山真言宗),⑦日勝寺(法華宗真門流),⑧妙正寺(日蓮宗),⑨紫雲台宝林寺等である(参照:本ブログ,恵庭の寺1-9)。その他にも,仏教布教のための宗教施設は数か所あるが,本ブログでは恵庭開拓と共に歩んだ寺院を対象としたので,比較的近年に成立した新宗教や新興宗教についてはここでは触れない。

ところで,恵庭市内の寺でも分かるように,日本仏教には様々な宗派が存在する。「釈迦の教え」に対する解釈の違いなどから宗派を興し,分派独立や統合を繰り返した歴史があるのだ。「十八宗」「13宗56派」などの言葉があるように,数ある宗派の統合整理が行われたが,伝統的な13宗の系譜は現代まで引き継がれている。前項までに各宗派の特徴については述べたので,ここでは系譜を概観しておこう。

◆日本仏教宗派の系譜

1.奈良仏教系(南都六宗系)

1-1華厳宗:本山は東大寺

1-2法相宗:開祖は道昭,本山は興福寺・薬師寺

1-3律宗:開祖は鑑真,本山は唐招提寺

2.平安仏教系(密教系)

 2-1真言宗(東密):開祖は空海

 2-2天台宗(台密,法華円宗):開祖は最澄,本山は比叡山延暦寺

3.鎌倉仏教法華系(法華系)

 3-1日蓮宗:開祖は日蓮,祖山は身延山久遠寺

4.鎌倉仏教浄土系(浄土系)

 4-1浄土宗:開祖は法然

 4-2浄土真宗(真宗,一向宗):開祖は親鸞

 4-3融通念仏宗(大念仏宗):開祖は良忍

 4-4時宗:開祖は一遍

5.鎌倉仏教禅系(禅宗系)

 5-1曹洞宗:開祖は道元

 5-2臨済宗:開祖は栄西ら

 5-3黄檗宗(旧臨済宗黄檗派):開祖は隠元,本山は黄檗山万福寺

宗教年鑑などの記載によると,わが国仏教徒の数は8,470万人。大半は,いわゆる鎌倉仏教(鎌倉時代に発生した宗派)に属しており,中でも浄土宗・浄土真宗系と日蓮宗系の宗派が多いと言われる。一方,北海道における寺院の数は,浄土真宗系43%,禅宗系21%,日蓮宗系15%,真言宗系12%,浄土宗系7%,天台宗系1%の割合であり,この比率は北海道開拓の歴史に関連があると言われる(参照:永幡豊2013「北海道における仏教寺院の分布について」)。

◆日本仏教の歴史的概観

仏教を理解するためには,仏教がわが国で歩んだ道を知る必要があろう。と言うことで,歴史を振り返ってみる。

1.仏教伝来(飛鳥時代)から国家鎮護のための仏教へ(奈良時代)

仏教が伝来すると(538年),信仰の可否に対する論議が沸き起こり争いが続いたが,次第に仏教を国家鎮護の手段としようとする考えが優勢になり,奈良時代に入ると天皇自らが寺を建てるまでに至った。例えば,聖武天皇は国分寺の建造を命じ東大寺に大仏を建立し,出家して上皇となり鑑真から戒を授かっている。「南都六宗」と呼ばれた宗派が大勢を極めた時代であった。

2.奈良の旧仏教に対峙するための密教(平安時代)

その後,これら寺院は政治に口を出すようになる。桓武天皇は寺院の影響力を弱めようと平安京に遷都して,空海と最澄を遣唐使と共に中国に送り密教を学ばせ,旧奈良仏教に対抗させようとした。空海と最澄は帰国後,天台宗(比叡山)と真言宗(高野山)を開き布教につとめた。これ等は,日本仏教の礎となるものである。

釈迦入滅の二千年後にあたる平安中期には末法の世が始まったと考えられ,来世の幸せを願う浄土信仰が流行する。そして平安時代末期には,社会不安が増大し,大寺院は僧兵を抱えて武力行使を行う有様であった。

3.民衆救済のための宗教へ(鎌倉時代)

鎌倉時代に入ると仏教にも変革の波が訪れる。それまで国家(鎮護国家)や貴族のための仏教であったが,次第に民衆救済のためのものに変わって行く。即ち,「専修念仏(南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで救われる)」「専修題目(南無妙法蓮華経とお題目を唱えることで救われる)」「専修禅(座禅により悟りを開く)」など易しい教えが特徴であり,主として比叡山で学んだ僧侶たちによって新しい宗派(浄土宗,臨済宗,浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗等わが国独自の仏教宗派)が作られたのである。また,禅宗(臨済宗と曹洞宗)が栄西と道元によって中国からもたらされると,武士階級に好まれ多くの寺院が建設されることになる。

その後の室町時代には仏教文化が花開いたが,戦国時代に入ると治安の悪化と共に寺院も武力を強めた。織田信長や豊臣秀吉は,宗教勢力に対抗する手段を余儀なくされる状況に至ったのである。

4.「寺院諸法度」で統治(江戸時代)

徳川家康は寺院諸法度を制定し,寺社奉行を置いて仏教を取り締まった。さらに,民衆に寺請を強制(寺請制度)し,全ての人々は仏教徒としていずれかの寺に登録され(檀家制度),僧侶の布教活動は実質的に封じられた。即ち,檀家が寺院や僧侶に係る費用を負担し,寺が檀家の戸籍を管理するシステムが構築されたのである。このため,僧侶は経済的な安定を得た一方で,檀徒獲得など布教に努めることも出来なくなった。この制度がもたらしたものは,現在まで続く檀家制度であり,いわゆる葬式仏教と揶揄される事始めと言えなくもない。

5.神道重視から「宗教団体法」の制定へ(明治から昭和初期)

明治維新後の政府は神道重視の政策をとり,廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。各宗派は近代化を進め,教育活動や社会福祉活動にも進出するようになる。

昭和14年(1939)になって漸く「宗教団体法」が制定され,宗教団体は法人となり法的地位を得たが,この法律は統制色の強いものであった。

6.「宗教法人法」の制定以降(昭和中後期から現代まで)

第二次世界大戦後,昭和20年(1945)宗教法人令が制定され宗教団体への規制が撤廃され,昭和26年(1951)に認証制を導入した宗教法人法(法律126号)が施行された。信教の自由を尊重し,宗教団体に法人格を与えるものである(その後オウム真理教事件を契機に平成7年一部改正がなされている)。

この法律の目的として,第一条には「この法律は,宗教団体が,礼拝の施設その他の財産を所有し,これを維持運用し,その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため,宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする」とあり,第二項には「憲法で保障された信教の自由は,すべての国政において尊重されなければならない。従って,この法律のいかなる規定も,個人,集団又は団体が,その保障された自由に基いて,教義をひろめ,儀式行事を行い,その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない」と定められている。

認証制の宗教法人法施行は,新興宗教を生む背景ともなっている。

◆平成のお寺さん

平成の時代,檀家制度は現存するものの,時代の変化に伴い転換期を迎えているようにも思える。家族の在りようが「家」から「個」に変わり,檀家を引き継ぐはずの子供たちも故郷から遠く離れて暮らす現実がある。さらには,少子化に拍車がかかり,檀家制度の維持も難しくなっている。

一方,信仰心が淡泊になり,祖先を敬い先祖の霊を弔う日常の習慣も薄れ,親の葬儀になって初めて「家の宗派は何だっけ?」と言うような状態になっている。葬儀にしても「家族葬」や「お別れの会」で済ませ,葬式不要と考える人までいる。葬式仏教と言われたことさえ,過去の事象になりかねない。檀家制度に依存する小さな寺は経営状況が悪化し,存続させ危ぶまれている。

さて,地域に開かれ,持続可能な寺はどうあるべきだろう? 

宗教行事,法話や幼児教育は勿論大事だが(檀家制度を維持しながらも),宗派に関わらず,市民や観光客が自由に参拝できる寺,歴史や文化を発信できる寺,境内で子供らが遊べる寺,年寄りが集まれる寺,孤独な老人や若者が悩みを相談できる寺等々,地域住民に開かれた寺へと変革が必要だと考えるが,如何だろう・・・。其処では,狂信的でなく,他宗教の存在も容認するような緩やかな宗教心を拠り所にしなければならない。

宗教に寛容を求めると,課題は人々の心に跳ね返ってくる。経済優先思考に侵された平成の民は,喜捨の心(団体組織が定める強制的寄付行為を喜捨としない)を忘れてしまっているようだから。さあ,どうする? どうなる?

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