第2次世界大戦後のパラグアイ移住は,日本・パラグアイ移住協定に基づき海外移住振興株式会社(後の移住事業団)が進めた,いわゆる直轄移住であった。すなわち,海外移住振興株式会社が取得した土地に開拓農民として入植する方式である。移住者はそれぞれに割当てられた区画(ロッテ)を開墾し,作物の種子を播いた。
亜熱帯の森を拓くには多くの苦難があったことは想像に難くない。しかも,移住者全てが強健な身体の者ばかりというわけでなく,まして全員が農業経験者であったわけでもなかっただろう。後に,1960年代が営農不況の時代であった評されるが,開墾してやっと収穫にこぎつけた生産物の販路もなく,或いは安価に買いたたかれる場面も多かった。
資金に余裕のある移住者を除いて,生計成り立たない状況に見舞われた移住者もあったことだろう。夢を追い続けるか,苦労する生活から如何に脱却するか,夜ともなれば星空を仰いだに違いない。或いは,開墾の重労働に健康を害する人もあり,都会に出て商売を始める人々が増え始めた。それは,国内のエンカルナシオンやアスンシオンだけでなく,アルゼンチンのブエノスアイレスであったりする。新しい土地で始めた仕事も,八百屋,雑貨商,旅館業,飲食業,洗濯屋,庭仕事,大工など多岐に亘ったことだろう。
不景気な時代に,日系移住者が町に出てきて商売を始める。先住の同業者との軋轢が爆発し,事件が起こった。「パラグアイ日系移住70年誌」によれば,次のような記録がある。『1962年8月,市内在住の日系人に「商売の営業停止。日本人,山へ帰れ」の市長命令が出た。ことの発端は,ロブレード市長が所有する運送会社と農協連が購入した大型トラックによる運送に一部競合が出たこと,日系人が製造するパンに市場が侵害される事態が発生したため,町の食パン業者が市長に訴えたことが原因と言われる。事態の深刻さに,吉永領事は霜降る真夜中おんぼろバスで未舗装の370kmを,ポンチョを着込みエンカルナシオンに駈けつけ,翌日市長と面談,数日中に問題は解決した。同市長は単純な性格の方で,この問題発生の原因は多分日本側にあったのではと言われている』(一部略)。『同市長は,その数か月後に日本に招待され,東洋綿花からデイーゼル発電機を購入することになり,市内の電化に努力した』とある。
このような事件も歴史の一場面にすぎない。市街地に店を構えた人々にとって,言葉の問題や資金力など相当の苦労があったことだろう。先人の地道な努力は,時を経て,日系人=信頼に足る人々との評価を築き上げた。これには,商売をし,金が貯まったらより良い生活を求めてアメリカに移住しようと考える一部アジアンと違い,日系人は腰を落ち着けパラグアイ人としてこの地に骨を埋めようとしている,と理解されたのかもしれない。日系人の信用は確固たるものになり,高等教育を受けた2世が活躍する場面も多くなりつつある。「日本人よ,山に帰れ」とは,もう言われないだろう。
だが,戦後移住の総括をするにはまだ早い。成功者もいれば,失意のうちに帰国した人もいる。日本人であることを伏せてひっそり生活する人もいる。道はまだ続いているのだ。
一方,祖国日本の山林の現状をみるにつれ,「日本人よ,山に帰れ」の言葉がリンクする。日本の都会人は,山に帰った方が良いかもしれない。