豆の育種のマメな話

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晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 (開拓魂は十勝農業に生きている)

2013-04-17 17:38:43 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

晩成社は農事試験場の先駆けであった

晩成社の十勝開拓については多くの研究者が解析を行い,成否について多様な論調がある。例えば,①開拓の祖とする先駆者論,②新規事業挑戦など開拓魂が語られ,一方では,①時期尚早論(北海道開拓は主として官による開拓であったが,晩成社の入植は時期が早かった),②資金及びマンパワーの不足(資金が十分でなく,かつ農業経験者が少なく,後続入植者も無かった),③晩成社則の問題(開墾した土地が即小作人の所有にならなかったため意欲減退),④社長としての勉三の資質(幹部である鈴木銃太郎・渡辺勝さえ離脱),⑤冷害・霜害・旱魃害・バッタの被害などの要因から,終には倒産同然で解散に至った状況が論じられる。

ここでは新たな視点として,「農事試験場の先駆けであった」ことに触れようと思う。

晩成社は,1883年(明治16)にオベリベリの地へ入植するや休む間もなく森を拓き,持参した作物の種子を播き,石狩の地で購入した苗を植え付けた。日記に出て来るだけでも,蕎麦,小麦,大麦,裸麦,大豆,小豆,水稲,陸稲,大根,瓜,西瓜,茄子,南瓜,西瓜,人参,馬鈴薯・・・など多数である。即ち,どの作物がこの地で栽培できるか,どの品種が適するか,いつ播けばよいかと試行錯誤のスタートであった。もちろん,温暖な伊豆から持参した品種の多くは,北海道十勝の厳しい気象条件に適合しなかったが,僅かながら実を結ぶものも見出された。公的試験研究機関が実施するような作物選定・品種比較試験を,晩成社は自ら行ったのである。

そして,農作物を育てる傍ら豚や山羊を飼い,ハムの製造,馬鈴薯澱粉の製造を開始する。また,入植3年目には牧場を拓き,稲作の挑戦を試みる。その後も,亜麻の栽培,牛肉販売,バター製造,イグサの栽培,椎茸栽培,缶詰製造を試みるなど新たな取り組み(企業化の試み)は尽きることがなかった。勉三の多くの試行は,当時の時代背景(販売・流通が未整備,資金不足)もあって事業として成功したとは言い難いが,この行為は今なら農業試験場が実施する技術開発の側面を有していたように思う。

 

一方,勉三が事業に失敗した要因は,「辛抱強い百姓魂と言うより高学歴の知識人がもつ理想主義者であったが故の,新たな事業を試みることに興味が先行する性にあった」と言えなくもないが,勉三の試みは時代を経て十勝産業として興隆する。彼の苦労も無駄ではなかった。

 

勉三は,入植5年後に「十勝興農意見書」を提出して十勝開拓の推進を訴え,その後も測候所や農事試験場の設置要請を行っている。開拓には科学技術の裏付けが必要であり,産業の発展は技術革新なくして成り立たないと考えていたのだろう。

 

北海道庁は,1892年(明治25)に晩成社社宅を利用して測候所を置き,1895年(明治28)には十勝農事試作場仮事務所を晩成社社宅内に置き試験研究をスタートさせた。以降現在まで,十勝農業の発展を技術面で支えた「十勝農業試験場」は,ここに始まったのである。言い換えれば,晩成社は十勝農業試験場の前身と言えなくもない。十勝農事試作場が業務を開始する以前の12年間は晩成社が同様の試作試験を行っていたのだから。

 

晩成社と十勝農業試験場120年の沿革を添付した。

 

なお,現在の北海道十勝地方は,農耕地面積255千ヘクタール,農業産出額は2,500億円(畑作と園芸作物1,200億円,畜産2,500億円)を超える日本有数の食糧基地である。畑作では,小麦,豆類,馬鈴薯,てん菜を作付し,大根や長芋など特産野菜も取り入れ,1戸あたり面積43ヘクタールと大規模機械化農業が展開されている。また,山麓沿海など周辺地域は酪農・畜産が盛んで,生乳の生産量も100万トンを超える。この農業の発展を技術面から支えてきたのが,晩成社もそうであったが,試験研究・技術開発の力である。さらには,生産者の挑戦力・開拓魂である。

 

十勝を旅してみればいい。大平原の農村風景に触れる時,わが国の原風景(集落)とは異なる風を感じるだろう。それは,欧米の農村のようにも見えるが歴史を経た停滞感は無く,なお進行形の動きがある。何かに挑戦しようとする雰囲気が漂っている。この「動」は何故だろう? と考える。それは「歴史」の特異性,今に息づくフロンテイア・スピリットなのかもしれない。

 

「晩成社」が十勝オベリベリの地に開拓の鍬を入れたのが1883年(明治16),僅か130年前の事である。生産現場も技術開発も安穏とするにはまだ早い。ともかく駆けるのだ。それが活力となる。

 

   

 

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「屋号」,奥伊豆では今も使われる

2013-04-11 18:35:12 | 伊豆だより<里山を歩く>

屋号(家号,やごう)とは,家に付けられる称号のことである。日本だけでなく,ヨーロッパ(ドイツ語圏)にも使用される例があるそうだ。日本では,江戸時代に士農工商の身分制度の下,原則として武士以外の者は苗字を名乗ることが出来なかったので,商人や豪農(庄屋,名主)が取引上の必要性や日常生活上の便宜性から屋号を使うようになったとされる。例えば,越後屋,加賀屋,高田屋・・・。

日常生活上の便宜性から屋号が使われている例として沖縄が取り上げられるが,奥伊豆の山村でも屋号で呼ぶ習わしがある。同じ苗字が多いため,屋号で各戸を区別している。例えば,「宮下」「宮の脇」「御庵」「茶屋の下」など神社や施設との位置関係で,「大家」「隠居」「増屋」「新家」など家の育ちで,「新田」「御代畑」「広畑」「畷」「柳沢」「段」「井戸の窪」「根岸」「谷戸の下」「松下」「下芝」「角脇」「木橋」など場所の特徴から,「麹屋」「大黒屋」など職業から付けられたと思われるものが多い。

 

租税徴収を目的に土地に「地番」が付され(明治4年),住所表記のために「地」を使うようになっても(明治1931年),代々引き継がれる屋号は便利な呼称として,集落では今も生きている。

 

ちなみに字については,公家や武士は奈良平安時代から名乗っていたが,江戸時代になって庄屋・名主・旧家にも広まった。一般庶民が苗字を義務付けられたのは1870年(明治3)の「平民苗字許可令」を経て,1875年(明治8213日公布の「平民苗字必称義務令」による。どのように苗字を決めたか,証明するものはないが,

「和尚さん,何て苗字を付けたら良いだろう?」與平が尋ねる。

「御先祖様の本家筋は,武田信玄の武将でこの地に落ちてきた土屋氏に仕えた方だ。その苗字を頂いたらどうだ」

「俺ん家も,同じにすべえ」傍にいた幸蔵が応じる。

「與左衛門さん,旦那の苗字を貰う訳にはいかんかね?」惣助が聞く。

「いいとも,小作と言っても親子同然だ」

このようなやり取りがあったのかも知れない。

 

また,屋号を苗字に使う場合もあった。

「鍛冶屋の喜助だから,鍛冶喜助にしよう・・・」

長男以外の男子も戸籍上は親の姓を名乗ることが多く,代を経ると同じ苗字が増えて行く。同姓の各戸を区別するためにも,屋号が必要だったのだ。だから田舎では,「下田市須原1番地の○○一郎(姓名)」と言うより「△△(屋号)の一郎さん」の方が通用する。

 

だから,たまに帰郷して畦道を歩いていると声が掛かる。

「△△(生家の屋号)の○○じゃないか?・・・」

半世紀がとうに過ぎても,そこで生まれたと言う歴史は刻まれている。

この地方の墓地を覗いてみればわかるが,墓石には「先祖代々の墓」に加えて「屋号」も刻まれている。

 

このような屋号も,戦後の経済発展期を迎えると田舎から都会へ人口流出が進み,更には核家族と言われるように「家」の概念が薄らぐにつれ,昔のような重みが無くなったのは確かだ。今では屋号を公式表記(住所表記など)に使うことがないので,やがては消えゆく文化なのかもしれない。

 

一方,最近になって,商売で使うために「屋号」を付ける例が見られる。いわば商号で,商標登録される。ネット社会では個人・フリーランスで商売をする人々が増えているが,商号を付けることにより信頼を得ようとする動きなのだろう。

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山で摘んだ珠玉の味が忘れられない,伊豆の里山-3

2013-04-04 11:36:43 | 伊豆だより<里山を歩く>

伊豆の山路を辿れば,路傍の木陰に「山イチゴ」(Rubus)の赤い実を見つけるだろう。光沢があり,瑞々しい。口に含めば甘さが広がる。ジャムに加工しても良いが,山歩きで手にする一粒が珠玉だ。あなたもこの味に接すれば,幼少の思い出が蘇るだろ。

山イチゴは「キイチゴ」の一種で茎にトゲがある。一方,伊豆の里山には「ヘビイチゴ」(Potentilla hebiichigo,バラ科キジムシロ屬)と呼ばれる多年草が自生している。子供の頃,「毒があるから食べるな」「蛇が食べる」と言われたが・・・,山イチゴとは形態が全く異なる。

 

この他にも,時期は違うが桑の実(Morus bombycis),山桜のさくらんぼ(Cerasus jamasakura),山ブドウ(Vitis coignetiae)などが手の届くところにあった。赤い実が黒く熟れると食べ頃で,小鳥と競うように食べたものだ。桑の実やさくらんぼは,口の中が青く染まって母親に見つかってしまう。

 「お腹を壊しても知らないよ」

 言われるのが嫌で沢の水で口を漱ぐが,簡単に消えるものではなかった。

 

アケビ(Akebia quinata)は絶好のおやつであった。蔓から紫色の実が割れて,中には種子を包む胎座が白く集まっている。これが上品に甘い。口に含み,舌先を使いながら種子の周りを上手に食べ,種子を吹き飛ばす。それが面倒で,大抵「種のまま食べて大丈夫だ」と言うことになるのだった。

 

 小川にせり出すようにグミ(Elaeagnus)の木があった。最初の数粒は美味しいのだが,次第に渋みが口に貯まるようになる。

 

 数は少ないがヤマモモ(Myrica rubra)の大木があった。所有者がいるので,これは勝手に採るわけにはいかなかったが,収穫した実はお裾分けされた(日持ちが悪い)。この木は枝が裂け易いので,木に登るときは気を付けろと学習した。

 

秋には,クリの実とシイの実拾いを楽しんだ。

 クリ(Castanea crenata,ブナ科クリ屬)は,大粒の丹波栗が栽培されていたが,自生する小粒の山栗も美味しかった。縄文人の主食になっていたと言うから,昔から自生していたのだろう。渋皮を歯で剥いて生で食べればコリコリと甘みが拡がる。

 「生で食べるとオデキが出来る」

 と言って,大抵は家に持ち帰った。

 

 シイ(Castaneoideae castanopis)は,ブナ科クリ亜科シイ屬で大木になり,堅い建材,シイタケのホダ木としても使われる。シイの実も,縄文時代には重要な食料であった。生でも食べられるが,フライパンで炒って食べると滅法美味しい。水に浸して浮いてくる虫食い粒を除くところから,食べる作業が始まっていた。炒ると厚皮が割れ,子供でも簡単に実を取り出せた。熱い実を掌で転がしながら口に運んだ。

 

遊び疲れると,ニッキ(Cinnamomum verum)の根を掘って,その皮をかじった。泥がジャリッと口に付くこともあったが,辛味と独特の芳香は疲れを癒した。ニッキはクスノキ科の常緑樹で,樹皮から香辛料(シナモン)が作られる。生薬の桂皮である。

 

 ヤブツバキ(Camellia japonica)の実は拾い集めて油を搾った。高級食用油,髪油として使われ,最近は高価に取引されている。

 

さて,伊豆の旅人よ,予定を延ばして里山に遊んでみたら如何だろう? 自然の魅惑に心が癒されること請け合いだ。

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「イラクサ」「カラムシ」を食い尽くした毛虫,伊豆の里山-2

2013-04-02 14:30:12 | 伊豆だより<里山を歩く>

法事で帰郷したとき,遊び仲間だったF男が声を掛けてきた。

 「イラクサの中に落ちて,大騒ぎになったことがあったなあ」

 「45歳の頃だよね」

 

柿の木に登って遊んでいて,手を滑らして落ちた所がイラクサの群生地だったのだ。イラクサに触ると,皮膚がポコリと腫れ,我慢しきれないほど痛痒くなるのは体験して分かっていたが,この時は半袖シャツに半ズボンだったので悲劇だった。

 多分,泣き喚いて,大騒ぎの事件だったのだろう。

 

イラクサUrtica thunbergiana,刺草,蕁麻)は,イラクサ科イラクサ屬,多年草で,茎や葉の表面に毛のようなトゲがある。トゲの基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体が入った嚢があり,トゲに触れると嚢が破れ,皮膚に着くと強い痛みを覚える。

竹林や樹の下など日陰に群生している。

イラクサには蕁麻という別称があり,蕁麻疹の言葉もこれから来ている。また,この毒素含有率には植物体によって変異があり,奈良公園のイラクサは鹿の食害をから生き残るために,自ら「トゲを多く持つ」型に進化したとの説がある(県南部のイラクサに比べ50倍以上のトゲがある,奈良女子大加藤禎孝ら)。

 

イラクサと同科に属し,より背が高く,茎太な植物も伊豆の山奥には群生している。カラムシBothmeria nivea,苧)である。こちらには痛みを引き起こすような毒素を持たず,畑の縁や土手,道端,野原など広い範囲に生えていた。多年生で,草丈は1mを越える。繊維作物であったものが野生化したものだと言う(ラミーもこの一種)。

 戦時中は刈集めて茎の皮を剥ぎ,供出するのを見た覚えがある。袋や衣類に加工していたのだろう。葉は広卵形で先がとがり,風が吹くと白い葉の裏側が波打つように見えた。ザラザラした感触だが柔らかい葉の植物だった。

 

カラムシに群棲した毛虫の記憶も生々しい

 ある年は,全身が黒くトゲがある小さな毛虫が大発生した。アカタテハ(Vanessa indica,タテハチョウ科)の幼虫であった。

 ある年には,気味の悪い毛虫が大発生した。フクラスズメ(Arcte coerulea,ヤガ科)の幼虫である。頭が橙と黒で体側に黒い線,背中に白黒の横しまがある。細長い毛虫で体長は57cm位と大きかった。この毛虫は,植物に触るとその振動で危険を感じ,頭部を反らせて緑色の液体を吐き出し激しく頭を横に振り続ける。数十・数百頭が一斉に冠を振りザワザワと音を立てる様は,その毒々しい色もさることながら,子供心に恐怖心を覚えさせた。

 これ等幼虫が群棲した後には,葉が食い尽くされた茎が棒となって残った。

 

このように,害虫が大発生する事例はしばしば観察された。

 ある年は,家の裏に植えたゴマの葉に親指ほどに大きい青虫が発生した。瞬く間に葉を食い尽くす勢いであった。緑色のボッテリした体に黒と銀色の線が見えた。退治しなければと手で摘むと,予想外の強い力で葉に捉っている。潰すと体液の量に辟易した。聞けば,アゲハチョウの幼虫と言うことであった。当時は,戦後まもなくの頃で,農薬を使うこともなかったから,発生が目立ったのかも知れない。

 

余談になるが,40年後(昭和62年)の道北でアワヨトウ幼虫(Pseudaletia separata)の被害を目撃することになった。中国大陸から低気圧に伴う下層ジェット気流に乗って飛来した大群が,小麦や牧草を食い漁った。被害は相当のもので,茎だけが残った畑の調査に走り回った。畑の脇の側溝には死骸が層を成して堆積した。国道を走行する車は死骸の油でスリップするから,注意が必要だと言うことも知った。

 

群相型のアワヨトウの幼虫は黒っぽい体色をしていた。バッタも群棲すると変色するのだそうだ。何故なのだろう?

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バッタ襲来と戦った開拓者たち,「飛蝗害」

2013-04-01 13:43:21 | 伊豆だより<里山を歩く>

札幌県庁勧業課の官吏「渡瀬寅次郎」が依田勉三・鈴木銃太郎に,「十勝入植は時期尚早」と話したのは,開拓使が進めてきた北海道拓殖計画がまだ十勝まで及んでいないということもあろうが,自身が目にしたバッタ害の凄惨な情景が脳裏を横切ったからではなかったか。事実,十勝へ入植した晩成社は,バッタ襲来によって壊滅的なダメージを受けている。

開拓に伴うバッタの被害とは

井上壽「北海道十勝国蝗発生史,明治12年から同18年までの発生顛末」(昭和58年)には,当時の北海道におけるトノサマバッタ発生状況が,膨大な記録(開拓使や札幌県庁吏員の被害調査復命書,技術対策など)と共に示されている。発生状況は,明治12年(発生),明治13年(大発生),明治14年(大発生),明治15年(大発生),明治16年(大発生),明治17年(大発生),明治18年(発生)であった。

 

以前にも発生はあったと思われるが詳細な記録は残されていない。この時期は北海道内陸の開拓が始まった頃で(晩成社の十勝入植は明治16年),自然の生態系が変化し,農作物の被害が顕著に表れたので,行政機関の被害調査や対策の記録が残されることになった。これらの初発生地は十勝であった。更に開拓が進み,後には殺虫剤の普及もあって,十勝地方では明治18年を最後にして大発生を見ていない。

 

十勝開拓の先駆けとなった「晩成社」の日記にもバッタ襲来の記録が残されている。

明治16512日 十勝入植(25名揃う)

明治16年5月23日 地所御下付願提出

明治1684日 トノサマバッタ襲来

「天為ニ暗ク,地為ニ赤シ」,飛来は空を覆い暗くなるほど,作物や野草を食い尽くし地上に緑が無くなり,赤い火山灰土壌が現れるほどであった。入植僅か3か月後に遭遇したバッタの被害は,出鼻を挫く事件であったろう。

松山善三は「依田勉三の生涯」(潮出版社)の中で,バッタ襲来の凄まじさ,バッタと戦う開拓民の姿を活写している。

 

パラグアイでも,日系移住者から開拓地を襲ったバッタ害の話をよく耳にした。森谷不二男「初期の思いでラ・コルメナ移住地」(移住50年史)にも詳しく記されているが,ここでは「パラグアイ日本人移住70年史(2007)」から一部を引用しよう。

・・・移住地には,入植以来一度ならずバッタの大群が押し寄せ,そのたびに被害を受けていた。19468月には,幅4km,長さ35kmの広大な群れが押し寄せ,太陽を遮る程であった。また,同年10月には,バッタ群が産卵のために移住地に飛来した。(中略)バッタは産卵時45日移動せず,そこで卵を産む。その幼虫が約20日後,一斉に孵化することから,播きつけなどの農作業はその幼虫が1か月後に成虫になって飛び立つまで一切出来なくなり,移住地経済に大きな損害をもたらす。(中略)移住地では石油1,000?,火炎放射器8台で一斉に焼き払った・・・

 

このような群生行動を起こす飛蝗(トビバッタ)には,トノサマバッタ(Locusta migratoria),サバクトビバッタ(Schistocerca gregaria),モロッコトビバッタ,ロッキートビバッタ,オーストラリアトビバッタなどがあり,歴史を辿れば世界中に被害の記録が残されている。

 

さて,日本での被害は先の十勝平野の例が知られている。明治8年に十勝川と利別川が氾濫しトノサマバッタの繁殖に適した草原が出現したことが引き金で,好天が続いた明治1218年(1879-1885)に大発生した。一度大発生すると,数年発生が続くのが一般的で,発生したバッタの大群は日高山脈を越え空知・後志・渡島まで達している。駆除のためにいろいろな手段が採られ,莫大な費用をかけ買取りまで実施した。集められたバッタの死骸や卵塊は山と積まれバッタ塚となり,その形跡が各地に残されている。皮肉なことに,大発生が決着したのは明治17年の長雨で繁殖が抑えられたことだと言うが,まさに自然の摂理だ。

 

トノサマバッタは頭部が緑色の大型バッタであるが,幼虫時代に高い密度で生息すると群生相に変化する(羽が伸び,後脚が短くなり,体色が黒くなる)。イネ科植物の葉を好んで食べ,大発生すると攻撃的になり昆虫の死骸や同種個体を襲って食べることもあると言う。メスは腹部を土中に差し込むようにして卵(卵塊)を産みつける。

 

殺虫剤が普及していないアフリカ諸国やアラビア半島・中近東では現在でも局地的にバッタが大発生し,飢餓要因の一つになっている。FAOが対策に当たっており,情報発信や対策支援を行っている。バッタ被害が昔の物語になったわけではない

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