豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

百姓の時代,幼少時の暮らし断章

2013-02-28 19:00:51 | 伊豆だより<里山を歩く>

太平洋戦争が行き詰り,そして敗戦4歳半の時に終戦を迎えた)。終戦直後の日本は物資が不足し,混乱の時代であった。大人たちは直向きに働き,時代の変化に戸惑っていたように思う。生家は長閑な山村にあり農家だったため,子供心にひもじい思いをした記憶はないが,誰もが食糧生産に追われていた。

当時を振り返ると,

水があるところには一畳ほどの広さでもイネを植えた。うどんや雑炊のためにムギを,豆腐・味噌・醤油を造るためにダイズを播いた。お祝い用にアズキも忘れず,胃袋を満たすためにサツマイモとカボチャを植え,油用のナタネを播き,ハクサイ,キャベツ,菜類,ダイコン,カブ,ニンジン,ゴボウ,サトイモ,コンニャク,ソラマメ,エンドウ,ササゲ,ラッカセイ,ネギ,ショウガ,ミョウガ,シソ,ラッキョ,ニンニク,トマト,ナス,キュウリ,トウガラシなど野菜の種類も多様であった。

鶏の餌になるようにアワやキビを播き,牛の飼料(または緑肥)にとエンバク,トウモロコシ,レンゲソウも忘れない。また,家の周辺には,カキ,ミカン,クリ,ビワ,モモ,イチジクなど果樹,シイタケの種木があり,これは祖父母の小遣い稼ぎになっていた。

 

野山には,ワラビ,ゼンマイ,ウド,フキ,アシタバ,ノビル,タケノコなど山野草の旬を味わい,秋にはヤマノイモ(ジネンジョ)を掘った。加工にも生活の知恵が生かされていて,何処の家でも味噌を作り,冷暗所に安置された醤油の樽は醗酵促進のため毎日かき混ぜていた。豆腐や蒟蒻ももちろん自分で作り,梅干し,紅ショウガ,ラッキョウや野菜の漬物,干しイモ,切り干し大根,干し柿,乾燥ゼンマイなど保存食も揃えていた。

 

ある時は棉を栽培した。紅色の花が咲き,卵型の果実が裂開するころ種子についた白い毛が露出する。この実綿を摘み取り,その実から種を除き,綿花から糸を紡いだ。また,ラミーを栽培したこともあった。

 

養蚕は数年続いた。春になると母屋の座敷を通して棚を作り,種卵が配布される前には部屋を密閉して燻蒸消毒をした。製糸会社から配布された卵が孵化したら羽箒で蚕座に移し,寒い日は炭火で部屋を暖め,稚蚕(1齢から3齢)のうちは桑の葉を刻み,壮蚕(5齢)になると葉をそのまま与えるが,早朝から深夜まで多数回給桑する作業は1か月弱続いた。蚕が桑を食む「バリバリ」という音に目を覚ますと,祖母や母がうたた寝していることが多かった。熟蚕になると繭を作らせるために藁で編んだ「蔟」に移した。蛹化した繭は羽化する前に製糸会社に出荷したが,祖母はくず繭から糸を繰り,機織り機で布を織った。

 

数頭の乳牛を飼育していたが,給餌,搾乳,敷き藁の管理など忙しい作業であった。牛乳生産が主目的であるが,堆肥の生産も重要であった。化学肥料が手に入らない当時は,牛と人の糞尿(溜桶で醗酵)を大切に利用していた。糞尿からメタンガスを採ろうと大人たちが話すのを聞いて,燃える気体に興味を覚えていた。

鶏は放し飼いであったが,夜は野犬や鼬を避け小屋の高い所で寝ていた。猛禽が近づくとかなりの距離を飛ぶことも知った。ある年,鶏の孵化を請け負った。鑑定士が雛の性別を見分けるスピードに,職人技とはこういうことかと驚きもした。

 

百姓の時代は,幼少時の体験を通じた知識蓄積の場所であった。

 

さて,このような多様な農業(百姓*)はいつ消えてしまったのだろう? 江戸時代から第二次世界大戦の頃までは,日本中に自然に向き合った営みがあった。ところが,戦後の経済発展は若い労働力を都会に集めた。昭和40年代以降急激に進んだ農業の機械化は,経営面積の拡大を必要とした。規模拡大が進むにつれ,農業は小品目栽培へ移行し単純化された。

 

アメリカ,オーストラリア,ブラジル,アルゼンチンなどの農業は,効率化を追求した典型である。大規模・単品目栽培(例えば,ダイズ単作,ダイズ―コムギ交互作)で確かに効率・生産性は向上したが,土壌を損ない,地球環境を壊しているのではないかと感じざるを得ない。経済効率か自然と共生するか,どちらにするか考える時だ。

 

相対的にみれば,日本の農業は自然調和を指向していると言えよう(百姓ではないけれど,まだ救われる)。荒んだ大規模農業を反面教師とする農業構築の時が来ている

 

*百姓:歴史的には色々な意味で使われ,差別用語とされる時代もあったが,ここでは「多様性を持った農業を行う者」と定義する。

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伊豆の里山「竹,今昔物語」

2013-02-26 11:19:11 | 伊豆だより<里山を歩く>

10歳頃まで住んでいた生家(須原坂戸)の近くには,竹の群生地が多かった。

記憶に残る名前は,「孟宗竹」「真竹」「淡竹(破竹)」「女竹」「矢竹」の5種類であるが,正確にはもっと多かったのかも知れない。何しろ,竹は世界中に1,2001,500種,日本にも600種(富士竹類植物園には500種栽植)あると言う。中国や日本は竹文化のイメージが強いが,世界の亜熱帯にも植生が見られるのだ。

 

孟宗竹(モウソウチク,Phyllostachys heterocycla f. pubescens)はその大きさと,台風のときなど風に騒ぐ音が無気味であったが,「筍」「竹皮」「竹材」などに利用価値が高いため,いわば竹林として管理されていた。

孟宗竹の筍は,地面が盛り上がったのを見つけては掘り取る。掘り取る時期や鍬の入れ方,皮の剥し方などにもコツがあった。アク抜きを要し堅い食感だが味わい深く,料理の仕方も多彩であった。一方,淡竹(破竹,ハチク,Phyllostachys nigra var. henonis)や真竹(マダケ,Phyllostachys bambsoides)の筍は伸びたものを手で折り取っても軟らかく,中でも淡竹はアク抜きせずに美味しく食べることが出来た。

 

竹の生長は早い。数日で天を突くほどになった。筍が伸びるにつれ竹皮が剥がれ落ちる。竹皮を拾い集め乾かしたものは,握り飯を包むのに重宝していた(真竹の方が柔らかい)。また,竹皮は細く裂いて草履を編むことも出来た。新しく伸びた竹の稈には白い粉が吹き,指先で文字や絵をかいて遊んだ。

 

真竹は,エジソン電球のフィラメント(京都の石清水八幡宮産で成功)としても知られる。真竹の稈は,弾力性があり曲げにも強いことから,竹籠など加工して使われることが多かった。祖父が,6尺ほどに切った竹を何本かに割り,その割り竹をくねらせながら「竹ヒゴ」に削ぐ作業を,手品を見るように眺めていると,

「木もと,竹さき,と言うて,竹は細い先の方から刃を入れるのだ・・・」と言う。

「木もと,竹さき? ふーん」

この言葉は,後々になって何度も「なるほど」と頷くことになる。薪わりや木材にカンナ掛けする場合,根元に近い方から刃を入れればスムースに処理でき綺麗に仕上がる。一方,竹材では太い方から刃を入れると先端が等分されないことが多いので,細い方から割る。竹はまさに,「破竹の勢い」で割れる。

 

女竹(メダケ,Pleioblastus Simonii)の藪は川辺など広範囲に存在していた。不動尊を祀る滝の上には,矢竹(ヤダケ,Pseudaosasa japonica)の群落が一か所だけあった。矢竹は節が滑らかで,矢,筆軸,釣竿,キセル等に利用される種類だが,子供心に「綺麗な竹だ」と感じ,その群落を秘密にしておくことにした。当時,仲間の間では紙玉鉄砲,杉玉鉄砲を作って遊ぶのが流行っていたからである。

 

ちなみに,紙玉鉄砲は,竹を輪切りにし細長い円筒としたものを胴,その内径より細い竹の棒をピストンにし(手元に握るための太い竹をはめ,ピストンの細い棒が同の先端近くまで届く長さとする),紙を湿らして丸めたものを玉とするものである。まず一つの球を筒の先端まで押し込み,次の球をピストンで押し込みながら空気圧で最初の球を飛ばす遊び道具である。

 

同様に,「杉玉鉄砲」は杉の雄花を玉として使い,「草の実鉄砲」は草の種子(名前を忘れた)を玉にした。「肥後の守」の小刀を手に入れてからは,女竹や矢竹を転がしながら筒を切って,この道具を作って遊んだ。その他にも竹を使った遊び道具は,竹トンボ,凧,竹馬,釣竿,メジロを飼う鳥籠,ウナギやモズク蟹を獲るモジリ(竹筒)などがあった。手が届かない高い所の柿や蜜柑を採るにも,竹の先を割った竿を使った。

 

また,当時の日用品にも手作りの竹製品が多かった。竹籠,ざる,箕,網代,簾,団扇,簀子,箸,しゃもじ,柄杓,火吹き竹,箒,物干し竿,樋など挙げればきりがない。茅葺屋根や土壁など建材としても,野菜の手竹やイネの乾燥架などにも使われていた。

 

不思議なもので,「これらの竹製品を作ってみろ」と言われたら,今でも何とか完成させることが出来る。幼少時に見ていた作業工程が蘇ってくるのだ。

 

幼少時体験は生活の知恵として蓄えられる。例えば藁草履作りにしても,藁を叩き柔らかくして,縄を綯い,足の指に縄をかけて藁を編む工程が,祖父の姿と重なって現れる。下駄づくりも同様,木材をブロックに切り,鋸とノミを使って歯を作り,カンナを掛け,焼いた鉄箸で穴をあけ,鼻緒を通す・・・。

 

一方,近年「竹害」なる言葉が語られるようになった。集落から若者が消え,管理放棄した竹林は他植生を侵犯し,里山にまで拡がり,山一面が孟宗竹に覆われる現象が見られる。

 「これでは駄目だ」と,NPOや行政,森林組合などが主導する「里山の自然回復運動」がようやく緒に就いた。鑑賞に堪えうる竹林に戻し(写真:修善寺の「竹林の小径」),他の植生と共生出来る環境を整備するためには,パンダの餌も結構だが,アクチブな竹の利用促進が重要である。竹材,竹工芸品,竹炭,竹酢液など可能性は大きいが,問題なのは対応できるマンパワーと企画調整力(組織力)だろう。バイオマスとしての活用を研究してみるのも面白い。

 

伊豆の資源はここにも眠っている。どなたか動きませんか?

 

 

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10歳まで暮らした家,異邦人のような来訪者たち

2013-02-23 18:21:09 | 伊豆だより<里山を歩く>

生まれ,幼少年期を過ごしたのは,奥伊豆の山村である

そこは,山間の谷間に僅か25戸が暮らす小さな集落であった。集落を流れ下る渓流は,下田港に注ぐ稲生沢川の水系の一つであるが「沢」と呼ぶほうが相応しい佇まいで,沢蟹と小エビが生息する小さな流れであった。茅葺の生家は,その集落のどん詰まりと言うか,あとは茅場に繋がる山道があるだけの一番奥まった場所にあった。川に沿って小道を上り詰めた場所が狭い台地となっていて,山の神を祀る「子之神社」と6戸の家があった。

 

先日,小学校時代の同級生に会ったら,

6年生の時,大平山へ遠足で行ったよな。お前の家が山の奥だったことを覚えているよ」

と言った。確かに生家は,「大平山」の9合目辺りに位置し,朝起きると大平山の尾根が目の前にあった。

 

家の周りには,自家用の芋や豆や野菜をつくる畑と,蜜柑,柿,栗,枇杷などが実る何本かの果樹,桑畑があった。鶏は家の周りに放し飼いされ,2-3頭の乳牛を飼い,ある時期は養蚕を行い,ある時は薪を切り,炭を焼いて,暮らしを立てていた。また,家から離れた集落の入り口近くに少しばかりの棚田があって,余剰米を供出できていたから,当時の水準で考えれば食べるに困る暮らしでは無かったのだろう。一方,山に杉や檜の苗をせっせと植え,下草刈りや枝打ちなどの作業を忙しくしていた。

 どこの家でもそうだが,当時の村人は夜を徹して働いていた。縄を綯い,炭俵を編み,糸を紡ぎ反物を織り,着物を縫うなど夜なべ仕事がごく当たり前であった。

「○屋の婆さん,まだ頑張っているよ」

暗闇に揺れる灯りをみて祖母が言う。提灯を腰につけ,畑仕事をしているのだと。

しかし,二十一世紀の今この山奥に住む人は消え,残念なことに孟宗竹と雑木が繁茂している。この地を訪れるたびに,幼少時の記憶が蘇る。

 

例えば,太平洋戦争末期には下田市街や伊豆大島からの疎開者があり,

「何故,大島の人は水桶を頭に載せて運ぶのか?」

「何故,街の子は色白なのだ?」と,祖母の背に隠れながら聞いたものだ。

疎開騒ぎは一時の事で,終戦とともにその人々は帰って行ったが,山奥で暮らす子供にとって異邦人との出会ともいえる最初の体験であった。

 

代わって物々交換で食糧を求める女性や物乞いがこの山奥にまで訪れる時代となった。赤子を背負った婦人が,縁側で乾かしていた南瓜を指さして,

「南瓜を譲ってくれませんか? この着物を置いてきます」

「それで良ければ持って行きなされ。着物は要らないから・・・」

祖母は都会人に,台所にあったサツマイモ数個と一緒に渡した。また別の日にやって来た脚の悪い乞食には,一合ほどの米か握り飯を施すのを遠くから眺めていた。冬の陽だまりの出来事として記憶に残っている。

太平洋戦争に突入し働きづくめであった時代,そして戦後の貧しい混乱時代にも,山奥の集落へ外来の訪問者がなかった訳ではない。例えば,「富山の薬売り」「養蚕技術者」「牛の人工授精師」等である。子供心には,彼らはいつも異文化を纏ってやってきた。

 

ここでは「富山の薬売り」について触れよう

富山の薬売り

熱が出た,食あたり,虫に刺されたと言っては,富山の置き薬の世話になった。余程の大怪我でもしなければ医者に行くことも無かった時代である。

富山の薬売りは,重ね葛籠を大きな風呂敷で背負って,年に12回だったろうか,やって来ては各戸の薬箱を点検し,使用分を補填,新しい薬に詰め替える。「反魂丹」の匂いだったろうか独特の薬臭さと,葛籠に魔法のように詰められた薬の多さに驚いたりもした。紙風船が子供らへのお土産であった。

 

そんな思い出に浸っていた頃,栗原一博氏から,遠藤和子「富山のセールスマンシップ,薬売り成功の知恵」(サイマル出版会1995)の寄贈を受けた。同書によれば,売薬回商のきっかけは元禄3年江戸城腹痛事件だと言う。それから三百年余,つい最近まで,全国津々浦々で「一人の商人と顧客」と言う形の商売が続いてきた。この成功の要因は何だろうと問う。著者は“越中富山の薬売り”の商いについて歴史的な考察を加え,「商いは,顧客との心のきずなを太く,強くしてこそ発展し,継続する」だとする富山の薬売りの思想こそ現代にも通じる究極の商業原理ではないか,利潤追求を最優先させる現在の商いに「顧客本位の商い」が忘れられているのではないかと指摘する。

さらに,薬売りの傍ら,種もみやレンゲ種子を広め,田植え定規や富山犂の普及指導など地域貢献の姿にも触れている。薬売りには伝道師の一面があったのだろう。

 

確かに,多くの実用的な技術(農業技術や生活の知恵など)は,民間人による意識しないネットワークで広まっている。奥伊豆で栽培されていた「身上早生」が宮城に渡り「愛国」になり,「コシヒカリ」が生まれた話を思い出した。この種もみの移動も,蚕種製造業を営む同業者のツテであったのだから。

 

添付は,当時の住宅図

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伊豆の人-5,「中根東里」と伊豆人気質

2013-02-07 16:22:58 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「中根東里」幼少時のエピソードが知られている。

「・・・東里は幼いころから親に孝行だった。父の重勝はよく飲み歩き,家に帰るのも遅かった。東里はいつも提灯を持って父の帰りを待って外に立ち続けるのであった。ある日,父は泥酔し,迎えに来た東里を東里ともわからず罵り,樹の下に倒れ込んで眠ってしまった。藪蚊が襲ってくる。東里は父を背負って帰ろうとしたが子供の力ではどうにもならず,家に帰り,母に心配を掛けまいと“父は今晩知人宅に泊まることになったが,蚊帳が足りないので借りてこいと言われました。私もそこに泊まります”と蚊帳を持ち出し,父が眠っているところに戻り蚊帳を吊って,一睡もせず泥酔した父を護り,翌朝一緒に帰った。村人は,その孝行ぶりを褒め称えた・・・」とある(参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012)。

 

また,1)鎌倉の長屋で弟と暮らした頃,隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救い,男の病が回復すると「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,鎌倉を離れた優しさ。2)江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける暮らしの中で,たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが救済も叶わず,「何のために学問してきたのか」と悩んだ優しさ。3)下野国佐野で,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧なうちにも人々に慕われて生活を送ったことなど,東里の人生には心の優しさを示す事象が数知れない。

一方,生活を犠牲にしてまでも貪欲に経書を読み真理を求めた一途さ,禅宗,浄土宗,朱子学,陽明学へと一度矛盾を悟ると次ぎへ進む潔さが東里にはみられる。

 

このような中根東里の性格はどこで形成されたのか?

性格は本来親から譲り受ける遺伝的素質であるが,一つの仮説として,幼少の時を奥伊豆の下田で生きたことが性格形成に影響した,と想定しよう。

気候温暖な土地柄のため性格は温和で優しくなり,江戸から離れた寒村の長閑な暮らしで一途な心(不器用でもある)が育まれたのではないか,と考えるからである。

 

世に,「伊豆人気質」と言う言葉がある。

人国記によれば,「当国の風俗は,強中の強にして,気を稟くるところ都て清きなり。然れども一花の気にして,少しの違いめにても,また親怨を変ずるなりとぞ。案ずるに・・・三方海岸にして,中は山谷なり。寒暑も穏やかなところなり。民族辺境なる故に,よろず一筋なり」という。

 

また,日刊ゲンダイ編集部編「県民性と相性」(グリーンアロー出版社)によると,静岡県は「気候温暖が生んだ気性なのか,金銭欲,上昇志向まるでなし,事あらば酒宴を開く大楽天家,歩くのがのろい,のんびり型,競争を好まない,平和友好的(競争心がない),優柔不断,それなりに」の特性があるという。県内でも,伊豆の乞食(お人好しで人情に厚い,乞食をしても食って行ける)と遠州泥棒(進取の気性に富んでいる,食えなくなると泥棒まがいのこともする。家康の庇護を受けて過当競争をやったことのない静岡市に対し,遠州浜松は大阪や近江商人の進出を受けて安閑としていられなかった)の言葉があると解説する。

 

類型化に意味のないことは承知の上で(東里と比べるのも畏れ多いが),両者を比べてみよう。中根東里の優しさ,一途さが,伊豆人気質に重なって見えるではないか。観光客が訪れ,人々の交流が多くなった現在,前述のような気質は伊豆下田から薄れているが,地元の老人に声を掛けてみれば穏やかな響きと人の良さが伝わってくるだろう。歩く姿や身振りも決してセカセカしていない。

中根東里が腰を下ろし書物片手に竹皮草履を売っていても,違和感がないではないか。

 

伊豆生まれの筆者にとって,妙に納得するところがあるのだが・・・

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伊豆の人-4,下田生まれの儒者,清貧に生きた天才詩文家「中根東里」

2013-02-06 17:06:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

元禄7年(1694伊豆下田で生まれ,晩年は下野国佐野(現栃木県佐野市)で暮らし,72歳の生涯をとじた一人の儒者がいた。その人の名は「中根東里」。私がこの名前を知ったのはつい最近の事である。

中根東里の生涯を,辿ってみよう。

 

◆中根東里

・元禄7年(1694)伊豆下田で生まれる。幼名は孫平,名は若思,字は敬父(夫),東里と号す。後の名を貞右衛門。ちなみに,父は重勝,三河の人で伊豆に流れ着いて当地に住み,浅野氏を娶る。

・元禄19年(1706)東里13歳の時,父を喪い(本覚寺に埋葬),禅寺に入り剃髪して証円と名乗る。読経を重ねるうちに,経典の本来の言葉である唐音(中国語)を学びたいと思う。

・正徳元年(1711),唐音を学ぶため宇治黄檗山萬福寺に入り,中国僧から漢学の手ほどきを受ける。書を好み経文を読み尽くさんと欲するが,禅の修行は書見ではないと諌められ,荻生徂徠門下慧岩の名を頼って江戸に出る。

・駒込の浄土宗蓮光寺に寓す。経典,大蔵経を読破したと伝えられ,その噂は江戸に広まった。東里の噂は荻生徂徠の耳にも入り,徂徠は東里を門弟となす(徂徠が鎖国の時代に希少であった東里の言語能力を利用した面もある)。徂徠のもとで古文辞を磨くが,「孟子,浩然の気の章」を読み還俗を決意する。還俗に対して徂徠の怒りを買う。東里は「徂徠の虚名を頼りに名を上げようとした己を恥じ」て,書きためた詩文を全て燃やしてしまう。

・浪人暮らしをしていた細井広沢のもとに身を寄せる。細井広沢は儒学者・書家・篆刻家として知られ西洋天文学にも博識であった。「技を暮らしの足しにせず,技をもって道となす」とする細井広沢の生き方に感銘する。

・正徳6年(1716),23歳の東里は室鳩巣に従って金沢へ下る。鳩巣から貞右衛門の名をおくられる。金沢では,ひたすら四書を読み,研鑚を積む。加賀藩から仕官の要請があったが,「学問して禄を貰う訳にはいかぬ」と,これを断り江戸にもどる。当時の儒学者は高額で仕官するのが常であったから,東里の考えは常識を超えるものであった。

・享保3年(1718)江戸八丁堀の裏長屋で終日書を読んで暮らすが,蓄えも底をつく。享保4年(1719)鎌倉在の弟淑徳と一緒に住むことにし,鶴岡八幡宮の鳥居下で漢籍を読みながら下駄を売り,粥をえて暮らす。ある時,長屋隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救った。男の病が回復すると,「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,兄弟は鎌倉を離れる。二年ほどの鎌倉暮らしであった。

・江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける。たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが,救済することも出来ず,「何のために学問してきたのか」と悩む。そのような折「王陽明全書」に出会い,これまでの霧が消え去るのを感じ,ひたすら王陽明の著述を読みふける。そして,「書物を読んできた自分の使命は,人々にそれを説き,自ら行うことではないか」との考えに至る(知行合一)。この頃から,請われれば町民に書を講じた。

・下野国佐野の泥月庵に移り住み(後に知松庵)町の子供らにに王陽明の伝習録を講義する。以降,東里は30年近くをこの里で暮らした。生涯娶ることもなく,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧ながらも人々に慕われて生活を送った。

・宝暦12年(1762)姉の嫁ぎ先であり母が暮らした浦賀に往き,明和2年(176572歳で生涯をとじた。遺品や遺稿と言うべきものも殆ど残っていなかったという。顕正寺(浦賀)に自筆の墓碑がある。

 

磯田道史氏は「無私の日本人」(文芸春秋2012)で,「中根東里という儒者について書きたい。村儒者として生き,村儒者として死んだ人だから,今では知る人も少ないが,わたしは,この人のことを書かずにはいられない・・・」と書き始めている。同書の表紙には「荻生徂徠に学び,日本随一の儒者になるが,仕官せず,極貧生活を送る。万巻の書を読んだ末に掴んだ真理を平易に語り,庶民の心を震わせた」とコピーされている。

 

荻生徂徠や室鳩巣にその才を認められ,天才詩文家・儒者として名前が知られるようになった中根東里であるが,「世間的に偉くならずとも,金を儲けずともよい」と,ひたすら書を読み真理を求め,町民に平易に語り,隣人にやさしい心を持ち続けた生きざは,尊厳に値する。純で優しく,一途で,極限なまでに無私であったから,世間の濁りを純化させることが出来たのだろうか。歴史に埋もれた日本人の一人である。

 

今の世にこそ,中根東里の生き方に学ぶことがありそうだ

 

伊豆に住む従兄弟からの便りで中根東里に出会った。東里の生きざまには強い衝撃を覚える。

 

参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012

 

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