豆の育種のマメな話

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北海道の「長葉大豆」,品種の変遷

2013-01-20 16:58:09 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

大豆の小葉の形には円葉(Ln/Lnbroadまたはovate)と長葉(ln/lnnarrow)があり,F1は中間型(Ln/ln)を示す。世界の大豆を概観すると円葉品種の栽培が優勢にみえるが,長葉品種もそれなりの存在を示している。これは,長葉大豆は一莢内粒数が多く(4粒莢率が高い)小粒である,群落の透光率が高く密植栽培に適するなどの特性を有するためで,その性質を活かした栽培である場合が多い。

 

北海道で栽培された「長葉大豆」

これまでに北海道優良品種に認定された長葉大豆は13品種ある(全体の1015%)。

添付「北海道の長葉大豆一覧

 

13品種は,その特性・用途,時代から4群に大別できる。

 

A群は,無毛品種(裸大豆)でマメシンクイガ抵抗性を目標に育成された品種群(長葉裸,長葉裸1号,ホッカイハダカ)である。これら品種が優良品種になった時代(昭和1433年)は,マメシンクイガ被害対策が第一の課題であった状況を反映している。その後,裸大豆は耐冷性が弱かったこと,農薬の普及が進んだため,昭和30年代で姿を消した。

 

B群は,褐目小粒種群で多収・耐冷性を目標に育成された。「十勝長葉」「北見長葉」は耐倒伏性に優れ多収であったことから急激に栽培が拡大し,十勝管内の普及率は50%を越えた。しかし,晩熟であったことから度重なる冷害の被害を受け,耐冷安定性の「鈴成」「イスズ」「北見白」などに置き換えられた。「イスズ」は早熟で作り易かったことから十勝山麓・沿海地方に定着した。後年,在来種として収集された「ごんじろう大豆」「宮崎大豆」「足寄太長葉」などは,篤農家が「イスズ」から選出したものではないか考えられる。

 

C群は,中国品種を片親に高脂肪多収を目標に育成された白目小粒種である。小粒ではあるが,白目で品質が良く,大豆の輸入自由化(昭和36年)に対応するタイミングで公表された。「コガネジロ」は十勝地方で白目大豆として本格的に普及を始めたが,昭和39年の大冷害で着莢障害,菌核病被害が著しく栽培は頓挫した。「ナガハジロ」は脂肪含量が高く,「ワセコガネ」は機械化栽培適応性が高いことから優良品種に決定したが,安い輸入大豆におされて栽培は拡大しなかった。

 

D群は小粒納豆用の品種群である。昭和50年代から,国産納豆原料需要の高まりを受け,「スズヒメ」「スズマル」「ユキシズカ」が順次開発された。生産地の形成,納豆製造業者との連携,消費者からの高い支持を受け,生産は順調である。現在,北海道の畑で長葉大豆を見かけたら納豆用大豆だと言ってよい。

 

品種の変遷には,時代の背景がみえて面白い。輸入大豆との競争の中で,国産大豆は中・大粒,良質というメリットを活かして残ってきたため,極小粒の納豆用は別にして円葉品種が主体となっている。春先の低温が続く北海道では,長葉は円葉に比較し初期生育が劣るため不利であることも,丸葉優位の原因であろう。

 

しかし世界では,長葉大豆で密植栽培を指向する動きが続いている。

 

長葉のルーツは「本育65号」

北海道における長葉大豆のルーツは全て「本育65号」に辿りつく。

添付「北海道における長葉大豆の系譜」

 

「本育65号」は,北海道農事試験場本場が十勝支場から取り寄せた「大谷地」から選出されたものとされる。その根拠は,本場の種苗台帳の記載である。それには,「番号(本育65号),種類(大豆),仮名称(大谷地選出“四粒黄目白大粒”),記事(1922年十勝支場ヨリ輸入セル大谷地中1株長葉ニシテ目白粒ノモノ発見(自然雑交)分離固定セイシメタルモノナリ)・・・」とある。

 

ところで,「大谷地」は円葉,褐毛,種皮色は黄白,臍色は暗褐であるのに対し,「本育65号」は長葉,白毛,種皮色はややくすんだ黄色,臍色は黄~極淡褐である。熟期も中生と晩生であり,特性は大きく異なる。「大谷地」中の1株が自然交雑によるF1だとすれば,葉形は中間葉,褐毛であったろうし(くすみ粒は納得できるが),3年後に品種比較試験を実施するほど固定したのだろうか?

 

一方,先の種苗台帳にある似通った表現の中国東北地方在来種「四粒黄」との関係はどうだろうか? 道内に保存される「四粒黄」と比較すると,種皮色,臍色,粒大などの特性で差異が認められる。

 

北海道における長葉大豆のルーツ「本育65号」の来歴は,今なお理解できていない・・・。

 

 

 

 

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「コシヒカリ」「ゆめぴりか」の起源を辿れば南伊豆

2013-01-04 13:45:20 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

青市村の無名な種籾「身上早生」から「愛国」、そして「コシヒカリ」へ

明治時代後半から昭和の初めにかけて広く栽培された水稲の大品種「愛国」発祥の地記念碑が,平成22年(2010)宮城県丸森町に建立された(建立地:宮城県丸森町,舘矢間まちづくりセンター内)。「愛国」の偉大さは,その交配後代から「陸羽132号」「農林1号」「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」「はえぬき」「きらら397」「ななつぼし」など,誰もが知っている歴代の大品種が誕生したことでも理解できる。現在わが国で栽培される作付面積上位10品種の全てに,「愛国」の血が流れているほどだ1)

 

実は,この「愛国」は下田で栽培されていた「身上早生」が宮城に渡ったものである。ご存知だろうか。

添付Table1 水稲の作付面積上位品種

添付Table2 「身上起」を祖先とする品種系譜

 

先ず,「愛国発祥の地」碑文を紹介しよう。

・・・豊穣の稲「愛国」発祥の地・・・水稲の大品種「愛国」は伊具郡舘矢間村で誕生した。明治二十二年十二月舘矢間村舘山の蚕種家本多三學が,静岡県南伊豆郡朝日村(現下田市)の同業者外岡由利蔵から取寄せた品種名不詳の種籾がことの発端である。その種籾は,舘矢間村小田の篤農家,窪田長八郎,日下内蔵治,佐藤俊十郎,佐藤伊吉が試作した結果抜群の多収性が認められ,明治二十五年に坪刈調査に立会った伊具郡書記森善太郎と同郡米作改良教師八尋一郎により「愛国」と命名された。 「愛国」は伊具郡内から県下全域へと急速に普及し,更に,東日本を中心とした全国各地で最大作付面積が三十三万ヘクタールに及び,昭和初期に至るまでの長期間作付された。また,品種改良の親としても優れ,子孫には「陸羽一三二号」「農林一号」をはじめ,「コシヒカリ」「ササニシキ」「ひとめぼれ」など有名な大品種が多数生まれている。 「愛国」は耐倒伏性と耐病性に優れた多収品種として普及したが,近年になって「コシヒカリ」などの強い耐冷性やご飯の食味を左右する粘りも「愛国」に由来することが明らかにされた。 後に,「愛国」となった種籾は,静岡県賀茂郡青市村(現南伊豆町)の高橋安兵衛が育成した「身上早生」と判明した。静岡県では普及面積が僅かで目立たなかった品種を,館矢間村では「愛国」に生まれ変わらせて全国に広め,日本の稲作に多大な恩恵をもたらした功績は特筆に値する。 種籾を館矢間村にもたらした本多三學はもとより,秘められた資質を見抜いた篤農家,「愛国」と命名して支援した稲具郡の稲作指導者,「愛国」の作付けに励んだ館矢間村の稲作農家,以上の関係者の先見性とひたむきな取組みがなかったら,今日の「コシヒカリ」も「ひとめぼれ」もこの世に誕生できなかったはずである。 この舘矢間村の先人達が成し遂げた偉業を末永く後世に語り継ぎ,丸森町の更なる飛躍を願い,ここに類まれな豊穣の稲「愛国」発祥地の記念碑を建立する。 平成二十二年十一月二十日 豊穣の稲「愛国」顕彰事業 実行委員会委員長 渡辺政巳・・・

 

伊豆下田から宮城へ種籾が渡った理由

静岡県賀茂郡下田港西在<筆者注:碑文の南伊豆郡朝日村は,賀茂郡朝日村(明治22年吉佐美村・大賀茂村・田牛村が合併して朝日村,昭和30年下田市となる)>金蘭園主外岡由利蔵から宮城県伊具郡舘矢間村舘山(現丸森町舘矢間舘山)の本多三學へ無名の種籾が送られたとある。外岡由利蔵と本多三學は蚕種製造業を営む同業者で,風交倶楽部の俳句仲間としても親交があった縁による。由利蔵は,蚕種業のほか大賀茂小学校の教員を務め(明治2025),本草学に精通,金融業も営んでいた大賀茂村の名物的な人物だったという3)

 

「愛国」となった無名の種籾とは何だったのか?

佐々木武彦博士は,「愛国」の起源をめぐる静岡県の「身上早生」由来説と広島県の「赤出雲」由来説を比較検証し,「身上早生」由来説が整合性ありとした2)

「身上早生」由来説とは,明治15年(1882)頃,静岡県賀茂郡青市村<筆者注:明治22年に竹麻村,昭和30年に南伊豆町となる>の高橋安兵衛が,晩稲の「身上起」から選出した「身上早生」(別名「蒲谷早生」)であるとする説で,宮城県立農事試験場の寺澤保房が「農業及び園芸」(1927)と「日作紀」(1932)に発表したものである。寺澤は,①健在だった試作者から当時の「愛国」の特性を聞き,②外岡由利蔵に種子を送付した事実を確かめ,③高橋安兵衛が「身上起」から選出した「身上早生」であることを突き止め,④竹麻村で栽培中の「身上早生」を取り寄せ,当時の「愛国」(俗称「在来愛国」「晩愛国」)と比較栽培した結果,両品種に差がほとんどないことを確認するなど,種子の出処から宮城に送られた経緯,時期,試作者,命名に至る経緯を裏付けしたものである2)

 

ところで,起源の地である青市村とはどんなところか?

下田市街から石廊崎方向に国道136号線を1520分ほど走った所に「青市」と呼ぶ集落がある。この地帯は,弓ヶ浜に注ぐ「青野川」の支流で流域は狭い農耕地になっている。青野川流域では弥生時代の「日詰遺跡」が発掘され,農耕,水稲の栽培が開始された場所と推定されている。江戸時代以降,昭和20年頃までは棚田が開けていたことだろう。現在は,観光客相手の商売やマーガレット生産など花卉栽培が盛んである。

江戸から昭和の初めにかけて,奥伊豆農業の中心は稲作であった。嘉永6年~安政元年(1864-75)下田を訪れたペリー艦隊の「日本遠征記」には,「稲は明るい黄色,赤,茶,黒もしくは深い紫色など,様々な種類が栽培されている。9月末に半マイルも歩いただけで,10から15もしくはそれ以上の異なる色合いの籾を見本として採種することができた」と記されている4)。また,ハリスの通訳兼書記として滞在したヒュースケンの「日本日記」(1855-61)にも,「下田の谷を潤している川(稲生沢川)に沿って進む。豊かな稲穂の稔に感嘆する」とある5)。このように,奥伊豆の谷間の流域では多くの品種が栽培されていた様子を窺い知ることが出来る。

そして明治22年(1889)に,この地の「身上早生」が宮城県にわたり「愛国」となり,「コシヒカリ」となった。「身上早生」が宮城に渡って花開いたのは,東北や北陸の優れた先人達の努力によるところが大きいが,同時に,隔離された地勢の奥伊豆で長く続いた稲作が遺伝変異の幅を広げ,優れた遺伝子を蓄積していた事実も見逃せない。「愛国」は耐冷性品種の主要な遺伝子給源であったと言うが2),温暖な伊豆の品種に穂ばらみ期耐冷性の資質が何故あったのか(風待ち船の下田港と称されたように,海風が耐冷性の淘汰をしたのだろうか)等々,興味は尽きない。

 

長閑な陽だまりの里,「愛国」で醸した酒をなめながら奥伊豆の青野川流域に立つと,想像の糸は紡がれ,育種に夢をかけた先人たちの足跡,今も続く努力の姿が見えて来る。育種は継続・・・。

 

参照1)農業・食品産業技術総合研究機構「イネ品種データベース」, 2)佐々木武彦「水稲“愛国”の起源をめぐる真相」育種学研究11:15-21, 2009, 3)伊豆新聞「ササニシキ・コシヒカリは下田が起源」, 4ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」(ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎), 5)青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫

 

 

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