パラグアイ日系移住地の話をしよう(2)
1人の老人の写真がある。白髪交じりの髪を短く刈り込んだ顔に深い皺が刻まれ,痩躯に精悍さが残っている。知遇を得て,昔話を聞きに通った。持参した文庫本司馬遼太郎「菜の花の沖」を差し上げたら,読書好きな老人は朝まで呼んでいたと,奥さんが後に語ってくれた。「おまえも読んでおけ」と言われたと,これもまた息子さんから聞いた。
老人は,日本に帰ることなく2005年に旅立った。その翌年の4月,チャベスの地を訪れ,老人の仏前にお参りしたとき,菜畑の中に立つ老人の写真があった。筆者が撮影したものである。菜の花が一面に大地を覆い,老人が微笑んでいる。「この写真がとても気に入っていました・・・」奥さんがつぶやいた。
◇「パラグアイ日本人移住70年誌」から移住地の変遷をみる
1952年,カピタンミランダ隣接の大地主の土地が自作農促進のため解放され,時の大統領の名を付けたチャベス移住地。この移住地には,パラグアイ,ドイツ,ロシア,フランス,ウクライナ,ベルギー等多くの国の移住者からなる。日系人は,1953年コルメナからエンカルナシオンに移住してきた6家族が,この地に入ったのが始まりで,1954年には神戸出航の第1次船9家族59名が入植している(戦後初のパラグアイ計画移民)。
その後,第2次船,第3次船と続いたが,現地との連絡が不十分で,初期の移住者は原生林に野営する状況であったという。第4次船の5家族,第5次船の6家族が到着した頃には,チャベスは飽和状態で適地がなく,フラム(フジ地区)に入植する状況であった。
1960年の第47次船をもって入植は終わっているが,入植者は総計で日本からは116家族646名,パラグアイ国内移住地からを含めると200家族約1,000名を数える。
原生林を開墾し,焼き畑で作物の試作が行われ,1957-58年頃には食糧自給が出来るようになったが,道路事情が悪く生産物の販売に苦労するなど見通しも暗い状況であった。1960年代は経済がデフレ基調にあり,農産物価格も悪く,多くの移住者が農業を捨ててエンカルナシオンやアスンシオンなど都会へ転出し始めた。1970年には,移住地の日系人は71家族426名になったと記されている。
1973年,日本では石油危機が経済を襲った年であるが,パラグアイでは大豆価格が高騰し,いわゆる大豆ブーム起こった。これを契機に大豆栽培が拡大する。大型機械を導入した機械化農業が進み富裕な農家が出現する一方,皮肉なことに大型機械化農業は離農者を増加させることになる。高額な大型機械の購入は経営を圧迫し,土地を手放して都会に出る転住者が多数に及んだ。1985年チャベスの日系は32家族194名。その後,出稼ぎなどで2005年には28家族141名となっている。
200家族が入植し,現在28家族。これを見ても,移住地60年の歴史が安穏としたものでないことは理解できよう。今でこそ,パークゴルフを楽しむ余裕が生まれ(パラグアイにパークゴルフを導入した井沢さん家のゴルフ場がある),日系2世がカピタンミランダ市議会議員など地域リーダーとして活躍し日系人への尊敬を集めているが,これも多くの先人の苦労があってのことである。他国の移住者と共存し、また共に競いながら,道路を拓き,学校を建て,組合を作り協働した誇り高い日本人の歴史が,ここでは語り継がれている。
◇老人は語る
「牧師が来て日曜日は教会に来いという。食べるために働くのが何故悪い。安息日の議論をしながら日曜日も働いた。若い頃は,酒を飲んでは喧嘩もしたが,身寄りもなかったので頑張るしかなかった」
「森を拓いてテント張った。次に,掘立小屋を建てた」
「来る日も来る日も,大木を切り倒し,火をつけ,作物の種子をまいた。幹線(現在の国道6号線)からの道路もなく,雨が降ると歩けなかった」
「靴を手に持って,ぬかるみの道を学校に通い,着いたら足を洗って靴を履いた。原生林の中で帰りの道が分からなくなり樹の上で一夜を明かしたこともある。怖かった」と,娘さんが言葉を添えた。
今,この移住地の周辺は,日系のほかにドイツ移民のコロニア,ウクライナやポーランド系のコロニアなど,それぞれの特徴を見せながら発展している。羽振りの良いのは,大豆ブームに乗って大面積を所有する農家の方々。老人の家も現在では大規模な畑作経営に特化している。
一方では,現地人と結婚し,日本人であることを隠すように暮らす1世の移住者がいる現実も忘れることは出来ない。田舎の小さな店先で,現地人の風貌をした1人の老婆が店番をしていた。言葉は,スペイン語とガラニー語である。レシーボの7という数字の書き方を見て,「おや?」と思う。日本の書き方である。良く観察すれば日本人と言えなくもない。だが,日本語で声をかけるのも躊躇され,「有り難う,さよなら」とだけスペイン語で挨拶して店を出た。詮索はよそう,日本からの旅人にすぎないのだから。
参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007),パラグアイ日本人移住50年史(1987)