豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

安孫子賞と北農賞

2021-12-16 10:36:41 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

安孫子賞と北農賞

北海道の農業分野に係わる歴史ある表彰事業(公益財団法人北農会)がある。「安孫子賞」と「北農賞」の二つだ。

安孫子賞」は、(1)北海道において農業に従事し、経営・技術に創意工夫を加え、堅実な経営を築き、将来の発展が期待できる農業者、(2)北海道において農業の指導・研究・普及などに従事し、誠実な実践活動により農業改良に顕著な成績を上げた人に贈られる。北海道農事試験場長、北海道農会長を歴任した実践の農学者(農民の父と称えられた)安孫子孝次氏の名を頂いた賞で、全道から毎年1~2名が表彰の栄誉に浴する。

北農賞」は、(1)「北農」の最近1年間に搭載された論文・資料等の中で普及上優秀なもの、(2)育成品種で顕著な実績をあげているもの、(3)技術・事務上の創意工夫・考案等により試験研究の推進に貢献したものに贈られる。

両賞の贈呈式は、例年12月16日(安孫子孝次氏の誕生日)京王プラザホテル札幌で開催されている。贈呈式では、受賞者の業績紹介の後、北農会会長から受賞者各人に賞状と記念品が贈られ、来賓の北海道農政部長及び北海道農業研究センター所長等から祝辞が述べられる。

両賞は、「安孫子顕彰会」を引き継いだ「安孫子賞・北農賞表彰基金協賛会」が110法人及び308名の協賛を得て創設した特別基金を基に運用されている。地味ではあるが、価値ある伝統の表彰事業として今後も継続されることを期待したい。

◆「北農会」と「北農」誕生の経緯

明治政府は、1869年(明2)北海道に開拓使を置き北海道開拓の第一用務は農業開発であるとした。開拓移住、欧米からの農業技術導入を進めるとともに、本道の気象条件に対応できる農業を確立するためには技術開発が大事であるとの認識で、亀田郡七飯村、上川郡旭川町、札幌郡白石村、十勝国帯広市などに順次農事試験場を設け試験研究を推進した。

明治三十年代に入り農事試験場は「報告」「彙報」「時報」の出版物を発行することになった。「報告」は試験成績の学術的発表、「彙報」は試験結果を総合して記述した指導上の指針、「時報」は指導上特に必要と認められる事項の試験結果を平易に記述して農業者に情報提供することを目的にした。

農事試験場では、「試験成績を一番先に届けたいのは農家の圃場である」との意図で、不定期発行の「時報」を市町村役場や農会などにまとめて送り、訪ねてくる農家に持って帰ってもらうようにしていた。しかし、それも心もとなく、有効な配布方法はないかと議論していた折、「成績をまとめた資料は不定期でなく、月刊として速報し、実費で買ってもらう。そうすれば目を通すだろうし、大切にするに違いない」との提案があり、「北農」として発行することになった。

「北農」第1巻第1号は、1934年(昭9)1月1日付けで発行された。それまで試験場が発行する普及向きの印刷物「時報」には試験担当者の氏名がなかったが、「北農」では担当者名を記すことになり、これにより生産現場と研究者の間が近づいたという。戦後まもない1950年(昭25)北海道農事試験場は国立と道立に分離されたが、「北農」は両場の成績を登載して北海道農業の発展に寄与してきた。

なお、北農会は1934年(昭9)「北海道農事試験場北農会」として設立。その後、1944年(昭19)「社団法人北農会」、1966年(昭41)「財団法人北農会」、2012年(平24)「公益財団法人北農会」となり、今日に至る。

「安孫子賞」誕生の経緯

安孫子場長は試験場を退任後も、道農会(農業会)会長として北海道農業の発展に尽力され、誰云うとなく「農民の父」と称えられた。その後、道農会で安孫子会長の指導と薫陶を受けた人々の発起により、「安孫子さんの名で北海道農業に献身されている人々をねぎらい、励ましたい」と、1960年(昭35)財団法人安孫子顕彰会を設立、「安孫子賞」が創設された。第1回安孫子賞の栄誉に輝いたのは、松井清行、松岡儀男、松尾栄の三氏。顕彰会は1980年(昭55)に解散し事業は北農会に委譲され、平成6-8年には協賛会からの寄託を受け「安孫子賞・北農賞表彰事業特別基金」創設、現在に至る。

「北農賞」誕生の経緯

1940年(昭15)、安孫子孝次場長は退任し、北農会会長も交代した。浦上啓太郎新会長は、前会長に対し北農会から記念品代にと金一封を贈呈した。安孫子前会長は北農会の台所事情も分かっていたので、それをそっくり北農会の発展のために役立てて欲しいと寄付された。浦上会長は、これを基金として、若い研究員を対象に「北農」掲載論文の中から営農に寄与したと認められる論文を表彰する制度を発足させたいと考え、11月10日紀元二千六百年奉祝式典に農事試験場を代表して出席した場長は、その日桑山覺幹事長に北農賞受賞規定の起草を命じた。12月7日に授賞規定が決済され、12月28日玉山豊ら審査委員6名を委嘱、翌年1月24日審査委員会、3月2日には「第1回北農賞」の授与式を行った。東京朝日新聞北海道版に「初の北農賞-農試が劃期的の壮挙」と題し、受賞者石井誠夫、加藤静夫両氏の事績と写真が掲載されている。

歴代受賞者

歴代受賞者一覧を添付した。

添付1 安孫子賞受賞者

添付2 北農賞論文部門受賞者

添付3 北農賞品種部門受賞者

添付4 北農賞技術事務部門受章者

   

      

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私の「本づくり」第8話 :「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する

2021-12-09 09:54:00 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第8話

「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する

コロナ禍の巣ごもり時間を活用して昔の駄文を補筆編集し冊子に纏めることを思い立ち、「ラテンアメリカ旅は道づれ」(A5版276p)、「パラグアイから今日は!」(A5版222p)、「伊豆の下田の歴史びと」(A5版234p)、「伊豆下田、里山を歩く」(A5版230p)の4冊を上梓した。

前2冊は南米で暮らした頃の紀行文と随想録である。南米大陸を旅し、アルゼンチンやパラグアイで生活してみると、アンデス文明の歴史や文化、ラテン気質と言われる人びとの生き方、豊かな自然について驚き学ぶことが多かった。また、後の2冊は開国の舞台となった伊豆下田の歴史びと、筆者の故郷である伊豆の里山について幼少時体験をもとに綴ったものである。

これまでの人生では仕事にかまけて子供や孫に「来し方」を語ることもなかったので、この機会に記憶を辿り体験を書き残すことは意味があろうと考えた。

◇本づくりの顛末

編集作業は過去の経験で何とかなったが、問題は製本作業である。先ず家庭用複写機を利用して印刷し、製本はホームセンターで万力・糸鋸・ボンドなどを調達して無線とじ製本に挑戦した。試行錯誤しながら何とか形になったが、裁断機が無かったので、かつて世話になった街の印刷屋にトリミングをお願いした。印刷屋の主人は冊子のページを繰りながら、「これでは、我々の商売も上がったりだ」と出来栄えにお世辞を言ってくれた。

しかし、近しい方に贈るにしても数十部は必要なので、新たな項目を加え再編纂し発行することを考えた。印刷製本は部数を考慮して外注することにし、かつて取引があった地元及び札幌の業者を含め数社で見積もりを取ったところ、最近増加しているネット印刷の見積額が従来業者の30-70%だったので、その中からコストパフォーマンスの高そうな東京と大阪の2社を選んだ。

ネット印刷では、紙質の選定など製本体裁を選択し、部数を設定すると、見積額と納品期日が即表示される。ワード作成の編集原稿をPDF変換し圧縮フォルダーで送付する。校正をメールでやり取りし、1~2週間後には宅急便で納品された。ネット上のオンデマンド印刷に不安はあったが、活字の大きさや写真サイズ、写真の濃淡等を工夫すればオフセット印刷に遜色ない出来栄えになることが分かった。予想以上の低コスト・迅速納品である。便利になったものだ。

◇完成後の思い

「旅は道づれ」「パラグアイから」は相棒との南米大陸弥次喜多道中記、異文化圏での暮らしの記録。アンデス文明遺産を訪れインデイオの悲劇を想い、パタゴニアの氷河を見て自然破壊を憂い、イースター島やマヤ遺跡では人類の行く先を考えた。日系移住者の苦難の歴史と誠実さに感銘し、経済的貧困の中でも長閑に暮らす現地の人々と語り「幸せとは何か」を考えた。日系人が持ち込んだ裏庭のダイズが今や国家経済を支え、世界の市況を左右するまでになったことに驚いた。

「歴史びと」「里山を歩く」では、伊豆下田生まれの歴史びとの生き様を辿った。共通する伊豆人気質(人がよく無心な心、一途で頑固なまでの生き方・・・)に、己を重ねて妙に納得もした。歴史遺産を訪ね、古道を歩いた。自然あふれる里山、温暖な気候、いで湯に漬かり昔を偲んだ。ある時は深根城・鵜島城の戦いに思いを馳せ、ある時は日露交渉中の大津波顛末から友好とは何かを考えた。カワヅサクラを育てた人々を訪ね、コシヒカリの起源種「身上早生」で醸した地酒を味わった。

今回発刊した4冊は些か雑然とした内容だが、ふるさと応援団を自称する著者の意図は感じて頂けるに違いない。人は誰もが暮らした場所に愛着を感じ、それぞれの地域が故郷となる。年老いてから故郷に還元出来るものはごく僅かだが、この冊子はその一つ。本書をご覧になり、ラテンアメリカ及び伊豆下田の歴史や自然に興味を抱き、旅に出て見ようかと思って頂けたら有難い。

遊び心で創った冊子であるが、私の中では「コロナ禍に記憶を紡ぐ。せめて八十路の一里塚・・・」となった。早速、子供や孫へ贈ろう。

◇2年に及ぶコロナ禍、千差万別多様な過ごし方があろうが「本づくり」もその一つ。ある作家が「若者に対する年配者のアドバンテージは圧倒的な記憶の集積にある。高齢者は積極的に昔話をしたほうがいい」と述べていたが、小生も断捨離・終活は成り行きに任せて先送り、脳活性化のために記憶を紡ぐ作業を続けようと思う。

なお、これらの本は「恵庭市立図書館」で閲覧できる。

 

「ラテンアメリカ旅は道づれ」目次

はじめに

第1章 アルゼンチンの旅 

1  ブエノス・アイレスに遊ぶ

2  大豆の都と呼ばれる町がある 

3  コルドバの地名で思い出すのは?

4  マル・デル・プラタ、アルゼンチン最大のビーチ・リゾート 

5  メンドーサのワインとアコンカグア展望 

6  北西部のサルタとフフイ、「雲の列車」とウマワカ渓谷

7  世界最大イグアスの滝、「何だ、こりゃあ!」

8  南米のスイス「バリローチエ」

9  世界最南端の町ウスアイア、哀愁を感じる町だ

10  世界の果て国立公園、テイエラ・デル・フエゴ

11  最果ての海峡「ビーグル水道」、鉛色のうねりにオタリアが群れる

12  ペリト・モレノ氷河クルーズとウプサラ氷河探訪

13  アルゼンチン心の詩集「ガウチョ、マルテイン・フィエロ」

14  南米大陸へ最初に渡った日本人、フランシスコ・ハポン

15  アルゼンチンの大牧場主「伊藤清蔵博士」、札幌農学校から世界へ

16  パンパ平原を札幌生まれのガウチョが駈ける「宇野悟郎氏」

第2章 ウルグアイの旅 

1  ウルグアイ東方共和国モンテビデオ

2  世界遺産の町コロニア・デル・サクラメント

第3章 パラグアイの旅 

1  イエズス会の遺跡トリニダを訪れる

2  信仰の町カアクペ、パラグアイ巡礼の道 

3  ボケロンのユートピア、原住民はどう思う? 

4  ピラールの牛は腹まで水に浸かって草を食む

5  パラグアイの豆乳飲料、フルテイカ社を訪ねる

6  パラグアイ最初の日系移住地「ラ・コルメナ」

7  戦後初の計画移民の地「チャベス」

8  パラグアイ大豆発祥の地「ラパス」

9  周到に進められた直轄移住地「ピラポ」

10  最後の直轄日系移住地「イグアス」

11  ジョンソン耕地に抱いたコーヒー生産の夢は大豆で実ったか?「アマンバイ」

12  日本人は山へ帰れ・・・

第4章 チリの旅

1  パイネ国立公園を行く

2  君はアンヘルモでクラントを食べたか?

3  サンチアゴに雨が降る 

4  チリのアカプルコと呼ばれる「ビーニャ・デル・マル」

5  旧都、天国のような谷「バルパライソ」

6  南米チリに渡った最初の日本人 

7  英雄詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ

8  年間降水量が1.1ミリ、チリ北部のアリカ

9  世界最高所のチュンガラ湖に水鳥が遊ぶ 

10  イースター島の旅、モアイは歩いたのか? 悲しみの顔は何を語る

第5章 ペルー、ボリビアの旅 

1  リマ、黄金の都はどうなった?

2  ナスカの地上絵、何のために描いたのか?

3  クスコ、インカ帝国の都は黄金の輝き

4  マチュ・ピチュ、インカの失われた天空都市、ミステリアスな想いに浸る

5  チチカカ湖、トトラの浮島で子供らは歌う

6  チチカカ湖再訪、高山病で急遽サンタクルスへ、友との邂逅 

第6章 メキシコの旅 

1  アステカ神殿の上に立つ大聖堂、メヒコの旅の始まり 

2  君は「国立人類学博物館」を訪れたか?

3  テオテイワカン遺跡のピラミッド

4   陶器「タラベラ焼き」とグルメの町「プエブラ」

5  チョルーラに昔の栄華を偲ぶ

6  コロニア様式の町「タスコ」に遊ぶ

7  殉教壁画に「太閤さま・・・」、クエルナバカ大聖堂

8  カンクン、一度は訪れたいカリブ海のリゾート

9  チチエン・イッツア、森に埋もれるマヤ遺跡

第7章 スペインの旅(十七世紀中南米で覇権を握った国) 

1  ガウデイとサグラダ・ファミリア聖堂 

2  カタルーニャの芸術家たち

3  落日に染まるアルハンブラ宮殿

4  石柱の森のメスキータ、宗教に共存はあるか?

5  ラ・マンチャの風車

6  スペインの農業

7  プラド美術館でみる夢

8  ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」

9  マドリード王宮、豪華絢爛スペイン王室の歴史

10  ラス・カサスに学ぶ、「ビラコチャと見間違えた」では済まされない

第8章 アメリカ大陸の歴史 

1  アメリカ大陸、移民の歴史

2  新大陸における農耕文化の起源と新大陸原産の作物たち

3  文明を変えた作物「大豆」、新たな開拓者

あとがき  

 

「パラグアイから今日は!」目次

はじめに 

第1章 南米からの便り

(1)パラグアイからの便り

1 パラグアイ国から今日は! 初年目、友への便り(2000年)

2 遠い国パラグアイから親愛なる皆様へ(2006年)

3 セマナ・サンタのパラグアイにて(2006年)

4  近況報告申し上げます(2006年)

5  親愛なる皆様、いかがお過ごしですか(2007年)

6  元旦にフェリシダーデスと電話あり 

(2)アルゼンチンからの便り

1 アルゼンチン雑感(1979年) 

2  アルゼンチンの人々(1980年)

3  研修員のことなど(1984年) 

4  パンパ平原に君の姿は良く似合う(1984年)

第2章 南米の暮らし

1  ゴミの話 

2  釣銭は飴玉ですか、アスピリンですか?

3  新札はどこへ消えた 

4  セニョリータと呼ばれたくない 

5  ロマーダで車のスピードを落とせ 

6  運が良かった? 南米の車社会は事故と紙一重 

7  異国での講演会 

8  南米人の気質 

9  グアラニー語、言葉は民族のアイデンテイテイー 

10  南米で暮らした家 

第3章 南米の食事

1  アルゼンチンの主食はアサード

2  ブエノス・アイレスの焼き肉レストラン「ラ・エスタンシア」

3  世界を養う「マンジョカ」

4  家庭の食事

5  飲むサラダ「マテ茶」の作法

6  エンパナーダとチパ

7  南米でエントラーダ(前菜)に何を選ぶ?

8  南米のデザート、「アロス・コン・レチエ」とは何だ?

9  海外では食中毒に気をつけろ 

10  パパイア、甘さが強く独特の癖がある

11  南米の香り懐かしマラクジャ(パッションフルーツ、時計草) 

12  マンゴーを食べ過ぎかぶれた話

13  ジャボチカバ、木の幹に白い花が咲きブドウが実る?

14  タマリンド、果肉を食べる豆 

15  南米で和食を御馳走する 

第4章 南米の動植物

1  遠目には満開の桜、ラパチョの花に望郷の想いが募る 

2  聖なる木、「パロ・サント」 

3  ケブラッチョ、斧も折れる硬さ、皮の「なめし」に使われた 

4  酔っぱらいの樹パロ・ボラーチョ 

5  バルサ、中南米原産の世界で最も軽い木 

6  ハカランダ(ジャカランダ) 

7  パラグアイの森林事情と木材加工品 

8  アルゼンチンの国花「セイボ」 

9  大豆試験圃場でのできごと

10  南米の蟻と蟻塚、大豆畑でも蟻にはご用心

11  ツリスドリの群がるのをみた 

12  南米の鳥と聞いて君は何を思い出す?

13  アルゼンチンの国鳥「オルネーロ」(カマドドリ)

第5章 南米の民芸品

1  アオポイ、パラグアイを象徴する繊細な刺繍の綿織物 

2  ニャンドウテイ、「蜘蛛の巣」と呼ばれるパラグアイ刺繍 

3  銀細工のボールペン 

4  サボテンの民芸品、アルゼンチンのフフイにて 

5  パラグアイ神話の主人公 

6  インカローズとカルピンチョ

7 チリのお土産 

8  アルパとボトル・ダンス 

9  パラグアイの画家「ルーベン・シコラ」の水彩画 

あとがき

 

「伊豆の下田の歴史びと」目次

はじめに

目 次

第1章 開国の舞台「下田」

1  風待ち船で賑わった下田港      

2  伊豆下田の「打ちこわし騒動」 

3  入会地をめぐる紛争「茅場争い」 

4  黒船艦隊が下田から持ち帰った植物 

5  黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物 

6  ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」 

7  ワシントン記念塔の「伊豆石」 

8  ペリー艦隊来航記念碑と日米友好の灯 

9  ペリー提督来航記念碑、函館の「ペリー提督像」を訪ねる 

10  ハリスと牛乳のはなし「開国の舞台、玉泉寺」 

11  ハリス江戸出府の道程、「ヒュースケン日本日記」から 

12  村山滝蔵と西山助蔵、ハリスに仕えた二少年 

13  タウンゼンド・ハリス、教育と外交にかけた生涯 

14  日露交渉の真っ最中、下田を襲った「安政の大津波」 

15  プチャーチン、日本を愛したロシア人がいた 

16  橘 耕斎、幕末の伊豆戸田港からロシアに密出国した男 

17  「宝島」の作者ステイーヴンソンと「吉田松陰伝」   

第2章 伊豆下田の歴史人  

1  「伊豆の長八」と呼ばれた男 

2  新選組隊士となった加納通広(鷲尾) 

3  中根東里、伊豆下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家

4  中根東里と伊豆人気質 

5  石井縄斎(中村縄斎)、伊豆下田生まれの儒者 

6  篠田雲鳳、開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 

7  下岡蓮杖、写真術の開祖 

8  写真師鈴木真一と晩成社出立時の記念写真 

9  横浜馬車道にある写真師下岡蓮杖顕彰碑 

10  依田勉三、奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか? 

11  三余塾、奥伊豆生まれの碩学、土屋宗三郎(三余) 

12  渡瀬寅次郎、依田勉三の十勝入植に異を唱えた同郷の官吏 

13  井上壽著、加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う 

14  晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 

15  晩成社の山本金蔵と松平毅太郎、札幌農学校農芸伝習科に学ぶ 

16  依田勉三翁之像(帯広市中島公園) 

17  依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」 

18  晩成社、鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植 

19  新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか

20  韮山反射炉再訪 

21  韮山代官、江川太郎左衛門英龍(坦庵) 

22  今村伝四郎藤原正長、「愛の正長」と校歌に謳われる 

23  下田市名誉市民、中村岳陵と大久保婦久子 

24 下田生まれの性格女優、浦辺粂子 

付表1 伊豆下田歴史年表/付表2 黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本/付表3 黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物標本/付表4 伊豆下田歴史年表(開国の時代)/付表5 ハリス江戸出府の道程/付表6 ハリスに仕えた二少年/付表7 プチャーチン関連年表/付表8 下岡蓮杖関連年表/付表9 鈴木真一関連年表/付表10韮山反射炉年表/付表11江川太郎左衛門年表/付表12中村岳陵年譜/付表13大久保婦久子年譜/付表14浦辺粂子年譜

あとがき 

 

「伊豆下田、里山を歩く」目次

はじめに

目 次

第1章 里山を歩く 

1 カワヅザクラ(河津桜)を育てた人々 

2 南伊豆の「早咲きサクラ」を知っていますか? 

3 熱海のハカランダ 

4 コシヒカリ、ゆめぴりか、起源を辿れば南伊豆 

5 上原近代美術館、伊豆の田舎の陽だまり美術館 

6 須原小学校、昭和二十七年度卒業生が六十年ぶりに通学路を歩く 

7 坂戸から谷津へ、河津三郎の里を歩く 

8 坂戸「子之神社」でパワーは得られるか? 

9 屋号、奥伊豆では今も使われる 

10 須原小学校(下田市)、「長松舎」から始まる九十九年の歴史 

11 古松山「三玄寺」、開創は竜王祖泉禅師 

12 竹一筋に、奥伊豆の友 

13 西伊豆の小さな漁村戸田港と「造船郷土資料博物館」 

14 下田富士と民話伝説 

15 寝姿山と武山 

16 下田の城(深根城と下田城) 

17 稲梓郷稲梓里、伊豆下田の地名考 

18 伊豆の土屋郷(須原村)と土屋氏 

19 夏のウグイス、裏山のイノシシ一家 

20 サルが渋柿をかじり、シカが遊ぶやわが家の庭に 

21 北海道で咲いた伊豆の花(マンリョウとシャガ) 

22 やはり野に置け蓮華草、冬の水田を利用した花畑 

23 彼岸花(曼殊沙華)咲く 

第2章 記憶の断章

1一枚の写真  

2 囲炉裏端は「学び」の場 

3 異邦人のような来訪者たち 

4 百姓の時代 

5 イラクサ、カラムシを食い尽くした毛虫 

6 山で摘んだ珠玉の味が忘れられない 

7 メジロと「鳥もち」 

8 ヤブツバキと椿油  

9 竹、今昔物語 

10 稲梓中学校昭和三十年度卒業生 

11 下田北高第十一回生 

12 下田北高の校訓を思い出す 

13 寂空常然の生涯 

14 禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」 

15 四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券 

16 伯父「朝義」のこと 

17 啓山石堂が生きた時代 

18牛飼い 

19 祝日と国旗掲揚 

20 石堂が植えた「ヒイラギ」と「イヌマキ」 

資料1農業の時代/付表1須原小学校九十九年の沿革/付表2古松山三玄寺/付表3村落の形成と変遷(稲梓郷稲梓里)/資料2寂空常然の系図/資料3 明治・大正・昭和時代の記録簿等/

あとがき 

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私の「本づくり」第7話 :「幼少期の記憶」を編集出版する

2021-12-08 09:26:56 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第7話

「幼少期の記憶」を編集出版する(恵庭市長寿大学大学院第17回生幼少期を語る会2020)

2020年(令和2)3月、一冊の冊子が発刊された。恵庭市長寿大学大学院第十七回生幼少期を語る会編「幼少期の記憶」(A5版、74p)である。発行に至る経緯は本誌「はしがき」「編集後記」に紹介されているのでご覧頂きたい。

筆者は学年幹事だったことから、本誌の企画、編集、印刷、製本作業に携わった。編集及び印刷は自宅のパソコンとプリンターで行い、製本はホームセンターで万力・糸鋸・ボンドなどを調達して無線とじ製本に挑戦した。新型コロナの影響で修了式が中止になり、修了証書は郵送されることになった年である。外出自粛を余暇なくされたが、おかげで製本作業を行う時間が十分とれた。出来上がった冊子を教育委員会へ持参、担当者のご好意で裁断機でのトリミングを行った。冊子は修了証書と一緒に学年の仲間に届けられた。良い記念になった事だろう。

冊子は恵庭市教育委員会及び恵庭市立図書館でご覧頂ける。

◇「幼少期の記憶」はじめに

私たちは歴史から多くを学ぶことが出来る。戦争体験からは今後二度と戦争を起こしてはならぬと思い、どうしたら戦争を回避できるかを考える。地震や水害の被災体験からは堤防を築き安全な場所に住むことを考える。私たちは、歴史の教訓を現在の暮らしに生かし、未来設計に役立てているのだ。

ところで、歴史とは何だろう? 歴史は、古文書や公文書、映像、遺跡などに残された記録を掘り起こし、それらを検証し、集大成したものと言えるのではあるまいか。この時の資料は国立国会図書館に集積されるような公の記録に限定されるものではなく、市井の人々の暮らしの記録も価値ある資料となり得る。従って、私たちが次世代に語り継ぐこと、記録に残すことは極めて重要と思われるが、記録を残すことに対して私たちはかなり無頓着である。

この冊子は、恵庭市長寿大学大学院第十七回生の仲間が「幼少期を語る」と題して、子供の頃の記憶を辿りその一端を取りまとめたものである。著者の年齢は69歳から83歳なので、幼少期と言えば第二次世界大戦終盤から戦後の復興期にあたる。今の若い皆さんには、知らないこと理解できない場面が多々あろうが、これも真実、歴史の一コマなのだ。この冊子をお読みになった皆さんが、「こんな時代があったのか」と些少なりとも何かを感じ取って頂ければ有難い。

戦後、個人の権利と自由を尊重する個人主義が過剰なまでに浸透した結果、核家族化が進み、三世代同居の家は少なくなった。当然のことながら、爺婆が孫たちに昔の体験を語る機会も少なくなった。今の若い皆さんは、戦争の悲惨さや戦後の貧しさを教科書で習う歴史の一事象としか認識していないだろう。いつの日か、この冊子を読んだ孫たちが戦争戦後の暮らしを知り、「爺婆は無人島でも生きる残る知恵がある」と思い、「豊かさとは何か? 幸せとは何か?」を考えるに違いない。本誌には、そんな思いと期待を込めた。

高齢者にとって、昔を思い出すこと、文章化すること、編纂することはかなり大変な作業であった。五木寛之は「若者に対する年配者のアドバンテージは圧倒的な記憶の集積にある。高齢者は積極的に昔話をしたほうがいい」と述べているが、私たちもその言葉を信じ、思い出すこと書くことは「脳の活性化に役立つだろう」と作業に集中した。そして、本日ここに本冊子を上梓できたことは喜ばしい。

巻末には、私たちが生きた時代背景を理解頂くために、年表「私たちの生きた時代とその背景(昭和~令和)」を添付した。内容に誤りがあるかも知れない。ご叱正、ご指摘を賜れば幸いである。

◇「幼少期の記憶」目次

(1)はじめに

(2)幼少期の記憶(大﨑能永)

(3)思い出すこと(本林尚之)

(4)幼少期の想い出(宮﨑健一)

(5)私の幼少期(菊田曠)

(6)私の幼い日思い出(竹山惠美子)

(7)幼少期の記憶(コスモスの花

(8)私の幼少期(小山田やす子)

(9)今は亡き母と五歳の引き揚げ記(佐々木満里子)

(10)幼少期の食の思い出(千目留利子)

(11)子供の頃の思い出(牧田妙子)

(12)幼少期の思い出(水正幸江)

(13)幼少期、記憶の断章(土屋武彦)

(14)編集後記

(15)付表、私たちが生きた時代と背景(昭和~令和)

(16)表紙画「サイロの見える風景」(坂田眞利子)/本文写真・イラスト(土屋武彦)  

◇「幼少期の記憶」編集後記

平成30年4月に恵庭市長寿大学大学院に進学した私たちは、これまでの4年間とは違う、より深化した学習の場を模索していた。自主学習として取り組む案件を探していた。そんな折、懇親会の場で「子供たちはゲームに夢中、外で遊ばなくなった」「昔は暗くなるまで、友達と遊んでいたね」「家の手伝いがあたり前だった」「今の子供たちは、戦争の悲惨さも戦後の苦労も知らないだろう」等々の会話が広がった。

この会話には、スマホの深みにはまった孫たちを「ちょっと困ったものだ」と思いやる心と、今の世の便利さは確かに嬉しいことだが一方で、「異常気象」「環境汚染」「格差拡大」「排他主義」など何処かがおかしいと思い、隠蔽と傲慢な振舞いは歴史の中の「いつか来た道」に通じるのではないか、と時勢を憂える心が透けて見える。急激な経済成長や文明進化の過程で何かが変わり、何かを忘れてしまったのではないか、こんな時世だからこそ昔の体験を語り継ぐ意味があるのではないかと、私たちは考えた。

折しも、平成30年9月6日午前3時7分、北海道胆振東部地震発生、そして北海道全域停電。いわゆるブラックアウトは電気に依存した文明社会の欠陥を思い知らされる出来事であった。大勢の人々が食糧や電池を求めて走り廻る中で、怪我はなかったかと周りを気遣い、比較的落ち着いていたのは戦後を生きた高齢者であったように思う。この災害をきっかけに、昔を振り返り、語り、記録に残そうと言う機運が高まった。

〇 おしゃべり会の案内(院一学年通信第12号、平成30年12月5日)

〇 第1回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年1月30日)

〇 第2回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年4月24日)

〇 発刊協議(院二学年通信第7号、学年別自主学習、令和元年9月4日)

おしゃべり会には延べ69名の方が参加、十数名の方から貴重なお話を伺い、「そうだったね、私もこんな経験がある」と話が展開、有意義な時を過ごした。戦時・戦後の体験談からは二度と過ちを繰り返してはならないとの思いを強くした。そして、多くの方が「生きてきて良かった、今は幸せだ」と話を結んだ。冊子発刊協議で、「趣旨は理解できるが、語りたくない人もいる」「誰が読むのか」などの意見が出されたため、原稿提出は任意とし、有志(幼少期を語る会)として取りまとめることにした。

当初、各自の原稿は800~1,600字程度を想定したが、著者の熱い思いを汲み原文尊重、最終的には長短混載とした。「幼少期」の捉え方は各自多様であるが、貴重な体験、個性豊かな作品に出会えたことは幸いである。また、執筆を予定しながら期限の関係で寄稿できなかった方もいらっしゃるが、大学院修了前の発刊にこだわり取りまとめたのでご容赦を。これに懲りず、幼少期の記憶を語り続けていただけたら有難い。

本誌は、編集から印刷、製本まで手作りの簡易製本誌である。この拙い冊子に関心を持ち、ご一読頂いた皆様には心から感謝を申し上げる。

最後に、本冊子発刊に際し、議論に参加しご協力頂いた親愛なる学友の皆さん、長寿大学という学びの場を提供頂きご指導賜った大学事務局に対し、深甚の謝意を表します。有難うございました。 

令和2年3月15日 恵庭市長寿大学大学院第十七回生「幼少期を語る会」

◇後日談

本誌掲載の「今は亡き母と五歳の引き揚げ記」(佐々木満里子)が道新で取り上げられ、恵庭市民文芸47号に再掲された。

  

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私の「本づくり」第6話 :「恵庭の記念碑」「恵庭の彫像」「恵庭の神社・仏閣・教会堂」を自費出版する

2021-12-07 09:37:23 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第6話

私の恵庭散歩シリーズを自費出版する(2017)

七十代には恵庭市長寿大学で学びながら市内の記念碑や彫像を調べ歩き、3年かけて私の恵庭散歩シリーズ「恵庭の彫像」(A5版68p)、「恵庭の記念碑」(A5版80p)、「恵庭の神社仏閣教会堂」(A5版90p)を自費出版した。写真と手書きの地図を載せ、平易な文章で解説を加えた。散歩途中に立ち止まり巷の文化財に触れて欲しいと願いを込めた。「郷土の歴史文化を知ることが故郷を愛することに繋がる」との言葉を添えて、教育委員会や学校図書館へも寄贈した。恵庭市にはこの種の資料や冊子が無かったので、「こんな冊子が欲しかった」と恵庭市観光協会が道の駅で販売してくれた。

この出版にはおまけがあって、恵庭・千歳市全戸配布の情報誌「ちゃんと」にコラム「恵庭散歩」を掲載する羽目になり、1年間寄稿を続けた。

こんな出来事もあった。或る小学校の前庭に腕が折れかかった彫像があるのを見つけ、著名な彫刻家(坂 担道)の初期作品であると指摘し、著名な作家の作品が恵庭の地で朽ちるのは忍びない。このままでは、恵庭市民は文化遺産を守ることに冷淡だと言われかねない。子供たちに「芸術作品も自然界においては朽ち果てるものです」と教えるのか、「ものを大切にしましょう」と語り掛けるのか、子供たちは毎日壊れかけた此の像を見ていると書いた。このことが修復計画を後押ししたのか、翌年には同校PTAが費用を捻出し、彫刻家原田ミドーの協力を得て彫像は修復された。台座には全校児童336人がタイルを張り付け修復を祝ったと言う。言い過ぎたかと自省していたが、嬉しい結末だった。

(新聞記事は、ちゃんと2017.6.9、千歳民報2017.7.14)

本誌の内容をご理解いただくために、各号の「目次」と恵庭の彫像の「序文」「あとがき」を引用する。

 

◇私の恵庭散歩(1)「恵庭の彫像」目次

はじめに

(1)恵庭大橋に立つ「季節の乙女像」:鈴木吾郎「こぶし」「もみじ」/本間武男「夏の日」「雪の朝」

(2)恵庭市立図書館にある鈴木吾郎の四作品:「ふえ」「YUKA17」「YUKA」「女・風髪」

(3)恵庭市立図書館にある山名常人と中村矢一の作品:山名常人「進取の像」/中村矢一「望」「はるかぜ」

(4)恵庭開拓記念公園にある竹中敏洋「拓望」の像:竹中敏洋「拓望」/二口大然「二宮尊徳幼時の像」

(5)ユカンボシ川河畔公園彫刻広場の作品:佐藤忠良「えぞ鹿」/渡辺行夫「ドン・コロ」/植松圭二「樹とともに-赤いかたち」/山本正道「時をみつめて」/丸山隆「Cube」/山谷圭司「にぎやかな遡行」

(6)庭市総合体育館の壁画彫刻竹中敏洋「躍動と天然の美」と鈴木吾郎「こぶし」「もみじ」

(7)恵庭駅前の少女像、山本正道「すずらんに寄せて」

(8)恵庭市民会館前庭の「平和の像」:作者不詳「平和の像」

(9)茂漁川のレリーフ「鮭の一生」:作者不詳「鮭の一生」

(10)めぐみの森公園にある本田明二の「道標-けものを背負う男」

(11)大安寺山門に立つ「金剛力士像」:作者不詳「金剛力士像」

(12)恵庭市民会館にある杉村孝の「双体童(わらべ)像YÛKÔ」

(13)坂 坦道の初期作品、島松小学校「よい子・つよい子像」

(14)路傍に祀られるお地蔵さん「地蔵菩薩」:鈴木家の地蔵(島松沢)/山神(島松沢)/六地蔵(上山口)/八十八か所地蔵(弘隆寺)/六地蔵(大安寺)/六地蔵(龍仙寺)/交通安全地蔵(島松沢)/交通安全守護地蔵尊:(和光)/交通安全の碑(上山口)

あとがき

 

◇私の恵庭散歩(2)「恵庭の記念碑」目次

はじめに

(1)先人の偉業をたたえる「開拓の碑」:山口県人恵庭開拓記念碑/富山県人開拓之碑/惠南開拓之碑/恵庭開拓記念碑「拓望」/康和魂

(2)開拓を支えた治水事業「共同用水記念碑」:漁共同用水記念碑/紀念柏木用水之碑/盤尻用水記念碑/紀念碑島松共同用水/拓土農魂之碑

(3)先人の偉業を讃える「表徳碑」:林清太郎表徳碑/天野先生之碑/記念實勇

(4)開拓を支えた家畜を供養する「馬頭観音」「獣魂碑」:馬頭観世音菩薩(島松沢)/馬頭観世音菩薩(恵庭墓苑)/馬頭観世音菩薩(下島松)/馬頭観世音(惠南)/獣魂碑(盤尻)/馬頭観世音菩薩(弘隆寺)/牛頭大王(惠南)/獣魂碑(西島松)/家畜慰霊供養塔(西島松)/乳牛感謝の碑(恵庭公園)/鳥獣供養の碑(市営牧場)

(5)日清・日露戦争の戦没者を祀る「忠魂碑」:忠魂碑(島松神社)/皇軍戦没者招魂供養之碑(大安寺)/忠魂碑(中恵庭公園)

(6)恵庭村「道路元標」と「漁村戸長役場跡の碑」:恵庭道路元標/漁村外一か村戸長役場跡の碑

(7)消えた「里程標」、古地図にみる「六里標」「七里標」「八里標」:六里標(島松沢)/七里標(柏陽)/八里標(惠南)

(8)行幸記念の碑:漁村帷宮碑/御前水跡/聖蹟記念碑(前方記念碑)/聖蹟記念碑(後方記念碑)

(9)恵庭ライオンズクラブの記念碑「憩の庭」:憩の庭(恵庭公園)

(10)新しく歴史を刻む「拓望」「飛翔」の碑:恵庭工業団地「拓望」/恵庭テクノパーク「飛翔」

(11)開校記念の碑:開校百年の碑(恵庭小)/拓学の碑(恵庭北高)/校舎建立跡地の碑(島松小)

開校百年記念モニュメント「希望」(島松小)

(12)廃校の跡地に立つ「松園校跡地記念碑」:松薗校跡地記念碑/松鶴小学校跡地/盤尻小中学校跡地

(13)恵庭神社「遥拝所跡」とイザリブト番屋・船着場:恵庭神社遥拝所跡の碑/イザリブト番屋と船着き場

(14)恵庭「稲作事始め」、中山久蔵より前に稲作を試みた高知藩:寒地稲作この地に始まる(中山久蔵)記念碑と恵庭

(15) 恵庭「北の零年」、開拓の先駆け「高知藩」:建立されなかった高知藩開拓の碑

あとがき

 

◇私の恵庭散歩(3)「恵庭の神社・仏閣・教会堂」 目次

はじめに

1 神社の章

(1)大国魂大神と豊宇気姫神を祀る「豊栄神社」

(2)加越能開耕社ら移住者が創祀した「恵庭神社」

(3)島松住民と共にある「島松神社」

(4)柏木・北柏木・柏陽地区が祀る「柏木神社」 

(5)恵庭開拓期以前の神社「弁天社」「稲荷神社」 

2 寺院の章

(1)恵庭の古刹「千歳山天融寺」(真宗大谷派) 

(2)恵庭の古刹、禅宗の寺「天瑞山大安寺」(曹洞宗) 

(3)弘誓を山号とする「弘誓山本誓寺」( 浄土真宗本願寺派)

(4)漁村のお西さん「敬念寺」(浄土真宗本願寺派)

(5)六線のお寺「恵庭山島松寺」(真言大谷派)

(6)金毘羅大権現を祀る寺「金毘羅山弘隆寺」(高野山真言宗派)

(7)日蓮宗の寺「龍王山妙正寺」(日蓮宗)

(8)紫雲台孝子堂宝物館で知られる「紫雲山宝林寺」

(9)開拓時代に役割を果たした「日勝寺」(法華宗真門流)跡

(10)どうなる? 平成の「お寺さん」

3 教会堂の章

(1)恵庭で最初に活動を始めた「日本キリスト教団島松伝道所」

(2)ローマ教皇を頂点に「カトリック恵庭教会」

(3)恵庭にあるプロテスタント系教会:恵庭福音キリスト教会/日本福音ルーテル恵み野教会/インマヌエル恵庭キリスト教会/めぐみ聖書バプテスト教会

(4)その他のキリスト教会:末日聖徒イエス・キリスト教会千歳恵庭支部/エホバの証人の王国会館

あとがき

 

◇「恵庭の彫像」はじめに

・・・ある日、自分が住んでいる街をよく知らないことに気づいた。この地に居を構えてから四半世紀が経過したにも関わらず、である。

仕事の関係で十勝・上川・道南に住み、果ては南米アルゼンチン、パラグアイに暮らすなど、長い間この家を留守にしていたことが原因かも知れない。札幌や長沼に通勤していた頃も、早朝に家を出て夕方遅く帰宅する日常だったので、この街を鑑みる余裕がなかったのだ。

ある日、この街を知ろうと思った。仕事から解放されたのを機会に恵庭散歩を始めると、これが結構面白い。「花のまち」を標榜するだけあって、ガーデニングに対する市民の取り組みは熱心だし、図書館、郷土資料館、総合体育館など高度成長期に整備した施設も立派なものだ。市民憩いの公園も整備されている。農業や商業など諸産業も頑張っている。だが待てよ、何かが物足りない・・・ふと、思った。

ある日、この街の歴史を知ろうと散歩に出た。開拓の歴史を刻む記念碑、神社仏閣を訪ねた。芸術の証しはないかと彫像を探し求めた。歴史については恵庭市史や恵庭昭和史研究会の既刊資料が、記念碑については郷土資料館ホームページが参考になったが、十分とは言い難い。彫像については一覧表さえないことを知った。文化が脆弱なのだ。

 時代は超高齢社会、いわば成熟社会だ。多くの方々が健康のために歩いている。散歩の途中に、彫像の芸術性に触れ、記念碑や神社仏閣に歴史を偲ぶことが出来れば、散歩は一層楽しくなるに違いないと思った。 

 ある日、私の体験を「恵庭散歩」シリーズとして取りまとめようと考えた。本書を手にした恵庭の子供らや若者が、故郷を知り誇りに思うことが出来れば、これに勝る喜びはない。この街を訪れた人々が、恵庭の魅力探訪の道標として本書を手に取って頂ければ幸いである。

本書は「恵庭散歩」の第一巻、題して「恵庭の彫像」である。市内の野外彫刻を中心に取りまとめた。街角の彫刻は行き交う人の心を和ませる。手を触れた子供らの情緒を育む。例えば、恵み野駅前から「やすらぎストリート」「花さんぽ通り」へと彫像が置かれたら、なんと素晴らしいことだろう。

本書の発刊は、恵庭在住一市民の遊び心から始めたものだが、故郷を愛する気持ちだけは失うまいとの思いを込めている。・・・

◇「恵庭の彫像」あとがき

・・・恵庭市内にどんな野外彫刻があるのだろう? と彫像を探訪する私の恵庭散歩は、これまでに足掛け3年を要した。まだまだ気づかない作品はあるだろうが、ひとまずここに取りまとめることにした。

恵庭市は「花のまち」を標榜するだけに、四季の草花が彩を添えてはいるが、率直に言って街の風情は奥行きが無い。歴史が浅く、新興住宅地が多い恵庭の宿命と言えなくもないが、もう少し芸術作品に触れる環境を醸成し、潤いのある「まちづくり」を念頭に置くべきだろう。

花ロードに彫像があり、街灯や店の看板にセンスが感じられ、ウインドウに作品が飾られる。花と緑に芸術が調和した街、誰もが誇りに思える恵庭でありたい。・・・

 

◇追録

本書に記載出来なかった記念碑情報は拙ブログ「豆の育種のマメな話」に追録したのでご覧頂きたい。例えば、「中野五一作二宮金治郎像が郷土資料館にあった」「恵庭島松小学校、よい子・つよい子像修復」「いくみ会館前庭の記念碑“育み野”」「市役所前の恵庭市民憲章碑」「市役所前庭の恵庭・テイマル姉妹都市締結10周年記念碑」「恵庭に建立された松浦武四郎歌碑」「茂漁川河川緑地のモニュメント翠光(すいこう)」「恵庭と松浦武四郎」「島松試験地、ばれいしょ農林1号、キタアカリの故郷」「恵庭の森林鉄道」「島松川上小学校の門柱は何処へ行った? 廃校跡を訪ねる」「北島松小学校の門柱、廃校跡を訪ねる」「鶴岡学園創立者、鶴岡新太郎、鶴岡トシの胸像」「タイムカプセルを埋めた記念碑“自愛”」などである。いつの日か追録した第二版を世に出したいものだ。

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私の「本づくり」第5話 :「北農」編集発行人となる

2021-12-06 09:37:37 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第5話

「北農」編集発行人となる(公益財団法人北農会2008-2012)

パラグアイから帰国後、公益財団法人北農会で働くことになった(2008年6月~2012年5月、常務理事)。ここでは農業技術誌「北農」の編集発行人として、企画、原稿募集、編集、校正、印刷、発送、会員・広告募集までの一連の業務(本づくり)を担った。

ところで、「北農」とはどんな雑誌なのか? 

◇「北農会」と「北農」の誕生

明治政府は、1869年(明2)北海道に開拓使を置き北海道開拓の第一用務は農業開発であるとした。開拓移住、欧米からの農業技術導入を進めるとともに、本道の気象条件に対応できる農業を確立するためには技術開発が大事であるとの認識で、亀田郡七飯村、上川郡旭川町、札幌郡白石村、十勝国帯広市に順次農事試験場を設け試験研究を推進した。

明治三十年代に入り農事試験場は「報告」「彙報」「時報」の出版物を発行することになった。「報告」は試験成績の学術的発表、「彙報」は試験結果を総合して記述した指導上の指針、「時報」は指導上特に必要と認められる事項の試験結果を平易に記述して農業者に情報提供することを目的にした。

農事試験場では、「試験成績を一番先に届けたいのは農家の圃場である」との意図で、不定期発行の「時報」を市町村役場や農会などにまとめて送り、訪ねてくる農家に持って帰ってもらうようにしていた。しかし、それも心もとなく、有効な配布方法はないかと議論していた折、「成績をまとめた資料は不定期でなく、月刊として速報し、実費で買ってもらう。そうすれば目を通すだろうし、大切にするに違いない」との提案があり、「北農」として発行することになった。

「北農」第1巻第1号は、1934年(昭9)1月1日付けで発行された。戦後まもない1950年(昭25)北海道農事試験場は国立と道立に分離されたが、「北農」は両場の成績を登載して普及に務め、北海道農業の発展に寄与してきた。当初は月刊であったが、現在は年4回発行し、2021年(令3)現在で通巻780号になる。

(安孫子孝次氏と「北農」第1巻第1号)

◇担当した「北農」巻号

編集発行人として関わったのは75巻3号(通巻726号)~79巻3号(通巻742号)の4年間である。農業試験場の研究情報がウエブ情報を含め多様な形で発信される中、本誌の位置づけは難しかったが、研究者自身が正確なデータに基づき執筆した責任ある情報としての価値を第一義とし、北海道農業が進むべき方向性を示す羅針盤のような位置づけになればと考えていた。併せて、読者対応を研究者、農業技術者、生産者だけでなく、実需や消費者との関りが生まれるような試みも模索した。

全国でも珍しい、北海道地域の農業技術誌。地味ではあるが、伝統の重みを感じる冊子である。本誌の編集に携わったことは良い体験だった。

◇「北農」の歴代発行人・編集人

「北農」は、1934年(昭9)創刊時には北海道農事試験場北農会が発行していたが、その後社団法人北農会、財団法人北農会、公益財団法人北農会と体制を変えて現在に至っている。事務所の場所も北海道農事試験場内から、北海道自治会館内、住友海上札幌ビル内、カミヤマビル内、ピア2・1ビルへと移転した。

歴代の「北農」編集発行人の名前を一覧表に示した。

◇「北農」への寄稿

*斎藤正隆・三分一敬・佐々木紘一・酒井真次・土屋武彦(1969):大豆優良品種「キタムスメ」について、北農 36(7)p1-13

*土屋武彦・三分一敬(1970):大豆品種の耐冷安定性の解析(2)大豆主要形質の気象要因に対する反応、北農 37(12)p37-40

*楠 隆・佐々木紘一・酒井真次・土屋武彦(1971):ドイツ連邦共和国における種子植物育種の発展その史的概説野菜類の品種改良と種子増殖および流通[翻訳]、北農 38(12)p40-51

*砂田喜與志・三分一敬・奈良隆・高橋健治・酒井真次・土屋武彦・紙谷元一(1986):大豆育種年限短縮用温室について(1)温室の改築と主要施設、北農 53(6)p1-9

*酒井真次・土屋武彦・砂田喜與志・伊藤武・紙谷元一(1986):大豆育種年限短縮用温室について(2)改築温室における大豆の生育、北農 53(7)p1-7

*伊藤武・佐々木紘一・土屋武彦・紙谷元一・砂田喜與志(1987):畑作物耐冷性検定のための細霧冷房装置について(2)大豆の生育・収量に及ぼす細霧冷房装置の特徴、北農 54(5)p46-53

*土屋武彦・白井和栄・湯本節三・田中義則・冨田謙一(1991):だいず新品種「カリユタカ」、北農 58(4)p74

*川岸康司・土屋武彦・土屋俊雄(1992):夏どりレタスの栽培技術 第1報 品種群による生育特性の差異、北農 59(2)p40-46

*川岸康司・土屋武彦・土屋俊雄(1992):夏どりレタスの栽培技術 第2報 生育・収量に及ぼすペーパーポットの大きさと育苗日数の影響、北農 59(4)p67-71

*湯本節三・土屋武彦・白井和栄・田中義則・冨田謙一(1992):だいず新品種「大袖の舞」、北農 59(4)p86

*土屋武彦(1993):平成4年度主要農作物作況[分担執筆]、北農 60(1)p73-103

*土屋武彦(1993):畑作農業研究21世紀への展望、北農60(4)p4-422

*土屋武彦(1994):平成5年度主要農作物作況 [分担執筆]、北農 61(1)p77-107

*土屋武彦(1995):平成6年度主要農作物作況 [分担執筆]、北農 62(1)p62-92

*土屋武彦(1996):大豆生産と品質北農会第4回フオーラム、北農 63(2)p12-35

*土屋武彦(1997):巻頭言「農業の時代」、北農 64(1)p1

*土屋武彦(1999):北国で花開いた南国大豆の難裂莢性遺伝子コンバイン収穫向き品種誕生までの30年、北農 66(3)p95-97

*黒崎英樹・湯本節三・松川勲・土屋武彦・冨田謙一・白井和栄・田中義則・山崎敬之・鈴木千賀・角田政仁(2002):早熟・複合抵抗性のコンバイン収穫向きだいず新品種「ユキホマレ」、北農 69(1)p30-41

*土屋武彦(2005):パラグアイの農業最近の話題、北農 72(1)p101-106

*土屋武彦(2006):パラグアイ事情、北農 73(3)p277-280

*土屋武彦(2008):編集後記、北農75(3)p268、75(4)p265

*土屋武彦(2008):菊地晃二著「段丘土壌と農業」十勝平野をどう生かすか、北農75(4)p92

*八戸三千男・三分一敬・土屋武彦(2008):身近になった農業試験場、北農75(4)p351-357

*土屋武彦(2009):編集後記、北農76(1)p133、76(2)p270、76(3)p414、76(4)p524

*土屋武彦(2010):編集後記、北農77(1)p129、77(2)p242、77(3)p350、77(4)p462

*土屋武彦(2010):喜多村啓介ほか編集「大豆のすべて」、北農77(2)p232

*土屋武彦(2010):田辺安一著「ブナの林が語り伝えること」プロシア人R・ガルトネル七重村開墾顛末記、北農77(4)p452

*土屋武彦(2011):編集後記、北農78(1)p131、78(2)p244、78(3)p365、78(4)p485

*土屋武彦(2012):編集後記、北農79(1)p135、79(2)p256、79(3)p386

*土屋武彦(2014):「北農」は捨てがたい存在ツールとして使おう、北農81(3)p214-215

なお、「北農」は1934年(昭9)の創刊号から数えて88年、2021年(令3)現在88巻780号となる。既刊号の総目次、全記事DVDは公益財団法人北農会HPで閲覧出来る。

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私の「本づくり」第4話 :「専門家技術情報」を発刊する(パラグアイ)

2021-12-05 10:51:06 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第4話

「専門家技術情報」を発刊する(パラグアイ2000-2008)

独立行政法人国際協力機構(JICA)の専門家としてパラグアイ共和国で働く機会があった。一回目は「パラグアイ大豆生産技術研究計画プロジェクト」で2000年(平12)5月から2年6か月間、二回目は同プロジェクトのフォローアップ(F/U)で2003年(平15)2月から6か月間、三回目は「ダイズシスト線虫及び大豆さび病抵抗性品種育成プロジェクト」で2006年(平18)2月から2年1か月間、トータル5年余りの期間である。一回目は異なる領域の専門家5名で構成されていたが、二回目と三回目は筆者(専門家)一人の体制だった。

パラグアイ共和国への技術協力(農業)は、1980年(昭 55)に「南部パラグアイ農林業開発計画プロジェクト」として開始、1990 年(平 2)「パラグアイ主要穀物生産強化計画プロジェクト」、1997年(平 9)「パラグアイ大豆生産技術研究計画プロジェクト」へと継続され、同国の農業生産に大きなインパクトを与えていた。大豆生産は飛躍的に増大し、輸出産物としての大豆は同国経済を支えるほどに成長していた。

育種分野で言えば、品種改良の実質的手順は独り立ちして何とか進めることが出来る状態になっていたが、経済的問題もあり育種の事業体制は不十分であった。また、新品種を登録して普及に移す手法が未経験であること、新たにパラグアイで発生が確認されたダイズシストセンチュウ及び大豆さび病に対する知識がなく対応技術が未熟であることから、2006年(平18)「ダイズシスト線虫及び大豆さび病抵抗性品種育成プロジェクト」を立ち上げ実施することになった。 

専門家は関係機関と調整を図りながら、検定方法、交配、系統選抜、抵抗性評価などの技術指導を進め、カウンターパート(C/P)と一緒になって圃場に立つことを優先した。同時に観察を大事にし、記録に残すことの意義を説いた。

プロジェクトの推進については「プロジェクト進捗状況報告書Informe de las Actividades del Proyecto」「専門家業務完了報告書Informe final del Experto.」「プロジェクト事業完了報告書Informe Final del Proyecto.」などで報告しているが、その他に下記のような印刷物を「専門家技術情報」「テキスト」として作成し、プロジェクトの理解を得ることに努めた。また、余談ながら、同国では大豆は油脂作物と位置づけられるが、栄養価に富む健康食品としても活用すべきだと示唆した。スペイン語訳版はCRIAのC/Pたち並びにMazae Satoさんに負うところが多い。公表した印刷物は下記のとおり。

これら資料は、パラグアイ農業技術院カピタンミランダ研究センター(旧農牧省地域農業研究センターCRIA)、JICAパラグアイ事務所、JICA図書館(東京)で閲覧できる。

◇専門家技術情報など印刷物

*土屋武彦(2002)「パラグアイ国における植物品種の保護制度と新品種の登録」技術情報第1号、JICA大豆生産技術研究計画6p 

*土屋武彦(2002)「大豆新品種の解説、CRIA-2(Don Rufo)及びCRIA-2(Pua-e)」技術情報第2号、JICA大豆生産技術研究計画8p

*丹羽勝、土屋武彦、豊田政一、塩崎尚郎、大杉恭男(2002)「ブラジル・アルゼンチン大豆研究見聞記」技術情報第4号、JICA大豆生産技術研究計画19p

*丹羽勝、土屋武彦、豊田政一、塩崎尚郎、大杉恭男(2002)「パラグアイ農業の諸相」技術情報第5号、 JICA大豆生産技術研究計画33p

*Tsuchiya T.(2003)「Por qué se realize el mejoramiento de la soja en Paraguay(西語版)パラグアイで何故大豆育種を実施するのか」、JICA大豆生産技術研究計画F/U 51p

*Tsuchiya T.(2003)「Mejoramiento para la resistencia al nematode del quiste de la soja(西語版)ダイズシストセンチュウ抵抗性育種」、JICA大豆生産技術研究計画F/U 33p

*Tsuchiya T. y Mazae Sato(2003)「Manual, Proceso de elaboracion del queso de soja(西語版)豆腐製造マニュアル」、JICA大豆生産技術研究計画F/U 7p

*Tsuchiya T.(2006)「Por qué se realize el mejoramiento genético de la soja en Paraguay. Segunda edición(西語版)パラグアイで何故大豆育種を実施するのか第二版」、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画52p

*土屋武彦(2006)「大豆新品種 CRIA-4(Guaraní)とCRIA-5(Marangatú)の育成」専門家技術情報第1号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画12p

*土屋武彦(2006)「パラグアイにおける大豆連絡試験の解析」専門家技術情報第2号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 20p

*Tsuchiya T.(2007)「Mejoramiento genético sobre la resistencia al NQS en el Paraguay(西語版)パラグアイにおけるダイズシストセンチュウ抵抗性育種」、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 103p

*土屋武彦、A. Morel(2007)「パラグアイにおけるダイズシストセンチュウ汚染圃場を利用した抵抗性材料の選抜(2006/07)」専門家技術情報第3号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 21p

*Morel A.,  H. Montiel, A. Altamirano, C. Altamirano, R. Morel, 土屋武彦(2007)「パラグアイにおけるダイズ品種の播種期試験(2006/07)」専門家技術情報第4号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画14p

*Morel, A., H. Montiel, A. Altamirano, C. Altamirano, R. Morel, 土屋武彦(2007)「パラグアイにおけるダイズ品種国内連絡試験の解析(2005/06-2006/07)」専門家技術情報第5号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 42p

*Morel A., C. Chavez, E. Rodriguez, D. Bigler, M. Komeichi y T. Tsuchiya(2008)「ダイズシストセンチュウ抵抗性新品種候補、LCM 167, LCM 168」専門家技術情報第6号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 21p

*土屋武彦、A. Morel(2008)「ブラジル、アルゼンチンのシスト線虫抵抗性育種事情」専門家技術情報第7号、JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 26p

*Tsuchiya T. y A. Morel(2007)「Evaluación de Resistencia al Nematodo del Quiste de Lineas de Soja en Condiciones de Infección Natural(2006/07)(西語版)ダイズシストセンチュウ感染圃場における抵抗性検定評価」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 16p

*Morel A., H. Montiel, A. Alttamirano, C. Altamirano, R. Morel y T. Tsuchiya(2007)「Comportamiento de 13 Cultivares de Soja en 7 Épocas de Siembras 2006/7(西語版)大豆13品種7播種期試験の特性解析2006/7」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 p52-60

*Morel A., T. Tsuchiya y L. Pedrozo(2007)「Monitreamiento de Parcelas sobre el Nemátodo del Quiste (NQS), Yjhovy-Canindeyú 2007(西語版)イホヴィ地方圃場のダイズシストセンチュウモニタリング調査」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 p61-67

*Tsuchiya T.(2008)「Soja – sabrosa, nutrtiva, saludable(西語版)美味しく、栄養があり、健康な大豆食」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 64p

*Morel A., C. Chavez, E. Rodriguez, D. Bigler, M. Komeichi y T. Tsuchiya(2008)「Lineas Promisorias de Soja Resistentes al NQS “LCM 167 y LCM 168"(西語版)ダイズシストセンチュウ抵抗性有望系統LCM 167, LCM 168」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画21p(専門家技術情報第6号と合本) 

*Morel A., C. Chavez, E. Rodriguez, D. Bigler, M. Komeichi y T. Tsuchiya(2008)「Nuevas Variedades de Soja Resistentes al NQS, CRIA-6 (Yjhovy)(西語版)ダイズシストセンチュウ抵抗性新品種Yjhovy」JICAシスト線虫さび病抵抗性品種育成計画 16p

     

◇パラグアイ農業、南米大豆生産の紹介

帰国後に請われて、「パラグアイの農業事情」などを雑誌へ寄稿し講演会で話す機会も多かった。定期刊行物等に寄稿した内容を列挙する。

◇定期刊行物へ寄稿

*土屋武彦・酒井真次(1981)「アルゼンチンの大豆作と育種研究(1)」農業技術36(6)p246-249

*土屋武彦・酒井真次(1981)「アルゼンチンの大豆作と育種研究(2)」農業技術36(7)p299-302

*土屋武彦(2004)「南米パラグアイのダイズ栽培(1)日系移住者が築いたパラグアイのダイズ栽培」農業及び園芸79(1)p23-30

*土屋武彦(2004)「南米パラグアイのダイズ栽培(2)パラグアイのダイズの高生産性と栽培実態」農業及び園芸79(2)p256-262

*土屋武彦(2004)「南米パラグアイのダイズ栽培(3)日本の技術協力とパラグアイのダイズ育種」農業及び園芸79(3)p358-365

*土屋武彦(2004)「海外事情 パラグアイの大豆栽培、日系移住者が輸出品目指し本格栽培」ニューカントリー52(1)p64-65

*土屋武彦(2005)「パラグアイの農業、最近の話題」北農72(1)p101-106

*土屋武彦(2005)「パラグアイのダイズ栽培」研究ジャーナル28(5)p42-45

*土屋武彦(2006)「パラグアイ事情」北農73(3)p277-280

*土屋武彦(2008)「大豆新品種の公表とプロジェクト終了式典が開催される」JICAパラグアイ事務所だより2008年3月号

*土屋武彦(2008)「ダイズシストセンチュウ及び大豆さび病抵抗性品種の育成(フェニックスプロジェクト)を総括する」JICAパラグアイ事務所だより2008年4月号

*土屋武彦(2008)「南米大豆の生産動向とGM大豆」グリーンテクノ情報4(2)p53-58

*土屋武彦(2010)「南米における大豆生産の実態」農業1529(平成22年1月号)p53-58

*土屋武彦(2010)「南米におけるダイズ育種の現状と展望[分担執筆] 大豆のすべて」喜多村啓介編集サイエンスフォーラムp33-41

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私の「本づくり」第3話 :「豆の育種のマメな話」自費出版する

2021-12-04 13:13:34 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第3話

「豆の育種のマメな話」自費出版する(2000)

現役を退くに当たり、「豆の育種のマメな話」(B5版240p、北海道協同組合通信社2000)を自費出版して、お世話になった方々に贈呈した。この冊子では育種の裏話、心構えなど泥臭い体験を綴り、若い育種家たちへ「育種は継続、総合性、人間性」と育種心を伝えようと試みた。本書の内容をご理解頂くために、「目次構成」と「あとがき」を紹介する。

「豆の育種のマメな話」目次

序章 鎮魂の旅

*パンパ平原に君の姿は良く似合う

*未発表の「十勝鶴の子」

*鼓琴の悲しみ

第1章 育種の心

*豊満なお姫様「ヒメユタカ」

*早熟な小町「キタコマチ」

*多収を極めた「キタホマレ」

*「トヨムスメ」は如何にして選抜されたか

*リレー育種で誕生した「トヨコマチ」

*コンバインで刈れる豆「カリユタカ」

*パンダと呼ばれた黒大豆「トカチクロ」

*華麗に踊れ「大袖の舞」

*北国で花開いた南国大豆の難裂莢性遺伝子

第2章 コンバインで刈れる豆を創る

*機械屋と育種屋との会話

*難裂莢性という性質

*最下着莢位置を高める

第3章 南半球で育種する

*アルゼンチンへの大豆育種技術協力

*ガウチョの国で

*マルコスフアレスのモッシ―先生

*小さな大使たち

*総理官邸での昼食会

*育成品種第1号、その名はカルカラーニャ・インタ

第4章 遺伝資源収集マレー半島の旅

*遺伝資源探索で何をしたか

*母を訪ねて千五百里

第5章 育種は人、育種は事業

*トライする人々

*生産現場で考える

*育種家の履歴書

*艦隊は急に曲がれない

*効率化を求めているか

*育種家はロマンチスト

第6章 歴史に学ぶ

*北海道におけるダイズの歴史

資料 筆者の足跡

「豆の育種のマメな話」あとがき

・・・人生にはいくつかの節目があって、現役を退くときもその一つである。西暦2000年3月がちょうどその節目となった。

北海道の農業試験場で過ごした34年に区切りをつけ、次への一歩を踏み出すに当たり、ご支援いただいた多くの皆様への感謝を込めて、「豆の育種のマメな話」を取りまとめた。これは、いわば私自身の履歴書で公表するようなものではないが、育種家の一里塚としてご笑覧いただければ有難い。また、先輩諸氏には実名で登場願っている部分が多く、失礼が多々あろうと思うが平にご容赦願いたい。

さて、この本では育種(品種改良)をテーマにした。しかも、遺伝子レベルの話が出てこない伝統的な実践育種の話である。泥臭い話に、これが育種なのかとお笑いになる方がいらっしゃるかも知れない。だが、辛抱強く目を通して下さった読者がいたなら、「育種は人間らしさの追求である」との考えを、ご理解いただけるのではないだろうか。

20世紀に私たちは化学肥料、農薬、除草剤を開発し、機械化を飛躍的に推し進めた。しかし結果として、化学資材への過大依存と作目の単純化が進み、病害虫の多発や土壌の疲弊など農業が本来有していた「人間らしさ」を失いかねない状況になっている。私たちは今こそ、環境に優しい農業、活力ある農業経営、うるおいのある農村を目指して、人間らしく、品よく生きなければならないだろう。伝統的な育種は、これまでも「育種は持続型、育種は総合型、育種は生活型」との考えで取り組んできた。太陽エネルギーの効率的利用、病害虫抵抗性は永遠のテーマであった。これからも育種は「飢えたる民のために」を心に秘めながら「人間らしさ」を追求していくことだろう。

「育種は持続型」とは、選抜の過程でふらふらしない選抜眼の継続性、先輩から後輩への育種心の継続性、さらには育種事業の継続性を意味している。「育種は総合型」とは、単一な特性がいかに良くても品種としては落第という意味での総合性、育種グループが全体で取り組むという総合性、環境や機械など関連研究分野が一体となる総合性、さらには生産者や実需者も含める総合性を意味する。そして「育種は生活型」とは、人間を中心に考えるという意味である。

中央農業試験場を訪問した10年前の或る日のことであった。「あなたの担当した材料かあら、どうして多くの品種が生まれたのですか。選抜の勘所を教えて下さい」と、育種圃場の片隅で若い育種家から尋ねられた。この事がずっと気になっていた。1998年発行の「北海道における作物育種」(三分一敬監修、土屋武彦・佐々木宏編集)でその意図を含めようとしたが、必ずしも十分表現できたか疑わしく、この履歴書を記すきっかけとなった次第である。本書が彼の質問に明快な解答を与えたか疑わしいけれど、若い育種家諸氏への応援歌と受け止めていただければ有難い。そして、多くの皆様には、今日も又「育種は人間らしさを追求している」と認識していただけたら望外の喜びである。

なお、記述の中には独りよがりの点が多々あろうが、これもまた浅学非才の身の履歴書ということでお許し願いたい。出版に当たっては、北海道協同組合通信社社長岩船修氏に色々お世話になった。心より感謝申し上げる。

34年間のご交友に万感の感謝を込めて。

2000年3月  北海道比布の里にて 著者・・・

◇配布

400部印刷、2000年3月納品。3月は試験設計会議など会議が建て込み、さらには引っ越し、退職辞令交付など多忙を極め、関係者への冊子配布は中々進まなかった。また、4月は東京でJICA専門家海外派遣前研修、5月7日には成田出発と密なスケジュールだったので、多分百数十部を配布し終えたところで「帰国後に補充しよう」と出発する羽目になってしまった。帰国後も多忙に紛れて配布もままならず、多くの方に礼を失したのではないかと反省している。

残部の在庫は他の資料と共に断捨離対象になる運命か? と気になりだした。なお、国立国会図書館などには寄贈してある。

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私の「本づくり」第2話:機関誌「十勝野」創刊に係わる

2021-12-03 10:03:12 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第2話

機関誌「十勝野」創刊に係わる(十勝農試緑親会1969)

十勝農試(現、地方独立行政法人北海道立総合研究機構十勝農業試験場)の歴史は、北海道庁が1895年(明治28)に十勝農事試作場仮事務所を晩成社社宅内に置き試験研究をスタートしたことに始まる。以降130年余り、十勝農試は自然条件の厳しい道東十勝地方の農業発展を技術開発面で支え続けてきた。

筆者は1966年(昭41)十勝農試に就職した。勤務地は市街から5kmほど離れた場所にあり、畑が何処までも続く平野の真ん中に庁舎が建っていた。春先の砂嵐には驚いたが、防風林と遠望できる日高の山々は心を癒してくれた。職場には「緑親会」と呼ぶ親睦会があり、歓迎会・送別会、旅行会やスポーツ大会などが全員参加で楽しむ雰囲気の職場だった。親睦会幹事を毎年4名選出し、その幹事が年間の親睦行事を計画しお世話する役割を担うことになっていた。

1969年(昭44)幹事役を仰せ付かった。この年に機関誌「十勝野」が誕生することになるが、当時の様子が「十勝野」第10号に紹介されているので一部を引用する。因みに、「十勝野」はその後も発行が続き、筆者の手元に第31号まで揃っている。

 

◇「十勝野」創刊の頃

10号記念誌に寄せた文章の一部を紹介する。

・・・昭和44年、私が緑親会の幹事を仰せ付かった時、会長は山坂誠一、幹事は土屋武彦、松川勲、吉川留蔵(転勤により後に関谷長昭)でした。当時の緑親会は赤井さんが会長を2期務められた後で、緑親会行事が充実期を迎えていました。マラソン大会が企画されたのも、スケートリンクが造成されたのもこの頃でした。スケート大会、スキー大会、テニス大会、ソフトボール大会、文化祭、旅行会、忘年会など沢山の行事が実行されました。野草を食べる会が企画され、野の草花の名前を覚えたのもこの頃でした。緑親会が創設された昭和13年頃が第一期黄金時代であったとすれば、この頃に第二期黄金時代が始まったように思います。

このような土壌が「十勝野」を生み出す背景だったと思います。山坂緑親会の機関誌発刊という企画に寄せられた会員諸氏の多大な賛同が、「十勝野」を生み出す母体となりました。「十勝野」命名のいきさつについては、創刊号に書いたので省略します・・・以来、山坂会長の筆になる「十勝野」の文字が機関誌の表紙を飾るわけです。後世に残る題字を書けるのは創刊時の会長の特権です。達筆では飽きが来るので困ります。味のある字にして下さいと何回も書き直してもらいました。題字の思い出として山坂さんが何か書かれる事でしょうが、私はこの字を大変気に入っております。山坂さん、どうか鬼の編集子の言葉をお忘れ下さい。

当時、創刊号と2号は会員の数ギリギリしか印刷しませんでした。所詮十勝野は緑親会の機関紙に過ぎず、緑親会行事の記録と会員の落書き帳であればよいと考えていたからです。しかし、創刊号に緑親会史を紐解くと題して特集を組んだことから、嶋山、大島先輩のお便りを頂くことになりましたし、緑新会の発足当時を知ることも出来ました。十勝野の号が進むにつれ、十勝農試を去った諸先輩の便りも掲載され、発行部数も増加しました。十勝野の独り立ちと歩みを嬉しく思います。・・・私は今、十勝野を書棚の特等席に並べています。年に一冊一冊増えて行くのは喜ばしいことです。マラソン大会の季節が来ると今年の記録は何秒だったかと十勝野を開きます。十勝農試を去った諸先輩の文章を読めば懐かしさひとしおです。予期せぬ会員のキラリとした文章を発見して、とても嬉しくなることがあります。そんな時、十勝野の創刊に関係できたことを幸せに思います。願はくは十勝野よ、長生きしてくれたまえ・・・(「十勝野創刊の頃」十勝野10号p39-40)。

(*)十勝農試職員親睦会「緑親会」の発足は1938年(昭13)で初代庶務幹事が大島喜四郎氏、名付け親が嶋山鉀二氏であった(当時の会員13名)。発足時の会則から、親睦会がスポーツ、雑誌回覧、歓送迎会、慶弔などの事業を行い、職員厚生の役割を担っていた様子が伺える。

◇座談会「十勝野編集の思い出」(10号記念誌)から

10号発刊を記念して、創刊から10号までの編集者(村井信仁、土屋武彦、関谷長昭、長谷川進、犬塚正、成河智明、浦谷孝義、吉田俊幸、花田勉、高橋健治)による座談会が開かれている。一部を引用する。

「当時、何人か語らって文芸誌を発刊しようとの話があったのですが、長く続けるのは無理と思われ、職員の親睦の記録をとどめる機関誌にしたほうが良いとの見解で「十勝野」の創刊を企画しました。そこで、先ず機関誌の名称募集ですが、誌名は健全で革新的、しかも品位豊かであること、表紙にデザインされた時芸術的に優れたものであること(笑い)と銘打ってやり、人気投票で選考しました。要領はPR活動自由、ただし買収を禁じ口頭及びビラによるものとするとして、推薦ビラ、反対ビラなど甚だしいビラ合戦を展開したものでした。その結果、成河さんらによる「十勝野」という名前が採択されました(注、その他に防風林、火山灰、豆の花、きずな、沃野、萌木、若鮎など)。表紙の題字については当時会長の山坂さんにご苦労を願いました。上手でなく、下手でもなく味のあるものをと注文を付け、何枚も書いてもらった中の一枚が現在も表紙を飾っています。創刊号には緑親会史を紐解くと題した特集を載せ、2号では親睦会創立に係わった大島、嶋山さんから回想文を寄稿頂きました。また、会員の番付表を載せるなど編集を楽しんだ思い出があります」

「編集には苦労した。行事の記録ばかりになってしまい、文芸作品が集まらなかった」

「編集者の心意気があれば何とかなるのでは・・・」

「農試で働く者にとって、十勝野は一つの息抜きではないだろうか。気楽に書いて、気楽に読める楽しさがある」

「長続きするためには落書き帳の気安さも必要だが、落書きの中に自己主張がないと面白くない。本気で描いた作品は面白い。編集長の心意気で、どういう個性を引き出して行くかが十勝野を育てることになるだろう」

「十勝農試の公式記録ではないが、各号の特集記事や行事記録は時が経てば資料価値が出て来る。やはり続けることに意味がある」

真摯な議論が展開されている。

◇上川農試の「むーべる」

上川農試(永山)にも同様の職員親睦会がある。「むーべる」と言う。意味は何だと聞いたら、「飲む」「食べる」を複合した造語との説明を受けた。職員の親睦と言えば、飲み食いが主流の時代だった。

或る時、十勝から上川農試へ転勤した砂田さんが「十勝野」を真似て上川でも機関誌を創ったよ、と冊子を見せてくれた。誌名は「むーべる」、創刊は1971年(昭46)のことである。その後「むーべる」も発刊を重ね、筆者の手元に30号があることから長く続いたことだろう。

◇「十勝野」「むーべる」寄稿文

「十勝野」は多くの方々が編集に携わり、多くの寄稿文が寄せられた。どの時代にも「十勝野」は職員親睦の灯だった。会員であった多くの方が「十勝野」にまつわる思い出を共有しているに違いない。今ともなれば、「十勝野」は歴史的資料としての価値もある。全巻揃った「十勝野」が閲覧できるのは十勝農試図書室だけだろう。

寄稿文を拾い出してみた。

*土屋武彦(1969):編集後記「マンチスの歌」十勝野創刊号p65-67

*土屋武彦(1969):「緑親会史をひもとく」十勝野創刊号p3-11

*土屋武彦(1969):編集後記「マンチスの歌」十勝野2号p96-98

*土屋武彦(1974):「ナポレオン健在なり」十勝野8号p52-53

*土屋武彦(1976):「十勝野創刊の頃」十勝野10号p39-40

*土屋武彦(1976):「常勝青組何処へ行く」十勝野10号p86-87

*土屋武彦(1977):「孤独なる走者の記録」十勝野11号p47-48

*土屋武彦(1979):「アルゼンチン雑感」十勝野13号p66-69

*土屋武彦(1980):「アルゼンチンの人々」十勝野14号p73-77

*土屋武彦(1984):「アルゼンチン研修員のことなど」十勝野18号p43-44

*土屋武彦(1987):「緑親会の皆様へ」十勝野21号p7-8

*土屋武彦(1991):「十勝野第25号記念寄稿、十勝野を創った人達」十勝野25号p2-3

*土屋武彦(1991):「鼓琴の悲」十勝野25号p27-28

*土屋武彦(1991):「母を尋ねて千五百里、マレーシア遺伝資源探索旅行記」十勝野25号p28-30

*土屋武彦(1992):「鼓琴の悲、十勝野の故佐々木さん」十勝野26号p19-20

*土屋武彦(1997):「個人の行動」むーべる26号p15-16

*土屋武彦(1998):巻頭言「農民に愛され信頼される」むーべる28号p1-2

*土屋武彦(1998):「育種・人との出会い」むーべる28号p67-69

*土屋武彦(1999):巻頭言「フレキシブルに迅速に、そして専門性を総合化」むーべる29号p1-2

*土屋武彦(2000):「パラグアイ国から今日は」むーべる30号 p3-5

 

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私の「本づくり」第1話:同人誌「だむだむ」創刊に係わる

2021-12-02 14:08:49 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

人間は誰でも、人生で一度や二度「本づくり」に係わった経験があるだろう。子供の頃、教師に言われて作文、詩、俳句を作り、それが掲載された文集を開くときに覚えた微かな不安と興奮。ふとした瞬間に往時の感覚が蘇り「本づくり」に駆り立てるのかも知れない。

或る男の「本づくり」足跡を辿る

(第1話)同人誌「だむだむ」創刊に係わる(北大文芸同人1964-65)

(第2話)機関誌「十勝野」創刊に係わる(十勝農試緑親会1969)

(第3話)「豆の育種のマメな話」自費出版する(2000)

(第4話)「専門家技術情報」を発刊する(パラグアイ2000-08)

(第5話)季刊誌「北農」編集発行人となる(北農会2008-12)

(第6話)私の恵庭散歩シリーズ「恵庭の記念碑」「恵庭の彫像」「恵庭の神社・仏閣・教会堂」自費出版する(2017)

(第7話)「幼少期の記憶」を編集出版する(恵庭市長寿大学大学院第17回生幼少期を語る会2020)

(第8話)「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する(2021)

なお、本章には本来業務で執筆した書籍や資料は含んでいない。いわば遊び心の産物に限定した。

 

 

私の「本づくり」第1話

同人誌「だむだむ」創刊に係わる(北大文芸同人1964)

恵迪寮での2年間の生活を終えようとしていた頃、朋友羽柴が同人誌を創ろうと話を持ってきた。この大学に文芸同人誌が無い。会津寮の穂積と管君が同人誌を出そうと相談に来たと言う。ときは60年安保闘争の波が収まり全学共闘会議が台頭する前の頃。学生運動と言ってもベトナム戦争反対、原水爆実験反対のデモ行進と米国領事館前で気勢を上げるくらい。学生たちには鬱積した気持ちを発散させる術を模索しているような時代であった。

創刊同人に加わったのは、土屋武彦、本庄淳(羽柴敏彦)、穂積忠、管栄治、石村正の5名。各自作品を持ち寄り、北大生協プリント部でタイプ印刷謄写刷の冊子を出すことになった。原稿を印刷所に回す当日になって誌名を決めると言う、何とも長生きするような船出であったが、1964年(昭39)11月25日に創刊号発刊。すっかり変色した粗末な紙質の一冊が手元に残っている。掲載広告はバーや喫茶店のみ、当時の同人たちの生活が分かろうと言うものだ。定価100円で生協の書棚に置いた。

第2号以降は同人も増えて一時20人ほどになったが、同人仲間が卒業すると原稿も集まらなくなり、7号で廃刊。編集責任者は、創刊号(穂積忠)、第2号(土屋武彦)、第3号(羽柴敏彦)、第4号(山崎英治・吉田孝雄)、第5号(草薙邦夫)、第6/7号(草薙邦夫)となっている。時には北海道大学新聞で論評されることもあったが、この同人誌を知る人は多くなかったと思われる。また、本誌を図書館や資料室に納めた記憶がないので、現在どこにも資料として保管されていないだろう。幻の冊子である。

ところが、2010年代になってからの或る日、群草の会(発刊人板倉正)発行「北辺の飢狼とど松無宿伝」(パスカル舎)なる叢書が届いた。かつての同人誌「だむだむ」の数編が復刻されていると言って、羽柴兄が送ってくれた。発行人は元同人の板倉正氏だと言う。

氏は叢書の中で「本書に採り上げた作品は1960年代、若者たちが血みどろになり疲れ果てた後の倦怠感と崩壊感に閉じ込められた状況下に発表されたものである。・・・作者たちの蒼き世代の早とちり、うろ覚えや一知半解、強度の思い込み、偏見と独断が大手を振っていた。他方で妙に能天気な楽観論がはびこっていた。手前勝手な革命理論やらよその国の街角虚構に踊るホラ吹きぶりには時に辟易させられたこと多々であった。だから稚拙だ、未熟だ、読むに値しないと遠ざけてはいけない。何故なら、そこに不条理な青春があり若い後悔が充満しているからである。未だに反省できない輩も多数いるが・・・」と述べている。

確かに冊子「だむだむ」の掲載作品は文章も構成も未熟で、作者にとっては抹消したい気持に駆られるかも知れないが懐かしき時代の遺産ではある。

◇「だむだむ」掲載作品

創刊号:1964年(昭39)

土屋武彦「最初に落葉する樹」、本庄淳「幻影」、穂積忠「聖火通る」、管栄治「被告の一日」、石村正「悪魔」

第2号:1965年(昭40)

吉田孝雄「擬制」、石村正「海(童話)」、本庄淳「真珠」、山崎英治「季節との対話」、杉山韶子「雑木林・冬」「四つ角の乞食」、土屋武彦「片隅の赤い円」

第3号:1965年(昭40)

山崎英治「緑の謀叛」、北逈人「イカンガヤ」「オワカレ」、土屋武彦「立ち待ち岬まで」、吉田孝雄「抒情のために<M・Aへ>、管栄治「太宰治の妻?」、伊藤綾子「雪の中の思い出」、本庄淳「鏡の中の男」

第4号:1965年(昭40)

土屋武彦「かくも退屈な」、山崎英治「八月の時」、本庄淳「雨」、星由紀彦「利礼島への旅」、室谷隆司「過去の事」、草薙邦夫「埋没の季節」、多架尾正「黎屍様」

第5号:1966年(昭41)

宗像誠一郎「錯乱」、多架尾正「黎屍様」、石村正「手」、本庄淳「墜落」

第6,7号:1966年(昭41)

望月泰宏「武田泰淳論ノオト(その一)」、草薙邦夫「初冬」、宗像誠一郎「火焔の誘い」、納戸国夫「青木は嘲笑的に死んで行った。」、草薙邦夫「断想」、本庄淳「墜落(二)」

◇北海道大学新聞の書評

*北海道大学新聞(昭和40年4月10日)記事「雑誌評論」を一部引用する。

・・・だむだむ2号 文芸同人誌、三人の詩と二編のSF?メルヘンと二つの創作。1号もそうであったが、この暇潰しのような多様さ、無定形さは確かに習作誌的な強烈さがある。

「擬制」は良く整理された詩であり、不条理=神への反抗が排他的に書かれたと受け取る。無制限空間の存在物の地球を先に見、次に地上の人間に目を向けた。詩の単語選択の適切さに感心しないわけではないが、「死をぼろぼろと殺す」「リンパ液の流失する美しさ(キリスト処刑)」「祈りをたたきつける」のあげくの果てが「人々」ではなく「君よ武器をとれ」では、おきまりの「入口の門まで」ではないか。「海」は小学校二年生用に書かれたのであろうが、「永い時間が必要」は子供に不幸を感じさせることだろう。

「真珠」は昼間の夢想である人物は学生とまた学生と変な教授と「小柄な、それでも肉付きの良い女性=模造真珠」と、「ロン」の従業員。すべて地上の人間ではなくアスファルト上のヒトだから誰が病人なのか見当がつかない退屈な日常を裏に返すとこんな虚構も本物なのだろう。「臨工」「活動」ってのはどう受け取ればいいかわからなかった。「季節との対話」は表現が婉曲すぎないか。「美しい夕焼け」は全体をぶち壊しているし、「ぼく達のこの土地」と「冬枯れ」はよく結びついているが、「詩の季節」が真夏のつららのように存在を失う季節もある。・・・〈中略〉

・・・「片隅の赤い円」は四章までまとまりと連続性がある。とにかく筋が理解できる。(二)までは二人の男(詩人の腐れたのと俗物)と一人の女性(若いきれいなのにきまっている)の位置がよく定まっている。しかし、組織矛盾についての人間の具体性になると(三)では油絵と党と自己献身の虚しさである。当然、残りかすの情熱は死への情熱とセックスの情熱である。しかも「吉本」は自殺する女性の傍観者であり、女性の身体を視線でなめる男だ。マゾヒストどころか、彼は殺人もしないし強姦もしない。(四)は愚劣。若者はどうのこうのと言うことはない。(四)の最後がいい。ただ、永久に敗北しないことを自覚している彼なのなら。(Y)・・・

*北海道大学新聞(昭和41年1月10日)記事「雑誌評論」を引用する。

・・・だむだむ4号 文芸同人誌「だむだむ」も第四号で創刊一周年を迎えた。この一年間に「だむだむ」は内容的に一足飛びの発展をとげ、とりわけこの4号はずっしりとした重量感を読む者に与える。管見によれば、「かくも退屈な」(土屋武彦)、「黎屍様」(多架尾正)の2小品が珠玉。

「かくも退屈な」は(ぼく)という留学生たる人物を設定し、そこに作者自身を投入するという形式をとった作品である。自分の身を位置すべき場所を見いだせず、退屈をまぎらわし、「そこに位置すれば、何かが起こるかも知れない」(何も起こり得ないことは十分知りながら)という幻想にかられ、騒々しい喫茶店に投じた、あまりにも喜劇的な諦念に把われてしまっている一学生を設定する。そして、アルメという女子学生の死、そのことと大学助教授との関係など種々の事件を設定し、その渦の中にまき込まれたその学生の行動を追う。しかしながら、この小説はおうおうにして”学生小説“に見られる如き、小説の枠内で起こる事実の追跡におわれ、そこに設定した人物の意識の内部を十分に描写するには至っていない。この作品が珠玉だといったのは他の数編の作品に比べ”格段”の差をもって状況描写が優れているからである。こういった意味でこの作品においては、作者の意図を対象化した~作者(私)の対象である~作品の人物の意義と、作者自身の意識との分離という作業がはっきりなされておらず、従ってその間の輪郭がぼやけてしまって、どちらかというと低俗な“学生体験小説”に堕としがちなのではないか。

多架尾正「黎屍様」は小説とはいえず、どちらかといえば作者自身の想念の断片的な評論独白集とでもいえる作品である。作者の表現位置からみても、作者自身は作中の(黒岩)なる人物にそのまま乗り移って、そこに自己の意識を投入している。作者の持つ「想念の形態」は「暑黒に色の染みついた扉が陽光を斜めに受けて静かに開き始めた。なんの軋る音もしなかった。滑らかに扉が解き放たれるとその暑い空気の放出とともに陰湿な内部の情景を薄明りで照し出」されている光景のようなものである。そして他人にとって作者の姿は「想像しえない程豊かな苦悩をもっていた」としても、その痛々しさ「何か作り上げられた匂いのするものとして」しか受けとめられない。

ところが別の視覚からもこの作品は大きな意味を内包しているのである。それは序詞を見れば明らかである。「明るく朝に黎明の白光を凝視め、また厚く塞がれた夜を思う。」ここ数か月間少子は黎明の素晴らしさ恐ろしさを知らない。しかし作者の意識の内部においては夜明けの黎明の静かだが恐ろしく大きなエネルギーを内に秘めた“薄明”とが二重写しとなって拡がった「黎屍様」の世界の中にいるのである。ズブズブとした、のめり込まれるような沼水池に立たされたような不安定な意識、そのような内的意識の一層に拡大鏡をかけながら、作者は「夜」という言葉を媒介にして稿を進める。作者にとってこの作品は「流れとして感じ、そして怒涛の如く押し寄せ、そして風に散るようにもとの枠に戻っていってしまった大衆への疑惑」の表白であったのだろう。(町田)・・・

◇時代を反映した若者群像

作品も書評も青臭い。思考も技術も未熟で独りよがりな部分が目立つ。しかし、これら習作や論評から時代が見えるのも確かだ。鬱積の時代に何かをしようともがく当時の若者たちの姿(それは自己満足にすぎないと気付きながらも夢中になる)を想像することは出来る。

同人から文学賞にノミネートされるような作家も、執筆を生業とするような者も出なかったが、時代を反映する資料としての価値はあるかも知れない。

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