豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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伊豆の田舎の「ウバメガシ(姥目樫)」

2021-11-12 10:30:39 | 伊豆だより<里山を歩く>

伊豆の田舎には啓山石堂(啓二)が植えた3本のウバメガシ(姥目樫)がある。今回も墓参のついでに、庭のウバメガシに鋏を入れた。季節は10月下旬、ちょうど堅果(ドングリ)が熟する頃であった。子供の頃にドングリと言えばブナ(橅)やコナラ(小楢)の印象が強くウバメガシにもドングリが結実するのを見た記憶がなかったので、ドングリを見つけた時は新鮮で思わず写真を撮った。

ウバメガシ(学名Quercus phillyraeoides)は、ブナ科コナラ属の常緑広葉樹。別名イマメガシ(今芽樫)、ウマメガシ(馬目樫)とも言う。日本では房総半島、三浦半島、伊豆半島以西の太平洋側、四国、九州、沖縄に分布する。乾燥や刈り込みに強いことから庭木や街路樹として使われ、備長炭の材料となることでもよく知られている。

樹形は通常は5~6m程度。葉は互生し(枝先は輪生状)、長さ3~6cmと小さい倒卵形で硬く、やや表側に盛り上がり、葉縁は鋸歯。葉の表面は濃緑色でやや光沢、裏面は淡緑色をしている。雌雄同株で、開花は4~5月。黄色い雄花は枝の下部から穂状に垂れ下がり、黄緑色の雌花は楕円形で、上部の葉の付け根に1~2個着くと言うが、花の印象は薄い。堅果は長さ2cm前後で楕円形、10月になると褐色に熟す。

下田富士や下田公園など伊豆半島でもよく見られる。潮風や乾燥に強いため、海岸付近の乾燥した斜面に群落を作ることが多いそうだ。和歌山県の木、南伊豆町の木に指定されている。

◇備長炭

紀伊国の商人備中屋長左衛門が、ウバメガシを材料に作り販売を始めたことから、その名をとって「備長炭」の名がついたと言われる。一般に樫の炭全般を備長炭と呼ぶが、狭義にはウバメガシの炭のみが備長炭とされる。備長炭は普通の黒炭よりも硬くて叩くと金属音がする。白炭(備長炭)は製造時に高温で焼かれることから炭素以外の油分やガス等可燃成分含有量が少なく、かつ長時間燃焼に堪える。また、炎や煙も出にくいので焼き肉など調理に向いている。

江戸時代から伊豆の山村では木炭製造が盛んであった。幼少時の記憶にも炭焼き体験がある。祖父や父は窯の中に原木を並べ、釜口から火をつけ、昼夜を通し煙の色を観察しながら釜口の空気流入を調節、頃合いを見て蓋を閉じる。そして、窯の温度が下がる頃、家族総出で炭を取り出し規格に合わせて切断して炭俵に詰める。鼻や目の周りを真っ黒にして働く姿が彼方此方にあった。炭俵は祖母が夜なべ仕事で茅を編んだ。炭俵を背負子に背負って馬車道まで運び出した。現在、裏山にも長久保の山にも炭焼き窯の跡が残っている。

紀州備長炭、土佐備長炭、日向備長炭などの銘柄があり、備長炭は高額で取引されている。伊豆半島にもウバメガシが群生するのに伊豆備長炭はないのだろうか? ウエブ情報によれば、いくつかの試み(萌芽)があるものの事業化まで至っていないようだ。山林所有者、炭焼き(技術労働者)、販売専門家を結ぶネットワーク、組織化する行政力が必要だと言うことだろう。

 

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わが裏庭で「鹿角」を拾う

2021-11-08 10:11:03 | 伊豆だより<里山を歩く>

今年(2021)も伊豆下田へ行ってきた。新型コロナ感染第5波の山がようやく下火になり、全国的に緊急事態宣言が解除された10月下旬のことである。目的は墓参と空き家の管理である。中でも村道から家までのアプローチ小径と庭の草刈りが大仕事。コロナ禍の外出自粛で一年ぶりの下田行であったので茅は伸び放題、猪と鹿が通った獣道を辿って家に着く有様だった。

刈払い機を振り回し、刈り倒した茅を片付ける。庭木を剪定する。慣れない仕事に老体が悲鳴をあげるが、「もう歳だから、無理しないでね」と労わりながら、何とか4日で予定の作業を終えた。刈り払った残渣を裏庭の隅に堆積しようと運んでいると、「鹿角」が落ちているのを見つけた。持ち帰って、孫へのお土産にしよう。

奥伊豆のこの村落も猪や鹿が増え、農業は防護柵を設置しないと成り立たない状況になっている。家庭菜園さえもが野生の猪、鹿、猿など鳥獣被害にさらされている。わが家の庭へは夜ごと猪がやって来るし、鹿の糞が落ちていたこともあるので「鹿角」が落ちていたとしても大きな驚きはない。

鹿は雄にのみ角が生える。外敵から身を守るため、群れの中で優位性を保持するためだと言われている。4月頃「袋角」ができ、5~8月にかけて角は2又、3又と分岐して急成長、9月頃には立派な角が完成。9~11月の繁殖期にはオス同士が競うのに使用され、3月頃には抜け落ち、毎年生え変わると言う。

1歳の鹿はまだ分岐していない細い1本角、2歳になると2又に分岐する鹿もいるが太さは細く、3歳になると2又か3又で大きな角が生え、4歳以上の鹿は3又に分かれて太さも太く立派な角になるそうだ。裏庭で拾った角は三又に分かれているので3歳以上の鹿と言うことになろうか。

鹿角は、日本では加工して工芸品として利用されることが多い。中国では漢方薬「鹿茸(ろくじょう)」として活用されるが、この鹿茸は春先に生え始めたばかりの柔らかい鹿の角「袋角(ふくろづの)」から作られるらしい。

近年、増えすぎた鹿を駆除して、或いは飼育して、鹿肉を食用として利用する動きがみられるようになった。縄文時代の人々の狩猟対象は主として猪と鹿であったと言うから、食用として利用するのに抵抗感はあるまい。鹿肉は高タンパクで低脂肪、鉄分の含有量も非常に高い特徴がある。ただし、生食ではE型肝炎や住肉胞子虫による食中毒になった報告があるので注意。加熱調理が必須である。

奥伊豆の山間にあるこの家はしばらく空き家にしているので、猪や鹿にとっては楽園みたいなものだ。裏山には猪が泥水浴する水溜まり(沼田場)が出来ているし、身体を擦りつける丸太は皮が剥げている。毎夜のように里へ下りて来る獣道には偶蹄の痕跡が残っている。崖にも猪突猛進して道を作る。鹿は群れを成して動き、一か所に糞を残して行く。

2019年の夏が終わる頃だったろうか白骨化した動物の骨に出くわしたことがある。骨格から鹿であろうと推察したが、何故そこに放置されたのか分からない。崖の獣道に近かったので、滑り落ちた鹿が足を骨折し動けなくなり、朽ち果てたとしか想像できない。息絶えた鹿は風雨にさらされ、野生の動物、鳥、虫、バクテリアなどが関与して自然に化す循環、自然の摂理があったのだろう。田舎に行くと色んな場面に遭遇する。

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下賀茂温泉の「湯雨竹(ゆめたけ、竹製温泉冷却装置)」

2021-11-07 16:44:48 | 伊豆だより<里山を歩く>

湯雨竹(ゆめたけ)

2021年10月下旬、南伊豆の下賀茂温泉ホテル河内屋に宿泊した。新型コロナウイルスCOVID-19の第5波が収束に近づき緊急事態宣言が解除された後だが、まだ温泉場は閑散として客は数組しかいなかった。ホテル河内屋を選んだのは竹製の温泉冷却装置(湯雨竹)を備えていると謳っているので、その状況を眺め、温泉を体感しようと思ったからである。

下賀茂温泉は青野川沿いの山間に広がる温泉場で、ホテルや温泉宿が数軒あるだけの静かな佇まいを見せている。開湯は永禄年間と言うから約460年も昔の室町時代、武田信玄や織田信長が桶狭間や川中島で戦っていた頃のことで、トビが湯で傷を癒すのを見て発見されたと伝えられている。高温の源泉が多く、「杖知らず、医者いらずの湯」とも言われ古くから湯治場として知られていた。泉質は塩化物泉、効能は神経痛、冷え症、婦人病、皮膚病、創傷などとある。

 

(上の写真はホテル河内屋の資料)

ホテルの資料には「・・・明治37年創業以来、念願でありました源泉100%が実現したのでここにお知らせします。以前までは敷地内26mより90℃と高温で良質な源泉が湧きだしているにもかかわらず、高温すぎる源泉のため加水して温度調節してまいりました。今回中庭に設置いたしました「湯雨竹(ゆめたけ)」は竹製の冷却装置でございます。汲み上げた源泉が装置上部から竹をつたって落ちることで、50℃程度の温度に調節でき、夢の源泉かけ流しが実現いたしました。下賀茂温泉では初の源泉かけ流し100%をお楽しみ下さい・・・」とある。

女将に「湯雨竹」の由来を尋ねたら「別府の人に創ってもらった」と言う。子供の頃(昭和20年頃か)「竹製枝条架」の風景を見たような記憶があったので、古く江戸時代から存在していたのではないかと思い込んでいたが、そうでもないらしい。そこで、別府市鉄輪「ひょうたん温泉(屋号)」のHPを見ると、「湯雨竹」の開発の苦労やネーミングの過程が詳しく紹介されている。

同HPの「施工日記」「ネーミング秘話」によれば、株式会社ユーネット(ひょうたん温泉会社名)社長河野純一、同専務河野健が大分県産業科学技術センターの斉藤雅樹、大分県竹工芸訓練支援センターの豊田修身氏らの技術開発支援を得て完成したもので、「湯雨竹」の命名は海洋問題研究家・作家の東海大教授山田吉彦(大橋郁)氏であると言う。別府や雲仙温泉での普及例も紹介されている。

さて、筆者の脳裏に残っていた「竹製枝条架」は何だったのだろう? 東海道五十三次に描かれた「はさがけ(稲架がけ)」からの連想だったのか? 改めて記憶を辿ると河津町谷津温泉の風景であったような気がする。そこには製塩工場があり、今思えば製塩課程の一場面だったのだろう(現在、温泉施設がある)。

昭和20年代、製塩方法は入浜塩田方式から流下式塩田方式に改善され、海水の濃縮技術として「柱に竹の小枝を階段状につるした枝条架に、ポンプで汲み揚げた海水を流して太陽熱と風で水分を蒸発させる方法」が普及していた。あの時、竹の枝にキラリと光ったのは、温泉の水滴ではなく塩の結晶だったのか。

源泉かけ流しの下賀茂温泉は確かにまろやかだった。加水しない源泉の良さを体感。温泉に浸かって、ゆったりと目を閉じた。

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