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伊豆の土屋郷(須原村)と土屋氏

2020-12-26 15:40:19 | 伊豆だより<里山を歩く>

元稲梓村立須原尋常高等小学校(現下田市、廃校)の大正12年度卒業生(石堂の同級生)は31名中22名が「土屋」姓だった。そのほか「佐々木」「村山」「小泉」等もあったが「土屋」が圧倒的に多い(71%)。校区は元須原村(明治10年に本須郷村、新須郷村、茅原野村、北野沢村が合併)、奥伊豆の小さな山村である。

全国の苗字ランキングは上位から「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」「渡辺」だと言う(明治安田生命保険)。「土屋」は120~140位に位置し決してメジャーな苗字ではないのに、此処は大半が土屋姓。下田市須原は「伊豆の土屋郷」とも呼べる里である。 

この地域に土屋姓が多いのは何故だろうか? 

(1)「相模の土屋」と「甲斐の土屋」

誰が最初に土屋姓を名乗ったのか? 古文書や歴史書、系図や家紋などに関する多くの研究によれば、土屋姓は「桓武平氏中村氏族の流れ(相模)」と「清和源氏一色氏の流れ(甲斐)」の二系譜に代表され、これがほぼ定説となっている。その他にも、「清和源氏武田系小笠原忠定が徳川秀忠家臣土屋正明の養子となり土屋氏を呼称」「宇多源氏雅信の次男成起が美濃国土屋郷を領して土屋氏を呼称」「伊豆、三河、駿河、丹後、伯耆、石見、備後、大和、紀伊、肥前に土屋氏があった」との記述(奥富敬之「日本家系・系図大辞典」)もあるが、今回は源流「相模の土屋」と「甲斐の土屋」について述べよう。

相模の土屋氏:平安時代末期、中村荘司宗平の三男「宗遠」(平良文の6代孫)が荘内の相模国大隅郡土屋郷(平塚市)に館を構え郷司となり、「土屋」を氏(姓)とし土屋三郎宗遠を名乗ったのが始まりとされる(土屋の祖と称される)。現在も平塚市には「土屋」が地名として残り、館跡も特定されている。

なお、父の中村宗平は桓武天皇の曽孫「髙望王(平髙望)」の子「平良文」の流れをくみ、桓武平氏の豪族であった。祖先の髙望王は平安時代中期898年上総介に任じられると一族を伴い坂東に下向し、武家集団として勢力を築いていた。宗遠の兄弟たちも、長男は中村太郎重平で余綾郡中村郷(中井町から小田原東部)を継ぎ、二男の土肥次郎実平は土肥郷(湯河原)に、四男の二宮四郎友平は二宮郷(二宮)に館を構え、娘は岡崎郷(岡崎村)の三浦岡崎義実に嫁している。当時の中村氏一族は西相模一帯に力を持つ豪族(武士)として存在していたのである。

宗遠は兄実平らと共に源頼朝の挙兵に参加、頼朝側近の武将として「富士川の合戦」「一の谷の合戦」「屋島・壇ノ浦の合戦」などに出陣し、鎌倉幕府樹立に貢献した。宗遠の後裔も代々鎌倉幕府の御家人として仕え、出雲国持田荘・大東荘や河内国伊香賀郷の地頭を任官するなど厚い信頼を得ていた。

しかし、時は移り室町時代になって備前守土屋景遠の時代、「明徳の乱」「上杉禅秀の乱」に組みし破れたことから相模本領を没収され(1418年)、相模の地で栄えた土屋氏は各地へ離散してしまう。景遠の父氏遠は武田家家臣となり甲斐で果てるが、景遠は武田信長を主君として行動を共にして信長に従い鎌倉御所に同行、鶴岡八幡宮神職大伴時連の娘を娶った(或いは房総に渡ったとされる)。景遠の子勝遠は幼かったため難を逃れ甲斐に渡り、後に甲斐武田氏の武田信昌の娘を娶り武田家の重臣となっている。

  系譜:桓武天皇―葛原親王―高見王―髙望王(平氏祖)―良文―忠頼―頼尊-恒遠―宗平―宗遠(土屋祖)―宗光―光時―遠経―貞遠―貞包―宗将―秀遠―道遠―宗弘―宗貞―氏遠―景遠―勝頼―信遠―昌遠-円都―知貞―知義―知治―知康

◇甲斐の土屋氏     

*鎌倉時代、甲斐市島上条大庭に志摩荘(荘園)地頭である土屋氏の館があったと伝えられているが(甲斐国史)、当主の氏名など詳細ははっきりしない。また、同地島上条村続(甲斐市)には甲斐守護武田信重と家臣土屋氏が代々崇敬したとされる八幡神社がある。

*戦国時代、甲斐土屋氏は甲州西郡(にしごおり、釜無川西側)を本領とし、八田村徳永(南アルプス市)に居館があったと伝えられる(金丸氏と同族であった)。系譜を遡れば足利公深(足利尊氏の子、一色氏)に連なることから、清和源氏義国の流れとされる。

*武田家重臣であった金丸虎義(筑前守)の次男平八郎(昌次、昌続)は武田晴信(信玄)の近習として仕え、永禄4年川中島合戦で信玄を守った功績が認められ、桓武平氏相模三浦氏流の土屋氏名跡を継承し土屋平八郎昌次と名乗った。その後侍大将に取り立てられ多くの合戦で奮戦し右衛門尉に叙せられ、信玄の側近・奉行として仕える。信玄死去の際は遺骨を甲府に持ち帰り埋葬したと言われる(信玄墓所)。天正3年(1575)長篠の戦で土屋右衛門尉昌次戦死。

また、昌次の実弟惣藏(昌恒)は、武田海賊衆の岡部忠兵衛(貞綱)の養子となった(貞綱は養子を迎えるにあたり土屋姓の名乗りを許された)。惣藏(昌恒)は長篠の合戦後は武田勝頼に従い甲府に落ち、長篠の戦で戦死した兄昌次の名跡(土屋姓)と家臣をも引き継いだ。天正10年(1582)武田滅亡となる天目山の戦いで、昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せたが、勝頼に従い殉死。幼少だった昌恒の子・忠直は駿州興津の清見寺に預けられ、9歳の頃から家康の側室茶阿の局に養育されたと言われる。

*また、武田家滅亡に際し、上野国児玉郷(群馬県)に逃れ帰農した土屋源左衛門、勝頼十六将の一人で軍用金を持って土谷沢(群馬県下仁田)に落ち延びた土屋山城守高久、信州伊那瑞光禅院(長野県)には土屋昌恒の子宗右衛門、伊豆には土屋勝長、外記、玄蕃が落ち隠れ住んだとの伝えがある。かくして、本能寺の変後、甲斐国は徳川家康が領することになる。

 系譜 (1)足利泰氏―公深(一色)―範氏―範光―詮範―範貞―範次―藤直―藤次(金丸家)―虎嗣―虎義(備前守、金丸)―昌次(次男、土屋右衛門尉を称す)、(2)虎義(備前守、金丸)―昌恒(五男惣藏、岡部氏養子、土屋を称す)―忠直(上総久留里藩へ)―利直、(3) 忠直―数直(次男、常陸土浦藩へ)

◇江戸時代の土屋氏:武田家の家臣であった土屋家は、武田家滅亡後に徳川家康に仕えることになった。家康の側室茶阿の局に養育された土屋忠直は成長して、慶長7年(1602)上総国久留里藩主となり、利直、直樹と三代続いたが直樹の代で改易お取潰しとなった(直樹の狂気を理由に)。しかし、直樹の嫡男土屋達直は祖先の功績が認められ旗本寄合席に任じられ晩年を無役に過ごした。因みに、赤穂浪士に登場する土屋主悦は土屋達直のことである。一方、寛文9年(1669)には忠直の次男土屋数直が土浦藩主となった。数直は徳川家光に若年寄・老中として仕え、数直の嫡男土屋政直は綱吉、家宣、家継、吉宗に老中として仕えた。その後も土浦藩主家は代々大名家の格式を守って明治維新に至っている。

 系譜 (1)上総国久留里藩主:土屋忠直―利直―直樹、(2)常陸国土浦藩主:土屋数直―政直―陳直―篤直―寿直―泰直―英直―寛直―彦直―寅直―挙直(幕末明治維新へ)

(2)土屋の由来と家紋

土屋の由来と家紋について触れておこう。

◇土屋の由来:先に述べたように、土屋姓の初見は平安時代末期、相模国大隅郡土屋郷に館を構えた土屋三郎宗遠と思われる。宗遠は中村氏の出であるから、氏(姓)は地名からとったとするのが妥当だろう。平安時代の荘園を管理する武士は自分の所有する土地(本貫地)の地名を苗字にするのが一般的だった。

それでは、何故この地域が土屋と呼ばれていたのか? 謂われについて確かな記録はないが、相模国大隅郡土屋郷は丘陵地で多くの谷戸があり、寺分地区の地名土屋窪は岩屋窪から転じたのではないかとの説がある。土屋窪には複雑な構造の古墳(土屋窪地下式坑と呼ばれる)があり、「岩屋(土屋)のある場所」と言うのが語源だと言われている。

◇家紋:桓武平氏良文流の土屋氏は「三つ石」、清和源氏一色氏流の土屋氏は「九曜」を家紋とした。この二つが土屋氏(姓)の代表紋とされる。

「三つ石紋」はいわゆる石畳紋で、神社の敷石模様から来ている。神官や氏子が家紋としたのだろう。「九曜紋」はいわゆる星紋で、インド占星術が扱う9神を星で表し、運命を司るものとして信仰したことによる。

なお、家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。鎌倉時代以後は合戦の際に敵味方を区別したり、手柄を確認させたりするための手段として爆発的に広まった。その後、江戸時代から明治時代を経て、貴族や武士だけでなく一般庶民も広く家紋を所有し使用するようになったため変異を生み、その数は5,000~10,000を超えると言う。しかし、第二次大戦後は家に対する意識が変わり、墓石などに家紋を確認するのみだ。

(3)土屋勝長(外記助)

下田市須原坂戸口にある宝篋印塔は「土屋氏の墓」と伝えられている。掛川志稿には天正10年(1582)天目山の戦いで敗れ武田家滅亡の後に、勝頼の家臣であった土屋勝長はこの地に落ちのび隠れ住んだとある。また豆州志稿には、須原村水神社の天正10年上梁文には「茅原野村氏土屋外記之介勝長」との記述があり、下山治久「後北条氏家臣団人名辞典」や橋本敬之「下田街道の風景」には、小田原城主北条五代氏直の家臣に茅原野村の地侍土屋勝長(別名、外記助)との記載がある。

これ等から見て、土屋勝長が天正10年以降は茅原野村(下田市須原)に住んだと考えて間違いあるまい。戦国時代の茅原野村は、小田原北条氏の重臣大道寺氏の所領であった(小田原衆所領役調)。勝長が茅原野に来た天正10年頃の小田原城主は第五代北条氏直、領主は大道寺政繁(河越城主・鎌倉代官)であるが、氏直の母は武田信玄の娘、大道寺氏は北条家の重臣であった関係で、勝長はこの地に落ち着き地侍として氏直に従ったと言うことだろうか。

残念ながら、勝長の系譜、土屋氏(姓)を名乗るようになった経緯は分からないが、この地域に土屋姓が多いのは勝長一族に所縁あると考えるのが妥当だろう。ただ、全てが血縁であるとは言えず、平民苗字許可令(明治3年)、平民苗字必称義務令(明治8年)の施行を経て土屋姓を名乗った者も多数存在するに違いない。

因みに、土屋氏宝篋印塔のある場所は戦国時代~江戸時代には茅原野村と呼ばれたが、町村合併により明治10年(1877)に須原村、明治22年(1889)に稲梓村、昭和30年(1955)に下田町へと変わり、昭和46年(1971)には市制が布かれ下田市となっている。

(4)啓山石堂と土屋姓

或る夏休みだった。石堂の孫が「家のルーツは?」と聞いたら、「鎌倉の偉いお坊さんと一緒に来た」と石堂は応えた。しかし、高僧の名前も時代も明らかでない。石堂の菩提寺が臨済宗建長寺派の古松山三玄寺であることから推量すると、この寺の僧侶と関係あるのだろうか。因みに、三玄寺の開創は慶長元年(1596)竜翁祖泉禅師、開山は慶長14年(1609)とされる。その後、元禄7年(1694)七世宗翁和尚の時「三玄寺」と改称、宝暦12年(1762)十一世黄州和尚の時には改装がなされている。

一方、石堂の系譜を遡ると、啓山石堂(土屋啓二、平成14年2002没)―寂空常然(土屋つね、昭和38年1963没)―土屋傳蔵(明治28年1895没)―土屋半右衛門(明治39年1906没)―土屋傳四郎(明治24年1891没)―傳三郎(嘉永2年1849没)―圓山光月(文政元年1818没)とあるが、この先は辿れない(改製原戸籍、法雲寺過去帳)。この過去帳の記述から推測すると、石堂家が土屋姓を名乗ったのは「平民苗字許可令(明治3年)」「平民苗字必称義務令(明治8年)」後かも知れない。

原戸籍簿には、石堂の高祖父半右衛門と曾祖父傳四郎の住所地番が「須原165(茅ヶ谷戸)」、祖父傳蔵の地番が「須原180(茅ヶ谷戸)」とあり、土屋氏宝篋印塔や三玄寺に近い場所である。何か因果を感じさせるが確たるものはない。その後、傳蔵・常然の代に親族は須原430~600地域(枝郷坂戸)へ転居している。因みに、茅原野村は天正18年(1590)に天正検地が実施され一筆ごとの所在地(字)、田畑の品等、地積、名請人などが記載されているが、地番が付されるのは明治4年(1871)戸籍法、明治19年(1886)戸籍法細則(内務省令)が施行された後のことであろう。

石堂の家紋は「丸に三つ石紋」で土屋氏の代表紋と同じある。墓石には「土屋家の墓」の文字、「三つ石紋」「屋号」が彫られている。墓参の折に三玄寺墓所を巡ってみると大半が三つ石紋であった。この集落には「土屋姓」「三つ石紋」が多い。

石堂は寺田を耕作し(昭和23・24年に自作農創設特別処置法で購入した)、檀家総代を務めるなど三玄寺との関係は深かった。

先日、石堂の須原尋常高等小学校卒業生名簿(大正12年度)を調べていたら、「土屋勝長」の名前に目が留まった。何だ、これは?

(写真は大正13年3月須原尋常高等小学校卒業生)

参照:(1)渡邊三男「日本の苗字」毎日新聞社1977、(2)吉田大洋「苗字と祖先」弘済出版会1980、(3)奥富「日本家系・系図大辞典」東京堂出版2008、(4)清水太郎「天正期における北条氏照家臣団2009、(5)橋本敬之「下田街道の風景」長倉書店2020

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石堂が植えた「ヒイラギ」と「イヌマキ」

2020-12-09 13:45:42 | 伊豆だより<里山を歩く>

「石堂」は須原(椎ヶ下)の住宅が完成すると、玄関先に「ヒイラギ(柊)」を、裏口に「ナンテン」を、庭の境界には「イヌマキ」を植えた。「ヒイラギは邪鬼の侵入を防ぐ」「イヌマキは防火・防風・防音の機能を有する」「ナンテンは火災除け」と古くから信じられているので、その謂れに倣ったのだろう。ヒイラギについては「節分の夜、ヒイラギ・大豆・鰯の頭を入口に飾ると悪鬼を払う」という風習(鬼の目突伝説)があることを多くの方が知っている。

子供の頃の記憶によれば、生家の山(須原坂戸)の水源地近くに一本のヒイラギがあった。葉の形状が珍しく、縁にある鋸歯を親指と人差し指で支え、息を吹きかけ葉を回転させて遊んだ。また、生家の水場近くにはイヌマキの大樹があり、秋には胚珠基部の赤い実が沢山落ちた。赤い部分は甘く口に含むこともあったが、祖父母から「食べてはだめ」と言われた。松脂のような臭いとねっとりした触感が蘇るが、毒があるから口にするのを諫めた言葉だったろうか。後になって、種子に毒成分を含むことを知った。イヌマキの落ちた実は腐敗すると臭いを放つので、かき集めて捨てるのが大変だった。「石堂」が庭に植えたヒイラギ、イヌマキはこれらの樹の実生苗だったのだろうか。

平成30年(2018)11月下旬の或る日、「石堂」が植えたヒイラギに可憐な白い花が咲いているのを見つけ、イヌマキの実と併せ写真に収めた。

◇ヒイラギ

ヒイラギ(柊・柊木、学名: Osmanthus heterophyllus)は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木、樹高は5~8m。日本の関東以西、台湾にかけて自生する。和名は、葉縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、「ヒリヒリと痛む」を表す古語「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」から名付けられたと言われる。冬の訪れとともに白い花を咲かせることから、「木」偏に「冬」を組み合わせた「柊」の文字を当てたとされる。

葉は対生で堅くて光沢があり、楕円形から卵状長楕円形。葉縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯がある(老樹になると刺は次第に少なくなり、縁は丸くなる)。11~12月頃、葉の付け根に小さな白い花を密生して咲かせる。花冠は深く四つに裂け反り返り、花径は5mm位。キンモクセイに似た芳香がある。柱頭と2本の雄蕊が観察される。

庭木、盆栽、生け垣(棘があるので防犯になる)に利用されることが多い。幹は堅く、しなやかであることから強靱な耐久性を有し、玄翁(大金槌)の柄に使われたそうだ。緻密で変形しない性質を生かし算盤玉、櫛、将棋の駒、印鑑などの材としても利用されると言う。

「柊の花」は初冬の季語で俳句の題材にされることが多い。其角は「ふれみぞれ柊の花の七日市」と詠んだ。また、「宵闇の手探りの中でこそ 仄かに匂う柊の花 見せかけの棘にそっと隠した その麗しくゆかしき花・・・」と歌手さだまさしも歌っている。花言葉として、葉の形状から「用心深さ」「保護」「先見の明(年を経ると棘が無くなり丸くなる)」、幹の特性から「剛直」、花の可憐さと香りから「歓迎」が与えられた。

◇イヌマキ

イヌマキ(犬槇、学名:Podocarpus macrophyllus)は日本の関東以西、台湾にかけて自生する。ホソバ(細葉)、ヒトツバ(一つ葉)と呼ぶ地方もある。マキ科マキ属の常緑針葉高木で、樹高が20mにもなる。樹皮が白っぽい褐色で、細かく薄く縦長に剥がれる。茎は真っ直ぐに伸び、葉は細長く扁平で主脈がはっきりしている。

イヌマキの名前は、古く「杉」のことを「マキ」と呼んでいたので是に準ずる材の意味で、或いはコウヤマキを本槇と呼ぶことに対して命名されたとする説があるが、材質はそれほど劣るものではない。また、イヌマキより小型で葉の数が多い園芸変種ラカンマキがある。

雌花は柄の小さな包葉先端部の胚珠を含む部分が膨らんで種子となり、その基部も丸く膨らむ。基部の膨らみは花托(花床)と言われ、熟すると次第に赤くなり甘い(偽果)。この赤い偽果を鳥が食べ、彼方此方に種子を落とし繁殖するのだと言う。種子は緑色になって白い粉を吹くが毒成分を含み、食べると下痢や嘔吐などを引き起こす(成分はジテルペン類のイヌマキラクトンと、ナギラクトン)。

イヌマキは常緑で葉色が美しいため、庭木・生垣として植栽されることが多い。水に強いことから、風呂桶などの材としても用いられたそうだ。首里城の構造材にはかつてイヌマキが使われていた。これはイヌマキがシロアリに強いためだと言う。

千葉県の「県の木」。家を守るように成長することから「慈愛」、季節を問わず葉が茂ることから「色褪せぬ恋」の花言葉が与えられた。

石堂がこれら庭木を植えてから65年が経過した。伊豆の里でどれ程生長したか次回に幹の太さを図ってみよう。

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寂空常然の生涯、伊豆の里山

2020-12-08 18:05:21 | 伊豆だより<里山を歩く>

奥伊豆の山村で、明治・大正・昭和の時代を強かに生きた一人の女性がいた。名は寂空常然(俗名つね)。百姓として生きた生涯を辿ってみよう。

◇誕生

常然(つね)は明治21年(1888)9月10日、賀茂郡須原村××0番地(現在の下田市須原)において父土屋傳蔵と母「せん」の長女として生まれた。三年後の明治24年1月15日には妹「なか」が生まれたが、母親(せん)は「なか」が生まれた十か月後に逝去している。父傳蔵は「せん」が死亡してから二年後の明治27年4月30日、下河津村縄地×7番地の鶯生長蔵の長女「ちやう」を後妻に迎えた。子供たちが未だ幼かったし、日清戦争(明治27~28年)で陸軍看護兵として出征することになったためである。

ところが、傳蔵は翌年の明治28年5月30日朝鮮国漁隠洞の病院にて死亡、「つね」7歳、「なか」4歳の時であった。傳蔵の死後「ちやう」が傳蔵籍を相続したが、私生子「たき」を産み、明治30年1月6日に離縁願いを出し生家である縄地の長蔵籍に復籍した(長蔵は明治35年「たき」を養子縁組している)。

継母「ちやう」の離籍を受け、明治30年2月19日「つね」は8歳6か月にして家督を相続した。9歳に足らずして一家の柱となった「つね」は、叔父(傳蔵の兄半吾)の保護を受けながら、叔父の家で多感な少女期を逞しく生き抜かねばならなかった。「妹はまだ6歳、しっかりしなければ」と何度も自分に言い聞かせたことだろう。家の仕事も率先して手伝い、朝から夜まで休まず働いた。「つね」の頑丈な肉体と男勝りの性格(優しさを秘めた)は、この十代の体験で形成されたと思われる。年齢を重ねてから「つね」はよく話した。「農作業の手順、味噌の仕込み、魚の捌き方、餅のつき方、繭から糸の紡ぎ方、反物の織り方・・・どれも教わったことはない。できる人の手元を見て覚えたものだ・・・」と。

ここで、父傳蔵の系譜について触れて置く。傳蔵は父土屋半右衛門(須原××5)と母「くま」の二男として明治3年(1870)に生まれた。長男には半吾(惣吉)がいたので、傳蔵は明治17年(1884)に土屋與左衛門(須原180)の養嫡子となり、與左衛門の四女「せん」を妻とした。更に法雲寺過去帳を辿れば、傳蔵の祖父は傳四郎(文化2年~明治24年)、曾祖父は傳三郎(~嘉永2年)、高祖父は圓山光月信士(~文政元年、俗名不明)とある。また、半吾の長男は彦恒、孫は伝四郎と言った。

◇婚姻

常然(つね)は19歳になった時、明治39年5月17日下河津村縄地×5番地杉山文次郎(杉山米吉と「つな」の二男、明治13年10月1日生まれ)と入夫婚姻した。届け出住所は稲梓村須原××0番地である。婚姻と同時に文次郎が家督を相続し戸主となり、妹「なか」に対しても後見人戸主となった。その後、同年10月9日に「なか」は同村須原××2番地土屋幸蔵へ養子縁組した。

6年後の明治45年2月25日、文次郎の弟喜太郎(杉山米吉と「つな」の三男、明治20年11月8日生まれ)は、前述の幸蔵と婿養子縁組し、同日養女「なか」と婚姻し戸主となった。つまり、「つね」と「なか」の姉妹は、「文次郎」「喜太郎」兄弟と婚姻し、稲梓村須原坂戸の山村に生活基盤を置くことになったのである。幼くして両親を亡くした姉妹は、常に寄り添えるようにと「文次郎」「喜太郎」兄弟と婚姻したのではあるまいか。姉と兄であった「つね」と「文次郎」は住み慣れた場所を妹夫婦に譲り、近くの稲梓村須原××3番地に居を構えた。

なお、文次郎の出生地である下河津村縄地は伊豆半島東海岸に位置し、稲梓村須原坂戸とは山を一つ越えたところにある。当時は、現在の国道(下田街道)が整備されておらず、山越えの道を往来するのが常だったので距離感は今より近い。

文次郎は真面目で正直者、「つね」は村一番の働き者で生活力に長けていた。昼は畑仕事に山仕事、夜なべに炭俵を編み、野菜や果物を市場や行商で小銭を稼ぎ、養蚕に徹夜し、知人に小銭を融通し合うことまでしていた(和紙を綴じた「つね」名義の明治36年新調貸付臺帳が残っている)。

◇7人の子供を育てる

常然(つね)は7人の子供を産み育てた。長女喜代子(明治39年8月25日~昭和3年5月6日)は昭和2年9月16日下田町××7番地小澤福松と婚姻するが産後病を得て離婚後に逝去した。享年23歳であった。長男朝義(明治42年3月7日~昭和9年7月15日)は尋常高等小学校、農業補習学校、同研究科を修了するとともに青年団活動に精励し、満州事変の勃発を受け歩兵七16連隊に入隊するが、昭和9年岡方村5番地において急性肺炎で逝去、享年26歳であった。

二男啓二(明治44年10月11日~平成14年8月18日)は、兄朝義の死去に伴い家督を継ぐことになり、昭和14年12月28日稲梓村須原×4番地の土屋寅次郎・あさの五女「つね」を妻に迎えた(母親と同名であるが偶然である)。三男幸太郎(大正3年生まれ)は稲梓村須原×××8番地稲葉喜久治と妻「しう」の養女「しづ子」と昭和12年婿養子婚姻。四男進(大正6年生れ)は稲梓村椎原××9番地土屋傳の次女「栄子」と昭和22年婿養子縁組婚姻。五男健吾(大正9年生れ)は昭和23年土屋春子と婚姻、妻の氏を称し稲梓村須原×××9番地に新戸籍編成。六男素六(大正15年生れ)は豆陽中学校卒業後に土地家屋調査士の資格を取得、昭和26年村山愛子と婚姻、妻の氏を称し稲梓村加増野××5番地に新戸籍を編成した。

5人の子供たちは同一村内に住み農業を生業としたが、それぞれの地域で部落、農協、消防団、PTAなどの役職に就き信望を集めた。父文次郎、母「つね」の生き方は子供たちに大きな影響を与えていたのだろう。五人とも既に鬼籍に入る。

◇土地を耕し、山に木を植える

禮堂文義(文次郎)と寂空常然(つね)は7人の子供を育てながら、水田や畑を開墾し、山を手に入れては炭を焼き、杉や檜を植え、牛乳や卵を採り、堆肥生産のために家畜を飼った。文義(文次郎)と常然(つね)は村でも働き者で知られ、寂空常然(つね)の仕事の速さは有名だったと聞く。両親の忙しく働く姿を見て、子供らも働くことの意味を自覚していたに違いない。

土地の登記謄本によれば、文次郎死去に伴う啓二への遺産相続は土地27筆(約3.5ha)と建物(居宅と納屋)が記載されている(昭和29年5月24日)。この他に、啓二名義で取得した土地(農地法改正で購入した土地など)や分筆・地目変更地を含めると40筆余(約9.4ha)になる。継ぎ接ぎしたような小さな土地の集積だが、田畑は自分で石垣を積んで整備し、堆厩肥をすき込んでは地力の維持を図った。また植林した山林では間伐や枝打ち、下草刈りなど管理作業に汗を流した。

常然(つね)が父傳蔵から引き継いだ土地がどの位あったか分からないが、多くはこの時代に取得されたものと思われる(和紙で綴じられた文次郎名義の大正五年地所買入臺帳が残っている)。

◇晩年の「つね」

寂空常然(つね)と禮堂文義(文次郎)の晩年について、いくつか書き留めておこう。

(1)朝の習慣:洗顔漱口し、日の出に向かって手を合わせた。何を祈るのだと聞けば「健康に感謝し幸せを祈るのだ」と言う。そして大きく深呼吸し「朝の空気をいっぱい吸え」と言う。冷涼とした大気が身体に染み入り、清々しい気分だった。炭酸同化作用の言葉を覚えてからは、木々に囲まれた朝の空気は一層美味しかった。

(2) 文義(文次郎)の晩年は持病の喘息で気弱になっていたが、信心深い人間だった。正月には注連飾りを作り、神棚や水場を始め万の神に捧げた。ある日、一刀彫の小さな恵比寿・大黒像を持ち帰り神棚に祭った。集落を訪れた旅の僧が彫ったものと聞いたような気もするが、自分で彫ったものかも知れない。囲炉裏の煙で黒ずんだ二つの像は今わが家に置かれている。長く統計調査員・日赤会員など奉仕活動に関わったが、昭和29年3月3日永眠。享年75歳。新しい住宅を建設中だったため、葬儀は一年後の完成を待って行われた。

(3)常然(つね)は晩年になっても矍鑠として家を仕切っていた。もちろん実質は息子(啓二)の代に替わり実作業は石堂(啓二)と貞寿(つね)の二人であったが、寺のこと、親戚への対応、村の親睦旅行に孫を連れて参加するのは常然(つね)だった。盆や暮れに家族の衣類を買いに行くのも、魚を仕入れてくるのも、農作業の手伝いの人々を振舞うのも常然(つね)の役目だった。

(4)常然(つね)は孫の私を連れ歩いた。お陰で、盆や暮れの買い物では店主との価格交渉を学んだ。春には山菜や野菜出荷のため青果市場までついてき、その仕組みを覚えた。秋には柿や栗を背負い、山越えの道を歩いて河津村谷津に下り、河津浜まで行商に行くこともあった。柿は次郎柿・富裕柿と言う名で、栗は丹波栗と言う種類だと知った。

また、椿の実を拾い集め、乾燥した子実から油を搾るため精油工場へ行くこともあった。河津村見高の精油工場は納屋の片隅に小さな精油機を置いただけの規模だったが、機械から黄金色の油が流れ出るのは感動だった。「あれが大島、椿油で有名だ」と指さす先には、ぼんやりと伊豆大島が横たわって見えた。帰りには河津浜の磯で貝を拾い、夕食にみそ汁で食べたものだ。

(5) 常然(つね)は沢山の野菜を育てていた。収穫した生姜は梅と紫蘇漬けし天日に干した。塩の結晶が浮き上がるほど塩辛かったが「おにぎり」にはよく合った。切り干し大根、干し芋、干し柿などの作業工程も脇で眺めていた。網代に広げ縁側に干し、軒先に吊るし、暫くすると飴色に替わり白い粉を吹く。遊び疲れて帰り、摘み食いするのは何とも至福だった。

(6)何年かは養蚕を行ったが、常然(つね)は出荷後に残った屑繭から糸を紡いだ。大鍋で茹でた繭から器用な指先で糸を操りながら糸車を回した。足踏みの機織機を使い、紡いだ糸で反物を織った。反物を染めるために稲生沢村高馬にあった染物屋へ行ったこともある。工場で職人さんが張った布に型押しで染色する様子を眺めた。ある時は、糸で巻いて染色すると絞り柄になることを知った。綿打ち工場へ行った記憶はあるが、どうして布団を運んだのか覚えていない。子供らが結婚したとき、孫が北海道へ渡るときも、常然(つね)は自分が紡いだ作った布団と丹前を準備した。

(7)「祖母危篤」の電報を恵迪寮(札幌市)で受け取り「直ぐ帰る」と連絡して夜汽車に飛び乗った。まだ飛行機を利用する時代ではなかった。家に着いて聞いた話によれば、電報発信は既に死亡後のことだったらしい。「仕事から戻ると布団に倒れていたので、医者を呼んだが手遅れだった」と言う。病院へ行く事もなく元気に動き回っていたが、心臓の病があったらしい。叔父たちは「あの医者は・・・」と嘆いたが、大往生だった。昭和38年(1963)12月17日逝去、享年76歳だった。下田市三玄寺墓所に眠る。

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