豆の育種のマメな話

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恵庭の碑-10,新しく歴史に刻む 「拓望」の碑

2014-12-24 16:01:39 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

昭和31年(1956)の「経済白書」に,「もはや戦後ではない」の言葉が使われ(初出は中野好夫,文芸春秋1956.2),当時流行語になった。ここに書かれた真の意味は,「今までは戦後復興ということで成長の伸び代が十分にあったが,戦前の生産水準にまで回帰してしまった以上,この先,この成長をどうやって続けたらよいものだろうか」という,困惑気味なものだったそうだ。ところが実際には,「復興期から脱して,高度成長という明るい未来がやって来る」と独り歩きしてしまう。

事実,この後の昭和時代後半(昭和30~50年代)は,各地に工業団地などが造成され,街の姿が大きく変貌することになる。ここで取り上げた「拓望」の碑は,恵庭工業団地の造成,発展に尽力した方々が,今後の発展を祈念して建立したものである。建設年は平成4年6月。関係者は,昭和44年から始まった工業団地組合の事業完了に際し,「拓望」の言葉を刻み,地域繁栄への夢を託したのだ。

歴史のモニュメントとして,末永く語り継がれることだろう。

 

◆「拓望」の碑(平成4年6月吉日建立,恵庭市北柏木町3丁目)

 

拓望」と刻まれた石碑が恵庭市北柏木町3丁目(柏木工業団地通りの楓球場南側)に建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑表面には「拓望」と大書された文字と恵庭市長浜垣実の名前,裏面には恵庭市工業団地組合による「碑文」が記されている。

碑文を転記する。

「碑文,この地帯はかしわの木と野生スズランが群生する火山灰台地を明治三十年代より先人達が開拓の鍬を入れ幾多の苦難に耐えて実り豊かな農地を築き上げて来たところである。恵庭町が昭和三十九年に道央新産業都市に指定され,この地一帯の約七十八ヘクタールが工業用団地として決定し,これを契機に利便性のよい国道三十六号線沿いに数社の企業が工業用地として取得した。昭和四十四年二月札幌通商産業局の恵庭工業用団地造成調査報告書の趣旨にそって,同年十月地域をより一層発展させる為工業団地組合を設立し,以後二十二年余にわたり六十二社の企業の誘致を見た。ここに事業完了にあたり一同相計り,企業各社の繁栄と郷土恵庭市の発展を念願し記念の碑を建立する。平成四年六月吉日,組合設立月日昭和四十四年十月十六日,総面積七七八二四八.一二平方米,組合員十六名,恵庭市工業団地組合」

また,基石には工業団地組合の役員ほか組合員氏名(組合長平野貞雄,副組合長渡辺茂治,会計五束道信,理事中島正雄,理事山本継三,監事柴田稔,監事山本渉,組合員山岸貢ら9名,及び物故組合員元組合長松本定見ら7名)と建立年月日(平成4年6月)が記されている。

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恵庭の碑-9,恵庭ライオンズクラブの記念碑 「憩の庭」

2014-12-23 10:11:08 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

碑文の文字が気になってしょうがない。

記念碑の写真を撮ってから,もう一度確認したが,「モットー We Sever」と彫られている。「モットー We Serve」とすべきところを,石工が綴りを間違えたと推察するが,これでは意味が全く違ってしまう。「Sever」は,格式ばった言葉で公的な改まった場面でのスピーチや公文書でしか使わないが,「切れる,断絶する,関係を断つ,仲を裂く」などの意味になる。ライオンズクラブが目指す精神(Serve,奉仕する,役立つ)とはかけ離れてしまうのだ。

それとも,「Sever」と彫ったのには他の意図があるのだろうか。

◆憩の庭(昭和45年6月14日建立,恵庭市駒場「恵庭公園」内)

恵庭市駒場の恵庭公園内,野球場近くの林の中に「憩の庭」と書かれた碑がある(写真は2014.12.5撮影)。題字は,恵庭町長田中菊治の書である。石柱の裏には,「恵庭ライオンズクラブ認証状伝達式五周年記念事業,1970年(昭和45)6月14日,恵庭しし会長野原牧象書」の石版がはめ込まれている。また,碑の裏側には会員(58名)及び五周年記念以降十周年記念までの入会者(20名)の氏名が刻まれている。

更に,碑を補完するように,もう一つの碑板がある。それには,「モットー,We Sever(Serveの間違いだろう。このままでは,「我々は断絶する,関係を断つ」となる),ライオンズの誓い,われわれは知性を高め,友愛と相互理解の精神を養い,平和と自由を守り,社会奉仕に精進する」とライオンズクラブの精神を謳っている。裏には「認証四十周年記念,会員(2004年7月~2005年6月,83名)及び物故会員(23名)の氏名を刻んでいることから,40周年記念事業の際に改築増設したのだろう。

恵庭ライオンズクラブの結成は1964年1月,1965年6月13日に認証状伝達式(チャーターナイト)が行われている。それから時は流れ,来年2015年に50周年を迎える。6月6日に50周年の記念式典を開催する予定だという(参照:恵庭ライオンズクラブHP)。

恵庭ライオンズクラブは,交通安全活動,健康まつり,青少年サイクリングの集い,少年野球大会,薬物乱用防止教室,えにわ湖慈しみフェスタ等,多くの事業に取り組み地域に貢献している。「We Serve」のモットーで尽力される73名の会員諸氏に敬意を表したい。

因みに,ライオンズクラブは世界最大の社会奉仕団体(ライオンズクラブ国際協会)で,会員数は世界でおよそ135万人,日本11万人を数えるという。

 

2014.12.24訂正(コメント対応):「ライオンズクラブ」を「ロータリークラブ」と誤記した箇所がありました。ご指摘頂き有難うございます。

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恵庭の碑-8,行幸記念の碑

2014-12-22 17:03:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

行幸」とは天皇が外出すること(複数個所を目的にする場合は「巡幸」)を言い,皇后,皇太后,皇太子,皇太子妃の外出は「行啓」(巡啓)と呼ばれる。そして,「聖蹟」とは時の天皇が行幸した場所で,全国に記念碑が建てられた歴史がある。

恵庭には,明治天皇が明治14年に北海道を巡幸した際に休憩した場所を記念して建てられた「帷宮碑」「御膳水跡碑」,昭和天皇が昭和11年陸軍特別大演習で行幸したのを記念して建設された「聖蹟記念碑」がある。

なお,その後の皇族方の行啓としては,昭和46年(1971)2月10日に皇太子,美智子妃殿下が「恵庭青年の家(現,恵庭市青少年研修センター)」に立ち寄り「北海道あすをつくる青年開発会議」に臨席,平成4年(1992)8月6日に常陸宮同妃殿下が道立水産孵化場(現,北海道立総合研究機構さけます・内水面水産試験場)を視察されている。

1.漁村帷宮碑(明治33年9月2日建立,恵庭市泉町)

2.御膳水跡(昭和3年7月24日建立,恵庭市泉町)

3.聖蹟記念碑<前方記念碑>(昭和12年6月建立,恵庭市仁翁台)

4.聖蹟記念碑<後方記念碑>(昭和13年5月20日建立,恵庭市桜森)

 

1.漁村帷宮碑(明治33年9月2日建立,恵庭市泉町)

明治14年(1900)9月2日,明治天皇が北海道開拓の状況と民情視察のため北海道を訪れた際,札幌から室蘭に向かう途中,この地で小憩されました。この視察を機に道路や橋梁が整備され,開拓にも拍車がかかったと伝えられている。昭和5年(1930)11月,恵庭青年団漁分団により改築され,昭和43年(1963)現在地へ移築された(写真は2013.10.19撮影)。

傍らに建てられている撰文碑から,帷宮碑由来について転記する。

「帷宮碑由来,明治天皇が本道開拓の重要性に思いをいたされ明治十四年本道御巡幸の際,九月二日当地に御休憩になり現在の恵庭公園付近にあった官営牧場の放牧状況を御覧になり開拓者に激励のお言葉を賜りました。これを記念して明治三十三年に開拓者有志の手によりこの碑が建てられたものであるが,その後地域の開発に伴いこの地帯に土地区画整理事業が行われ,この碑が道路の裏側に面するようになったので,開道百年記念事業として現在の向きに改修建立したものである。昭和四十三年八月,恵庭町」

    

2.御膳水跡(昭和3年7月24日建立,恵庭市泉町)

明治14年(1900)9月2日,明治天皇が北海道視察時に恵庭で休憩した際,この付近の井戸水でお茶を召し上がったことから記念碑を建立,井戸枠も保存された。明治3年(1928)7月24日,恵庭青年団漁分団によって台石の増築,井戸枠などを改修し永久保存が図られ,さらに明治43年(1968)開道百年記念事業の一環として現在地に移設改築された(写真は2014.12.14撮影)。

 

3.聖蹟記念碑<前方記念碑>(昭和12年6月建立,恵庭市仁翁台

昭和11年(1936)陸軍特別大演習が島松大演習場で行われ,昭和天皇が行幸されたことを記念して建立されたものである。島松大演習場内の野外統監部野立所が置かれた二翁台にある。石狩支庁管内小学校長会が管内の小学校職員及び児童から浄財を募って建立されたと記録されている。

4.聖蹟記念碑<後方記念碑>(昭和13年5月20日建立,恵庭市桜森)

恵庭市桜森,国道36号沿いに聖蹟記念碑が建っている。昭和11年(1936)陸軍特別大演習が島松大演習場で行われ,昭和天皇が行幸されたことを記念して建立されたものである。天皇は恵庭駅から乗用車で来られ,この場所で馬に乗り換えられたという。

恵庭村会は昭和12年度予算に建設費を計上,満場一致で議決され,同年10月28日着工,翌13年5月20日に完成をみている。碑の設計は北大営繕課落藤技師,基礎はコンクリート,台石は神居古潭産蛇紋岩及び張碓神工園産硬石,竿石は仙台石からなり,高さ5m80cm。篆額は総理大臣廣田弘毅,碑文は北海道庁長官池田清の撰文による。碑文は省略する(恵庭市史に記載がある)。

なお,この大演習に関しては大本営が北海道大学農学部におかれ,天皇は大学の研究活動を視察した(北大クラーク像の向かい,農学部庁舎を背景にして「聖蹟記念碑」がある)。また,北海道庁東門の近くにも「行幸記念碑」(昭和11年10月7日)がある。

この時代,昭和6年には満州事変,昭和7年犬養首相暗殺(五・一五事件),昭和8年日本の国際連盟脱退,昭和9年ヒットラーが総統に就任,昭和10年美濃部達吉の天皇機関説問題化,平成11年陸軍青年将校による二・二六事件など,歴史の歯車は日中戦争及び第二次世界大戦へ向かっていた。聖蹟記念碑の前に立つと,大きな塊が加速しながら転がって行く当時の様子が見えるようだ。戦への歯止めは何故できなかったのか,考えてみるのもよい。

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恵庭の碑-7,路傍に祀られるお地蔵さん 「地蔵菩薩」

2014-12-15 11:48:17 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

今まで紹介した記念碑の範疇から外れるが,本項では開拓時以来ずっと信仰の対象であった石仏,地蔵尊について述べる。

「地蔵」は菩薩の一つ,「大が全ての命を育む力をするように,苦悩する人々を大慈悲の心で救済する」との意で名付けられたとされる。この「地蔵菩薩」は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であるとされ,絶大な信仰の対象となってきた。

日本における民間信仰では,「道祖神」としての性格を持つと共に,子供の守り神として信奉されてきた。一般的には,親しみを込めて「お地蔵さん」と呼ばれるように,各地の路傍に数多く祀られている(歴史が浅い北海道は少ない)。そして,地蔵には「寒かろう」と帽子を被せたり,前垂れを着せたりなど,身近な信仰対象になっている。恵庭では,島松沢と中恵庭に地蔵尊があるが,両地区とも古道の要所であることから,道祖神の意味合いが有ったのかもしれない。

なお,六地蔵は仏教の六道輪廻(地獄道,餓鬼道,畜生道,修羅道,人道,天道)の思想に基づくもので,六道のそれぞれを6種の地蔵が救う(或いは,地蔵菩薩は六道全てに隔てなく慈悲を注ぐ)とする説から生まれたものである。旅立つ迷える集生(餓鬼)を救済するために,六地蔵は墓地の入り口などに祀られる場合が多い。恵庭でも,寺院の入り口に六地蔵が祀られている例がある(特に禅寺)。

更に近年,交通事故が多発するようになると,被害者の供養鎮魂と交通安全を祈願して「交通安全地蔵」が建立されるようになった。

 

1.鈴木家の「地蔵」(昭和35年4月建立,恵庭市島松沢)

2.山神(昭和28年7月12日建立,恵庭市島松沢)

3.六地蔵(昭和4年建立,昭和26・平成9年移転改修,恵庭市上山口)

4.広隆寺「八十八か所地蔵」(恵庭市文京町「広隆寺」内)

5.大安寺「六地蔵」(恵庭市大町町「大安寺」内)

6.龍仙寺「六地蔵」(恵庭市有明町「龍仙寺」内)

7.交通安全地蔵(昭和32年4月建立,恵庭市島松沢)

8.交通安全守護地蔵尊(昭和33年建立,平成20年7月改築,恵庭市和光町)

9.交通安全の碑(恵庭市上山口)

 

1.鈴木家の「地蔵」(昭和35年4月27日建立,恵庭市島松沢)

国道36号線から島松沢に下った左手に,「交通安全地蔵」「馬頭観音」「山神」と並んで祀られている(写真は2014.12.14撮影)。台石に「鈴木」と彫られているので,鈴木家が祀ったものであろう。

 

2.山神(昭和28年7月12日建立,恵庭市島松沢)

国道36号線から島松沢に下った左手に,「交通安全地蔵」「馬頭観音」等と並んで祀られている(写真は2013.10.19,2014.12.1.4撮影)。「山神」は地蔵とは異なるが,本項に含めた。

「山神」とは本来山に宿る神の総称であり,山で働く人々にとっては守護神,里で働く農民にとっては「田神」であり祖霊としても祀られてきた。また,炭鉱などでも安全祈願の対象として祀られていた。この島松沢では,大正時代から「島松軟石」の切り出しが行われていたので,山で働く人々が安全祈願を込めて建立したと伝えられている。

 

3.六地蔵(昭和4年建立,昭和26・平成9年移転改修,恵庭市上山口)

漁川に沿って走る「川沿大通り」は,中恵庭地区で道道600号島松千歳線と交差する。信号のある交差点の角に「六地蔵」が祀られている(写真は2014.12.4,12.12撮影)。かつて,子供を亡くした親が供養のため一体の地蔵を祀ったのが始まりだと言う。やがてその思いは周囲の人々に広がり,日々の暮らしの安寧と五穀豊穣を願って,昭和4年(1929)に六地蔵を祀り,中恵庭町内会の人々は毎年8月24日に祭礼を行っている。

御堂の壁には,改築の沿革が記されている。即ち,「没(沿の間違い)革,この地蔵尊は,昭和四年に先人達が,厳しい開拓時代を経て農業基礎も経済状態も安定してきたことから,婦人たちを含めた地域の皆さん方によって,概ね恵庭神社管内に居住する人々の守護尊として,五穀豊穣,家内安全などを願って浄財募り労力奉仕などによって建立されたものですが,その後,昭和二十六年に天災によって尊舎が破壊し,全面道路の南側五十米程離れていたものを,この地に移転復元したものです。建立以来,毎年八月二十四日を祭礼日と決め,戦前は全地域によって盛会な例祭が行われていたのですが,戦後は中恵庭町内会が継承して参りましたが,近年に至り建立爾来六十八年余を経た堂舎は腐食,破損も甚だしく,改修についての意向が高まり,町内会の総意によって寄付を募り改築することになり,株式会社宮崎組の施工によって完成したものであります。平成九年七月,中恵庭町内会,改築世話人水野信弘ら11名」「なお建立当初の記録が改築前の堂壁に縁辺額に掲載されていたが,永い間,風に漂されて文字が消滅して読みとることが出来ず判明したもののみ謄写します。(以下,発起人,施工,寄進人氏名,解読できないもの世話人名などが記載されている)」とある。また,別面の堂壁には地蔵尊堂寄付金者芳名が記されている。

 

4.広隆寺「八十八か所地蔵」(恵庭市文京町「広隆寺」内)

恵庭市文京町4丁目,高野山真言宗弘隆寺がある。金毘羅大権現(弘法大師・波切不動明王)を本尊とする寺院である。八十八か所地蔵尊が四列に並び祀られている(写真は2014.12.5撮影)。

  

5.大安寺「六地蔵」(恵庭市大町町「大安寺」内)

恵庭市大町町4丁目,曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺の山門を抜けた左手に,「六地蔵」ほかいくつかの地蔵が祀られている(写真は2014.12.5撮影)。

 

6.龍仙寺「六地蔵」(恵庭市有明町「龍仙寺」内)

恵庭市有明町3丁目,柏木戸磯通りに面した龍仙寺境内に「六地蔵」が祀られている(写真は2014.12.10撮影)。柏木戸磯通りから良く見えるので,ご存知の方も多いだろう。雪が降った翌日に訪れたら,地蔵はすっかり防寒姿であった。

  

7.「交通安全地蔵」(昭和32年4月20日建立,恵庭市島松沢)

国道36号線から島松沢に下った左手に,「馬頭観音」「山神」「地蔵」と並んで祀られている(写真は2014.12.14撮影)。台石正面には「献納,昭和三十二年四月二十日建立」と刻まれ,両サイドには発起人と賛助者の氏名が彫られている。

 

8.交通安全守護地蔵尊(昭和33年建立,平成20年7月改築,恵庭市和光町)

恵庭市和光町1丁目,旧国道36号線に面して「交通安全守護地蔵尊」が祀られている(写真は2014.12.14撮影)。傍らの碑石に建立の由来が書かれているので転記する。

「地蔵尊建立の由来,昭和二十八年札幌千歳間国道三十六号線通称弾丸道路が完全舗装となり,交通量の増大と共に交通事故も激増しました。特に国道とユカンボシ川の交差付近では短期間に十数名の悲惨な死亡事故が発生し地域住民に衝撃を与え,死者の鎮魂と交通事故の根絶を願い地蔵尊の建立を計画しました。当時の小磯本通農事実行組合の有志が発起人となり,後援恵庭町,恵庭交通安全協会,協賛近郊住民一同,札幌千歳間沿線企業,個人多数の浄財と関係者のご奉仕により,昭和三十三年完成したものであります。以来五十年地蔵尊は交通安全運動の象徴として交通事故防止を願いご鎮座されています。平成二十年七月吉日,交通安全守護地蔵尊護持会」

なお,裏面には五十周年事業に関わった役員氏名が記されている。

 

9.交通安全の碑(恵庭市上山口)

国道36号線から,天融寺脇の「川沿大通り」を少し入った所に「交通安全の碑」が建っている。道路がカーブし,交通事故発生の恐れが危惧されるような場所だ。交通安全を願う碑である。

お地蔵さんの写真を撮りながらふと思った,「路傍の地蔵に手を合わせ,花を手向ける慣習が,今の日本に残っているだろうか」と。そう言えば,海外の旅の途中で,教会や墓地の前を通るとき運転手は必ず十字を切っていた・・・。

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伊豆の人-13,ハリスに仕えた二少年「村山滝蔵」と「西山助蔵」

2014-12-12 16:03:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

 安政3年初代総領事タウンゼント・ハリスは下田に着任した

幕末の嘉永7年(1853)3月,米国のペリー提督によって二百年以上続いた鎖国の扉が開かれた。そして,この時締結された「日米和親条約」(日本國米利堅合衆國和親条約,Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)の第十一条によって,初代総領事タウンゼント・ハリスは通訳兼書記のヒュースケンを伴って下田に着任した。安政3年(1856)のことである。

安政3年8月5日(1856.9.3)サンジャシント号から玉泉寺(柿崎)に移ったハリスは,翌日(8月6日)境内に星数31の星条旗を掲揚し,日本最初の領事館としてスタートしたのである。領事館には香港から連れてきた5人の中国人(料理人など)がいたが,身の回りの世話をする給仕を雇い入れたいと,ハリスは奉行所に斡旋を申し入れた。

◆ハリスに仕えた下田生まれの「二少年」

当時は長い鎖国が終わったばかりの時代。外国人の下で働こうとする希望者は無く,また奉行所も村人が外国人に近づくのを禁止していたこともあって,ハリスに何とか諦めさせようとするが強硬な要求に押し切られてしまう。結局,二人の少年(村山滝蔵と西山助蔵)を領事館に出仕させることになったのである(情報収集を言い含めたかもしれない)。二人は,8月17日奉行所調役脇屋卯三郎と通訳森山吉太郎に付き添われて領事館に向かった。

滝蔵は満14歳,助蔵は満13歳,今でいえば中学生の少年で,足軽に採用されたばかりだった。幕府は下田を開港するにあたって,安政2年(1855)中村に奉行所と役宅を設けたが,1万360坪の広大な田畑を埋め立てたため土地を失った農民の子弟を足軽として雇用していたのである。滝蔵と助蔵も安政3年の春,足軽となり,四石二斗二人扶持の身分であった。否と言えるような立場ではなかった。

出仕した二人は,山門を入った右手の長屋に寝起きし,滝蔵はハリス,助蔵はヒュースケン担当の給仕として働くことになる。言葉が通じず,習慣も全く違う生活で,二人の少年はどれほど戸惑ったことだろう。そのような中で,ハリスは少年たちに優しく接し多くの事を教え,また真面目に働く少年たちからは日本人の心を知り,二人と話すことにより安らぎを得ていた(そのような二人との関係がハリス日記の節々からも読み取れる)。不思議な運命に巻き込まれた二人の少年が,陰ながら両国友好の大きな力になったであろうことは想像に難くない。

幕末下田の歴史の中で語られるのは,日本全権の林大学頭,井戸対馬守,伊沢美作守,都築駿河守ら,日露交渉全権の筒井政憲,川路聖照謨など幕府要人の対応であり,下田奉行ら役人の姿である。そして,後日の物語では唐人お吉が悲劇の主人公として語られる。下田における開港の歴史ロマンを語るには,お吉物語も可としよう。

しかし一方,外交の表舞台には登場しないが,アメリカ領事館(後に公使館)内で甲斐甲斐しく働いた二少年(滝蔵と助蔵)がいたことを,もっと注目すべきではなかろうか。今でも海外公館にはローカルスタッフがいて,外交における縁の下の力を発揮しているが,二人が領事館に勤務した頃の時代背景は全く異なる。先駆者たる二人の意義は,もっと評価されて良い。

滝蔵は,17歳の時ハリスの上海旅行に同行,25歳時にはプリュイン公使に伴い渡米,51歳時にはオーストリア皇太子の接待役を務めるなど,長く公使館で働いていた。また助蔵は長男であったため29歳の時郷里に戻るが,4代の公使に仕え,聞き覚えの英語をまとめた英和辞典を残している(豆洲下田郷土資料館)。二人は,日米両国の懸け橋となったのである。

二少年の略歴等については,郷土史家肥田実氏の研究著作(肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館2009,「肥田実著作集,幕末開港の町下田」下田開国博物館2007)に詳しい。同書およびその他の資料を参考にして,二人の略歴を整理した。

◆村山滝蔵の略歴

天保13年(1842):滝蔵生まれる。

安政3年(1856)春:滝蔵,足軽に採用される(四石二斗二人扶持)。

安政3年8月17日(1856.09.15):滝蔵満14歳,ハリスに仕える(住み込み給仕として,山門を入って右側の長屋で寝起き,月一両二分の手当)。

安政4年10月7日(1857.11.23):ハリスの江戸行に同行する(滝蔵のために紋付羽織を注文,白木屋)。

安政6年(1859):ハリスの長崎・上海・香港旅行(ミシシッピー号)に同行する。

安政6年6月8日(1859.07.07):善福寺(公使館)に移り住む。

元治2年(1865):滝蔵25歳,プリュイン公使帰国時に米国へ同行する。

元治2年(1865):帰国後妻ウタを迎え,神奈川本覚寺(領事館),東京公使館に勤める。

明治26年(1893):オーストリア皇太子(フランツ・フェルデイナント)訪日時の接待役(滝蔵51歳)に任じられる。同国勲章を受ける。

明治39年(1906):二男瀧三郎の住む大連に移る。

明治44年(1911):妻逝去(滝蔵70歳)

大正7年(1918):大正4年に一時下田に帰るが,二年後大連に戻り,瀧三郎四男新平を養子に迎える。大連で没(満76歳),目黒の大円寺に眠る。

◆西山助蔵の略歴

天保14年(1843):助蔵生まれる。

安政3年(1856)春:助蔵,足軽に採用される(四石二斗二人扶持)。

安政3年8月17日(1856.09.15):助蔵満13歳,ヒュースケンに仕える(住み込み給仕,山門を入って右側の長屋で寝起き,月一両二分の手当)。

安政4年(1857):ハリスの江戸行に同行する(助蔵のために紋付羽織を注文,白木屋)。

安政6年6月8日(1859.07.07):善福寺(公使館)に移り住む

元治2年(1865):プリュイン帰国時に,助蔵は長男のため家の反対で渡米せず。

明治3年(1870):4代の公使に仕え郷里下田に戻る(助蔵29歳),妻(まつ)を迎える。

大正10年(1921):3月1日逝去(満78歳),徳蔵寺(下田)に眠る。

◆思いを馳せる

平成26年11月下旬の連休,伊豆の街は温暖な天候に恵まれ,紅葉の季節も近いとあって久々の賑わいを見せていた。伊豆急下田駅でレンタカーを借り,下田街道(天城街道)を稲生沢川に沿って走る。稲生沢川を渡った右手にある下田警察署の辺りが下田奉行所の置かれた場所,さらに700m程進むと右手に「徳蔵寺」がある。

「ああ,此処が西山助蔵の眠る寺か」

「幕末の時代,外国人に仕えた少年は何を考えていたのだろう」

思いを馳せた。

写真はアメリカ領事館が置かれた「玉泉寺」(下田市柿崎,写真は2012.9.20撮影)と西山助蔵が眠る「徳蔵寺」(下田市西中,写真は20144.21撮影)

 

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恵庭の碑-6,朽ち果てるのか 「恵庭村道路元標」

2014-12-11 16:10:07 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

明治6年(1873)12月20日,明治政府は府県ごとに「里程元標」を設け陸地の道程の調査を命じた(太政官日誌)。その後,明治44年(1911)現在の日本橋が架けられると「東京市道路元標」が設置された。私たちがよく知る「日本国道路元標」である(日本橋中央にあった道路元標は昭和47年の道路改修により日本橋北西側に移設され,元の場所には50cm四方の元標が埋め込まれた。直上の首都高速高架橋にもモニュメントがある)。

また,北海道庁赤レンガ庁舎の門前に「札幌市道路元標」があることをご存知な方も多いと思う。東京を起点とする国道4号線の終点が北海道庁所在地とされていたからである。そして,道内の国道は此処を起点としていた(現在の碑は昭和57年に再建された)。

更に,大正8年(1919)4月1日公布の旧道路法では,各市町村に一個ずつ「道路元標」を設置することとされている。道内でも各町村に設置されたと思うが,存在が確認されている道路元標は必ずしも多くない。それは,昭和27年に制定された新道路法によって,道路の起点と終点が道路ごとに設定するよう見直され,従来の道路元標が不要のものになった背景がある。多くは道路改修等で壊され,忘れ去られ,朽ち果ててしまったのだろう。

このような中で,「道路元標」を歴史遺産として守っている自治体も少なからずある。ところで貴方は「恵庭村道路元標」の現状をご存知ですか。

1.恵庭村道路元標(昭和7年建設,恵庭市恵庭市中央)

2.漁村外一か村戸長役場(旧恵庭村役場)跡の碑(平成9年7月10日,恵庭市恵庭市中央)

 

1.恵庭村道路元標(昭和7年建設,恵庭市中央)

この元標は,恵庭市中恵庭(恵庭市役所中恵庭出張所敷地内,大正9年3月の北海道庁告示220号によれば元標位置は漁村551番地とある),北海道道600号島松千歳線に面して建てられている(写真は2014.10.22撮影)。櫟の木の陰に埋もれて,気づく人もあるまい。標石の表面には「恵庭村道路元標」,裏には「昭和七年建設,北海道庁」とある。

明治開拓の時代から大正・昭和にかけて,第二次世界大戦が終わるまで,この地は恵庭の中心であった。この元標を起点にして道路は四方に延びていた。現行法では道路管理者から見捨てられた存在かもしれないが,恵庭市民にとっては歴史のモニュメントであろう。

写真をご覧頂ければお分かりかと思うが,標石の角は朽ち,刻まれた文字も崩れそうだ。立ち姿は,除雪の重機から身を守る術もない。崩れ去る前に何とか保存したいものだ。「恵庭の街遺産」保全の取り組みを提起したい。

 

 

2.漁村外一か村戸長役場(旧恵庭村役場)跡の碑(平成9年7月10日,恵庭市中央)

石碑は,恵庭市中恵庭,恵庭市役所中恵庭出張所敷地内に建っている(写真は2014.10.22撮影)。碑文には「明治三十年六月十三日,千歳郡千歳村外五か村戸長役場の所轄を分離し,ここに漁村(外が抜けたか?)一か村戸長役場を置き,同年七月十五日に開庁したことを誌す」とある。

戸長役場のその後の歴史を辿っておこう。明治30年7月15日,千歳郡戸長役場から分離して漁村外一か村(島松村)戸長役場が漁村中央に設置された。恵庭市の行政はここに始まったのである。その後,明治39年には漁村と島松村を併せて恵庭村と称し,恵庭村役場となった。更に,昭和26年7月1日町制が施行され恵庭町となり,昭和27年に町役場は現在市役所本庁がある場所(京町)へ移転した。

この間,役場庁舎は明治43年,大正15年に改築されている。旧役場の「ゆかりの地」に建てられた中恵庭出張所の建物は,大正15年に建てられた役場庁舎をイメージしたと言われる(平成8年1月改築)。恵庭市消防団第三分団の車庫,詰所が併設され,隣には中恵庭会館がある。

 

恵み野に住宅を構えてから二十年余が過ぎた。中恵庭の道路を通勤で4年間も通ったが,この道路元標の存在を知ったのは数年前のこと。知ってしまうと,朽ち果てそうな道路元標が気になって止まない。

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恵庭の碑-5,日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔「忠魂碑」

2014-12-09 13:24:37 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

忠魂碑は,日清戦争(明治27~28年,1894-95)や日露戦争(明治37~38年,1904-05)での戦死者を供養する(英霊を祀る)ために,自治体等が建立した碑である。建設の主体になったのは帝国在郷軍人会(日露戦争前後から各地に組織され,明治43年には陸軍省の指導により全国組織となり,昭和11年には陸海軍省下の公的組織となった。その目的は,予備役や補充兵役の組織化,軍事知識の普及,国家観念の養成を担った)で,その後遺族会などが運営管理を行った。第二次世界大戦後にはGHQの指示で各地の忠魂碑が撤去されたが,恵庭には以下の三碑が残存する。

忠魂碑は,村の「靖国」と呼ばれたことがあるように,戦前の軍国主義と深く係わった経緯があるため多くの議論があるところだ。しかし一方,この地から多数の若者が出征し,祖国を思い,家族を案じつつ異国の地で亡くなったのも歴史の事実である。この人々の犠牲と国民の努力があって,現在の平和と繁栄が成り立っている。

忠魂碑は今や,意見の相違を乗り越え,平和を願う国民の史跡として後世に語り継がれるべきだろう。そんな気持ちで,恵庭の忠魂碑を訪れた。

1.忠魂碑(明治41年9月18日建立,恵庭市島松本町「島松神社」境内)

2.皇軍戦没者招魂供養の碑(昭和9年5月建立,恵庭市大町「大安寺」境内)

3.忠魂碑(昭和14年10月建立,恵庭市上山口「中恵庭公園」内)

 

1.忠魂碑(明治41年9月18日建立,恵庭市島松本町「島松神社」境内)

恵庭市島松本町4丁目,豊受大神を祀る「島松神社」境内(社殿に向かって右側)に,菱型石の忠魂碑が建っている(写真は2014.12.4撮影)。忠魂碑の右肩に彫られた文字は風化して読めない。恵庭市史によると,明治37~38年戦役における記念碑として建設されたとある。上段基石の正面には発起人氏名(岩井與三吉,歩兵勲八等石本正,同旭熊治郎,同小野久作,同原田吟蔵,野砲兵勲八等九谷與三吉),なお,一行開けて野砲兵勲八等三島友吉,海軍兵勲八等杉本福松ら25名の名前が肩書きと共に刻まれている(戦没者氏名なのか?)。横には「明治四十一年九月十八日建之」とある。下段基石には寄付有志人名(原田専松ら112名及び氏子一同)が刻まれている。建設費はこの方々の寄進によるものであろう。

また,忠魂碑を囲む石柱に,「忠魂碑移転改築,昭和九年七月七日」「発起者,恵庭村在郷軍人第三班一同,島松青年団三部生一同」の記述があるので,昭和九年に移築が行われたことが分かる。

 

 

2.皇軍戦没者招魂供養の碑(昭和9年5月建立,恵庭市大町「大安寺」境内)

恵庭市大町町4丁目,曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺の境内に,「皇軍戦没者招魂供養の碑」が建っている(写真は2014.12.5撮影)。碑表には,上位に五星,中央に「皇軍戦没者招魂供養の碑」の文字,下端に鎖と錨が刻まれている。第七師団長陸軍中将 佐藤子之助の書である。

基石には,主催者(郷軍第一班,大安寺),後援(柏木青年分団,漁青年分団),建設奉賛会(総裁会長菊池政之,副会長高野俊治,理事林愛助,福田幸雄,会計中村作蔵,ほか委員29名),特別賛助者(林愛助ら15名),賛助者(中村恒三郎ら23名),正会員(福田幸雄ら66名)の氏名が読みとれる。

 

 

3.忠魂碑(昭和14年10月建立,恵庭市上山口「中恵庭公園」内)

恵庭市上山口地区、中恵庭の「川沿大通り」と「漁川」の間に中恵庭公園がある。公園の中央に約6m20cmの威容で忠魂碑は建っている(写真は2014.10.22撮影)。碑の表に忠魂碑(書は近衛文麿),裏面に昭和十四年十月建立と刻まれている。また,337名の戦没者氏名を記した銅板がはめ込まれている。基石には「平成二年七月建之」とあることから,この年に改修が行われたのだろう。

恵庭市史には建設の経緯が記されている。それによると,「本碑は・・・昭和14年5月30日村会において満場一致の議決を以って建設されたもので・・・昭和15年5月28日をもって落成式並びに第一回合祀祭を実施した。・・・北海道帝国大学営繕課大木技手の設計になり,コンクリートを基礎とし,碑石は茨城県稲田産花崗岩貼り付・・・村費及び一般崇敬者の篤志寄付・・・1,000余人に及ぶ多数村民の勤労奉仕・・・境内に植栽された樹木二百数十本は村内各農事組合その他の寄付による。・・・合祀された英霊は218柱に達し,毎年7月8日碑前において遺族参列のもと戦没者追悼式が行われている」とある。現在の戦没者名簿数と異なるが,改修時に追加されたものであろう。

 

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恵庭の碑-4,開拓を支えた家畜を供養する 「馬頭観音」「獣魂碑」

2014-12-08 13:15:57 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

府県の古道を辿れば「道祖神」や「地蔵尊」が彼方此方に見られるが,歴史の浅い北海道では殆ど見掛けない。そのような中で,いわゆる「馬頭観音」「獣魂碑」は相対的に多いと言えようか。恵庭郷土資料館がリストアップしたものだけで,この種の石碑が市内に11ヶ所ある(参照:恵庭市郷土資料館)。

因みに,馬頭観音は「観世音菩薩」(「如来」と共に仏教信仰の対象となる)の中の一つで,宝冠に馬頭をいただき憤怒の相をし,魔を馬のような勢いで打ち伏せ,慈悲の最も強い菩薩として尊崇されていたものである。江戸時代に入ると,馬頭観音は馬の供養と結び付いて信仰されるようになり,従来の石像から「馬頭観世音菩薩」の文字だけを彫ったものに変化した。恵庭にある「文字だけの馬頭観音碑」も,愛馬への供養として祀られたものと考えてよいだろう。

この恵庭に馬頭観音碑が多くみられるのは,明治以降の開拓時代に馬が交通や荷役の主役であり,農耕馬として家族同様に大切な役割を果たし,また大戦では軍馬として活躍した(軍の演習場,公共育成牧場があった)背景があるのだろう。

1. 馬頭観世音菩薩(明治18年9月建立,恵庭市島松沢)

2. 馬頭観世音菩薩(建立年不明,恵庭市西島松「恵庭墓苑」東角)

3. 馬頭観世音菩薩(昭和7年9月1日建立,恵庭市下島松)

4. 馬頭観世音(建立年不明,昭和23年12月移転,恵庭市恵南)

5. 獣魂碑(昭和24年10月建立,恵庭市盤尻)

6. 馬頭観音菩薩(建立年不明,恵庭市文京町弘隆寺境内)

7. 牛頭大王(建立年不明,昭和38年11月17日移転,恵庭市恵南)

8. 獣魂碑(昭和38年10月建立,恵庭市西島松)

9. 乳牛感謝の碑(昭和39年10月11日建立,恵庭市駒場「恵庭公園」内)

10. 家畜慰霊供養塔(昭和50年5月10日建立,恵庭市西島松)

11. 鳥獣供養の碑(昭和61年7月建立,恵庭市盤尻「市営牧場」内)

 

1.馬頭観世音菩薩(明治18年9月建立,恵庭市島松沢)

国道36号線から島松沢に下った左手に,「山神」や「地蔵尊」等と並んで祀られている(写真は2013.10.19撮影)。馬頭観世音菩薩の文字の下に「中山氏」と彫られている。この地は中山久蔵が初めて水稲栽培に成功した場所であり,島松駅逓が置かれ,函館と札幌を結ぶ馬車街道でもあった。この街道の急斜面で命を落とす馬も多かったことだろう。中山久蔵が第四代目の駅逓取扱人になったのは明治17年,この碑は明治18年に建立されている。

2.馬頭観世音菩薩(建立年不明,恵庭市西島松「恵庭墓苑」東角)

恵庭墓苑の東角に「馬頭観世音菩薩」が祀られているが,目に付く場所ではない(写真は2014.11.11撮影)。お参りする人がいるのだろう,供物が供えられている。建立年は不明。

3.馬頭観世音菩薩(昭和7年9月1日建立,恵庭市下島松)

恵庭市下島松,道道46号江別恵庭線の西島松から,ホクレン恵庭研究農場と道央農業振興公社の間の道路を直進し,突き当りを右折して,島松川が流れる沢に下る途中にある。「廣和魂」碑のかたわらに,「馬頭観世音菩薩」(昭和七年二百十日,大山口源平)が祀られている(写真は2014.11.12撮影)。開拓の苦労を分かち合った馬の供養が行われたのだろう。

4.馬頭観世音(建立年不明,昭和23年12月移転,恵庭市恵南)

恵庭唯一の「観音像を刻んだ馬頭観音」である(写真は2013.10.19撮影)。顔が三つ,憤怒の相,手の数は十本であろうか。「三面十臂」の馬頭観世音菩薩である。場所は恵庭市恵南,寺田牧場みるくのアトリエ南側に隣接して「開拓之碑」と並んで建っている。桜森開拓営団が立ち退きを余儀なくされ,この地に移住した際に移転したと言われている。演習場にあったことから推察するに,軍馬の弔いのために建立されたものだろうか。

    

5. 獣魂碑(昭和24年10月建立,恵庭市盤尻)

盤尻地区道道恵庭岳公園線を進み,恵庭カントリークラブ入口を過ぎてすぐ,左側の石狩東部広域水道企業団漁川浄水場へ向かう坂道を上った所(民有地)に祀られていると伺ったが,なかなか訪れる機会がなかった。

平成二十八年十月八日、懸案だったこの場所を訪ねた。探しても所在が分からなかったので、小豆の収穫準備をしていた方に尋ねると、その方は永峯さんで、「獣魂碑は先代が建立したものだが、牧畜業を止めて畑作専業になったこともあり、昨年(平成二十七年)解体した。畜産を再開したら建立を考える」とのことであった。役目を終えたということだろう。

6. 馬頭観音菩薩(建立年不明,恵庭市文京町「弘隆寺」境内)

「馬頭観音菩薩」と刻まれた古い碑が祀られている(写真は2014.12.5撮影)。裏には「昭和十●・・」の文字が微かに読み取れるが,建立年は不明。両側に「勢至菩薩」「普賢菩薩」が置かれている。奥には八十八か所地蔵が並んでいる。また,近くには平成十年十一月に建立された「愛玩動物畜生道解脱」の墓石があり,近ごろのペットブーム時勢を偲ばせる。

   

7. 牛頭大王(建立年不明,昭和38年11月17日移転,恵庭市恵南)

「牛頭天王」は疫病を司る神として信仰の対象とされていたが,後に「馬頭観音」との対比から「牛の神」として信仰されるようになったとされる。この「牛頭大王碑」も恵庭市豊栄(恵南の旧称)地区で乳牛の飼育100頭を上回った記念に建立されたと言われ,乳牛の供養のために建立されたのだろう(写真は2013.10.19撮影)。

8. 獣魂碑(昭和38年10月建立,恵庭市西島松)

恵庭市西島松,南21号と西8線がと交差する角の林の中,南8線に面して建っている(写真は2014.12.4撮影)。JA道央の低温倉庫,青果物出荷場の近くである。碑表には,日本酪農の父と呼ばれる黒澤酉蔵の筆になる「獣魂碑」の文字が大書されている。黒澤酉蔵は,茨城県常陸太田市出身の実業家,教育者,環境運動家。元衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(雪印メグミルク),北海道酪農義塾(酪農学園大学)の設立者。「健土建民(酪農は資源循環型農業の最たるもの)」「三愛精神(人を愛し,神を愛し,土を愛す)」が氏の教えであった。

基石には,「島松酪農組合,島松酪農青年研究会,昭和38年10月建立」の文字が刻まれている。なお,石工は中川貞男とある。

 

9. 乳牛感謝の碑(昭和39年10月11日建立,恵庭市駒場「恵庭公園」内)

恵庭公園の森深く,ユカンボシ川の源流地を見下ろす高台に「乳牛感謝の碑」がある(写真は2013.10.19,2014.12.5撮影)。碑表の題字は,北海道知事町村金吾の揮毫による。碑文には,「恵庭町の開拓は明治十九年に始まり,明治二十六年曠野に号線の区画が測定されるに及び,次第に開発は促進されたるも恵庭岳山麓地帯は高層火山礫地にして地味痩薄,農法亦旧来の陋習を脱せず,為に耕地荒廃して窮乏日を逐ふて迫る。茲に於いて昭和の初頭より先人相次いで北欧丁抹の農法を究め,乳牛を導入して酪農を企画す。昭和八年有志相謀り,酪農振興会を設立して斯業の発展を期せり。爾来幾多苦難の道を越へて酪農による楽土の建設に専心すること三十余年,今や乳牛の数も一千数百頭を算へ,農法又大いに改まりて往年の痩土は豊穣の沃土と化し生産頓に昂る。是まさに天地の理法に叶ふ農法にして且つ乳牛の恩択と謂ふべく,酪農振興会設立三十周年を記念し,茲に碑を建立し育ちゆく酪農を讃え,物言はぬ友,乳牛に感謝の意を表す。昭和三十九年十月十一日,恵庭酪農振興会,会長福屋茂見,撰文」(一部新字体に変更した)とある。碑背面には,酪農功労者故斎藤武彦ら10名,建設世話人福屋茂見ら14名の氏名が刻まれている。

この公園は,明治9年(1876)に官設漁村放牧場が設置され,後に北海道畜産試験場恵庭放牧場として活用されていた場所である。乳牛飼育頭数が恵庭町全体で千数百頭を超えたこの年,恵庭酪農振興会設立三十周年を記念して恵庭酪農振興会が建立したものである。因みに,平成24年の恵庭市の乳牛頭数は二千百頭余り(酪農家数21戸),厳しい経済環境のなか都市近郊型酪農経営を目指して努力が続けられている。

 

10. 家畜慰霊供養塔(昭和50年5月10日建立,恵庭市西島松)

恵庭市西島松,南21号と西8線が交差する角の林の中に「獣魂碑」と並んで祀られている(写真は2014.12.4撮影)。碑表には「家畜慰霊供養塔」,裏面には「昭和50年5月10日建立,恵庭市農協建之」と刻まれ,家畜の供養のために建立されたことが分かる。

11. 鳥獣供養の碑(昭和61年7月建立,恵庭市盤尻「市営牧場」内)

昭和61年7月,恵庭猟友親睦会有志一同によって,恵庭市盤尻「市営牧場」内に鳥獣供養のために建立された供養碑である。市営牧場に向かって進み、道路の右側、市営牧場内の林に囲まれて建っている。白御影に「鳥獣供養之碑」と刻まれた碑は、恵庭市加藤石材店石工による。

 

 

◆崇拝対象となる仏像について

ここで,仏教の崇拝対象となる仏像について整理しておこう(長い歴史があり,日本への布教過程,協議や宗派により複雑であるが,単純化する)。

仏像は,如来,菩薩,明王,天の4つに大別される。

如来:悟りをひらいた仏様(阿弥陀如来,大日如来,薬師如来,釈迦如来)

菩薩:如来になるための修行中の仏様(観世音菩薩,弥勒菩薩,普賢菩薩,文殊菩薩,地蔵菩薩など)。

明王:如来が化身した姿で,悪人を従わせるため憤怒の形相をしている(不動明王,愛染明王ほか)

:地獄道,餓鬼道,畜生道,修羅道,人道,天道という六道の天にいる仏様(七福神の弁財天ほか)。

なお,観世音菩薩は母性の慈愛で人々を救い,弥勒菩薩は未来で人々を救い,普賢菩薩は女性に篤く,文殊菩薩は知恵を司り,地蔵菩薩は子供を救い道端にあって庶民に身近な信仰対象となっている。また,観音菩薩の変化身として,六観音(聖観音,十一面観音,千手観音,馬頭観音,如意輪観音,准胝観音)があり,六種の観音が六道に迷う衆生を救済すると教える。即ち,聖観音―地獄道,千手観音―餓鬼道,馬頭観音―畜生道,十一面観音―修羅道,准胝観音―人道という組合せで対応しているのだという。

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