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伊豆の人-8,依田勉三の十勝入植に異を唱えた官吏 「渡瀬寅次郎」

2013-03-24 16:30:41 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

札幌農学校第一期生の渡瀬寅次郎、同郷のよしみで忠告

依田勉三の十勝入植に対して「5年早い」と異を唱えた札幌県庁官吏がいた。沼津兵学校付属小学校出身で札幌農学校一期生,札幌県庁官吏の渡瀬寅次郎である。

依田勉三は,十勝へ入植前の明治14年(1881)と明治15年(1882)に,北海道踏査行を実施した。一回目は単独で北海道の太平洋側を踏破して風土・産業の実態を視察し,二回目は鈴木銃太郎が同行して入植地を選定するためであった。

明治15615日,依田勉三と鈴木銃太郎は札幌県庁に,書記官の加納通弘(南伊豆出身)らを訪ねた。そして,トノサマバッタ被害調査で日高・十勝を巡回して帰庁したばかりの勧業課渡瀬寅次郎(沼津兵学校付属小学校出身)に会って,十勝の地勢や開拓地としての適性について尋ねた。

 

渡瀬寅次郎は

「十勝入植を希望しているようだが,十勝開拓計画はまだ先になる。石狩ではどうか」

同郷のよしみで忠告した。しかし,ケプロン報文を読み,前年に十勝の広大な原野を目にしていた勉三は満足できなかったのだろう。オベリベリ(下帯広)を入植の地とした。

また,書記官佐藤秀顕も「十勝を諦めるよう」説得し,その後数度の地所下付願に対してもしばらく認可を与えなかった(開拓計画と申請時期のずれが要因だろう)。

この時,勉三が渡瀬寅次郎や佐藤秀顕の意見に耳を傾けていたら,晩成社の顛末は全く異なったものになっていたと思われる。

 

「渡瀬寅次郎」とはどんな人物だったのか

安政6年(1859625日に江戸に生まれる。明治維新により徳川家が静岡藩に封じられると徳川慶喜について沼津に移り(10歳),代戯館,沼津兵学校(旧徳川家によって設立,俊秀が集った,初代頭取西周)付属小学校(兵学校の予備教育機関として明治2年開校,後の沼津小学校,集成舎,沼津中学校),集成舎変則科に学ぶ。東京英語学校(東京大学予備門の前身)を経て札幌農学校第一期生となる。

 

札幌農学校は,教頭にマサセチューセッセ農科大学の学長であったW.S.クラーク等を招聘するとともに,明治8年生徒の募集を行った。東京での募集は文部省管轄下の東京英語学校と東京開成学校(東京大学の前身)の生徒を対象にクラークらが口答試験を実施し,11名が入学した(この中に,佐藤昌介,渡瀬寅次郎,内田瀞,田内捨六らがいる)。また,札幌学校生に対する入試も行われ,第一期入学生となったのは総数24名であった。

明治9814日に開校式が行われ,ここは日本初の公立高等教育機関となった(駒場農学校が明治11年,東京大学が明治10年)。官費生が主体の札幌農学校諸規則には,「卒業後5年間開拓使に従事すること」などが義務付けられた。寅次郎はクラークによる「イエスを信ずる者の契約」に署名,明治10M.C.ハリスから受洗している。

 

無事に第一学年の過程を終了したのは16名,卒業(明治13年)は13名であった。卒業式の記念演説者となった彼は,

「農は職業中の最も有用,最も健全,最も貴重なものなり」

と,熱弁をふるったと言う。

 

寅次郎は,明治13年札幌農学校を卒業後開拓使御用掛(明治15年開拓使を廃止し3県を置く,明治19年北海道庁となる),明治18年水戸中学校長,明治21年茨城師範学校長,明治28年東京中学院(現関東学院)初代院長を歴任するなど教育に熱意を示した。また,明治25年には実業界に転じ「東京興農園」を設立,外国から取り寄せた種苗や農機具の販売,雑誌「興農」や農業専門書の発刊,札幌・信州・沼津等に農園や柑橘園を設け,千葉・埼玉・山梨に採種場を設けるなど実業家としても名を残す働きをした。

興農園主の時代,「二十世紀梨」の命名者となり(松戸覚之助発見),スイートピーを初めて日本に輸入したなど逸話が残されている。

 

寅次郎は大正15年(1926118日に世を去った。享年68歳。喉頭がんで言葉を失った彼は,病床にあって家族に「国民高等学校をキリスト教の基礎の上に建てる事業を完成せず逝くこと残念なり。同志を得てその遂行を望む」と語り,病床を見舞った宮部金吾には「農学校の創立,よろしく頼みます。葬儀は内村さんと・・・」と述べた。これが最後の言葉であったという。

 

後に,新渡戸稲造,内村鑑三らは寅次郎の意を継ぎ,静岡県田方郡西浦村久連(現沼津市)に「興農学園」を設立(初代理事長新渡戸稲造),デンマークの国民高等学校を模範としたキリスト教に基づく農業教育を実施したが,太平洋戦争下にやむなく廃校になった。「神を愛し,人を愛し,土を愛す」クラークの理念を生きた渡瀬寅次郎の意志は,興農学園として引き継がれたことになる。葬儀では,内村鑑三が友人を代表して追悼の言葉を述べている。

 

さて,勉三が寅次郎の勧めで石狩(現苗穂あたりと言う)に入植していたら,晩成社は別の栄光を得ていただろう。だが,十勝へ入植した勉三らには想像絶する苦難の開拓生活が待ち受けていた。多くが離脱・離散するなど,晩成社は必ずしも成功とは言えない結果に終わっている。

しかし,勉三には十勝が似合う。新規事業に次々と飽くなき挑戦を繰り返し,夢追い人の一徹さで過酷な自然に立ち向かった。発展著しい二十一世紀の十勝農業・経済を鑑みれば,勉三の行動が十勝開拓の先駆け・礎であったことは間違いない。勉三は武骨なまでに,小さな成功よりも大志を優先したのではあるまいか。

 

大正14年には勉三が,大正15年には銃太郎・寅次郎が,時を同じくして世を去った。

 

参照:井上壽著・加藤公夫編「依田勉三と晩成社」,北大百年史-通説,岩沢健蔵「北大歴史散歩」など

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伊豆の人-7,開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 「篠田雲鳳」

2013-03-21 11:10:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた伊豆下田出身の女性儒者・漢詩人がいた。その人の名前は,篠田雲鳳。江戸後期から明治にかけて活躍した女流詩人である。

篠田雲鳳は,1810年(文化7),伊豆下田弥治川町に生まれる。父化斎は医者であった。幼名はふぢ,幼くして才知優れ,三歳で文字を習い七歳で物語を読んだと伝えられる。父に従って江戸に出て,朝川善庵(江戸後期の儒学者,医師朝川黙翁の養子,1815年伊豆に清国船が漂着したとき韮山代官江川英毅に依頼され事態の収拾にあたる)から儒学を,中井薫斎から書を学んだ。当時名の知られた大沼枕山(漢詩人),小野湖山(漢詩人)らと交流し,漢詩や書画に才能を発揮し,女性儒者の名を馳せた。開拓使女学校の教授として招聘されたのは,1872年(明治57月のことであった。

開拓使女学校は札幌農学校の前身である開拓使仮学校内に置かれたものであるが,先ず当時の時代背景に触れて置かねばならない。

 

1869年(明治25月函館を占拠していた榎本武揚ら旧幕府脱走軍の降伏により戊辰戦争が終結し,6月には版籍奉還,7月には官制改革が実施され,明治新政府が名実ともに日本唯一の政権となった。当時の蝦夷地は,殖産興業政策上もロシア南下軍事的意味からも注目されており,政府の一機関として開拓使を設置し,北海道開拓を強力に進めることになった。18705月開拓次官に就任した黒田清隆(1874年から長官)は,積極的に動き「外国技術を導入して北海道開拓を進める」(外国人の雇い入れ,留学生の派遣)方針が決定された。黒田は翌年留学生を伴いアメリカ合衆国へ出張し,同国農務局長官ケプロンらを雇い入れ帰国,その後開拓使は総数80名以上の外国人技術者を雇い入れている。

 同時に開拓政策の一環として技術者養成を目的とした学校の設立が構想され,1872年(明治54月「開拓使仮学校」が東京芝増上寺本坊に開校した。開拓使仮学校規則には,北海道開拓に従事する者を養成すると述べられている。

 

仮学校内に女学校が置かれたのは1872年(明治5919日,設置目的は人材養成のための賢母の育成であった。教師には二人のオランダ人が雇われ,ほかに和漢学や裁縫の教授に当たる邦人教師若干名と事務職員。定員は50名,入学生徒の年齢は9~16歳,開拓使官吏の縁故者が半数だったという。1か月10円の給付を受ける官費生で,支給品の中には衣食住に関するもの他日曜日には散歩料が支給された。成業後は北海道に永住することになっていたが,18734月に定められた「入校証書」には,5年間開拓使に従事すること,北海道に在住するものと結婚すること(後に削除),退学を命ぜられた場合は学費を弁済することが義務付けられた。

教授された科目は,和漢学,英学,歴史,地理,算術,裁縫などで,英語の教科書も使われていた。

 

1874年秋に腸チブスが流行し,女学校は閉鎖された(仮学校では3名の生徒が死亡)。こうしたさなかに女学校を札幌に移し,出発日を1110日にする旨の通達が唐突になされ,これを拒否する生徒が退学させられるなど女学校は恐慌状態に陥った。この混乱は教職員にも及び,邦人教職員4名が辞職(篠田雲鳳も含まれる),残ったのは事務職員のみであった。その後,教職員を補充し札幌への移転が決まったのは18758月であった(この時の生徒数は35名)。ところが女学校が移転して僅か8か月後の1876422日,突如女学校の廃止が決定された(廃止は52日)。生徒は54日官費生徒を免ぜられ,親もとへ戻った。

 

その間の事情は当時の開拓大判官松本十郎の記事に詳しい。要約すれば,「生徒の取り締まりを任とする幹事福住某は女学校に住んでいたが,美にして艶なる神尾某姉妹を愛するに至り世間の風評となり,女学校生徒の訴訟書(姦通の事,校長及び幹事を訴える)もあり,両人及び生徒を糾弾したところ両人は否定したが,校長調所広丈ら審議の結果女学校設置は時期尚早であるとの結論に至り廃校とした」とある。

 

女学校教授の職を辞した篠田雲鳳は,東京芝愛宕山麓に住み塾を開き,女児の教育に専心した。高給を以って招聘するものもあったが職に就かず,1883年(明治1652074歳で死去。

 

下田の栞には逸話が紹介されている

・・・愛宕山麓に住んでいた頃,ある晩強盗に入られた。雲鳳は机に向かって揮毫していてこれに気付かなかった。強盗はしばらく後ろに立っていたが,突然凶器を突き付け,金を出せと脅した。雲鳳は静かに振り返り「あいにく今夜は貯えがありません。明日の夕方に来たら少しは上げられましょう。あの箪笥を開けてみなさい。お金になるものがあるかも知れません。ただし,書画の類はあなたの役に立たないでしょうから,そのままにして置いてください」。強盗は箪笥の前に行き箪笥を開けようとしたが開けることが出来なかった。雲鳳はそれをみて,自ら立って箪笥を開けてみせたが,揮毫したもののほか何も入っていなかった。強盗は,雲鳳の女子ながら胆力あるのに感心し,またその窮貧を憐み,そそくさと立ち去った。隣室に寝ていた女中が震えながら夜具の隙間から見ていたことを後日語った・・・とある(原文を書き直した)。

 

ここにも無私に生きた「伊豆人」の姿が垣間見られる。2010年(平成22)下田市民文化会館で生誕200年記念書画美術展が開催されたので,ご覧になった方もおられるだろう。

 

参照:下田己酉倶楽部「下田の栞」,北大百年史-通説,その他

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伊豆の人-6,札幌農学校農芸伝習科に学んだ晩成社の「山本金蔵」「松平毅太郎」

2013-03-20 12:04:29 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

札幌農学校「農芸伝習科」に学んだ伊豆出身の若者がいる。依田勉三と共に十勝開拓に入った南伊豆市之瀬村出身の山本金蔵少年である。また,勉三の養子となり農芸伝習科を卒業した松平毅太郎も,伊豆に近い駿東郡富岡生まれであった。

1876年(明治9)創立の「札幌農学校」はW.S.クラークら外国人教師を迎え,当初は開拓使及び農商務省の管轄であったが,1886年(明治19)に北海道庁が設けられその管轄下に入った。ちょうどその頃,「農学校が開拓の現実に適さない」との批判(金子堅太郎復命書)が発せられるようになり,これを受けて工学科・農芸伝習科の設置など農学校の再編が行われた。

 

農芸伝習科は,農学校の農学科本科・予科とは別に設置されたもので,「西欧の農法を教え北海道で実際に農業に従事する者を養成する」ことを目的とした。修業年限は2年,41日~1130日までを第一期(主に実習),121日~331日までを第二期(講義)とした。入学資格は,17歳以上32歳以下で,「本道農業ニシテ耕地一町歩以上ヲ所有スルモノ,若シクハ其子弟,又ハ本道ニ於イテ開墾起業ノ目的アルモノ」との一項が含まれていた。定員は一学年25人(初年度は春と秋に2回の募集を行い,50名),月5円の学資を受け,卒業後の身分進退は5年間北海道長官の許可を得ることが義務付けられていたと言う。伝習科は1899年(明治32)に農芸科に改編され役割を終えるが,この間233名を世に送り出している。

 

講義内容は,農学大意(土壌論・農具論・肥料論・農用動植物生理・普通植物耕種法・特用植物耕種法・牧畜論・果樹栽培法・開墾法・排水法・農圃測地法・農家簿記法・農場管理法・農家経済・農律・山林学・気象学),化学原理大意,害虫駆除法大意,蹄鉄学大意,家畜治療法大意などであった。

 

山本金蔵は,南伊豆市之瀬村の山本初二郎・とめの長男に生まれ,14歳の時(1883年,明治16)晩成社の一員として家族と共に十勝オベリベリへ入植。開拓の手伝いを終え夕方になると,金蔵は,広吉,アイランケ等と渡辺カネ(渡辺勝の妻,共立女学校出身)から書を学んだ。開拓が進まず,移住者13戸のうち既に6戸が離脱した状況であったが,「開拓は一代で成らず,次代の種子を播く」「逆境でこそ重視する子弟教育」の信念があったのだろう。その後,農芸伝習科に合格した金蔵は,1887年(明治20920日佐ニ平に連れられ陸路札幌へ向かい,農学校所属農園内に設けられた寄宿舎に入った。この年は924日に強霜が降り大豆小豆の収穫が皆無になった年でもある。

 

農芸伝習科第一期生(秋入学)となった金蔵は勉学に励み,1889年(明治2244日の卒業式で卒業証書を得て,卒業した(第一期の卒業生は春秋合せて47名)。

 

一方松平毅太郎は,駿東郡富岡生まれ(明治8年静岡に移住した旧幕臣7名の一人松平正修の子供と言う。7名はこの地で開拓に励むが,不況の煽りを受け破綻。明治32年,農場の負債を後に大日本製糖を起こす鈴木藤三郎が請け負う),1890年(明治23)に勉三の養子となり,農芸伝習科へ入学した。この間,どのような事情があったか分からないが,農芸伝習科第五期生として1893年(明治26)に卒業している(第五期の卒業生は16名)。

毅太郎は,勉三がサヨと再婚した年(1895年,明治28)に勉三との養子縁組を解消し,1897年(明治30)に故郷へ帰り,24歳で逝去したと言われるが確認できていない。

 

参照:萩原実監修・田所武編著「拓聖依田勉三傳」,北大百年史-通説,札幌同窓会員名簿

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囲炉裏端は「学び」の場,幼少時記憶の断章

2013-03-19 09:42:59 | 伊豆だより<里山を歩く>

部屋の中央に囲炉裏があり,薪を焚くので煙が出る。煙は屋根裏に上り,茅葺屋根の排気口から外に排出される仕組みになっているが,柱や戸棚,屋根を支える梁や竹材は煤で黒ずむ。その結果,燻製のように,建築材に防虫・防腐効果をもたらしていた。

柱や戸棚は毎日雑巾がけするので光沢を帯びている。

「家の柱は,黒檀で出来ているのだ・・・」と,叔父(父の末弟,名は素六,当時豆陽中学校生)が冗談めかして言う(黒檀であるわけがない)。

「黒檀? それは何だ?」

「インド南部の木で,とても貴重で・・・」と言いながら,囲炉裏の灰を均して,その上に火箸で地図を描く,「ここが日本で,こっちがインド(天竺)・・・」と。

 

この叔父は,いつも文字や算数を「謎かけ」してきた。

「十,百,千,万,次の位は?」

「糸に冬って何だ?」

恐らく,正しい答えに喜び,分からないと泣いて悔しがるのが面白かったのかも知れない。気が小さいのに時折大胆で負けず嫌いと言う性格は,どうも生まれつきらしい。素六叔父は囲炉裏の灰に火箸で字を書き,消しては書くのを繰り返していた(書の練習だったのだろう)。子供の眼には,その火箸の動きと赤く燃える囲炉裏の炭が目に焼き付いた。

 

大人たちは夜なべしながら,村の事,戦争の事,やりくりの事,農作業の予定,明日の天気などの話をした。それらの会話は,子供たちの耳にも自然と入って来た。囲炉裏端は「学び」の場であったと言えよう。

「囲炉裏の灰で栗を焼くときは,硬皮の一部を剥いて焼かないと破裂する」

誰それの失敗談として語られ,「猿蟹合戦」へと話は進展する。

鉄瓶の口から上がる湯気で火傷をする」

熱湯はもちろん熱いが,湯気でも火傷をする。父さんの火傷の傷は,鉄瓶を自在鉤から下ろそうとしたときの火傷だと子供に注意を促す。

 

また,囲炉裏端は回り舞台のように,色々な場面を思い出させる。

帰省した叔父(父の弟,名は進)がサーベルを下げた軍服姿で玄関に立った姿を,囲炉裏越しに眺め何故か眩しかったこと。翌朝には戦地に戻らねばと聞いて,涙をこらえた祖母の姿に悲しみを覚えたことも。

 

伝四郎小父(祖母の従兄)は度々訪れ,囲炉裏端に座って一献入ると軽妙な話が止まらなくなる。子供等は囲炉裏端に集まって話術に引き込まれ,楽しい時を過ごすのが好きだった。

 

昔の日本家屋で良い所は囲炉裏があったことだろう。囲炉裏端は夜に家族が集う場所であった。現在に置き換えれば囲炉裏端がリビングで,囲炉裏の火はテレビと言えなくもないが,テレビは囲炉裏の代替えにならない。テレビに向かって(一方向を向いて)家族が集うのではなく,囲炉裏を囲んで家族がいつも対面していた。

 

家族のつながりも組織のコミュニケーションも,行き着くところ「対面が重要」と言うことであろうか。戦後60数余年,「個の尊重」が間違った方向に行ってしまった

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「野菜栽培の基礎」,恵庭野菜栽培研究会講習会資料

2013-03-13 09:59:57 | 講演会、学成り難し・・・

恵庭野菜栽培研究会(会長野村信史)は,例年農耕期が始まる前に栽培技術勉強会を実施している。平成25年度も,以下のテーマで講習会を実施するという。

「野菜栽培の基礎」

「野菜栽培の土つくりと肥料」

「野菜の病害虫」

「馬鈴薯,枝豆などの上手な作り方と美味しい食べ方」

「馬鈴薯,豌豆等の種まき実習」

 

対象者は会員及び一般市民で,市民農園(ルルマップ自然公園ふれらんど)や家庭菜園を楽しもうとする方々。講習会には年配の方やご婦人の参加が多かったが,畑では子供たちと一緒に作業する姿が見られるという。

 

恵庭市は「花の街」を標榜しているが,家庭菜園を楽しむ人々も多い。

 

第一回講習会(野菜栽培の基礎)は,310日に開催された。猛吹雪の日であった。

 

講演会やインタビューの後,「ああ言えばよかった」「こう答えればよかった」と落ち込むのは毎度のこと,発した言葉は取り返せず後を引くものだ。

 

添付(講習会資料):野菜栽培の基礎(略)

資料:講座は引き続き開催されている。講演会資料は,本ブログ2018年3月3日,2019年2月13日などに記載されている。

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ユリノキが見守り続ける「道南農業試験場」の沿革

2013-03-12 15:40:41 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

道南農業試験場(地方独立行政法人北海道立総合研究機構,北斗市)の前庭に,大きなユリノキLiriodendron tulipifera L.)がある。何年に植えられたか確かな記録はないが,大正時代の写真には陳列館の屋根を越えるほどであるから,樹齢百年と言って良いだろう。まさに,道南農試の歩みを見守り続けている。

先日,OB会があって場長にお会いしとき,

「今年もユリの木の花が咲きました」

と伺い,筆者も道南農試に勤務していた頃,来客があるたびに「道南農試のシンボルツリー」と紹介していたことを思い出した次第。

 

さて,このユリノキ(百合の木)はモクレン科の落葉高木で,「ユリに似た花が咲く樹木,Liriodendron」の意味を学名としたもので,和名でユリノキ,英名では種小名のtulipifer(チューリップのような花をつける)からAmerican tulip treeと呼ばれる。また和名では,特異な葉の形からハンテンボク(袢纏木),軍配の木,奴凧の木などと呼ばれることもある。

北アメリカ中部原産で,日本へは明治時代初期(89年頃)に渡来したとされ,北海道では北大植物園,札幌大通公園などでみられる。

 

道南農業試験場は北海道庁立渡島農事試験場としての創設(1909,明治42)以来,このユリノキと共に百余年の歴史を刻んだことになる。先輩によれば,

「遭難した洞爺丸をユリの木に登って眺めた」

「落雷により真二つに裂けたが,よく再生したものだ」

「花が咲く頃,新聞社が訪れる」等々と,話題は尽きない。

 

ところで,道南地域における農業試験機関の歴史を紐解いてみると,明治42年の開基以前にも,函館奉行所の御薬園,ガルトネル農場(函館奉行所許可),明治政府が開拓使の下で進めた七重官園などがある。ガルトネル農場の顛末は幕末混乱期の一大事件として知られるが,ヨーロッパ農業が試みられた初の事例でもあった。また,七重官園は農事試験場の前身といえる組織であるが,官園廃止から農事試験場開設までには15年の空白期間があった。

 

御薬園時代(18541866,七重)

ガルトネル農場時代(186770,七重)

七重官園時代(187094,七重)

公的研究機関空白(1901以降は北海道農事試験場(札幌)が対応か?)

北海道庁立渡島農事試験場時代(1909,大野)

農事(農業)試験場渡島支場時代(19101949,大野)

道立道南農業試験場時代(19502009,大野,北斗)

地方独立行政法人北海道立総合研究機構時代(2010~現在,北斗)

 

この間,社会情勢の影響を受け度重なる組織改編が行われているが,道南農業試験場が地域の農業発展を技術革新で支え,地域経済をリードしていたことは間違いない。現在も,少数ながら精鋭の研究者らが頑張っている。ユリノキに見守られながら。

 

添付の表には,道南農業試験場の沿革を中心に道南地域農業発展の概要を整理した。

 

付表1 道南農業試験場・七重官園の沿革

 

付表2 道南農業試験場歴代場長

 

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