豆の育種のマメな話

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パラグアイ「大豆栽培発祥の地」(ラパス移住地),いま豊饒の地となった

2011-07-23 09:47:13 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(3

パラグアイ共和国南部のイタプア県,先に述べたチャベス移住地を過ぎ,幹線であるD線に沿って大豆畑が左右に広がる丘を進むと,日系移住地ラパス(La Pazがある。市の名前を日本語で言えば「平和」,まさにのどかな田舎である。小高い丘には,市役所,農協,小中学校,診療所,日系会館などが並ぶ。国策で進められた移住事業には,勿論日本からの支援もあったが,移住者の弛まぬ努力が「平和」を勝ち得たのであろう。集落には日系人が営む商店もあり,日本語とスペイン語,グアラニー語の会話が行き交う。エンカルナシオンに住んでいた頃,時折ドライブがてら日本食を求めて立ち寄った。また,農協の各種行事でお世話になった。

周辺の日系農家は,大豆と小麦を主に作付けしている。移住後50年が経過し,1世から2世の時代に替わろうとしている。住宅は開拓当初の小さな建物から,今は立派な御殿風建物が多い。中にはみすぼらしい家もあるが,それらは多くが現地人の住まいである。日本人の勤勉さはここでも証明されている。また,勤勉さだけでなく,相互扶助の精神が農協活動や日系人会の活動を支えている。

◇移住地の歴史を「パラグアイ日本移住70年誌」から拾う

1955年(昭30)第4次船で到着した6家族が,フラム(フジ地区)に入植したのがここへの移住の始まりである。

実質的な移住地の歴史は,19569月に日本海外移住振興株式会社(国策会社)を立ち上げ,急増するパラグアイ移住者に対応するため,日本海外協会連合会と日パ拓殖組合と三者一体となって,フラムにパラグアイ初の政府直轄移住地「フラム移住地」を建設したことに始まる。フラム移住地は,フジ,ラパス,サンタローサの3地区から構成されている。

1956年にはラパス地区へ広島県から5家族30名と佐賀県から4家族26名,1957年にはサンタローサ地区へ高知県集団移住21家族と福岡県4家族が入植するなど,1961年(昭36)に入植地が満杯になるまでに367家族が入植している。

入植が開始された1957年頃,この地は原始林に覆われた陸の孤島で,現地受入体制も十分でなかったことからロッテの割振りや食糧の確保も自力でせざるを得ず,携行資金乏しく,農業経験者少なく,生産物の販路もないなど,1年以上無収入が続き生活は苦労の連続であったという。19584月には日本国会に向けて資金援助の嘆願書が出され,日本で「地獄の移住生活」と報道される状況であった。これらのこともあって,環境は徐々に改善されて行った。

◇開墾から50年の農業変遷

入植者はまず原始林を倒し,焼き畑に稲,野菜,マンデイオカ(Cassava,キャッサバ)等を植え,鶏,牛,豚を飼うことから始めた。1960年代にはポメロ(Pomelo,グレープフルーツ),ジェルバ(Yerba mate,マテ茶),ツンク(アブラギリ)を植え,マイス(とうもろこし)に期待をよせ,養蚕の取り組みも行ったが,販売に苦労し,折からの営農大不況で多くの移住者が転出することになった。

その後,1973年に大豆価格の高騰から大豆ブームが起き,大豆は「黄色いダイヤ」と呼ばれる時代が到来する。そして1980年代以降,大豆と小麦の栽培が定着し,この地は豊かな大規模畑作地帯へと発展した。

しかし,この移住地でも定住率は21%。この数値からも開拓移民の苦労が偲ばれよう。

◇大豆栽培発祥の地

ラパスは「パラグアイ大豆栽培発祥の地」と呼ばれる。1957年サンタローサに入植した久岡源二は開墾地に1.5haの大豆を播種した。裏庭に植える自家用大豆ではなく,最初の本格栽培である。1959年にはサンタローサ農協組合長山脇敏麿が訪日して大豆販売ルートの開拓に努め,1960年にイタプア農協連は三菱・住友商事・東洋綿花と500トンの輸出契約を実現している。大豆が輸出作物となった瞬間である。

1961年には,平岩式,田辺式など脱穀機が制作販売され,その後コンバインが導入されるまでこれらの脱穀機は活躍した。1976年イタプア県主催のベジャビスタ大豆祭で,当時のストロエスネル大統領は久岡源二を最初の大豆栽培者として,秦泉寺貞光を大規模栽培・普及に対する貢献から表彰した。これを機に流れは,大豆一色へと向かう。

◇農協,自治組織活動

入植時にフジ,ラパス,サンタローサの3地区で組織された農協は,1970年にはチャベス農協を加えた4農協がフラム農協(1988年改称ラパス農協)となり活動の幅を広げた。自治組織は,1955-1970年の3地区時代,1971-1985年のフラム自治体時代を経て,1986年にラパス市となった。教育,診療所の整備も進み,2003年には南部穀物輸送道路,製粉工場も完成し,豊かな農村地帯が形成された。「地獄の移住生活」報道から50年,今や各分野に多くの人材を輩出しており,この移住地のさらなる繁栄が期待されている。

ちなみに田岡 功氏は,ラパス初代市長,日系農協中央会会長を歴任し,1997年にパラグアイ国家功労章授与,2004年駐日パラグアイ共和国全権大使に任命された。氏は,195814才でこの地に入植した1世である。

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007),パラグアイ日本人移住50年史(1987

 

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