豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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土屋武彦著「パラグアイから今日は!」、恵庭の本-6

2020-05-19 16:38:15 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中で猛威を振るい、WHOは2020年1月31日緊急事態を宣言した。日本でも4月7日(7都府県)、4月16日(全国)、5月3日(延長)に緊急事態宣言を発し、外出自粛や休業要請が行われる事態となった。
本書「パラグアイから今日は!」(土屋武彦著、A5版196ページ、2020年6月1日発行)は、外出自粛の機会を活用し取りまとめたもの。無線とじ自家製本。先の「ラテンアメリカ、旅は道づれ」(土屋武彦著、A5版246ページ、2020年3月1日発行)の姉妹編にあたる。 
著者は、かつて国際協力事業団のプロジェクトでアルゼンチンとパラグアイ両共和国に派遣されたことがある元専門家。長い南米での滞在経験をもとに取りまとめ、このたび上梓した。挿入した多数の写真はいずれも著者の手による。


一年後の2021年6月1日改訂第二版を発刊した。業者によるオンデマンド印刷製本である。目次の赤字項目を補筆している。

(写真左は2020年6月1日発行の自家製本版、写真右は2021年6月1日発行の改訂版)

出版趣旨と内容をご理解いただくために、「はじめに」「目次」「あとがき」を引用する。目次の赤字は改訂版で追加。

 

◇ はじめに
アスタ・マニヤーナ(Hasta mañana)。直訳すれば「朝まで、明日まで」の意味のスペイン語だが、別れの挨拶として「また明日ネ」の感覚で使う。和西辞典で「さようなら」を検索すると、アデイオス(Adiósしばらく会わない別れ)、アスタ・ルエゴ(Hasta luegoその日のうちにまた会う場合、また後で)などの用例と併せて記載されている。親しい間柄では別れしなに手を挙げて、イタリア由来のチャオ(Chao)で済ませることもあったが、アスタ・マニヤーナは最も頻繁に使う挨拶だった。
時を経るに従い、このアスタ・マニヤーナには、「明日があるさ、何をアクセクするの」という意味が含まれているのではないかと思うようになった。もちろん理屈があるわけではないが、ラテンアメリカの人々は貧しいながらも陽気でおおらかな生活を送っていて、何事にも「明日があるさ」とどっしり構えている大人ように見えたからである。日本は高度成長期で誰もが働き蜂の時代であったから、当時の私にとってこの言葉は新鮮で羨ましくさえあった。これがラテンの気質なのかと思った。
時代が変わり日本ではいま、少子高齢化、温暖化、環境問題が顕在化し、行き過ぎた消費文化や過度な競争社会に対して警鐘が鳴らされている。地球環境問題を考えるとき、もう急激な成長を求めることは出来まい。贅を求めずシンプルに、自然を守り、愛する家族や仲間とゆったり暮らす幸せを享受する時代(成熟時代)に入ったと言えるだろう。いわゆるアスタ・マニヤーナの感性が大事になってきたのではあるまいかと、南米で暮らした昔を思い出している。
本書は、筆者が仕事の関係で南米のアルゼンチンとパラグアイで暮らした頃の記録である。地球の反対側で生活してみると、ラテンの人々の気質や暮らしぶりに戸惑うことも多く、彼らが作り出してきた文化や歴史は非常に興味あるものだった。また、日本と大きく異なる自然も珍しく、今でも当時の感慨が鮮明に蘇ってくる。
アルゼンチンでの暮らしは、1978年(昭和53)から1984年(昭和59)にかけて4回、延べ2年4か月間。今から40年ほど前の事で、筆者もまだまだ若かったが、為替相場は1ドルが250円、天文学的なインフレーションの時代であった。また、パラグアイには2000年(平成12)から2008年(平成20)にかけて3回、延べ5年間滞在した。こちらは、現役を退いてからの仕事だったので比較的ゆとりがあり、生活を楽しむことが出来た。
本書は、ラテンの国で暮らした折々の出来事を「落穂ひろい」のように集めたものである。内容は些か統一性に欠けるが、これらの国々に対し親近感を懐いて頂ける端緒になれば幸せである。そして、アスタ・マニヤーナの一端に触れて頂けたら有難い。
本書は先に上梓した「ラテンアメリカ、旅は道づれ」(2000)の姉妹編。併せてご覧下さい。

 

◇目次構成
はじめに  

第1章 南米からの便り

(1)パラグアイからの便り

1  パラグアイ国から今日は! 初年目、友への便り(2000年)

2  やはり日本から遠い国です(2006年)

3  セマナ・サンタのパラグアイにて(2006年)

4  近況報告申し上げます(2006年)

5 広報カレンダーの絵となる(2006年)

6  親愛なる皆様、いかがお過ごしですか(2007年)

7  大豆新品種公表とプロジェクト終了式典(2008年)

8  パラグアイ政府からの感謝状(2008年)

9  パラグアイ政府は記念プラカを掲げて謝意を表した(2008年)

10  元旦にフェリシダーデスと電話あり(2014年)

(2)アルゼンチンからの便り

1  アルゼンチン雑感(1979年) 

2  総理官邸での昼食会(1979年)

3  アルゼンチンの人々(1980年)

4  フォークランド戦争の中で(1982年)

5  研修員のことなど(1984年) 

6  パンパ平原に君の姿は良く似合う(1984年)

7  アルゼンチンの大豆教科書に記された日本の協力(2001年)

8  歴史に刻まれたとみるべきだろうか?(2001年)

第2章 南米の暮らし
1  ゴミの話  
2  釣銭は飴玉ですか、アスピリンですか? 
3  新札はどこへ消えた  
4  セニョリータと呼ばれたくない  
5  ロマーダで車のスピードを落とせ  
6  運が良かった? 南米の車社会は事故と紙一重  
7  異国での講演会  
8  南米人の気質  
9  グアラニー語、言葉は民族のアイデンテイテイー  
10  南米で暮らした家 

第3章 南米の食事
1  アルゼンチンの主食はアサード 
2  ブエノス・アイレスの焼き肉レストラン「ラ・エスタンシア」
3  世界を養う「マンジョカ」 
4  家庭の食事 
5  飲むサラダ「マテ茶」の作法 
6  エンパナーダとチパ 
7  南米でエントラーダ(前菜)に何を選ぶ? 
8  南米のデザート、「アロス・コン・レチエ」とは何だ? 
9  海外では食中毒に気をつけろ  
10  パパイア、甘さが強く独特の癖がある 
11  南米の香り懐かしマラクジャ(パッションフルーツ、時計草)  
12  マンゴーを食べ過ぎかぶれた話 
13  ジャボチカバ、木の幹に白い花が咲きブドウが実る? 
14  タマリンド、果肉を食べる豆 
15  南米で和食を御馳走する  

第4章 南米の動植物
1  遠目には満開の桜、ラパチョの花に望郷の想いが募る  
2  聖なる木、「パロ・サント」 
3  ケブラッチョ、斧も折れる硬さ、皮の「なめし」に使われた  
4  酔っぱらいの樹パロ・ボラーチョ  
5  バルサ、中南米原産の世界で最も軽い木  
6  ハカランダ(ジャカランダ)  
7  パラグアイの森林事情と木材加工品  
8  アルゼンチンの国花「セイボ」 
9  大豆試験圃場でのできごと 
10  南米の蟻と蟻塚、大豆畑でも蟻にはご用心 
11  ツリスドリの群がるのをみた  
12  南米の鳥と聞いて君は何を思い出す? 
13  アルゼンチンの国鳥「オルネーロ」(カマドドリ) 

第5章 南米の民芸品
1  アオポイ、パラグアイを象徴する繊細な刺繍の綿織物  
2  ニャンドウテイ、「蜘蛛の巣」と呼ばれるパラグアイ刺繍  
3  銀細工のボールペン  
4  サボテンの民芸品、アルゼンチンのフフイにて  
5  パラグアイ神話の主人公  
6  インカローズとカルピンチョ 
7  チリのお土産 
8  アルパとボトル・ダンス 
9  パラグアイの画家「ルーベン・シコラ」の水彩画  
あとがき

 

◇ あとがき
アルゼンチン共和国、パラグアイ共和国、どちらも日本から遠い国である。ちょうど地球の反対側にあるため、成田からニューヨーク、サンパウロを経由してブエノス・アイレスやアスンシオンまで約30時間余りのフライト。この年齢になると体力的にも「これは無理だ」と感じるが、当時はまだまだ元気だった。数えてみると、アルゼンチンへは5往復、パラグアイへは6往復している。
アルゼンチンへ国際協力事業団から専門家として派遣されたのは1978年で、小学校4年と5年生の子連れ、しかも初めての海外だったので戸惑いや苦労が多かった。派遣前の研修がなかった時代で、スペイン語も分からないまま外国人の中に放り込まれた暮らしは、子供たちや妻にとってストレスは想像を絶するものだったろうが、よく耐えたと感謝している。一方、パラグアイは2000年からで、妻と二人だったこと、日系社会が近くに存在したこともあり比較的余裕があった。
アルゼンチンとパラグアイでの体験は時代も国民気質も異なるので一括りにできないが、ラテンの生きざまに「なるほど、こういう生き方もあるか」と感じることが多く、いつかラテンアメリカの人々の暮らしや文化を紹介する機会があればと考えていた。本書は、両国で暮らした折々のエピソードをかき集めた記録、全て妻との弥次喜多道中記である。二人ともスペイン語が堪能と言う訳ではなく、何とか生活ができる程度の会話力だったので、中には誤った認識があるかも知れないが、ご容赦願いたい。
昔々の記憶を紡ぎながらの編纂作業だった。写真を整理していると、お世話になった多くの方々の顔が次々と浮かんでは消え、今も彼の国にいるような錯覚にとらわれ、「元気にしていますか」「お会いしたいですね」と思わず呟いた。本来なら、お世話になった方々のお名前を挙げ謝意を表したいところだが、割愛させて頂く。
時が過ぎて、二人とも「終活」「断捨離」の言葉が似合うような年齢となった。人生の記憶を整理し記録に残すのも悪くないだろうと考えて、本書を取りまとめた。いわば回顧録の一コマ、履歴書(自叙伝)の1ページとも言えるようか。
本書を手に取りご笑覧賜った皆様、ラテンアメリカの暮らしに興味を持ち「南米に行ってみようか」と思われたら、筆者にとって望外の喜びである。有難う。
2020年6月1日
恵庭市恵み野の草庵にて   著者

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恵庭市長寿大学「卒業・修了記念誌(大学第19回生、大学院第17回生)」

2020-05-14 10:38:25 | 講演会、学成り難し・・・

新型コロナウイルスで卒業・修了式は中止

恵庭市教育委員会が所管する「恵庭市長寿大学」は、毎年多くの卒業生、大学院修了生を輩出しています。令和元年度の卒業生は38名、修了生は38名でしたが、新型コロナウイルスの影響で3月15日の卒業・修了式は中止になり、再度5月13日に設定した証書手交日も中止の止む無きに至りました。
学生自治会では毎年、卒業・修了記念誌を発刊していますが、今年度も111ページの立派な冊子が出来上がりました(発行:恵庭市長寿大学学生自治会、発行日:令和2年3月15日)。上記の事情で、修了証書と記念誌は郵送されることになりましたが、記念誌には卒業生・修了生全員が思い出などを寄稿しています。
その中から、一人の修了生の文章を引用します。

◇70代長寿大学で学ぶ
73歳で長寿大学に入学してから6年。講義や行事は皆勤に努め、他機関科目もかなりの数を消化した。入学当初は「こんなものか」と軽い失望感を味わったが、続けて行くと学ぶことは多く、老いての学習は新鮮であった。何よりも講師の先生方の熱意が嬉しく、学友の元気な姿が励みになった。取得単位を数えてみると388単位に達する。
1年の時、偶然と成り行きで学年幹事を仰せ付かった。断ることが下手なので、その後もずるずると役員を続ける羽目になり、皆さんには大変迷惑をかけてしまったと後悔している。最初の頃は名前を呼び間違えることも多かったが、寛容な皆さんは笑って見過ごしてくれた。不愉快な思いをされたことだろうと心が痛む。
一方、学生生活では、「皆で楽しもう」精神(遊び好き)の仲間と一緒に過ごせて幸せだった。個々の多様性を尊重しながら、何事にも全員が協力して取り組む活力ある学年、向上心あふれる集団の一員であったことを嬉しく思う。また、自治会の仕事も皆さんのご支援を得て何とか務めることが出来た。心より感謝申し上げる。
長寿大学の講義がきっかけで市内の記念碑や彫像を訪ね、在学中に「私の恵庭散歩」三部作を取りまとめることが出来たことも嬉しい。この冊子のお陰で、情報誌「ちゃんと」への寄稿や、全国各地の同好者から問い合わせを受けるなど社会の繋がりが広がった。顧みれば、70代の大半を長寿大学生活優先で過ごしたと言えようか。私の履歴書(自叙伝)には「70代、長寿大学で学ぶ」と記そう。
大学院修了を間近に控え、周辺からは「研究生制度や専攻科があれば良いのに」と、学習継続を望む声が聞こえる。人生、何歳になっても勉強だよね。遊び心を大事にしながら、さあ、新たな挑戦を始めよう。

参照:恵庭市長寿大学学生自治会「卒業・修了記念誌」2020.3.15

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ルーベン・シコラの水彩画(Ruben Sykora)、パラグアイ

2020-05-04 13:05:30 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

ルーベン・シコラの水彩画

拙宅にパラグアイで入手した二枚の絵がある。一枚はピンクのラパチョを描いた水彩画、もう一枚はルーベン・シコラの水彩画である。

◇ラパチョ(水彩画)
エンカルナシオンで暮らしていた頃のことである。国道6号線を45kmほど行ったところ、ベジャ・ビスタ市の手前に雰囲気の良いレストランがあり、週末にはしばしば食事に訪れた。名前は「パピヨン、Papillón(仏語で蝶)」、レストランとシュラスケリア(焼肉)の看板が出ていた。レストランに繋がってホールがあり、中庭に面したホテルの部屋は樹々に囲まれていた。レストランはドイツ系らしい若い夫婦が切り盛りしており、豚肉や鶏肉を野菜と煮込んだ田舎料理もメニューにあった。
レストランの白い壁には何枚もの絵が飾られ、地元画家の絵を展示販売しているように見えた。もしかしたら、オーナーの作品だったのかもしれない。桜の花のようなラパチョが咲く風景画、田舎の景色が多かった。記念に一枚買って帰ろうという話になり、妻が選んだのがこの小品である。サインはあるが、画家の名前は分からない。聞いたかもしれないが記憶にない。値段も覚えていないが、その場で買えたので高価なものではなかったろう。
素人画家の上手な水彩画と言った感じだが、パラグアイの懐かしい風景を思い出させてくれる一枚である。玄関脇に飾ってある。

◇ルーベン・シコラの水彩画
帰国が決まった時、家主の清美さんから頂いた。黄色の花が満開なラパチョが3本、その開花を喜ぶように大勢の人々が踊っている。開拓前のパラグアイは自然豊かで、人も動物も植物も、誰もが春の訪れに欣喜雀躍する。ファンタジーと現実が織りなすハーモニーを感じる芸術性高い一枚。
浅学にしてルーベン・シコラの名前を知らなかったが、同封のパンフレットやネット情報によれば、パラグアイ国エンカルナシオン市生まれの造形画家。会計学と行政学の学位を持つが、独学で絵を学び25年のキャリアを有する。造形画、油絵、水彩画、セラミック彫刻、壁画、本のイラストでも活躍。アルゼンチン、ブラジル、ドミニカ、米国、ドイツ、日本、トルコ、台湾、ポルトガルなどで展示会に出品。
彼の画風は独特なファンタジックの世界とでも言えようか。グアラニー族が主役であった当時のパラグアイは、広大な亜熱帯雨林、湿地帯が広がっていて、人々は自然の中で動物や鳥や魚たちと共存していた。朝日が昇り、鳥たちがさえずる一日があり、夕方には太陽は地平線に静かに沈んで行く。ルーベン・シコラはそのような自然を深く愛し、自分自身をその中に反映させようと思っているのではないか。そして、自然を大切にしようと呼びかけているのではあるまいか。芸術性を感じる、味わい深い一枚である。

  (Ruben Sykora のパンフレット表紙)

◇アルゼンチンの画家、キンケラ・マルティン
アルゼンチンで暮らした頃、アルゼンチン・タンゴ発祥の地と呼ばれるボカ地区のカミニートをたびたび訪れた。この地区は昔、ヨーロッパからの船が行き来する港町として栄え、移住してきた貧しいイタリア系移民たちが暮らしたカラフルな家々が保存されている。この貧しいエリアで、労働者たちが楽しんだのが「タンゴ」の音楽であり、ダンスであったと言う。
この地区にあるキンケラ・マルティン・ボカ美術館を訪れるのも楽しみのひとつであった。キンケラ・マルティンはアルゼンチンでよく知られる画家。ブエノス・アイレスで捨て子として修道女に発見され、6歳で養子に出され、14歳からボカ地区の夜間美術学校に通い才能が見だされ、画家として活躍する。原色の力強い筆致で描いたボカ地区の風景、港で働く労働者の作品が多い。晩年には篤志家としても知られる。
彼の絵がプリントされた絵皿を一枚購入したが、帰路の途中で一部欠けてしまった。そんなことも、今は懐かしい。

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