豆の育種のマメな話

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下田生まれの性格女優「浦辺粂子」

2020-09-07 12:52:56 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田生まれの女優として思い出されるのは、桜町弘子と浦辺粂子である。桜町弘子はほぼ同年代であるが、ご健在で今もトークショーなどご活躍だと聞く。下田北高に入学した年だったと思うが、同級生が「南高に可愛い子がいて、東映に入ったって。お前知っているか」と聞かれたことがあった。「親は旅館(映画館?)をやっていて、ロケに来ていた監督にスカウトされた」など、田舎者には全く分からない情報を提供してくれる。当時下田には二つの高校(普通科の下田北高と商業科の下田南高、前者は男子9割、後者は女子9割)があり、交流は殆ど無かったが意識し合う存在だったのだろう。

桜町弘子(本名 臼井真琴)は東映ニューフェイス第3期生(里見浩太朗、大川恵子らが同期)となり、翌年から東映の三人娘(丘さとみ、大川恵子、桜町弘子)として活躍。主に時代劇中心だったが任侠映画・現代劇にも出演し、町娘役から汚れ役まで幅広い役を一途に演じ、中村錦之助や鶴田浩二の相手役としても熱演している。映画産業が隆盛を極めた昭和時代に130本以上の映画やテレビドラマで活躍した女優である。「三人娘の中で美人度は大川恵子かも知れないが、演技力は桜町弘子が頭一つ群を抜いていた」と語る人がいた。美人の尺度は個人の好みがあるので何とも言えないが、演技派と言う評価は納得する。

桜町弘子については別の機会に譲り、本項では浦辺粂子について諸資料を参考に整理しておこう。

 

◇ 浦辺粂子

浦辺粂子のイメージは、少し腰を曲げ、顎を突き出すようにして語る「浦辺粂子でございますウ~」の姿。映像とともに声まで蘇える。何故か、印象に残っているのは老け役ばかり。晩年のテレビ出演、バラエティ番組の影響が強いのだろうか。

粂子は4冊の著書があり、彼女の経歴や出演作品はそれらから知ることが出来る(「映画女優の半生」東京演芸通信社1925、「映画わずらい(共著)」六芸書房1966、「浦辺粂子のあたしゃ女優ですよ」四海書房1985、「映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記」河出書房新社1985)。いずれも古書でしか手に入らないが、「映画女優の半生」は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来る。以下に、略歴を示す(付表12参照)。

粂子は、浅草オペラや旅回りの一座を経て日活京都撮影所に入り、「清作の妻」「塵境」「お澄と母」などに主演し性格女優として人気を博した。その後は日本を代表する老け役として活躍し、60年以上の女優生活の中で300本以上の映画に出演。晩年は、おばあちゃんアイドルとしてテレビのバラエティ番組にも多く出演した。昭和27年(1952)大映賞、昭和41年(1966)紫綬褒章、昭和52年(1977)第1回山路ふみ子映画賞 映画功労賞、昭和59年(1984)ゆうもあ大賞を授賞している。

  • 生い立ち、女優の道へ

明治35年(1902)10月5日、静岡県賀茂郡下田町(現下田市)で生まれる。本名は木村くめ。父は長松山泰平寺住職。父の異動(泰平寺→陰了寺→常照寺)で、明治42年(1909)河津町見高高入谷尋常小学校に入学、大正3年(1914)には愛鷹山麓の沼津金岡尋常高等小学校に転校。大正6年(1917)高等科卒業後、私立沼津女学校に進学。海や山に魅せられ情感豊かに育った粂子は、この頃から女優を夢見るようになる。

大正8年(1919)、女学校を中退して(*著書「映画女優の半生」には友人たちと「歌劇女優なろうとする会」を結成し、大正8年の卒業式で喜歌劇を演じ、卒業後に友人Fと上京し本郷で下宿した旨記されている)女優になろうと決意するが、厳格な父に猛反対される。父には内緒で母を口説き20円の金を借りて家出。沼津に来ていた奇術の松旭斎天外一座に加わって「遠山みどり」の芸名で一座とともに全国を巡業する。大正10年(1921)春、一座を抜けて上京。日活向島撮影所を訪ねるが門前払いされ、浅草の根岸歌劇団金龍館に採用されコーラスガールとして舞台に立つ。6か月を過ぎたころ、音楽部員外山千里の口利きで大阪の浪華少女歌劇団に移り「遠山ちどり」の芸名でお伽劇や舞踊劇に出演。

大正11年(1922)歌劇団を退団し、平和祈念東京博覧会歌劇団に入り「静浦ちどり」の芸名で舞台に立つ。博覧会が終わると、ここで仲間となった杉寛ことオペラ歌手杉山寛治に誘われ、旅回りの新派一座と合同のオペレッタ一座に加わる。横須賀へ巡業した際、新派の女優に活動写真出演を誘われ、高田馬場にあった小松商会に入社。演技の勉強するため新派一座玉椿道場にも出演する。

大正12年(1923)小松商会撮影所が解散すると、京都で旗揚げした沢モリノ一座に入り、新派の筒井徳二郎一座と合同公演をする。筒井一座の娘役が急病で倒れその代役に立ったところ座長に認められ、名古屋公演に同行。この頃から新聞の演芸欄に名前が載るようになる。

  • 日活時代

同年8月、日活装置部にいた波多野安正の薦めで女優採用試験を受け、日活京都撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を「浦辺粂子」とした。同年公開の尾上松之助主演「馬子唄」がデビュー作。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され京都撮影所に合流し第二部の名称で現代劇部が設立されると、粂子も第二部へ移る。

大正13年(1924)、村田実監督の「お光と清三郎」、細山喜代松監督の「街の物語」に端役でテスト出演して合格し、村田監督・吉田絃二郎原作の「清作の妻」でヒロインお兼役に起用される。映画経験も浅く無名だった粂子はこの難役を見事に演じきり、一躍性格女優として注目を浴びた。続いて溝口健二監督の「塵境」に出演し古川緑波に絶賛され、演技派スターとしての地位を決定づけた。

  • 結婚・日活退社

その後も粂子は村田監督の「金色夜叉」、溝口監督の「曲馬団の女王」「乃木大将と熊さん」、三枝源次郎監督の「愛の岐路」「吉岡大佐」、阿部豊監督の「人形の家」などに出演。性格女優としてだけでなく、人気スターとしても酒井米子・沢村春子に次ぐ存在となる。

昭和3年(1928)京都の資産家の息子上野興一と結婚、日活を退社する。しかし、夫婦で競馬狂いになり結婚生活は1年で破綻。昭和5年(1930)離婚し日活に再入社。復社初出演は入江たか子主演の「未果てぬ夢」。溝口監督の「唐人お吉」「しかも我等は行く」では心理的表現の巧みさを評価された。

昭和6年(1931)日活大争議が発生し伊藤大輔、内田吐夢ら「七人組」が退社。村田監督に従って日活を退社し、入江ぷろだくしょんに入社。阿部監督の「光・罪と共に」「須磨の仇浪」などに助演し、溝口監督の「瀧の白糸」ではお銀という悪女を演じ本領を発揮する。

昭和8年(1933)新興キネマ太秦撮影所に入社し多数の作品に助演、やがて東京撮影所の作品にも出演する。昭和17年(1942)新興キネマが戦時下の企業統合で大映となり、粂子も大映所属となった。

  • 戦後の映画全盛期で活躍(大映所属、フリー)

戦後の映画全盛期には、確かな演技力を買われて他社の作品にも多く出演。老け役女優として活躍する。成瀬監督の「あにいもうと」「ひき逃げ」「乱れ雲」、豊田四郎監督の「雁」、市川崑監督の「私は二歳」、川頭義郎監督の「青空よいつまでも」、黒澤明監督の「生きる」、五所平之助監督の「煙突の見える場所」、木下惠介監督の「野菊の如き君なりき」、小津安二郎監督の「早春」「浮草」、溝口監督の「赤線地帯」、市川監督の「日本橋」、伊藤大輔監督の「切られ与三郎」、豊田監督の「恍惚の人」など脇役で好演する。昭和46年(1971)大映が倒産してからはフリーとなる。また、テレビドラマ制作が始まると出演が増え、活躍の場を広げた。

  • おばあちゃんアイドル

1980年代、粂子も80代となった。バラエティ番組出演が増え、彼女の明るいキャラクターは「おばあちゃんアイドル」として人気を博した。タレントの片岡鶴太郎がモノマネした影響があるのかもしれない。「ネタがすぐバレル手品」は有名だった。「ライオンのいただきます」では塩沢ときらとゲスト出演(準レギュラー)。森永製菓「つくしんこ」などのコマーシャルにも出ている。昭和59年(1984)「わたし歌手になりましたよ」で歌手デビューも果たす(当時、最高齢レコードデビュー記録であった)。

  • 不慮の事故・逝去

昭和61年(1986)には自宅の階段で脚を踏み外して転落する事故を起こしたが、一人暮らしで仕事がオフだったため、近隣の住民に発見されたのは3日後だったと言う。足腰が弱っていたこともあり、事務所関係者は老人ホームへの入院を勧めたが粂子はこれを拒み続けていた(週に何度かは家政婦が自宅を訪問)。

平成元年(1989)10月25日、渋谷の自宅で湯を沸かそうとした際に着物の袂にコンロの火が引火。火だるまとなり全身に大火傷を負って自宅前の道路で倒れている姿を発見され病院へと緊急搬送されたが、翌日東京医科大学病院で多臓器不全のため死去。享年87歳。全身の約70%にやけどを負っていたと言う。

◇ 一途に生きる

・伊豆の海や山を舞台に育った幼少期体験、早逝した三つ歳上の姉への思いが、一途な性格形成に役立ったのだろうか。粂子は少女時代からずっと夢を追いかけ続けて生きている。著書「映画女優の半生」序文の中で村田監督は「常にあまり多くを語らない、むしろ無口で温順しい浦辺君が、かくもだいたんな熱烈な抱負と熱情の詞を以て、この著があろうとは・・・」と述べている。物静かな夢追い人は秘めたる熱情の塊だったのだろう。

・趣味は競輪、麻雀、手品と語る。競輪は小津安二郎から手ほどきを受けてのめりこみ、競輪場では「顔パス」だったと言う。手品は出演するバラエティ番組で披露することもあったが、その仕草はコメデイを演じているようだった。

・紫綬褒章授賞式で、本名で呼ばれたとき「この賞は浦辺粂子がもらったものです」と怒りを露わに挨拶したと言うが、この逸話も粂子らしい。この拘りには伊豆人の不器用な一徹さが見える。粂子は女優「浦辺粂子」として生き、芸名を誇りにしていた。

・老け役女優としては北林谷栄の名前を挙げる人が多いかも知れない。また、近年では樹木希林など味のある名優が思い出されるが、浦辺粂子は飄々、淡々、どっしりと構えた真摯な演技で見る人を虜にしていた。何故か、笑いの中にも一途に生きる人間性を感じさせる魅力があった。

・家事は殆どせず出来たのは「コンロでの湯沸かし」だけだったと言うが、湯沸かし中にコンロの火が着物に燃え移ったために大火傷を負ったことが死因となった。何と皮肉なことだろう。浅香光代は「階段から落ちて大けがをした時に “私の家に来ませんか?” と勧めてみたが、かたくなに拒否されました。 “人間生まれる時もひとり、死ぬ時もひとり” が口癖でした」と語っている。頑なさは最期まで健在であった。

下田の田舎を歩いていると、「浦辺粂子でございますウ~」と言う独特な節回しの声が今も聞こえて来るような気がする。街角で粂子に出会っても、何の違和感もないなあ。

参照:浦辺粂子「映画女優の半生」東京演芸通信社1925ほか

(2021.1.8コメントを頂き、誤字訂正。ご指摘有難うございました)

コメント (1)
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