豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

下田の城(深根城と下田城)

2020-07-24 14:39:31 | 伊豆だより<里山を歩く>

下田には歴史上注目される二つの城(深根城と下田城)がある。両城とも壮絶な攻防戦の後落城するが、この落城は日本の歴史の上で大きな役割を果たしたと言われている。即ち、深根城の戦いは武将伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞、後の北条早雲)が伊豆討ち入りを果たし、伊豆、相模地方に勢力を広げる端緒となった戦で、戦国時代の幕開けとされる。また、下田城の戦いは天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した戦で、この後北条氏は滅び秀吉の天下となり戦国時代の終焉を迎えることになった。

二つの城について紹介しよう。

深根城祉(下田市堀之内)は、下田市街から国道414号を北に5kmほど行った箕作の交差点(天城越えに通じる道と松崎方面に向かう道に分かれる)の左側方向、小高い丘陵先端部(標高76m)にある。この交差点から松崎方向へ250mほど進み稲生沢川を渡った道路脇には「深根城址」の小さな石碑がある。県道を離れ川に沿った道を東に400m程進み、更に細い坂道を上ると城跡に着く。今は民家の敷地であるが、丸石を積んだ石垣や土塁が当時の面影を残している。また、近くの県道脇にある民家の裏手から槇ケ窪(城跡の西方)に入ると、足利茶々丸夫妻の墓と伝わる宝篋印塔と五輪塔がある。

下田城祉は現在下田公園(城山公園と呼んでいた)になっている。もともと下田城は鵜島と言う地名から鵜島城と呼ばれていた。現在公園内には、天主台跡や曲輪(くるわ)、空堀(北条氏の城でよく見る障子堀)跡などが残っている。この公園からは変化に富んだ入り江や港が眺められ、山城ではあるが海の備えとして置かれた城であることが理解できる。静寂に包まれた散策コースになっていて、市民や観光客が多く訪れる。15万株300万輪、100種類以上のアジサイが広大な敷地内を埋め尽くし、訪れる人々を圧倒する(6月にアジサイ祭りが開催される)。公園内には、開国広場、開国記念碑、下岡蓮杖翁の碑など歴史的モニュメントがあり、周遊道路を巡ればペリー艦隊来航記念碑、フェリー乗り場、海中水族館がある。公園へはペリーロードから旧澤村邸脇の急な階段を上るもよし、ペリー来航記念碑近くの入口から入ることが出来る。

◇ 深根城の壮絶な戦い、千余の首を晒す

深根城の歴史事象を整理しておこう。

・正平4年(1349)、室町幕府は関東を治めるために鎌倉公方を置き、その下に関東管領を置いた。

・応永26年(1419)、山内上杉憲実が関東管領職に就くと、奥伊豆を鎮護するため家臣の関戸播磨守宗尚に命じ、天城街道と松崎街道の合流する地に城を築いて住まわせた。

・永享7年(1435)、宗尚が没し嫡子吉信が二代目深根城主となる。

・永享10年(1438)永享の乱後、鎌倉公方は分裂し古河公方(下総)と堀越公方(韮山)が対立、また管領の上杉氏も山内上杉家と扇谷上杉家が対立していた。

・延徳3年(1491)4月、当時の堀越公方足利政知(将軍義政の弟)病死。後妻円満院は実子潤童子を溺愛し先妻の子「茶々丸」を幽閉していたが、茶々丸は父の死の混乱に乗じ土牢を抜け出し義母の円満院と潤童子を殺害。自ら堀越公方二代の座に就くが、家中の信頼を得られず混乱。

・延徳3年(1491)10月、興国寺城で堀越公方の混乱を見ていた武将伊勢宗瑞(後の北条早雲)は駿河の今川氏親から兵を借り、堀越御所(韮山)を急襲する。御所を追われた足利茶々丸は関戸播磨守吉信を頼って深根城に逃げ込む。

・明応2年(1493)、早雲が伊豆侵攻を開始。奥伊豆は山々に分断される狭小な土地柄であるため有力武士が存在しなかったこともあるが、多くが早雲の勢いに圧倒され降伏してしまう。そのような中、早雲に真正面から抵抗し戦ったのが深根城に寄った勢力だった。

・明応7年(1498)8月、西海岸に上陸した早雲の軍勢は山を越え深根城に迫る。途中付近の侍たちも駆けつけ総勢2,000人の軍勢となっていた。早雲は周辺の民家を壊し、堀を埋め立て攻め入る。関戸播磨守吉信は配下の者と必死に戦うが抗しきれず討死。早雲は城に籠った女子供まで一人残らず首を切って、城の周りに晒したと伝えられている。その壮絶さが偲ばれる。茶々丸の首塚(御所の墓)と呼ばれる宝篋印塔と五輪塔が槇ケ窪の大木の下にある。他方、茶々丸は追放された後伊豆奪回を願って山内上杉氏や武田氏を頼ったが甲斐国で捕捉され自害した、との説が有力視されている。

・肥田実著「幕末開港の港下田」には「・・・吉信は長男とともに坂戸三玄寺前の虚空蔵堂まで逃れ長男は自刃、吉信は梨本下條まで逃れ落命したといわれ、里人が建てた供養塔が今も残っている・・・」の記述があるが、虚空蔵堂の存在は現在不明(三玄寺の開創は慶長元年1596年に河津栖足寺竜王和尚が「林陰庵」を置いたことに始まるとされるが、もっと早かったのか? なお、栖足寺開山は鎌倉時代の1319年)。関戸吉信供養塔は河津町梨本にあり、関戸吉信の墓として平成元年河津町文化財に指定された。

・北条早雲は約30日で伊豆を平定。深根城の戦いで見られるように「マムシの道三、イタチの早雲」と評される面を見せるが、一方年貢の軽減、風土病の根絶に力を入れるなど人心を捉える術も持っていたと言われる。小田原城が五代にわたり後北条氏の本城となるが、早雲は韮山城を居城として終生韮山で過ごした。永正16年(1519)早雲逝去。箱根湯本早雲寺に眠る。

◇ 下田公園と鵜島城祉

大正3年発刊「下田の栞」から、下田公園と鵜島城址に関する一部を引用する(仮名遣い変更)。

「・・・下田公園 城山にあり、もとの鵜島城址なり、明治三十四年開きて公園とする。天正十八年鵜島落城後、一時下田郷林となっていたが奉行今村伝四郎納めて松苗を植え、寛文八年石野八米兵衛これを公儀に上り、爾来公林となり、明治維新御料林となりしを、借地して公園となし、大正元年さらに払い下げを請うて町有とした(鵜島、赤根島、剣ヶ峰、狼煙岬、犬走島、睢鳩島、松ヶ峰、七間町に渉り、五十八町四反一畝歩)。近傍に、白雉穴、兒ヶ淵、和歌浦、御茶屋が﨑など景勝あり。御茶屋が﨑は幕末異国船見張所を置いたところで眺望よし。和歌の浦はその直下にあり、小湾なれど砂白松青風光画のごとし、前面には赤根島が横たわり退潮時には歩いて渡れる。養魚場が此処にあった。鵜島山の東麓を弁天通りと呼び、弁天の古堂があった。昔からここに波止場があって白河楽翁公当地検分の時も、この堂にて服を替え船に乗り港内を巡視した。安政元年米国使節ペリーの上陸したのもこの地なり。ただし、慶長年間に埋め立て工事を行い地形はやや異なっている・・・」

「・・・鵜島城址 港の西岸、市街の南方東に延びた丘陵を鵜島または城山と言う。小田原北條氏の家臣清水氏の城があったところ。土肥村土肥神社所蔵基氏傳帳に本郷氏島城主志水長門守とあるのを見れば、この城創築の古きを知ることが出来る。北條早雲のとき、本郷の人朝比奈知明、八丈島発見の功を以て下田を知行し、子孫世襲す。またここに居る、朝比奈氏城砦を増築する。今郡下に多数(十四ヶ寺)の末寺有する相州大住郡田原村香雲寺はもと此処(弁天町製氷会社の所に井戸が一つ残っている)にあったのを、城砦増築の為、現地に移されたものだと言う。後、氏康の時、乳母子清水小太郎をこの地に封ず(髙八百二十九貫七百匁)。天正十六年、其孫正令(又康英)氏直の命により、更にこの城を増修し、沿海を警備し、以て秀吉の東征に備える。十八年三月、秀吉大軍を率いて小田原を征す。豊臣氏の水軍、九鬼嘉隆(志州島羽)、長宗我部元親(土佐岡豊)、脇阪安治(淡路洲本)、徳川氏の水軍、向井兵庫正綱(一に忠安)、本田重次等、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河の兵船数十隻を率いて清水港を発し、四月一日豆州沿岸の諸塁に迫る。向井正綱田子城ヶ原城を抜き本田重次阿蘭城(安良里)を陥れしも、独り鵜島城主清水上野守正令、援軍江戸摂津守朝忠と、精兵六百余騎を以て、固守して容易に降らず。秀吉 即 元親をして鵜島を囲ましめ、脇阪九鬼加藤等を小田原に召す。元親、偽って和を約し、火を放って急に攻む。城遂に落ち、清水氏城を捨てて走る・・・」

下田の栞には引き続き「北條五代記」「駿州沼豆宿旧本陣淵水助右衛門方系譜」「関東古戦録」「武徳編年集成」等を引用し、戦いと落城の様子を記載しているが、ここでは省略する。文中に「下田落城のこと、諸史異同あり」の記述があるように、多くの伝聞が物語となり残されているのだろう。中でも、元親から康英に送られた矢文「既ニ小田原ハ落城セリ」の謀計に応じた康英が武ガ浜に出向いたところを攻め込んだと言う説が本当なのかも知れない。鵜島城に寄っていた伊豆豪族は昔ながらの地主豪族であったため、戦は戦と割り切り、ひとたび敗北となれば後ろめたさもなく地の利を得て逃亡することが出来た。忠義に殉ずる封建時代のしがらみが少なかったが故に、命を落とすことも少なかったと言えよう。

◇ 鵜島城の戦い、一万二千対六百の兵

下田城の歴史事象を整理する。

・下田港西側の岬全体が城を形成していた。直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m×南北30mの平場で、本丸の北側に二段の天守曲輪があった。最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。

・足利基氏伝帳(土肥神社所蔵、基氏は尊氏の四男、初代鎌倉公方)に城主清水長門守の記録があるが、本資料の信憑性は低いと言われる。

・延徳年間(1489~91)後北条氏玉縄衆の朝比奈知明が八丈島発見の功を以て下田を知行。本郷・下田・須崎・柿崎を所領(世襲)し、城砦を増築する。後北条氏は下田城を小田原水軍の根拠地とし、朝比奈孫太郎が入っていた。

・天正16年(1588)伊豆国奥郡代清水康英(太郎左衛門尉上野介、加納村矢崎城主)が五代北条氏直の命を受け、下田城を増修し沿岸警備を図る(下田市歴史年表ではこの年を下田城築城としている)。

・天正18年(1590)2月、秀吉は小田原征伐を決意し宣戦布告。同年3月、長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇阪安治ら12,000の軍勢を乗せた数百隻が清水港に集積。北条方は清水康英(上野介、伊豆衆筆頭)を城将に命じ城を築かせる。伊豆在地の領主清水淡路守英吉(南伊豆南上、康英の弟)、高橋丹波守(松崎雲見)、村田新左衛門(南伊豆妻良)ら参じ、小田原から副将として江戸朝忠、検使高橋郷左衛門が加わる。総勢600と言う。籠城五十余日、同年4月末ついに落城。上野介は河津の林際寺(河津沢田)に身を寄せ、のち三養院(河津筏場)に隠棲し、翌19年死去。

・天正18年(1590)7月、秀吉は関東八州と伊豆を徳川家康に与え、同年8月家臣戸田忠次が下田五千石の領主(城主)となる。

・慶長6年(1601)忠次の子・尊次は三河国田原城へ転封となり、廃城。以後は江戸幕府の直轄領として下田奉行が支配。明治維新後は御料林など公に管理され、明治34年町有公園となった。

◇ 記憶の断章

深根城祉は母校の稲梓中学校が近くにあったので(現在、診療所が置かれている)、授業中に窓から深根城址と城山へと連なる山々をぼんやりと眺めることがあった。当時は歴史的な物語を知る由も無かったが、城址から通う同級生がいて「さては末裔なのか」と思い、一度だけ放課後に仲間が誘い合い城址を訪れたことがある。山の上は拓けた台地になっていて、石垣の存在感と建物の板壁の古さに感心した記憶が蘇る。

下田城祉は、子供の頃、買い物や青果市場に行く祖母に連れられて下田へ出た折、城山公園の木陰で持参した「おにぎり」を食べるのが常だった。下田港や市街が一望できる静かな場所だった。ある時、一人の見知らぬ小父さんが寄ってきて、「これがボールペンというものだ」と新聞紙の端にクルクルと書いて見せた。携帯ペンと言えば万年筆だった時代だったが、あの小父さんの行為は何だったのだろうかと今でも不思議に思う。

公園下にあった下田ドックは興味をそそられる存在だった。下田海上保安部が置かれ(昭和二十四年)間もなくの頃だったろうか、巡視船に乗せてもらった。甲板が油でこんなにも滑るものかと感じたことが思い出される。和歌の浦遊歩道を回って行き着くところが鍋田浜海水浴場。泳いだ後、水族館(現在、筑波大臨海実験センター)を見学するのも定番だった。

ここで取り上げた二つの城砦は、今我々が目にするような豪華な天守閣をもつ城ではない。山の地形を巧みに利用し、櫓を組み天守台とし、土塁と石垣で囲み空堀で固めた山城である。歴史の中でそれぞれの運命を持ち、消えていった二つの城、深根城と下田城。多くの死者を出した深根城の戦い、籠城の末降伏に至った下田城(玉砕を美学とした過去の歴史が思い出されるが、どちらが是とは言うまい)。落城の形に相違はあるものの、悲劇の姿を歴史に留めていることは間違いない。城址を散策すると、蝉の声が岩に滲みる。伊豆の下田を訪れた際は、立ち寄りたい場所だ。

参照 (1)下田市編纂委員会「図説下田市史」2004, (2)下田開国博物館「肥田実著作集 幕末開港の町下田」2007, (3)下田己酉倶楽部「下田の栞」1914, (4)深根城址(下田市文化財、昭和51年)、関戸吉信石塔(河津町文化財、平成元年)、下田城祉(下田市文化財、昭和48年)

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寝姿山と武山

2020-07-12 15:34:32 | 伊豆だより<里山を歩く>

特急「踊り子号」が終点伊豆急下田駅に近づく頃、左前方に寝姿山が見えてくる。「山の稜線が、仰向けに寝ている女性のシルエットに似ていることから寝姿山と呼ぶ」と、子供の頃バスガイドさんから聞いた。「あの尖った岩山が鼻、あの山頂が胸、それに続くふくよかな稜線が腹部か・・・」と造形の妙に感心した記憶が蘇る。

この寝姿山は時代とともに変貌を見せてきた。昭和36年(1961)伊豆急行が開通し、下田が第二の黒船到来とばかりホテルなど観光施設の建設ラッシュとなると、寝姿山にも「下田城美術館」「下田武山荘」「ロープウェイ」等が建設され景観は大きく変貌した。しかし、その後の社会情勢・経済状況の変化に伴い美術館が休館、下田武山荘は閉館し、今その姿を見ることは出来ない。

武山荘の名前を聞いた時、寝姿山を武山とも呼ぶこともあるのかと子供心に漠然と納得したことを思い出す。

平成30年(2018)8月の或る日、久しぶりにロープウェイを利用して寝姿山に上った。展望台、幕末見張り所(復元)から下田港を見下ろし、見晴台から景観を満喫、石割楠を写真に収め自然公園の草花を鑑賞、愛染堂まで足を延ばした。

頂上からの眺めはまさに絶景。下田港への船の出入りだけでなく広く眺望できる。武山の南面は市街地から峻険に立ち上がっているので、頂上で狼煙を焚けばすぐ分かる。軍の要諦として見張り所が置かれた理由も納得できる。そして今、この山は市民や観光客が自然を満喫する舞台である。

◇ 下田の栞「武山及武ヶ濵」

大正3年(1914)に編纂された「下田の栞」に「武山及武ヶ濵」の紹介がある。仮名遣いをそのまま以下に引用する。

「・・・武山及武ヶ濵 町の東方、下田橋の對岸、山巖の聳立するもの之なり、今柿崎村に属す、高さ四百尺、山頂(石窟あり)の巖頭に立てば、遥に駿州富士の扁影を認むべく、下瞰すれば下田港内は勿論、下田市街、柿崎、稲生澤河域一帯の平蕪を望むべし、更に眸を轉ずれば、須崎高臺の彼方、渺茫たる蒼海の中に、大島、新島等豆南の列島、青螺點々東南に向ふて波間に浮び、右方遥かに神子元の燈臺を眺むべし、幕末黒船渡来の際、此山巓に見張所を設け、狼烟をあげ、白旗を立てゝ警戒をなせり、近く日露の役、浦鹽艦隊の来りて近海に出没するや、復こゝに見張りを置けり。

武山権現社(祭神多郁富許都久和気命)は、もと南方の中腹にあり、同社縁起文によれば、下田領主朝比奈恵明の創建にかゝり、其後下田奉行今村傳四郎正長大に尊宗し、社殿を修築せりと云ふ、此邉、當時は下田町に属したれば、捍海塘紀功碑もこゝに建てたるなるべし、権現社は銅瓦葺にして壮麗のものなりしも、今廃せられて遺祉僅に存するのみ、山麓に稲生山満蔵院(修験宗、今天台宗に属し、もと大浦よりこゝに移る)ありて、其社務を司りしより、武山一に満蔵山(今或ひは萬象に作る)と云ふ。

武山下、柿崎街道の右側、道下に見ゆる石造の給水場は、武ヶ濵清水と稱し、殆全下田町に亘りて飲料水を給する所なり。 

山の南方、港内に面する所、巖石磊々たるは、ワリグリ石を採れる跡にして、石材は皆江戸に積出し、品川の舊六砲臺及新砲臺の基礎を築くに持ゐたるものなり。 

武峰の東南麓を武ヶ濵と稱し、防波堤に沿へる小丘上に松樹の叢生する外、一帯の砂濵にして、時は激浪岸を噛む事あるも、概ね細波静い渚を洗へり、若し夫れ暖國の夜の海趣を知らんとする者あらば、試しに防波堤上に立って、太平洋上星の如き神子元の燈影を眺め、港内點々たるマストランプの影を数へ、微かに消え行く夢の如き櫓歌櫂聲を聞け、玉兎高く須崎半島の高臺に懸かり、漣波月に砕くる所、顧望すれば、四遍の山川是悉く史上の遺跡、英雄逝いて山河空しく、遊子をして低佪断腸去る能はざらしむるものあらん、實に豆南絶勝の一なり。」(引用:下田の栞)。

「南伊豆絶勝の一つ」と景観を讃えている点が印象的である。また、武山の名前の由来、黒船来航の時に見張り所を置いたこと、武山権現社の由来、給水所・石切り場があったことなどが同文から伺える。

武山の名前は権現社に祀られた多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)に由来すると言う。この神社は下田領主朝比奈恵明の創建で下田奉行今村傳四郎正長も信奉していたが、大正4年(1915)の下田大火で延焼。現在は三島神社(下田市柿崎、この神社には吉田松陰像がある)に合祀されている。

◇ 伊豆の民話と伝説「武山と役行者」

昭和50年(1975)に刊行された「下田市の民話と伝説第一集」に、「武山と役行者」の伝説が掲載されているので以下に引用する。

「・・・武山と役行者 武山は旧下田町の東方下田橋の対岸にどっしりと聳え立っている。下田八景の一つで、この山に登れば北は起伏重畳する天城の連峰、その上にぽっかりとぬきんでた富士の麗峰を望み、東は稲取ケ崎から西は石廊岬まで一望にすることが出来る。また眼下には須崎の鼻の彼方遥か水平線上に絵のような伊豆七島が点在する。この眺望の壮大と雄偉なことはまこと南豆第一と称せられるわけである。

幕末、黒船来航の時にはこの山頂に見張所を設け、白旗を立て狼烟をあげて警戒したという。

多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)を祭った武山権現は、南方の中腹にあり、鋼瓦葦の壮麗なもので、下田奉行今村伝四郎正令が深く尊崇し、社殿を修造したと伝えられている。その後いつか廃されてただ僅かにその址が残っていたが、大正四年町の大火の際この山にも飛火して、あとかたもなく焼失してしまった。武山の名はこの多郁富許都久和気命の神名から出たものであるが、山麓に、稲生山萬蔵院(修験宗、今は天台宗)があって武山神社を支配しておったので一名萬蔵山(まんぞうやま)ともいわれている。修験宗萬蔵院といえばこの山には役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角)の遺跡がある。

昔、舒明天皇の六年大和葛城郡茅原に生れた役の小角は十六才にしてすでに生駒熊野の両山に攣じ長じて天智天皇の四年三十二才の時には、葛城山に登り、爾来三十年穴居して修道苦行、常に草衣木食、孔雀明王の神咒を誦して奇異の験術を得た。その後、金峰、大峰二上、高野、牛滝、神峰、本山、箕面等の諸高山を踏開し、近畿一帯の大嶽で小角の足跡を印さない所はなかったが、たまたま文武天皇の三年六十六才の時讒せられて伊豆に島流しされた。 今、武山に遣っている洞窟はその頃小角の住んでいたもので洞窟の前には寛政十一年に建てられた「高祖神変大菩薩」の碑と千三百年遠忌に建てられた「役行者」の碑がある。小角は光格天皇の寛政十一年千百年遠忌にあたって「神変大菩薩」の諡号(しごう)を贈られたのである。その後、文武天皇の大宝元年六十八才のとき赦されて京都に帰り、後、九州に遊んで豊前彦山を踏開したがそれから先は明らかでない。尚富士登攀はこの小角によって先鞭をつけられたものであるという。

今は武山の「役行者」の住んでいた洞窟も石碑も、又小角の腰掛岩もすべてもとの位置のまま「下田武山荘」の庭園内に存置されている。武山は本郷門脇方面から見ると美人が仰向けに寝たようにも見えることから、寝姿山とも臥美人山とも呼ばれ、今はロープウェイによって三分足らずで頂上の眺めを満喫することもできるし、高根山方面に遊歩道もできている。」(引用:下田市の民話と伝説第1集)

本項の前半分は先に述べた「下田の栞」の記述とほぼ同じであるが、後半は稲生山萬蔵院(修験宗、後に天台宗)と役行者「小角」について書かれている。「小角」は全国各地の山に登攀し修行しているが、伊豆に流されてからは武山の洞窟に住み修行を重ねた。「小角」が住んでいた洞窟や腰掛岩も全てもとの位置のまま「下田武山荘」の庭園内に存置されていると記されている。

下田武山荘があった場所は、下田市街から東伊豆道路(国道135号)に沿って新下田橋(人魚橋)を渡り武山に突き当たった処で、道路の左側、現在駐車場となっている辺りである。

◇ 寝姿山と武山(萬蔵山)

 子供の頃、寝姿山と武山の区別がつかなかった。どうなっているのか気になって国土地理院地図二万五千分の一図を見ると、寝姿山の名前のみ記載され武山の名前はない。寝姿山の山頂標識は(標高196m)は通称寝姿山の胸部にあたる辺りとなっている。武山の表記はないものの、先に述べた「下田の栞」等の記述から判断すると寝姿山の頭部にあたる部分(山塊)が武山ということになろうか。山塊の最高地点(179m)は寝姿山の鼻の辺りで電波塔が立っている。また、寝姿山の北東方向で腹部にあたる辺りには三角点の表記がある(標高199.7m、別の地図では女郎山)があり、その北側は高根山(343.4m、三角点、電波塔)へと続いている。通称寝姿山(或いは武山)と一括して呼ぶが、地形的には武山、寝姿山、女郎山の集合体と言うことなのだろう。

寝姿山といつから呼ぶようになったか分からない。江戸末期に記された「ヒュースケン日本日記」には「物見山」とあり、大正3年(1914)刊行の下田の栞に寝姿山の言葉が出てこないことから推察すると、それ以降の呼称ということになろう。筆者が最初に耳にしたのは昭和20年(1945)から30年(1955)頃、東海自動車のバスガイドの説明であった。誰が名付けたのだろうか・・・。

この寝姿山も下田を代表する山と言えよう。

参照 (1)下田己酉倶楽部発行「下田の栞」大正3年、(2)下田市教育委員会「下田市の民話と伝説」第1集昭和50年、(3)青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」2011年

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下田富士と民話伝説

2020-07-11 16:40:07 | 伊豆だより<里山を歩く>

通称「○○富士」と呼ばれる山(郷土富士)が全国に200余座あるという(Wikipedia2020)。例えば北海道では、蝦夷富士(羊蹄山)、阿寒富士、知床富士(羅臼岳)、利尻富士(利尻山)など17を数える。いずれも、地域の最高峰で形が富士山に似ているために呼ばれている。一方、富士山、を抱える静岡県と山梨県には、駿河の富士に遠慮するように、それぞれ1座(下田富士と黒富士)しかない。

伊豆急行で下田駅に近づく頃、「右に下田富士、左に寝姿山が見えます・・・」と放送がある。右の窓から街の屋根越しに、小さな尖った山が近くにみえる。この下田富士(本郷富士)は、一つの岩から形成される一岩山で標高187m、浅間神社が祀られ、周囲はウバメガシで覆われている。○○富士と呼ばれる山の中で全国一低い富士だと言う。駅を出て右手の信号を渡ると頂上に向かう伊豆石の石段が見える。頂上まで20分もあれば登れるだろう。ペリー艦隊の乗組員もこの頂上に立っている。

下田富士は、駿河富士のような優雅な裾野の広がりはなく、市街地に立錐形の岩山をポンと置いたように見える。無骨な小山ではあるが、何枚かの写真の中で下田富士を見つけた時「この町は下田である」と誰もが断定できるような、いわば下田の象徴とでも言うべき山である。

この下田富士には「姉妹富士」と呼ばれる民話が残っている。「下田市の民話と伝説」から、その一節を紹介しよう。

民話「姉妹富士」

「・・・ずっと遠い昔、この下田富士(祭霊磐長姫)と駿河の富士(木花咲耶比咩命)と八丈富士(佐伎多摩比畔命)は三人姉妹でした。下田富士が一番の姉で駿河の富士が中、八丈島の富士が末の妹だったが、駿河の富士は桜の花の咲き盛るように美しく誰にも褒め讃えられているのに比べて、下田富士はごつごつの岩山で誰も見向いてくれない。妹の駿河の富士の器量よしの評判を聞くにつけ、下田富士は妹を妬み羨んで日々を送ったが、遂に思いつめて「もう妹の駿河富士の姿は決して見まい」と決心し屏風として天城山を立てた。

朝夕、遥か彼方の海上に妹の八丈富士を、山の彼方に下田富士の顔を眺めていた気立ての優しい駿河の富士は、姉の下田富士の姿が見えなくなってしまったので、「下田富士の姉さんはどうしていらっしゃるかしら、どうかお心持がなおりますように」と案じながら、朝な夕に姉のことを心配して、少しでも見たいと背伸びし続けたので、あんなに(3,776m)背が高くなってしまった。下田富士に登って駿河の富士の事を話すと、一岩山の石が泣くと言う。こうした二人の姉さんたちの様子をみるにつけ八丈の末娘の富士は「どうか姉さんたちが仲良くなりますように」と胸を傷めつつ祈り続けていると言う・・・」

なんとも切ない話である。木花咲耶比咩命(このはなさくやひめ)と磐長姫(いわながひめ)の似たような民話は各地にも存在すると言う。下田富士民話は三人の姉妹姫を登場させ、ひと時の諍いがあっても姉妹仲良く暮らしなさいと語り掛けているのか。

また、古事記(和銅元年・712年編纂)にも以下のような話があると言う。「石長比売(いわながひめ)は山の神大山津見神(おおやまつみのかみ)の長女で、木花乃佐久夜毘売(このはなさくやひめ)は妹にあたります。木花乃佐久夜毘売に一目ぼれした邇邇芸命(ににぎのみこと)は大山津見神に結婚を申し入れ、大変喜ばれた大山津見神は木花乃佐久夜毘売と一緒に姉の石長比売も差し出しました。しかし、邇邇芸命は石長比売の容姿が気に入らず帰してしまいます。大山津見神が二人を差し出したのには意味があり、石長比売を傍に置けば巌のごとく永遠の命が得られ、木花乃佐久夜毘売をおけば花が咲き誇るごとく栄えるように願ってのことでした。しかし・・・」

花は華やかで見る人の心を癒してくれる存在だが、いずれ枯れてしまう。一方、石や岩は何年たっても変わらずありのままの姿であり続ける。石長比売は荒々しい岩の容姿でありながら命尽きることなく生き続ける。これこそ生きとし生きる者の理想、真の豊かさが込められた女神像ではないかと、下田富士民話を古事記の逸話に重ねる説もある。

◇ 下田の栞「下田富士」

大正3年(1914)発刊の「下田の栞」には、「・・・下田富士 町の北方一二町にあり。稲生澤村に属す。海抜六百尺、一岩山と呼び、全山一巌石より成ると云傳えられ、古来海容の好目標なれども、山形富士に似たるを以て俗に下田富士と稱せられる。山上に社殿あり、舊記に云、永正中下田地頭朝比奈恵明、九祠を合して一棟に改造すると、今祭神不明或云意波命(式内)と、俗稱浅間社と云は、此山を一名下田富士と呼べるより附會せるものか。一説には木花咲耶姫(浅間社)意波與命(意波與命社)を合祀せりと。山頂眺望よし。・・・社殿の裏手にある黐樹(注、モチノキ)に、欧字母及年歴を刀刻せしものあり、傳云、ペルリ来航の時、米人此山に登り、紀念の為に姓名を刻したりと、今刀痕消えて文字讀み難し・・・」と、下田富士について解説している。

年数を経てもこの山は全く変わっていないように見える。機会があれば、山頂の浅間神社に詣でたいと思う。

参照 (1)下田市教育委員会「下田市の民話と伝説」第一集(昭和五十年)、(2)下田己酉倶楽部発行「下田の栞」(大正3年)

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