豆の育種のマメな話

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恵庭の古道-8 「ポンオサツ道(里道)」

2023-09-16 10:45:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

漁村と長都村の境界道路

大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)の地図「長都1/50,000」を開く。この地図には長都村・漁村・嶋松村・月寒村(一部)地域が載っている。右手には「マオイトー(馬追沼)」「オサツトー(長都沼)」があり、川の流域は未だ多くが湿地帯で荒地が広がっている。

北西から南東に斜めに横切る札幌本道(室蘭街道)が目に入るが、嶋松村・漁村・長都村で札幌本道(室蘭街道)に繋がる里道は僅か5本のみ。陸路は未だ発達していないことが分かる。

5本の里道のうち「松園通(中島通り松園線)」「釜加街道」「孵化場道路」「長都街道」については前項で触れたとおりだが、室蘭街道から戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる道路は名前が分からない。大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図「漁1/50,000(大正9年印刷)」や大正5年測図「漁1/25,000(大正7年発行)」には、既にこの道路の痕跡さえない。言わば、消えた古道(里道)である。

戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる此の里道が廃れたのは、明治26年に千歳原野殖民地区画が完成し、基線道路や南26号道路が整備されたことによるのだろう。

◆ポンオサツ道(里道)

消えた戸磯の道路について思案していたところ、澁谷さんから一つの情報を頂いた(令和 5年9月)。冊子「戸磯百年のあゆみ」に此の里道の図があると言う。早速、図書館で調べてみると、戸磯史編集発行委員会「戸磯百年のあゆみ(1989年発行)」に次のような記述がある。

  • 明治25-30年頃の戸磯には17戸あった。明治25年頃の戸磯にある道と言えばカマカ街道と此のポンオサツ里道だけだった(地図に記載あり41p)。
  • ポンオサツ里道は、室蘭街道の東3線付近から基線南25号まで戸磯を斜めに横切り、そこから南25号(現在の黄金中島通)を西に向いカマカ街道に至る(地図45p)

澁谷さんも古老から「ポンオサツ里道と呼んでいた」との話を聞いたと言う。通称だったかも知れないが、この道を「ポンオサツ道(里道)」と称して良いだろう。

因みに、「ポン」はアイヌ語で「小さい」の意味、川の名前では支流を表す。ポンオサツ川はオサツ川の支流で現在大部分が空沢になっているが、陸自千歳・恵庭演習場に発し、恵南の寺田牧場・遠藤牧場を抜け、上長都地区で長都川に注いでいる。

現在の地図に重ねると、ポンオサツ道は室蘭街道(ポンオサツ川が交差する地点)からサッポロビール工場、戸磯地区恵庭テクノパークを抜け、基線南25号(黄金中島通)を西に進み、西1線(団地中央通)との交点付近(黄金地区、カリンバ遺跡付近)で旧釜加街道に交わる。この道は戸磯地区の人々がよく使う里道だったのだろう。

地図を確認すると、ポンオサツ里道は漁村と長都村の境界である。現在、恵庭市と千歳市の境界は東3線道路であるが当時の漁・長都の村界は漁側(恵庭)に食い込んでいたのだ。村の境界になると言うことは、利用頻度の高い古道であったのだろう。河川や道路が村の境界になるのは歴史的にも極めて一般的なことである。

◆漁村と長都村の境界

漁村と長都村の境界変遷については、守屋憲治「千歳線長都駅史」から引用する。

「・・・かつて長都村と漁村(現・恵庭市の一部)の境界はカリンバ川沿いに西1線南26号付近(筆者注、地図からは南25号付近と思える)まで三角形で漁村に食い込んでいた。境界が不明確なため不便な事も多く、北海道庁は両村利害関係者の意見を勘案し、明治31年1月に告示をもって室蘭街道から東北については殖民地区画東3線を境界と改めた。境界が確定した前年、人口増などを理由に漁村と島松村は漁村外一ヶ村戸長役場を設置、千歳村外五ヶ村戸長役場から離脱した・・・」とある。

即ち、漁村と長都村の境界はカリンバ川を遡り、釜加街道、ポンオサツ道を経てポンオサツ川の上流で孵化場道路に至っている。因みに、漁村と嶋松村の境界は漁川・茂漁川、嶋松村と月寒村の境界は島松川であった。

参照 1)大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)「長都1/50,000」、2)大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図(大正9年印刷)「漁1/50,000」、3)大正5年測図(大正7年発行)「漁1/25,000」、4)戸磯史編集発行委員会(1989年発行)「戸磯百年のあゆみ」、5)守屋憲治「千歳線長都駅史」

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