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伊豆の人-11,写真術の開祖 「下岡蓮杖」

2014-05-26 15:51:17 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田城山公園蓮杖台の下岡蓮杖顕彰碑と胸像

下田城山公園の一角,蓮杖台と呼ばれる高台に下岡蓮杖の顕彰碑と胸像がある。顕彰碑(昭和3年建設)には渋沢栄一筆で「下岡蓮杖翁之碑」と刻まれ,重岡健治製作の胸像(生誕160年を記念して,昭和59年建設)は写真機と蓮根状の杖を持った姿である。

下岡蓮杖は文政6年下田生まれの,わが国における写真術の開祖とされる人物。下田小学校校歌には,「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて,永遠に輝くいさおしの誉れも高き我が下田」と謳われ,下田の基礎を築いた奉行今村伝四郎正長,儒者で天才詩文家の中根東里と並び称される。

蓮杖の経歴は,彼が晩年に語った談話筆記に基づく場合が多く異説も多いが,肥田喜左衛門,斎藤多喜夫氏らの研究でかなり明らかになってきた。詳しくは付表をご覧頂くことにして,先ずは蓮杖の一生を辿ってみよう。

◆下岡蓮杖年譜(概要)

1.生い立ち

下岡蓮杖,文政6年(1823)伊豆国下田仲原町で代々廻船問屋をつとめる櫻田與惣右衛門の三男として生まれる。幼名久之助。幼少より絵を好む。幼くして岡方村土屋善助の養子となるが,天保3年(1832)養父母が他界したため実家に戻る。天保6年(1835)江戸横山町の足袋屋へ丁稚奉公に出されるが,嫌気がさし下田に戻る。

 

2.狩野菫川の門弟となる

天保13年(1843)下田に設けられた台場付の足軽となるが,画筆で身を立てたいとの思いは強く,下田砲台同心・鹿子畑繁八郎の紹介で,幕府の御用絵師である狩野菫川に入門。菫園の号を与えられる。本格的な絵の修業に取り組み,次第に頭角を現す。天保14年(1844)浦賀奉行土岐丹波守の世話で浦賀平根山砲台付足軽となる。

3.銀板写真と出会う

弘化2年(1845)オランダ船がもたらした銀板写真をみて驚嘆,写真技術を学ぼうと決意する(弘化2年,嘉永3年,安政4年など諸説がある)。技術習得には写真を写せる外国人に近づくのが早道と思いつめる。

弘化3年(1846)久里浜に投錨したアメリカ船が発見されると,幕府より「絵図に書きとるよう」命を受けて外国船に接し,見取り図を作成。この頃(嘉永67年),ペリー艦隊の写真師ブラウン・ジュニアやプチャーチン艦隊のモジャイスキーが下田・箱館で数枚の写真を残しているが,蓮杖が彼らに接触した記録はない。

安政3年(1856)玉泉寺がアメリカ領事館となると,下田に戻って領事館の給仕使となりハリスの通訳ヒュースケンから写真撮影を学ぼうとするが,目的を達することは出来なかった。写真技術習得の夢は果たせず,焦燥の日々であったろう。安政6年(1859)江戸城本丸が炎上(十月)すると,師菫川に呼ばれて復旧工事に従事している。

嘉永6年(1853)蓮杖を名乗る(蓮杖が愛用した唐桑製の杖に嘉永6年の文字が刻まれている。この杖の形状から蓮杖と呼ばれ,自身も名乗るようになったと言う)。

4.写真術習得と写真館開業

万延元年(1860)横浜でアメリカ商人ショイヤーの夫人アンナ(画家)からパノラマ画油絵を学ぶ。同時に,ショイヤーの客人であった写真家ウンシン(ジョン・ウイルソン)から写真術の習得に努める。そして,文久元年(1861)ウイルソンが帰国することになり,自身が描いたパノラマ画と交換に写真機を手に入れる。さらに,ウイルソンのスタジオ(駒形町)を継承し外国人相手に撮影を行う(ショイヤーの都合により戸部に転居)が,ウイルソンから譲り受けた薬液が尽きてしまう。化学知識の乏しい蓮杖にとって寝食を忘れ刻苦して調合を研究1年余,写真技術を己のものにした時の喜びの様子が語り継がれている。

文久2年(1862)横浜野毛に写真館を開業(全楽堂,後に弁天通に移転,横浜における日本人最初の営業写真館であった)。

5.千客雲集の盛況

慶応元年(1865)妻・美津が体調を崩したため下田(殿小路)に戻り写真館を営む。この頃「下岡」と改姓する(生地の下田と養父先の岡方村から一字を取ったと言う)。

慶応3年(1867)横浜に戻り,本町通(現・馬車通)で写真館を再開業,「相影楼」「全楽堂」の看板を掲げる(中央には英文の大看板を添える)。一階は茶屋を兼ねた売店,二階が撮影場。着色した「横浜写真」や「横浜絵」が評判を呼ぶ。外国人のお土産品として人気があったと言う。門下に,横山松三郎,臼井重三(秀三郎,蓮節),鈴木真一,江崎礼二,船田万太夫,中村竹四郎ら。

また,明治2年(1869)横浜居留地と筑地居留地間の乗合馬車営業を始め,明治5年(1872)牛乳販売業,石版印刷業を始めるなど,好奇心旺盛で商才にたけた蓮杖の姿が伺える。いずれも開祖と称されるほど逸早く取り組んでいるが,事業としては成功していない。

6.晩年の蓮杖

明治7年(1874)横浜海岸教会で洗礼を受ける。明治8年(1875)妻の美津逝去後は,横浜にあった三軒の写真館を弟子たちに譲り浅草公園五区に転居。時代と共に写真技術は進化し,多くの写真家たちが活躍するようになる。蓮杖はスタジオ写真用の背景画を描くなど,画筆を楽しみ余生を送った。明治12年(1879)には登和を後妻に迎え,大正3年(1914)浅草で逝去(三月,享年92歳,墓は巣鴨の染井墓地にある)。

◆元祖の地位

わが国における写真術の開祖として,「西の上野彦馬,東の下岡蓮杖」と言われてきた。彦馬はオランダ人から化学や写真術を学び,文久2年(1862,蓮杖と同年)長崎で「上野撮影局」を開業。もう一人は,鵜川玉川。師であるフリーマンの写真館を引き継いで1年早い文久元年(1861)に江戸薬研堀で開業している。厳密に言えば,鵜川玉川が元祖であると言えるかもしれない。

いずれにせよ,ほぼ同時期に写真技術を習得し営業を開始した,鵜川玉川,下岡蓮杖,上野彦馬三名を写真術の開祖と言って良いだろう。

◆下岡蓮杖の再評価

上野彦馬は,外国人だけでなく坂本竜馬,高杉晋作ら幕末の志士たちの肖像を撮影し,写真現存している。一方,蓮杖の写真は震災等で多くが紛失したこともあり数が少ない。また,弟子の横山松三郎,鈴木真一らに比べ写真技術が劣るなど評価が芳しくなかったが(ピントの甘い,やらせ写真と揶揄する者もいた),蓮杖の写真が発見されるにつれ評価が高まっている。特に,風景や市井の人々を対象にした風俗写真(演出による絵画的な構図が取り入れられている)は暖かみがある。幼少の頃から絵を好み,狩野菫川門下で修業を積んだ絵師の技術が活かされていると思われるのだが・・・。

幾多の逸話があるが,ここでは省略しよう。興味のある方は,下記の資料を参考にされたい。なお,横浜市馬車通にも「日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑」(昭和62年建設)がある。

下田城山公園の蓮杖台を訪れたのは五月下旬であったが,初夏を思わせる暑い日であった。下田開国博物館から,ペリーロードを港に向かい散策し,なまこ壁の旧澤村邸(市歴史的建造物指定)脇の石段を城山公園に向かって上る。石段は昼の陽射しを受けて汗ばむほどであったが,蓮杖の記念碑前に立つと港からの涼しい風が頬を撫でた。

そして,いつも持ち歩くメモ用の小さなカメラを胸像に向けた。幕末から明治にかけて先駆けした写真術開祖の苦労を偲びながら・・・。

参照:下田巳酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」帯広百年記念館紀要192001),斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007), 肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009


 

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「プチャーチン」,日本を愛したロシア人がいた

2014-05-17 13:22:59 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

江戸末期,鎖国の眠りは破られようとしていた

江戸末期,嘉永から安政にかけて(1850年代)日本は激動の時代を迎えていた。国交や通商を求める世界列強の使節団が頻繁に来航し,二百年以上続いた鎖国の眠りは破られようとしていた。アメリカからはペリー艦隊が,ロシアからはプチャーチン艦隊が,ほぼ同時期に日本開国の使命を背負って来航している。ペリーについては,「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」の狂歌にあるように衝撃的に登場し,「和親条約」を締結した人物として教科書に掲載されるなど良く知られている。が,プチャーチンを知る人は少ない。

 

◆プチャーチン略歴

1803年,サンクトペテルブルグにおいて古い貴族の家系に生まれる。海軍士官学校を卒業し黒海艦隊司令官ラザレフ大将の世界一周航海に参加。帰国後,オスマン帝国戦争従軍,蒸気船購入のためイギリス派遣,カスピ海方面のロシア権益擁護のためイランへ派遣などを経て,1852年海軍中将に栄進し,条約締結使節を命じられ日本へ赴くことになる。

帆船パルラダ号でロシアを発ち,イギリスで購入した小型蒸気船(ヴオストーク号)を伴いポーツマスを出港,1853823日長崎に到着。長崎では長期間待たされ,一か月後の921日ようやく長崎奉行に書簡を提出,日本側全権団と会合が持てたのは翌年112日になってからであった(対外的窓口であった長崎に向かい,紳士的に忍耐強く対応したのは,シーボルトの提言があったからだと言われている)。

新艦デイアナ号で下田に入港したのは,ペリー艦隊7隻が下田へ入港してから4か月後の128日であった。第一回日露正式会合は,1222日下田の福泉寺でようやく開始されたのである。ところが翌日,安政東海地震と津波で下田の街は壊滅的な被害を蒙り,デイアナ号は大破する。

混乱した中であったが,日露交渉は場所を玉泉寺(第二~三回)長楽寺(第四~五回)に移して再開(11日)。破損したデイアナ号は伊豆西海岸の戸田で修理することになり回航するが,嵐に合い田子の浦沖(富士市)で沈没(116日),村民の決死の救援活動で乗組員は救助される。全権団は戸田での洋式帆船の建造を許可している(124日)。そして,日露和親条約は185527日に調印された。

プチャーチンは,1855年建造されたヘダ号で帰国。その後も,1857年に追加条約調印のため来航,1858年に日露修好通商条約調印のため来日している。

 

帰国後も,サンクトペテルブルグにおいて日本からの留学生を厚遇し,さらには日本公使館の開設や活動に協力するなど好意的で,両国の友好親善に貢献。明治政府は,プチャーチンに勲一等旭日章叙勲した(1881年)。幕末から明治の北方領土問題を解決し(択捉以南は日本領,樺太については境を設けない等),友好関係を築いた貢献は大きい。1883年パリで死去,80歳であった。

 

1890年プチャーチンの遺言により遺産から1,000ルーブルが戸田村に寄贈され,1891年には長女オーリガ逝去し遺言による遺産分与として800ルーブルが贈られた(戸田村,日本赤十字社,東京市養育院)。さらに,玄孫マリーナが大阪万博の折りに下田と戸田を訪問してデイアナ号模型等を寄贈するなど(1970年),友好関係は続いている。

 

◆ペリーとプチャーチンの対比,蒸気船と帆船,剛腕と忍耐

ペリー艦隊が蒸気船4隻を連ねて(翌年は7隻)来航したのに対し,プチャーチン艦隊は老朽化した帆船4隻(蒸気船は1隻),二回目は新しく建造されたデイアナ号1隻での来航。1854年祖国ロシア帝国がクリミア戦争に突入したため艦船に余裕がなく,イギリス,フランス艦隊を気にしながらの交渉でもあった。

また,ペリー艦隊は将軍家の庭先(浦賀沖)へ案内も請わず突然現れ砲撃で脅し交渉を迫ったのに対し,プチャーチンは礼儀正しく表玄関(長崎)を訪れ忍耐強く長崎に逗留した。幕府の全権として交渉に当たった外国奉行川路聖謨は,ペリー・ミッションが武力を背景に恫喝的な態度を取っていたのと対照的に,日本の国情を尊重し交渉を進めようとするプチャーチン・ミッションに対し好感を持ったと記しているから,シーボルトの進言は役立ったと言えなくもない。しかし,二百年以上続いた鎖国を破棄するにはペリーのような強引さとインパクトが必要であったことも事実である。

「今でも,アメリカ外交は原理原則重視で正義のためには武力も辞さずと言えるね」

「ロシア外交は強かで,ブラフも譲歩も多用しながら目的を遂げてしまうところがある」

「日本は物事を先送りする引き伸ばし戦術が得意と言うことか・・・」

 

◆安政東海地震とプチャーチン

18541223日(嘉永7114日),マグニチュード8.4の大地震は伊豆半島に歴史的な大津波をもたらした。下田でも津波高が4.56.0mに及び街を一飲みにし,その被害は甚大であった。875軒のうち871軒(流失家屋841軒)が被害を受け,被害は実に99.5%。死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人など流入者を含めると122人と推定される)であったという。福泉寺で第一回日露会合を終えた翌朝9時頃である。

この時プチャーチンはデイアナ号の艦上にいた。戦艦の被害は凄まじく,竜骨と副竜骨が引き裂かれ,舵がもぎ取られ,浮いているのが不思議なくらいの状況だったという。悲惨な状況の中プチャーチンは,その日の夕方にはロシア人医師を伴い上陸して,交渉相手の川路聖謨を見舞,日本人被災者の治療の手伝いを申し出ている。

 

◆デイアナ号の沈没とヘダ号建設

被害を受けたデイアナ号を修理するため,伊豆半島西海岸の戸田村へ向け出発したが,途中暴風に襲われ田子の浦に漂流した。この時,勇敢にも命がけで救助に向かったのは多数の漁師たちであった。戸田村では宝泉寺をプチャーチンの宿舎に,本善寺を乗組員の宿舎にあて,多数の乗組員が雨露を凌げるようにと村民は大急ぎで小屋を作り,衣類や食料を持ち寄って助けた。デイアナ号に同行していたマホフ司祭は,「・・・善良なる日本の人々よ,末永く健康であれ,そして生きている限り思い起こされよ,あなた方の努力が異国の五百名の生命を救ったことを,そして救われた者達がこの日を一生忘れないであろうことを・・・」と記している。

韮山代官江川英龍が建造取締役に任命され,その指揮のもと天城山や沼津千本松原から木材が運ばれ,戸田村の船大工たちはロシア人指導を得ながら設計図を頼りに3か月の突貫作業で百トンの西洋型帆船を完成させた。プチャーチンは人々への感謝を込めて「ヘダ号」と命名,部下47名と共にこの船で帰国した。ちなみに,ヘダ号に乗れず米商船グレタ号で帰国の途についた乗組員第三陣は途中でイギリスの捕虜になっている。

 

 

◆日本人との「絆」を大事にしたプチャーチン

その後のプチャーチンは,伯爵に叙され,海軍大将・元帥に栄進,教育大臣に任命されるなど活躍するが,日本との関わりは前述の「プチャーチン略歴」に記したとおり濃密であった。下田,戸田村での体験や川路聖謨らとの信頼関係が礎となり,戸田村へ遺産寄贈を遺言するほど親日であった。さらに,その遺族と戸田村の人々の「絆」も続いている。

歴史探訪で伊豆の下田を訪れる機会があったら,日露交渉の舞台となった福泉寺・玉泉寺・長楽寺,津波塚の残る稲田寺を訪ね,プチャーチン・ミッションに思いを馳せるのはどうだろう? そして,静かな戸田村(沼津市)では,造船郷土資料館に立ち寄り歴史を肌で感じ,宿では絶景の富士山と駿河湾の夕日を眺めながらタカアシガニを食する。「絆」を感じる旅になることだろう


参照:白石仁章「プチャーチン,日本人が一番好きなロシア人」新人物往来社(2010),戸田造船郷土資料博物館HP,肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009),富士市立博物館「日露友好150周年記念特別展デイアナ号の軌跡報告書」日本財団図書館(2005

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