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須原小学校,昭和27年度卒業生が60年ぶりに通学路を歩く

2012-07-13 14:53:49 | 伊豆だより<里山を歩く>

須原小学校(稲梓村立,下田町立。同名の学校は新潟県魚沼と長野県大桑にもある)は昭和46年に下田市立稲梓小学校に統合され,跡地には現在「あずさ山の家」が建っている。卒業後初めて立ち寄ってみたが,校舎の面影は全くない。文字が朽ち果てた石造りの校門,校庭の銀杏の老樹が往時を偲ばせるだけである。卒業写真に残る校庭の桜は今も満開になるのだろうか,ふと感傷に浸った。

この小学校に入学したのは昭和224月のことであった。太平洋戦争が終わって1年半が過ぎたばかりの頃で,物資はまだ不足していた。ランドセルではなく軍隊が使っていた背嚢を再加工した鞄を背にして通学した。風呂敷包みの子もいたし,藁草履が通常の履物であった。

 

同級生は34名(男児18,女児16),1学年1クラスの山村に位置する小学校である。運動場は50mの直線走路を取ることが出来ないほどの狭さで,前年は運動場のフィールド部分にサツマイモが植えられていた。全員が農家の子供であったが,弁当を持参できない者や幼い弟を背負って来る子も珍しくなかった時代である。

 

平成247月,60年ぶりに通学路を歩いてみようと思った。家(現在は屋敷跡がやっと確認できる雑木林になっている)から出発するか,学校から出発するか考えたが,利用できる交通機関はないので,いずれにせよ往復歩かなければならない。それなら,復路を下り坂にした方が楽だろうと学校跡地(現,あずさ山の家)を出発した。

 

校庭から東の通用門を出て左に進む。当時,「西峰橋」を渡った所に水力精米所が営業しており,いつも精米機の音が響いていた。精米所の裏には翌檜(あすなろ)の老樹が一本天を衝いていた。

 

この木の名前を知ったのは,賀茂郡下の小中学生の作品を集めた文集の名前が「あすなろ*」で(北海道十勝の「サイロ」のような文集),「あすなろって何だ?」と聞いたら,「明日は檜になろう,明日こそは・・・と頑張ることだ。精米所の裏に翌檜の樹があるから見てごらん。天まで伸びている」そんな話を聞かされたことだった。子供ながらに良い話だと思った記憶があるが,「枕草子」や松尾芭蕉「筏日記」,井上靖「あすなろ物語」によれば,「檜になりたくても決してなれない」と哀れな樹として扱われているではないか。まあ,どちらでも良いか・・・(この文集は今も発刊されているだろうか)。

 

更に30mほど進むと,下田街道(国道414号線)のバス停「茅原野口」がある。昔は茅(かや)が生える原野であったのだろう。当時は棚田が広がっていたが,今は休耕田が多い。右手にはかって酒や日用雑貨を商う店があった。その反対側の川縁には桜の並木があったと思うが,川は改修されて桜は残っていない。

 

しばらく歩き,次のバス停が「坂戸口」で,ここから右に入る細い山道を通学していた。「坂戸口」から最初に坂を上った所に,「武田家滅亡後この地に落ちてきた土屋氏の墓がある」と言われていた。なお,坂戸集落に入らず国道をそのまま7km進めば,伊豆の踊子で知られる「湯ケ野」を経て天城峠に通じる。また,水田の中道を左へ行き「根岸橋」が架かる川は子供らの水遊び場であった。学校にプールがあるような時代ではなかったので,学校帰りや夏休みにはこの川でよく泳いだ。

 

さて,集落名の「坂戸」は,「坂の入口」に由来するのだろう。確かに,沢に沿って山奥まで続く集落は坂ばかりである。当時は24~25戸が点在し,田畑を耕し,牛を飼い,養蚕を行い,蜜柑を売り,炭を焼き,竹を切り出し,生計を立てていた。今では10戸余が残るだけで,高齢化が進んでいる。

 

道路は小型車がやっと通れるだけの道幅である。右側に墓地が見えて来る。墓地の脇を山側に上がれば臨済宗建長寺派「三玄寺」がある。さらに,細道を進むと村の集会所や家が佇む場所に出る。田畑は耕作放棄地が多い。ただ,花が咲き,せせらぎと鶯の声が聞こえる里は平穏である。分岐路では山が迫っている右手の道を進む。坂はひときわ急になってくる。子供の頃もこの辺は蝉の声が騒がしかったが,この賑やかさは今も変わっていない。

 

木立に覆われているが,苔むした細く急な石段が右手の山肌に残っている。この上には,弘法大師を祀った大師堂があり,「お大師さん」と呼んでいた。夏休みには子供会で集まり,ラジオ体操や宿題をし,秋祭りの寸劇の練習もした。もちろん木登りや缶けりの遊びの場でもあった。

 

更に小道を進み坂を上がると狭い台地となり,夏ミカンの畑が目に入る。この近くには8戸が集まり,同級生のKも住んでいた。道が分かれる所に旧集会所があったが,ある時期までこの辺りは村の中心であった。集会場は婦人会の料理講習会,青年団の集会,子供会などに使われ,一時期精米機が備えられていたこともある。2本の桜の樹があり,実のなる頃は摘み食いし口を真っ青にしていた。

 

分岐路を右に進めば急坂な道,左に進めばやや緩やかな細い迂回路となっている(現在,左側を車で上れる)。左手の下には不動の滝があり,不動神が祀られている。そして,左右双方の道は100200mで村の神社の入り口で合体する。

 

この神社がある狭い台地の一角に生家があり,近くには5戸が暮らしていた。どの家にも子供がいて,毎日のように群れていた。メンコやベイゴマが流行していたが,むしろ椿に集まる「メジロ」のさえずりを聞き,「鳥もち」で捕獲し,蝉やカブトムシを追い,椎の実を拾い,野イチゴや桑の実を摘み,ニッキの根を齧るといった遊びに暮れていた。そして子供らは,何時も夢をみていた。

ここは,大平山の頂上に近く,標高250m(小学校との標高差160m),小学校から2km余の距離にある。

 

ちなみに,この山奥は今でこそ不便であるが,当時の古道を辿れば容易に,山を越え「谷津」に下り「河津」に出ることが出来た。駿河湾を一望できる尾根で分かれて,「落合」や「宇土金」に下り「下田」へ出ることも可能だった。古道は,昭和30年頃まで生活道路と言えたが,今は木や竹が繁り草に埋もれて通ることが出来ない。古道を復活させれば,伊豆を訪れる楽しみが増えるだろ。「古道復活,自然再発見プロジェクト」があっても良い。

 

 

 

2024.5.3追記

稲梓小学校2023年度卒業生のMさんからコメントを頂いた。有難う。

*文集「あすなろ」が現在も発刊されていると言う。大変嬉しく思います。

また、文集誌名は「あすなろ」でなく「あすなろう」だとのご指摘。筆者の記憶が不確かなので、当時も「あすなろう」だったのでしょう。

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1 コメント

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稲梓小学校卒業生より (M)
2024-05-02 20:30:09
こんにちは!2023年度卒業生のMです。
稲梓という土地にまた来てくださり、ありがとうございます。
あずさ山の家は、今は使われなくなりましたがまだ残されています。
須原小、加増野小、椎原小が統合され、今の稲梓小学校があるんだなと考えるととても奥が深いですね。
全校児童40人弱の学校ですが、令和の時代も稲梓という地を大切にし、日々勉強に励んでおりました。
あすなろという作文集は今もまだ発行されています。「あすなろう」という名前になっていますが…。
載った時はとても嬉しいです。
これからも、自然豊かでのどかな稲梓という土地を忘れずに生きていきたいです。
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