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恵庭の古道-10 江戸後期「シコツ越え」の記録

2024-03-05 11:52:37 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

シコツ越え」した人々

江戸時代の蝦夷地、イシカリ(石狩、西蝦夷地)からユウフツ(勇払、東蝦夷地)へ内陸部を横断した人々の記録(例えば「夷諺俗話」「蝦夷日記」「東海参譚」「西蝦夷地日記」「東行漫筆」「再航蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」「観国録」「蝦夷地巡回日記」「協和私役」「入北記」など)が残っている。17世紀半ば以降寛政から安政年間にかけて、蝦夷地はロシア船の来航に悩まされるようになり、幕府は実態調査や北境警備の対応を迫られていた。

イシカリからユウフツに抜ける此の道は「シコツ越え」と呼ばれ、蝦夷地では唯一重要な内陸路。蝦夷地調査の幕吏らは、海岸線と併せこの道を通り記録に残した。私達はこれらの記録から、当時の様子(河川・沼・山・草木等の自然、交通手段、建物・鮭漁等アイヌの人々の暮らしなど)を知ることが出来る。本項では、シママップ、イザリの描写を中心に紹介する。「シコツ越え」した人々は恵庭の地をどのように見ていたのか?

 

写真はイザリブト番屋の図(再航蝦夷日誌)

 

1.串原正峯「夷諺俗話」寛政4(1792)

幕吏串原正峯は宗谷出張の帰途、シコツ越えを辿り旅の記録を「夷諺俗話」に残した。

「・・・ソウヤから松前への帰途、イシカリ川からアイヌの船で東蝦夷地シコツへ出た。イシカリを出発してその夜はトママタエに泊まる(この川筋宿はみなアイヌの小屋)。二日目イベチ(江別)という所へ着船。三日目シコツ(千歳)へ出る。それから山越えしてビビ(美々)という所から、アイヌの丸木舟でユウブツ(勇払)へ着いた。イシカリから川路山越えで三十六里余・・・シコツ川は鮭が多い。船中から川中を見ると背を揃えた鮭夥しく、例えようがないほどだ。アイヌたちはヤスで突漁する。この川続きシコツのヲサツトウ(長都沼)は差渡し一里ほど、此処も鮭が多い・・・鮭は干鮭にして交易荷物に出し、テンヒラ(ひらき)にし食糧としている。交易は米1俵(8升入り)当り鮭8束(20本詰め)の相場である・・・<抄訳>」

イシカリ(石狩)川、イベチ(江別)川、シコツ(千歳)川、ヲサツ(長都)沼、ユーブツ(勇払)川の状況、鮭漁の様子が伺える。

 

2.武藤勘蔵「蝦夷日記」寛政10(1798)

異国船到来状況の調査のため、勘定吟味役三橋成方に随行して西蝦夷地を宗谷まで見分した幕吏武藤勘蔵の日記。帰途シコツ越えしている。

「・・・七月二十五日、シコツ越えと言ってイシカリ川を船で登る道があり、この道を出発。トイシカリ(対雁)という所で船中に泊まる。二十六日、未明に出船。イザリ(漁)川といふ所で日が暮れ、また船中に泊まる。二夜とも大小便は上陸して山中へ通う。そのたびごとに蚤のような虫、股、膝頭の下、足の甲まで一面真黒にたかり、むさき事かぎりなし。山中には熊、兔など沢山居るとのこと。二十七日、夕方シコツ(千歳)に着く。二十八日、同所を出発、船路にて東蝦夷地ユウブツ(勇払)に着船し一日逗留した・・・<抄訳>」

一行は、六年前の串原正峯らとほぼ同じルートを通っているが、宿泊はいずれも船中だった。まだこのシコツ越え道には、宿泊施設は整っていなかったようだ。

 

3.東密元禛「東海参譚」文化3(1806)

西蝦夷地直轄予備調査のため幕府目付役遠山金四郎、勘定吟味役村垣左太夫一行が訪れた折の記録。

「・・・6月12日、川船にて遡りイベツ(江別)に入る。川の左右は沢で、川境がはっきりしない。ユウバリ川が合流しており、濁流。この辺りは川幅狭く、6-7間しかない。両岸には木や蔓が茂り、川の上で枝が交差し、僅かに陽がさすほど。大小の虻が船に入り刺す・・・シママップブドウ(シママッフ、松前藩領地の境)の辺りで日が暮れ、暗闇の中を数里進む。イサリに着いたのは三更(23時~午前1時頃)、両岸は千点もの篝火で白昼のようだった。13日、丸木舟で千歳川の会所に着く・・・<抄訳>」

この遠山金四郎(景晋)は、時代劇で有名な町奉行「遠山の金さん」(遠山金四郎景元)の父親。蝦夷地御用を命じられ蝦夷地出張3回、長崎・対馬出張3回など、江戸幕府の対外政策を担って東西奔走した能吏(ロシア船来航の際には、幕府の代表としてニコライ・レザノフと会談)。後に長崎奉行、勘定奉行を勤めた。

 

4.田草川伝次郎「西蝦夷地日記」文化4(1807)

幕府小人目付田草川伝次郎は西蝦夷地を巡検し「西蝦夷地日記」を遺した。帰途シコツ越えした様子を記している。

「・・・10月11日。明け方7時頃ツエシカリ(対雁)を出船、イベツブト(江別太)で夜が明け、シュママッケ辺りで日が入る。夜9時ごろ雨強く風も出る。アイヌ人が凍えて難儀していたので川岸に舟を繋ぎ、火を焚いて夜を過ごした。(中略)行程12-13里・・・10月12日。6時頃に出船し、暫く行くとイチャリブトの泊家から迎人が来た。昨夜は行き違いでシュママッケまで行って引返したと言う。5時過ぎイチャリブト(漁太)へ着き、泊家へ宿泊。会所から番人が来て管理しているが普段は空き家。泊家は玄関座敷も二間、次の間も三か所、勝手場も広く、道中本陣風の大層な造りである。

イチャリブトからユウブツ(勇払)、シコツ千年川とも言い川上はシコツ沼で凡そ2里の道程。シコツ(千歳)までは陸路があると石狩支配人が言っていたので番人に聞いたところ、谷地で水深くアイヌも往来していない。シコツ川尻迄は廻船で行き、そこからは川舟を用意してあると言う。イベツブトからイチャリブトまで、川筋に泊家もアイヌの家などない。イシカリからイチャリブトまで行程およそ25里・・・<抄訳>」。

 

5.山崎半蔵「宗谷詰合 山崎半蔵日記」文化4(1807)

宗谷警備に赴いた津軽藩士山崎半蔵の記録。イチャリブト、イチャリ、ムイチャリ記載。

 

6.荒井保惠「東行漫筆」文化6(1809)

蝦夷地第一次幕領期の松前奉行支配調役であった荒井保惠が、東蝦夷地御用のため箱館を出立してクナシリ島に赴く途中各地の状況を詳細に記した日記。イチャリ(漁川)、ムイシャリ(茂漁川)の漁獲量など、漁場としての重要性を記述している。

本書ユウフツ場所の項に次のような記載がある。「・・・文化5年、干鮭18,439束、アタツ(鮭を三枚におろし中骨と頭を取り干したもの)2,465束、計20,904束。内訳、干魚10,102束・アタツ1,585束(千歳川買い上)、干魚6,505束・アタツ875束(ムイシャリ出張買上)、干魚1,617束(サル出張買上)、干魚215束(トカチ出張買上)・・・<抄訳>」。

なお、サル出張買上はサル(沙流)アイヌが千歳川流域へ出漁した場合、自家消費以外の漁獲をサル、ユウフツの会所へ半分ずつ出荷する取り決めがあったと言う。

 

7.松浦武四郎「再航蝦夷日誌」弘化3(1846)

第二回蝦夷地探査。松前藩カラフト詰藩医の従者としてカラフト、ソウヤを見分後、シコツ越えで江差へ戻る。以下は、ツイシカリから千歳川を遡り、イザリブトで休憩した時の描写。

「・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠々たる広野にて処々此辺沼あり。支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山(注、恵庭岳)見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし。

此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・<抄訳>」

 

8.堀利煕、村垣範正「蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類」安政1(1854)

幕府は目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正に命じ、蝦夷地実情調査。

 

9.石川和助、寺地強平、平山橋次郎「観国録」安政3(1856)

老中阿部伊勢守が石川和助・寺地強平・平山橋次郎に命じ、西蝦夷地、樺太、東蝦夷地沿岸踏査した2年間の記録。安政3年7月、樺太からの帰途、シコツ越えした折の記録。

「・・・7月13日、ツイシカリを出て、イサリブトに泊まる。行程11里ほど。(中略、ツイシカリ、シュママップの地勢、戸口、風俗、物産、土質、気候の記述がある)・・・7月14日、イザリブトを出発、ユウブツに泊まる。行程12里余。イザリブト番屋は大きな茅葺で周りに漁蔽、祠社、アイヌ小屋などが連なっているが、ツイシカリの荒廃した様子に比べ極めて整然としている。番屋は東南に向かって建ち、前にはイサリ川(幅7-8間)が南から流れ来て、イベツ川に合流している。二つの川の幅は40-50間の草叢で、中洲のようになっており板橋を渡し往来している。此処にも漁蔽、祠がある。番屋の後方は広々とした平原で所々に樹々が立ち、西南にはヲタルナイに連なる山々が見える・・・<抄訳>」

 

10.川地経延「蝦夷地巡回日記」安政4(1857)

箱館奉行の蝦夷島・カラフトの周回見分に参加した信州高遠藩士の旅日記。閏5月23日箱館を出立し長万部・室蘭・勇払を経由して石狩へ。石狩からは船で増毛・天塩・宗谷に立寄りカラフトの白主へ渡海。イザリブト番屋漁獲量の記述がある。

「・・・千歳会所から5里ほど下るとイザリブト番屋があり、40-50戸のアイヌ集落があり、8月から9月頃は鮭漁を行い大きな漁獲(3-4か月の間に12-13万本)があると言う・・・<抄訳>」。6,000本を100石としていたので、3,000-4,000石を箱館、松前及び諸国へ出荷していた。

 

11.須藤秀之助、窪田子蔵等「協和私役」安政4(1857)

堀田備中守正篤が派遣した家臣須藤秀之助、窪田子蔵等の記録。

「・・・7月6日、明け方クリ舟2艘を傭って千歳川を下る。舟はアイヌ人が製作したもので蝦夷舟と言う。センの木丸材をくり抜いて作るので丸木舟とも言う。古い船だった。〈中略〉千歳川が千歳番屋の傍を流れる。源はシコツトウでシコツ川と言ったが、今は改めて千歳と言う。良い言葉だ。アイヌ人は今もシコツ、シコツ川と呼んでいる。シコツトウは此処より7-8里ほど、タルマイ山の背にあり、周囲30里余の大湖である。(中略)また、イサリブトと言う所には番屋があり往来の官吏や旅人に備えている。アイヌの家4戸、20人が暮らしている。イサリブトは千歳から5里。此処から更に5里行くとシママップという所で、ユウブツと石狩の境となっている。番屋がある・・・<抄訳>」

 

12.玉蟲左太夫「入北記」安政4(1857)

箱館奉行堀織部正利煕、村垣淡路守範正の蝦夷地巡察に随行した近習玉蟲左太夫の記録。千歳~札幌への新道を通り、イサリ、シママップ付近の状況が記載されている。

「・・・9月9日、今日は鎮台(堀奉行)がイシカリを発ちハッサフへ着くことになっており、千歳会所に残っていた面々は鎮台より先にハッサフへ着いて出迎えるよう申し付けられていた。それ故、未明に千歳を出発したが、地面は霜で覆われ寒さ厳しく馬上にあって手足に鳥肌が立つほど、寒地とは言え未だ冬でもないのにこの寒さである。驚くばかりだ。千歳から半里ほどの所に追分の杭があり、そこを左折して10歩ほどで坂があり、少し険しい。坂を上ると平地で糀、ハンノキ生えている。林の中を2里半ほど行くとイカンブシと言う所で、小憩所があった。今日は急ぎの旅であるが寒さに耐えかね小憩して身体を温めた。

更に2里半ほどで坂になったが、馬で登るのが難しい程の険しさである。この坂を下りシママッフ川に着く。此処がイシカリ・ユウブツの境。昼食をとる。この川は千歳川に落ちている。この1里半ほど手前にあった川はイサリ川と言った。急流で幅7-8間、傍にアイヌの家1戸あり。この間にもう一つ小川がありムイサリ川と言う。どちらの川も千歳川に注ぎ、鮭鱒が上ってくると言う。この辺りは茅原、または林で平坦、柏樹が多く見える。

更に7-8丁進んだところに坂があり、折れ曲がった急坂は注意を怠れば転落する心配がある。坂を上ると平山となり多くは柏樹であるが栗、楢も見えた。これから先は大小の坂ばかり、歩行がままならず。新道のため道路が未だ固まらず、時折泥濘に難儀する所があった。シママッフ川から3里余でイナヲ坂があり、これまた険しく、馬上歩行が困難なほどであった。其処から2里ほどで豊平に着く・・・<抄訳>」

 

13.松浦武四郎「西蝦夷日誌」安政5(1858)

第六回蝦夷地探査。幕府御用で掘削されたばかりの札幌新道を陸路、銭函から札幌を経て千歳、勇払に至る。

「・・・山一つ越えウツ(輪厚川、深い沢の意)。坂を上ると眺望が良く、石狩川及び千歳一帯の湿原が見渡せる。九折の坂を14町ほど下るとシュママプベツ(島松川、川幅5-6間、橋あり、南に小休所あり)。川中を以て石狩と勇払の境としている。シュマヲマフとは岩があるとの意味で、源も全て平磐だと言う。少し上流で二股に別れ、左がニオベツ川、右が本流で滝がある。源は札幌岳で総じて峻々たる岸壁。魚は鮭、鱒、チライ、鯇(あめます)、桃花魚(うぐい)、杜父魚(かじか)、雑喉(ざこ)等が多い(乙名イワクランの言)・・・」

「・・・是より千歳領。九折の鼻をも突くばかりの険しい道を上ると平地がある。茅の原を過ぎ、ロロマップ川、そしてヘケレベ川があり、水底は砂地のため濁っていない。これらの川はシュママップ(島松)川に注ぐ。さらにルウサン川、アツシヤウシ川、モイザリ川(茂漁、川幅3間、橋あり)があり、これらはイザリ川の枝川である。傍に石狩土人(シリカンチウ、サンケハロ)の家があり、去年夕張に連れて行った者だったので、立ちよると妻が居て、私の名を聞いて大いに悦び、粟を二合と焼鱒を三匹ほど呉れた。私もお礼をして出発。この辺は畑が多い。かつて石狩領であった。 蝦夷人の/いさりの里に/たなつもの/穂浪よすとは/思ひかけきや ・・・<抄訳>」

 

参照1)新恵庭市史通史編2022、2)新札幌市史第1巻通史1、3)北海道大学北方資料データベース

*松浦武四郎については、拙ブログ2019.1.14「恵庭と松浦武四郎」、2018.11.4「恵庭に建立された松浦武四郎歌碑」、2018.8.26「はまなす砂丘(長沼町)に立つ」も参照されたい。

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