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日露交渉の真っ最中,下田を襲った「安政の大津波」

2012-09-28 17:33:24 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田市柿崎の浜から下田港に繋がる海岸線は,いま「松陰の小径」「海遊公園」など遊歩道が整備されている。下田湾の静かな波音を聞きながら散策していると,つい先日(平成24829日)公表された内閣府の「南海トラフの巨大地震による津波高・浸水高及び被害想定について」が脳裏をよぎった。

「波高16mか・・・,津波が来たら右手の武山(寝姿山)に駈け上がるしかないな」

 

 

 

◆下田を襲った江戸時代の津波

下田はたびたび津波に襲われている。江戸時代には三度の大津波に見舞われた。元禄16年(1703)と宝永4年(1707)には大津波で大半の家屋が流失(332軒と857軒)し,船の破損も多かった(81艘と97艘)。被害の大きさに比べ死者の数が少なかったのは(流死人は21人と11人),町自体が湾の奥にあり時間的余裕があったこと,浪除堤が作られていたこと,山が近いこと,被災体験が伝承されていたことなどが要因だろうと言われる。

中でも,安政元年114日(18541223日)下田を襲った安政東海地震と大津波は,「日露外交交渉の最中に,その中心舞台で発生した大津波」として知られている。マグニチュード8.4,津波高は4.56.0mに及び,下田の街を一飲みにし,その被害は甚大であった。875軒のうち871軒(流失家屋841軒)が被害を受け,被害は実に99.5%。死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人など流入者を含めると122人と推定される)であったという。

 

 

「これほど大きな津波被害の中で,わが国の命運を決める交渉は如何に進められたのか」

 

日露交渉の舞台で

ペリー艦隊が日本を離れてから4か月後の嘉永71015日,ロシアのプチャーチン提督は最新鋭の戦艦デイアナ号で下田に来航,目的は国境画定を含む日露和親条約の締結であった。幕府は,全権大目付筒井肥前守と勘定奉行川路左衛門尉を応接係として多くの役人を急遽下田に派遣,1週間後には対応を開始した。

事前交渉を経て,第一回日露交渉は113日福泉寺で行われた。二回目の日露交渉を約束して別れた翌日,114日午前8時半~10時頃,大地震と津波が突然下田を襲う。地震は2回,大津波は幾度となく押し寄せ,特に2回目の津波で町内の家屋は殆ど流失してしまったという。

被害の状況は,交渉団に加わっていた政府役人(村垣淡路守公務日誌,川路左衛門尉下田日記等)やロシア側(デイアナ号航海誌,モジャエスキーの絵図等)の記録,松浦武四郎「下田日記」などで,かなり詳細に知ることが出来る。

 

ロシア側も,デイアナ号が大きく損傷し船員に死亡者が出る惨状であったが,災害の夕方には副官ポシェートと医師を派遣し傷病者の手当の協力を申し出ている。

また,幕府の救済支援も素早い立ち上がりをみせた。住民救済だけでなく,外交交渉への支障を避けようとする意志が働いていたのだろう。韮山代官所への一報と共に,江川太郎左衛門はその日のうちに「お救い小屋」を設置し粥の炊き出しを行い,翌日には町頭が集まり被災者の調査や対応策を処理し,1110日には幕府から米1,500石,金2,000両が下田へ届けられた。これらには,交渉のため出張している役人の応急手当ても含まれているが,町内の人々にも17日には配分されている。

 

交渉を続ける

プチャーチンは,津波後3日目から被害の少なかった長楽寺で副官ポシェートに事務折衝を始めさせている。1週間後の13日と14日には柿崎村の玉泉寺に場所を替えて,第二回と第三回の日露交渉が行われ,1114日からは長楽寺で全権との交渉を続け,安政元(1855)年1221日(西暦27日),日露和親条約(9か条と同付録4か条)が締結された。

この条約の第二条では,両国の国境が「今より後,日本国と露西亜国との境,択捉島とウルップ島との間にあるべし・・・樺太に至りては,日本国と露西亜国との間において,界を分かたず,是まで仕来りの通りたるべし」と記され,初めて北方の国境が定められた。後に,日本政府は閣議了解をもってこの日(27日)を「北方領土の日」と定めた(昭和56年)。北方領土の日に下田では「北方領土の日記念史跡めぐりマラソン大会」を開催している。コースは長楽寺から玉泉寺までの往復5.1km,今年(平成24)で32回を数える(ちなみに「北方領土ノサップ岬マラソン」は31回)。

 

デイアナ号のその後

デイアナ号は,修理港に決まった伊豆西海岸の戸田港に向かう途中激しい波風で沈没,地元漁民の決死の協力で救出された乗組員約500名は戸田に収容された。プチャーチンは帰国用代船の建造を幕府に願い出て,戸田港で建造することが決まる。

天城山の木材を使い,近隣の船大工を集め日露共同で建造を行い,日本最初の洋式船が僅か三か月で完成する。プチャーチンは建造船を「ヘダ号」と名付ける。結果として,洋式造船の技術は当地の船大工の手に残ることになった。

ヘダ号はプチャーチンら48名を乗せ,安政2322日戸田港を出帆した。

 

大津波被害の中で外交交渉にあたった先人の姿を,今に重ね合わせる。あなたは,昨今の決められない政治に対比して,この歴史事実をどう考えますか。

 

参照:下田市HP,内閣府HP,村上文樹「開国史跡玉泉寺」

 

 

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ハリスと牛乳のはなし,開国の舞台「玉泉寺」

2012-09-24 18:22:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田の柿崎に,静かな佇まいの国指定史跡「玉泉寺」がある。この寺は,幕末の嘉永7年(1854)から安政6年(1859)までの6年間にわたり開国の中心舞台となり,最初の駐日アメリカ総領事館(安政385日~安政652日,初代総領事タウンセンド・ハリス)が置かれたことで知られている。

時は幕末,嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来航,翌年の嘉永7年には神奈川で日米和親条約が締結され下田が即時開港されたことから,下田港にはペリー艦隊を初めロシア軍艦,アメリカ商船の入港が相次いだ。下田港が当時出船入船三千艘と賑わっていたとはいえ,黒船の出現でひときわ慌ただしくなっただろうことは想像に難くない。江戸幕府役人の混乱ぶり,長閑に暮らしていた人々の戸惑いは如何ばかりだったか。

 

そのような折,寒村の鄙びた寺(玉泉寺)が歴史の舞台として登場する。柿崎の浜にあった玉泉寺は,「日米和親条約議定書付録」によりアメリカ人の墓所に指定され(ペリー艦隊乗員墓碑5基,ロシア・デイアナ号乗員墓碑3基,アスコルド号乗員墓碑1基が現存),日露和親条約の交渉場所(第23回交渉),デイアナ号高官やドイツ商人ルドルフ等の滞在場所になり,初代アメリカ総領事館になったのだ。

 

さて,そのような時代のエピソードの一つ,「ハリスと牛乳のはなし」を紹介しよう。

 

 

ハリスは玉泉寺に入るとすぐ,奉行所に牛乳の提供を要求(安政3年)した。当時のアメリカでは牛肉と牛乳が食生活の中に定着していたのだろう。

これを受けて,下田奉行支配調役並勤方森山多吉郎,調役下役斉藤玄之丞(通詞立石得十郎)は,次のように問答している。

 

森山「このほど当所勤番の者へ,牛乳の提供を求められたことについて,奉行に問い合わせたところ,国民は一切牛乳を食用にしない,牛は専ら土民どもが耕耘や,山野多き土地柄ゆえ運送のために飼っているのであって・・・,子牛が生まれても乳汁は全て子牛に与えるので,牛乳を提供することはできない。申し出には応えられない」

 

ハリス「それでは,母牛を求め,私たちの所で搾乳するようにしたいが宜しいか」

森山「今,申したとおり,牛は耕耘,運送のため大事にしているものだから,他人に譲渡することはしない」

森山「山羊の飼育はどうか・・・」

 

安政51858)日米修好通商条約交渉のため江戸に出ていたハリスは,病状が悪化したため下田に戻り静養に努めるが,数日間危篤状態におちいる。幕府は医師を付き添わせ懸命の治療にあたる。そして,病状が回復するにつれ,ハリスはしきりに牛乳を飲みたがるようになる。

幕府側にも対応の変化があらわれる。初代総領事が赴任地で死亡することを恐れたのであろう。柿崎村名主與平治の日記には「異人が牛乳を所望していると仰せつかり,白浜村から求めた牛乳を玉泉寺に届けた」,町御触書には「牛乳が入用なので,牛を持っている者が相談して,日々2合ほど御用所へ持参されたい」,中村名主日記には「異人病気で牛乳を薬用にするため・・・」などの記録が残されており,牛乳調達に苦心する当時の状況を窺い知ることが出来る。

 

その結果,約2週間にわたり,白浜村,蓮台寺村,大沢村,落合村,青市村,馬篭村(現在の下田市と南伊豆町にまたがる広範囲)から牛乳が届けられている。その総量は九合八勺,代金は一両三分八十八文であったという。その額は,当時の大工の月給に相当するほどで,極めて高価なものであった。これが,わが国における牛乳売買の始まりであったとされている(玉泉寺前庭に,少し異質な風情で建っている「牛乳の碑」の記述)。

 

それまで牛乳を飲用する習慣は,わが国になかったのだろうか

否。実は,わが国における牛乳の歴史は古く,飛鳥・奈良時代に遡る。645年大化の改新のころ,百済から来た帰化人が孝徳天皇に献上したのが始まりで,平安時代には皇族や貴族の間に飲用習慣が広まっていたと言われる。また,日本で最古(984年)の医学書とされる「医心方」には,乳製品の効用(牛乳は全身の衰弱を補い,通じを良くし,皮膚をなめらかに美しくする)が記されている。

その後,仏教で殺生を禁じたこともあり牛乳の飲用はすたれていたが,1727年には8代将軍吉宗がインドから白牛3頭を輸入し千葉県安房郡で飼育を始め(近代酪農の始まり),開国後の明治になって外国人が住むようになると牛乳の需要が増加して行く。1863年には前田留吉が横浜に牧場を拓き牛乳の販売を始めている。

 

50年ぶりに訪れた柿崎の浜は,海遊公園から「松陰の小径」「ハリスの小径」と海岸線が整備され,海水浴で遊んだ子供の頃とはすかり様変わりしていた。玉泉寺も三島神社も砂浜から眺めることが出来たはずなのに,今では周辺の民宿に隠れている。吉田松陰と金子重輔が海外渡航を企て潜んでいた弁天島も陸続きになっている。

だが,玉泉寺の山門前に立つと閑静な風が吹き抜け,歴史が蘇ってくる。皆さんも下田を訪れる機会があったら,この地に足を運ばれるがよい。旅の思い出が深まるだろう。

 

参照:村上文樹「開国史跡玉泉寺」,社団法人日本酪農乳牛協会「牛乳百科事典」

 

 

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東洋のジブラルタル「箱館」から,黒船が持ち帰った植物

2012-09-07 13:54:15 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

ペリーが箱館から持ち帰った植物標本

箱館を訪れたペリー提督は,箱館について「入港しやすさ,その安全さからみて世界最良の港の一つである。位置といい外観といい彼の有名なジブラルタルと似ているのに驚いた」と記している。ジブラルタルは大西洋と地中海を繋ぐ狭い海峡を俯瞰し,町の小高い丘からは対岸アフリカの海岸を見下ろすことのできる重要な軍港であるが,箱館も,孤立した丘(函館山)があって,その麓や斜面には家屋が建っており,一方の高地(横津岳に延びる丘陵)とつながる低い地峡(現在の市街地)は,イギリスの軍港とスペイン領とを分かつ中立地のようであった・・・と続く参照:在NY日本国総領事館「ペリー提督日本遠征記のエピソード」から)港は津軽海峡の要諦でもある。

 

この箱館は,嘉永7年(1854)締結された日米和親条約で,下田と共に開国の港に指定された歴史の町である。函館は今もその面影が残し,世界に誇れる美しさを維持している。

 

 

さて本論であるが,開国に向けた激動の歴史の裏側で,黒船艦隊に乗船したプラント・ハンター(植物収集家)が,函館及び北海道周辺からも多数の植物標本を持ち帰っていることを多くの人は知らない。ここでは,小山鐵夫博士1)が解説している111種の中から,採集地が函館及び北海道周辺のものを抽出して表示した(黒船艦隊が函館及び北海道周辺から持ち帰った植物標本)1) 。この他にも,多くの種子や標本が持ち帰られたと言われている。

 

ところで,黒船艦隊の植物採集以前にも,日本の植物がヨーロッパに紹介されている。以下は,歴史に刻まれた代表的な植物学者たちである。

 

ケンペルEngelbelt Kaempfer):オランダ商館付きドイツ人医師,博物学者,1690-92年日本に滞在,将軍にも謁見。1712年に出版した「廻国奇観」の中に,日本の植物324種を記載。日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者。

 

ツンベルクCarl P. Thunberg):スウエーデンの植物学者,医学者,リンネに師事し後継者と称されたウプサラ大学教授。1775-76年オランダ商館付き医師として出島に滞在。1784年「日本植物誌」を発刊,812種(うち新属26,新種418)の日本産植物を記載。

 

シーボルトPhilipp F. von Siebold):ドイツ人医師,博物学者,オランダ商館医として1823-291859-62年出島に滞在,伊藤圭介,水谷豊文らと多くの植物を採集。

 

ツッカリーニJoseph G. Zuccarini):ドイツの植物学者,ミュンヘン大学教授。シーボルト標本を研究し,共著で「日本植物誌第一巻」を出版。ミケル(Friedrik A. W. Miquel):ライデン大学教授,「日本植物誌第二巻」を出版。シーボルトが収集した標本は12,000点,日本植物誌の記載は2,300種になるという。

 

開国から明治維新に至る激動期にも多くの植物学者が日本を訪れた。

 

マキシモヴィッチCarl J. Maximowicz):ロシアの植物学者,1860-64年日本に滞在。日本の開国を知るや函館を訪れ,須川長之助を助手に雇い採集を行った。後にロシアのサンペテルブルグ植物園長。340種を発表。黎明期の日本植物学を育てた(日本の植物学者の植物同定にも協力している)。

 

サヴアチエA. L. Savatier):フランス人医師,1873-76年日本に滞在。フランシエ(Adrien R. Franchet)はサヴァチエと共著で「日本植物目録」二巻を出版,2,547種が掲載されている。

 

これ以降,わが国の植物学は牧野富太郎を初め日本の研究者に引き継がれていく。

 

江戸から明治初期にかけて,ヨーロッパの医師や植物学者が東洋(日本)で植物採集を行ったのは,「薬と言えば生薬」の時代であった背景がある。結果として,ヨーロッパの一流研究者の訪日は,先駆者として日本植物学の黎明期に貢献したことにもなる。わが国の野山に多く存在する植物の名(学名)に,前述の研究者の名前が付されていることを目にすることが出来る。

 

この時代の植物採集が先進国の資源戦争であった一面は拭いきれないが,幸いなことは,採集された多くの標本や原本が散逸することなく,各国の植物館・博物館に保存されていることだろう。彼らの業績は,少なくとも明治の植物学者たちに引き継がれている。

 

1)小山鐵夫「黒船が持ち帰った植物たち」アポック社1996

 

 

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黒船艦隊が下田から持ち帰った植物

2012-09-05 16:30:23 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」

嘉永663日(185378日),米国のペリー提督率いる「黒船」が浦賀沖に姿を現したときの混乱ぶりが,この狂歌に象徴されている。それまでにもイギリスやロシアの帆船を目にしてはいたが,ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船の姿は幕末の世を圧倒するものであったのだろう。この黒船来航を契機に幕府は日米和親条約を結び,開国につながった歴史事実を,私たちはよく知っている。

 

当時,産業革命を迎えたヨーロッパ諸国はインド,東南アジア,中国へと熾烈な植民地獲得競争(市場確保)を進めており,一歩出遅れたアメリカ合衆国も太平洋航路の確立とアジアでの拠点づくりを目指していた。また,産業革命を支える鯨油を得るために当時は世界中の海で捕鯨が行われていたが,太平洋を中心に操業していた合衆国は航海拠点(薪,水,食料補給)の確保に駆られていた。合衆国大統領はペリー提督に親書を託し,日本に開国を迫ったのである。

 

この歴史的外交の裏で,プラント・ハンターが活動した事実を知る人は少ないだろう。黒船艦隊は,「米国北太平洋遠征隊」の名のもとに植物学者と植物採集家を遠征隊のメンバーに加え,琉球,小笠原,薩南諸島,伊豆下田,横浜,箱館及び北海道周辺で大がかりな植物採集を行い米国に持ち帰った。

 

ここでは,小山鐵夫博士1)が解説している111種の中から採集地が下田のものを抽出して表に示した(黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本)。この他にも,多くの種子や標本が持ち帰られたと言われている。

 

1次採集(ペリー艦隊)は,1853年ペリー提督率いる黒船艦隊が初めて浦賀に現れた遠征の年で,浦賀,横浜,下田,箱館で採集した。在マカオ米国領事館員ウイリアム氏(S. Wells Williamas)とモロウ博士(James Morrow)が遠征隊に同行し収集にあたり,標本総数は353種,新種は34種だという。

 

2次採集(ロジャース艦隊)は,1854~55年にかけて小笠原,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で,前者にはライト博士Charles Wright,後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では,185551328日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り新種63種を同定した。

 

1次及び第2次遠征で採集された標本は,植物学の権威ハーバード大学グレイ教授(Asa Gray)によって同定・研究され,同大学植物標本館に現在も保存されている(ニューヨーク植物園にも同標本のほぼ完全な一セットが保管されていることを小山鐵夫博士が見出した)。調査報告書を基にグレイ教授は北米と極東アジア地域植物相の類似性を指摘し,植物地理学上注目すべき仮説(隔離分離)を発表している。

 

感嘆に値するのは,19世紀のこの時代の米国で植物学の基礎研究のために海軍が便宜供与を与えていたという事実である。植物遺伝資源の重要性を認識する先見性である。

 

下田を訪れたら,19世紀の時代にプラント・ハンターが路傍や野山で植物採集をしている姿を想像してみるのも面白い。

 

1)小山鐵夫「黒船が持ち帰った植物たち」アポック社1996

 

 

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