恵庭市内に,個人を顕彰する「表徳碑」は少ない。開拓の歴史のなかで称えられるべきは,この地で暮らし苦労を重ねた全ての人々だとする気持ちがあるからなのか。或いは,開拓から僅か130年余の短い歴史の故なのか。
今回取り上げる三つの碑は一般人に馴染み少ないかも知れないが,恵庭開拓の現場,特に教育に情熱を傾け慕われた教育者と力士の碑である。
1.林清太郎表徳碑
2.天野先生之碑
3.實勇(じついさみ)
1.林清太郎表徳碑(昭和4年5月建立,恵庭市漁太)
恵庭市漁太282,松鶴公園敷地内に林清太郎の功績を讃える表徳碑が建っている(写真は2014.11.11撮影)。この場所は,昭和46年(1971)に71年の歴史を閉じた松鶴小学校の跡地である。
林清太郎は明治6年(1873),石川県大聖寺村で海陸物産商を営む父清一の長男として生まれた。明治25年(1892)に,父が前年に支店を出した小樽に移って家業に入った。翌26年,父は祖父五郎兵を社長とする加越能開耕株式会社を設立したが数年後に死亡,清太郎は若くして家業を継いだ。加越能開耕社は,加賀,越中,能登から開拓者を集め,島松を中心とする未開地900ヘクタールに入植させた開拓団である。なお,加越能開耕社は明治40年(1907)開拓地を株主に配分し幕を閉じた。
漁太に待望の松鶴小学校が開校したのは明治34年(1901)9月,清太郎は用地として九百坪(約3,000m2)を寄付した。さらに大正11年(1922)校舎移転(後の林田会館)では千五百坪(約5,000m2)を寄付している。小作人の定住と将来のために,子弟教育が必要との考えであった。また,清太郎は千歳川を利用した江別への交通運輸などにも力を注いだ。清太郎の功績と人徳を顕彰する碑が建てられたのは,昭和4年(1929)のことである。
碑文を転記する。「北海道庁長官従四位勲三等澤田牛麿題額,林清太郎君石川県大聖寺人先着清一君夙に興加越能開耕会社於千歳郡恵庭村其所経営地実ニ千余町歩後解社分熟地於社員其帰林氏者約五百町歩先考割其九百歩充松鶴小学校地君性忠誠能承父業及移該校於今地更割千五百歩以充之又投巨貲ト校側建聖奉安所以示皇室可尊国体可重恵庭村原不出三百数十戸今至千数百戸其所産米及約五万石者抑安君之余沢也村人景慕不措胥謀欲是碑表其徳来請予文予固偉君之功又翼村人之矜式不顧不文據叙之,昭和余年五月,北海道庁石狩支庁長正七位松尾豊次撰並書」(碑文が不鮮明なところあり,「恵庭市史」から転記)。
なお,小樽在住の清太郎に替わって,林農場の管理人として経営に携わったのが田中菊治である。田中菊治は清太郎の姉の娘と結婚,後に道会議員や村長,市長(第9代,11代)を歴任した。林と田中の頭文字からとった「林田」の地区名が今も残っている。
2.天野先生の碑(大正7年4月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)
松園小学校の二代目校長として人徳があった天野伊三郎を顕彰する記念碑である(写真は2014.9.12撮影)。恵庭開拓記念公園の一隅,かっての松園小学校門柱の前に建っている。
松園小学校は明治22年(1889),西2線南22号に廻神美成によって設立。校名は廻神が萩藩(山口県)の士族だったことから,信奉する郷土の吉田松陰から一字を拝借したと言われる。或いは,「松下村塾」にあやかったのかもしれない。掘立小屋に10名の児童を集めたスタートだったが,8年後の1897年公立恵庭小学校松園分校として現在の開拓記念公園の場所に移転開校した。1899年には公立松園小学校と改称,1971年に松恵小学校に統合され廃校。公園内に松園小学校の門柱だけが残されている。
天野伊三郎は四国出身(阿波),師範学校を卒業し地元で教師になったが,教育方針で校長と衝突して飛び出し,開拓者の子供への教育に人生を捧げようと来道。熱意と思いやりは子供らの心を動かし,深く慕われたと言う。突然の腹痛で病に倒れ,明治45年退職,大正3年(1914)10月41歳の若さで他界した。
高等科二回生の山岸利左衛門は大正7年4月同窓生に呼びかけ,中村比登志,安永喜多男,宮崎吉次郎,小笠原政次郎らが中心となり校長住宅跡地の一角に碑を建立した。
碑文は漢文であるが,概訳は前期のとおりである(写真で示す)。また,本碑の基石には,大正7年4月建設之(有志者一同),昭和10年9月移転(松園小学校同窓会),昭和31年8月移転(松園小学校同窓会),昭和54年8月移転(元松園小学校遺跡保存事業期成会)と刻まれ,移動の歴史が読みとれる。師を敬慕する同窓生らの絆は今に繋がっている。
3.実勇碑(大正13年9月建立,平成9年7月改修,恵庭市盤尻)
恵庭市盤尻,道道117号恵庭岳公園線の恵庭花夢里パークに隣接して「記念實勇の碑」が建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑の表面には「記念實勇」と正八位勲六等射矢健四郎の書で刻まれている。裏面には實勇こと鷲田仁作の出生地(福井県坂井郡本郷村),誕生日(明治9年9月10日),現住所(盤尻番外地),渡道年月日(明治37年4月7日)が記され,基石には発起人(伊藤倉吉,黒田力太郎),世話人(嘉屋庄太郎ら114名),ほか有志の氏名が記されている。
本碑の由来については,傍らの説明板に詳しいので転記する。
「實勇碑の由来,鷲田仁作は明治九年福井県に生れる。生来頑健な身体に恵まれ相撲道に精進せり。家庭を持ち農業で生計を立てるべく,明治三十七年北門開拓の志願を以って親類縁者を頼り渡道,江別を経て盤尻に入植す。天賦の才たる力士の夢捨て難く単身東京に出て国技館に入り技を磨く。その後帰道して各地の草相撲に巡業。大正六年五十一歳で現役を退き,式守伊之助より行司免許を受く。それより昭和二年まで行事として全道を廻る。当時恵庭の相撲が盛大であったのはひとへに彼の功績であったと傳えられている。「實勇(ジツイサミ)」は彼のシコ名で大正十三年九月村会議員伊藤倉吉外一名が発起人となって多くの村民が協賛しこの記念碑が建立された。氏は昭和十年七月二十一日盤尻において六十年の生涯を閉じた。風雪七十有余年を経て破損甚だしきにより復元改修をなし祖父仁作の豪快な技量を追憶し顕彰せんとするものである。平成九年七月,鷲田誠」
明治から大正にかけて相撲に身を置いた實勇。その頃の相撲界は常陸山の渡米(1907),両国国技館建設(1909)など,相撲が興行として華を得た時代でもあった。
それから四半世紀~半世紀後,昭和の時代に北海道出身の横綱は8名(千代の山,吉葉山,大鵬,北の富士,北の湖,千代の富士,北勝海,大乃国)を数え,相撲王国と称されるようになる。
参照:恵庭昭和史研究会「百年100話」,恵庭市史を参考にした。