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恵庭の碑-3,先人の偉業を讃える 「表徳碑」

2014-11-19 15:37:19 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市内に,個人を顕彰する「表徳碑」は少ない。開拓の歴史のなかで称えられるべきは,この地で暮らし苦労を重ねた全ての人々だとする気持ちがあるからなのか。或いは,開拓から僅か130年余の短い歴史の故なのか。

今回取り上げる三つの碑は一般人に馴染み少ないかも知れないが,恵庭開拓の現場,特に教育に情熱を傾け慕われた教育者と力士の碑である。

1.林清太郎表徳碑

2.天野先生之碑

3.實勇(じついさみ)

 

1.林清太郎表徳碑(昭和4年5月建立,恵庭市漁太)

恵庭市漁太282,松鶴公園敷地内に林清太郎の功績を讃える表徳碑が建っている(写真は2014.11.11撮影)。この場所は,昭和46年(1971)に71年の歴史を閉じた松鶴小学校の跡地である。

林清太郎は明治6年(1873),石川県大聖寺村で海陸物産商を営む父清一の長男として生まれた。明治25年(1892)に,父が前年に支店を出した小樽に移って家業に入った。翌26年,父は祖父五郎兵を社長とする加越能開耕株式会社を設立したが数年後に死亡,清太郎は若くして家業を継いだ。加越能開耕社は,加賀,越中,能登から開拓者を集め,島松を中心とする未開地900ヘクタールに入植させた開拓団である。なお,加越能開耕社は明治40年(1907)開拓地を株主に配分し幕を閉じた。

漁太に待望の松鶴小学校が開校したのは明治34年(1901)9月,清太郎は用地として九百坪(約3,000m2)を寄付した。さらに大正11年(1922)校舎移転(後の林田会館)では千五百坪(約5,000m2)を寄付している。小作人の定住と将来のために,子弟教育が必要との考えであった。また,清太郎は千歳川を利用した江別への交通運輸などにも力を注いだ。清太郎の功績と人徳を顕彰する碑が建てられたのは,昭和4年(1929)のことである。

碑文を転記する。「北海道庁長官従四位勲三等澤田牛麿題額,林清太郎君石川県大聖寺人先着清一君夙に興加越能開耕会社於千歳郡恵庭村其所経営地実ニ千余町歩後解社分熟地於社員其帰林氏者約五百町歩先考割其九百歩充松鶴小学校地君性忠誠能承父業及移該校於今地更割千五百歩以充之又投巨貲ト校側建聖奉安所以示皇室可尊国体可重恵庭村原不出三百数十戸今至千数百戸其所産米及約五万石者抑安君之余沢也村人景慕不措胥謀欲是碑表其徳来請予文予固偉君之功又翼村人之矜式不顧不文據叙之,昭和余年五月,北海道庁石狩支庁長正七位松尾豊次撰並書」(碑文が不鮮明なところあり,「恵庭市史」から転記)。

なお,小樽在住の清太郎に替わって,林農場の管理人として経営に携わったのが田中菊治である。田中菊治は清太郎の姉の娘と結婚,後に道会議員や村長,市長(第9代,11代)を歴任した。林と田中の頭文字からとった「林田」の地区名が今も残っている。

 

 

2.天野先生の碑(大正7年4月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)

松園小学校の二代目校長として人徳があった天野伊三郎を顕彰する記念碑である(写真は2014.9.12撮影)。恵庭開拓記念公園の一隅,かっての松園小学校門柱の前に建っている。

松園小学校は明治22年(1889),西2線南22号に廻神美成によって設立。校名は廻神が萩藩(山口県)の士族だったことから,信奉する郷土の吉田松陰から一字を拝借したと言われる。或いは,「松下村塾」にあやかったのかもしれない。掘立小屋に10名の児童を集めたスタートだったが,8年後の1897年公立恵庭小学校松園分校として現在の開拓記念公園の場所に移転開校した。1899年には公立松園小学校と改称,1971年に松恵小学校に統合され廃校。公園内に松園小学校の門柱だけが残されている。

天野伊三郎は四国出身(阿波),師範学校を卒業し地元で教師になったが,教育方針で校長と衝突して飛び出し,開拓者の子供への教育に人生を捧げようと来道。熱意と思いやりは子供らの心を動かし,深く慕われたと言う。突然の腹痛で病に倒れ,明治45年退職,大正3年(1914)10月41歳の若さで他界した。

高等科二回生の山岸利左衛門は大正7年4月同窓生に呼びかけ,中村比登志,安永喜多男,宮崎吉次郎,小笠原政次郎らが中心となり校長住宅跡地の一角に碑を建立した。

碑文は漢文であるが,概訳は前期のとおりである(写真で示す)。また,本碑の基石には,大正7年4月建設之(有志者一同),昭和10年9月移転(松園小学校同窓会),昭和31年8月移転(松園小学校同窓会),昭和54年8月移転(元松園小学校遺跡保存事業期成会)と刻まれ,移動の歴史が読みとれる。師を敬慕する同窓生らの絆は今に繋がっている。

  

 

3.実勇碑(大正13年9月建立,平成9年7月改修,恵庭市盤尻)

恵庭市盤尻,道道117号恵庭岳公園線の恵庭花夢里パークに隣接して「記念實勇の碑」が建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑の表面には「記念實勇」と正八位勲六等射矢健四郎の書で刻まれている。裏面には實勇こと鷲田仁作の出生地(福井県坂井郡本郷村),誕生日(明治9年9月10日),現住所(盤尻番外地),渡道年月日(明治37年4月7日)が記され,基石には発起人(伊藤倉吉,黒田力太郎),世話人(嘉屋庄太郎ら114名),ほか有志の氏名が記されている。

本碑の由来については,傍らの説明板に詳しいので転記する。

「實勇碑の由来,鷲田仁作は明治九年福井県に生れる。生来頑健な身体に恵まれ相撲道に精進せり。家庭を持ち農業で生計を立てるべく,明治三十七年北門開拓の志願を以って親類縁者を頼り渡道,江別を経て盤尻に入植す。天賦の才たる力士の夢捨て難く単身東京に出て国技館に入り技を磨く。その後帰道して各地の草相撲に巡業。大正六年五十一歳で現役を退き,式守伊之助より行司免許を受く。それより昭和二年まで行事として全道を廻る。当時恵庭の相撲が盛大であったのはひとへに彼の功績であったと傳えられている。「實勇(ジツイサミ)」は彼のシコ名で大正十三年九月村会議員伊藤倉吉外一名が発起人となって多くの村民が協賛しこの記念碑が建立された。氏は昭和十年七月二十一日盤尻において六十年の生涯を閉じた。風雪七十有余年を経て破損甚だしきにより復元改修をなし祖父仁作の豪快な技量を追憶し顕彰せんとするものである。平成九年七月,鷲田誠」

明治から大正にかけて相撲に身を置いた實勇。その頃の相撲界は常陸山の渡米(1907),両国国技館建設(1909)など,相撲が興行として華を得た時代でもあった。

それから四半世紀~半世紀後,昭和の時代に北海道出身の横綱は8名(千代の山,吉葉山,大鵬,北の富士,北の湖,千代の富士,北勝海,大乃国)を数え,相撲王国と称されるようになる。

 

参照:恵庭昭和史研究会「百年100話」,恵庭市史を参考にした。

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恵庭の彫像-12,本田明二の 「道標―けものを背負う男」

2014-11-18 09:32:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭にも本田明二の作品があった。小雪が舞い始めた11月初旬,「めぐみの森公園」(恵庭市恵み野北6丁目3)脇を急ぎ足で歩いていると,公園内の彫像が目に飛び込んできた。公園の木々が葉を落としたため,今まで気づかなかった風景が突然そこに表れたような感覚である。

近づいてみると,それは本田明二晩年の作品「道標―けものを背負う男」ではないか。これと同じものが札幌芸術の森野外美術館にもあるので,「ああ見たことがある」と仰る方もいらっしゃるだろう。長身の逞しい男が仔馬とみえる「けもの」をかつぎ,遠い視線で立っている。荒々しくもあり一見武骨な彫像にみえるが,実に技巧的で繊細である。本田明二は晩年の10年間,「けものと男」をモチーフにバリエーションある作品を多数制作しているが,これはその中の代表作である。

この像は,公園の緑が生い茂る頃より,秋から冬にかけての季節が似合う。幼気な仔馬を肩に背負い守りながら,これから訪れようとする極寒の季節に立ち向かおうとしている男の凛々しい姿。それは北国でこそ絵になる話で,北海道人の優しさが滲み出た作品と言えようか。北海道を愛し続けた本田明二の真骨頂とも言える作品である。近くの住民でも,この作品の存在に気付かないでいる方が多いのではないか。是非秋から冬の季節に訪れて,作品の前で足を止めて欲しい。芸術性高い作品が密かに佇んでいる。

彫像のサイン及び標板から,制作は昭和61年(1986),公園への設置は平成4年(1992)と思われるが,設置の経緯は記されていない。

 

 

本田明二ギャラリー(札幌市S15W13)及び札幌彫刻美術館(札幌市宮の森)等の資料から,作者の来歴と作品を拾ってみよう。

作者「本田明二」は,大正8年(1919)北海道月形町生まれ,札幌第二中学校(現札幌西高)を卒業後,上京して木彫家澤田政広に師事。シベリア抑留後,札幌で創作活動に入る。なお,札幌二中の卒業生には,本郷新,坂本直行,佐藤忠良らがおり,本郷とは深い親交があったという。全道美術協会会員,新制作協会会員として活動し,昭和56年(1981)に札幌市民芸術賞,昭和61年(986)に北海道文化賞を受賞している。平成元年(1989),急性肺炎で69歳の生涯を閉じた。

野外彫刻やレリーフ,ブロンズ像など作品多数を残しており,道央部の野外彫刻だけで28点を超えるという。「平和と希望の子供」(石山小学校),「愛鳥の碑」(天売島),「栄光」(真駒内記念公園),「おおぞらの像」(苫小牧総合体育館),「手をつなぐ」(札幌市東区区民センター),「スタルヒンよ永遠に」(旭川市スタルヒン球場),「朝翔・夕翔」(網走市中央橋),「みのり」(平岸小学校),「大地の詩(陶板レリーフ)」(ホクレンビル,北海道新聞本社),「明日を拓く」(豊浦町東雲公園),「鹿を抱く少年」(富岡小学校),「道標―けものを背負う男」(札幌芸術の森),「母子像」(北海道大学病院),「杜の守護神シマフクロウ」(ホクレンふうど館),「はばたけ小鳥よ」(中の島中学校),「北国の詩」(千歳市立図書館),「青空へ」(美幌博物館),「翔」(室蘭市入江運動公園)など多数。

公益財団法人北農会が行う表彰事業「安孫子賞」でも,氏のレリーフ作品「稲穂を抱く少女」を贈っている。

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恵庭の碑-2,開拓を支えた治水事業「共同用水記念碑」

2014-11-16 10:04:25 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

治水」という言葉がある。洪水などの水害を防ぎ,また水運や農業用水の便のため,河川の改良・保全を行うことを意味する(大辞泉,小学館)。歴史を紐解けば,名君と称される為政者の多くは治水事業を成功させていることに気付くだろう。

北海道開拓にとっても治水は重要な案件であった。河川の氾濫から田畑を護り,主食であるコメ生産のために「水」は極めて重要で,用水を巡る水利権争いもあった。恵庭でも漁川や柏木川の水を利用した開田(稲作)が進められた。有志相はからい用水事業を起こし,官の認可を得て,地域ごとに強い絆の用水共同管理が行われたのである。特に北海道は,開拓期から食糧増産政策の過程に至るまで多くの公的資金を投入した基盤整備が行われ,記念碑も多く建立されている。

恵庭市郷土資料館のHPによると,恵庭市内だけでも以下の5記念碑が紹介されている。

1.漁共同用水記念碑

2.柏木川共同用水紀念碑

3.盤尻用水記念碑

4.島松共同用水紀念碑

5.拓土農魂之碑

1.漁共同用水記念碑(大正9年11月建立,恵庭市上山口)

漁川に沿って走る「川沿大通り」は,中恵庭地区で道道600号島松千歳線と交差する。その信号近く,川沿大通りに面して「漁共同用水記念碑」がある(上山口36,写真は2014.11.10撮影)。しめ縄で飾られた様子からも,今なお共同用水に込める関係者の気持ちが伝わってくる。

碑表面の書は,従六位吉野幸徳(北海道文書館によれば,吉野幸徳は,明治13年太政官雇となり,内閣会計局,内務省県治局,青森県内務部,石川県内務部,沖縄県宮古島司などを経て,明治35年に北海道庁長官官房文書課長を務め,明治42年に退職した官僚)。また,碑背面には明治28年(1895)12月北海道庁許可,起業者竹本勘次郎,嘉屋菊之助,滝本國太郎,田中梅太郎,他六十名と刻まれている。

基石には碑建設委員(委員長北岡善作ほか委員大西佐右衛門ら19名),起業以来就職役員(野原久蔵ら10名)及び部長(柳澤豊太郎ら51名)の氏名が刻まれている。また,碑建設敷地寄付者(溝口榮次郎)と「大正九年十一月建設,札幌區南二條東一丁目渡邊健太郎刻」の氏名が刻まれているが,年を経て判読できない文字もある。

傍らの説明板には,「漁用水組合は,明治二十六年(1893年)頃,竹本勘次郎氏,嘉屋菊之助氏,瀧本國太郎氏,田中梅太郎氏(いずれも山口県人)らが発起人となり開田を計画して,明治二十八年十一月(1895年)に水利権の認可を得た。その後明治三十年七月(1897年)拡張工事を行い四十七名の加入の認可を受け,再び大正十二年十二月(1923年)に拡張確認の認可を得て,加入面積671haとなった。この記念碑は先人の功績を讃え,大正九年(1920年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」とある。

碑の両側面に刻まれた文字は損傷著しく判読できないものが多い。記録は残されているのだろうか?

 

2.柏木川共同用水紀念碑(大正12年4月建立,恵庭市中島松)

柏木川に架かる「南18号柏木川橋」の下流右岸にある。其処は,橋からも,南18号線道路からも見えない低い場所で,初日には堤防を南17号まで往復したが見つからず,翌日改めて探すと畑の一角,草叢の中にあった(写真は2014.11.12撮影)。

碑の表には「紀念柏木川用水の碑」,背面には「大正拾貮年四月三十日建之,昭和三十年七月改築」と刻まれ,側面には「南十五号より十八号まで柏木川より引用する灌漑溝確認並拡張の件,大正九年七月五日願,大正十二年二月十二日諾許可(新字体に変更)」とある。もう一方の側面には,出頭人総代宗近與三吉,ほか青木藤三郎ら13名の氏名が記され,基石には敷地寄付者北国高一の名がある。

傍らに,恵庭土地改良区による説明板があるので転記する。

「柏木川水系は明治29年(1896),石井久兵衛氏個人が水利権を出願して許可を得ている。時同じくして原田三十郎氏,青木久七氏らが率先して造田計画により他15名と共に水利権の許可を得た。当時の取水口は,南24号下流150mの所であったが,取水困難により,南23号下流200mに取水口を変更した。南18号下流地域においては水不足で茂漁川より補水を必要としたが,玉川徳次郎氏(富山県人)が率先して他13名と共に86haの開田をして,大正6年4月(1917年)に水利権を出願した。更に宗近與三吉氏(福井県人)ら12名は32haの開田を,大正9年7月に出願し,大正12年2月に水利使用が許可された。柏木川水系は,昭和20年に土功組合に統合されるまでは,上流・中流・下流の3地区の組合に分かれて運営されていた。

この記念碑は先人の功績を讃え,大正12年(1923)に建立されたものである。恵庭土地改良区」

 

3.盤尻用水記念碑(大正13年10月26日建立,恵庭市牧場)

恵庭柏木通りの文京町3丁目信号,恵庭中学校の筋向いに当る一画(文京町4丁目19番地西側,行政区は牧場)に本碑は建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑の表には「盤尻用水記念碑」の文字が草書体で刻まれ,その横に書家の名前と刻印があるが判読できない。

基石には,建立年月日と発起人氏名(大正十三年十月二十六日建立,発起人槌本磯五郎,長田佐一,永山百合熊,國廣留市),歴代役員氏名(起業以来就職役員,水利長山森丹宮,副水利長林愛助,水利長小柳明實,副水利長林愛助,水利長林愛助,副水利長長田作一),拠金者氏名,敷地寄付者氏名(山森丹宮),移設敷地寄付者(中川義孝),及び石工の名前が彫られている。

傍らに,恵庭土地改良区による説明板があるので紹介する。

「盤尻用水組合は,明治二十四年十月(1891年),山森丹宮氏,小柳三太夫氏(福井県人)らが発起人となり,盤尻番外地において漁川から取水する権利を得て約36haを開田したのが始まりである。大正九年三月(1920年)の拡張確認申請の時は116.5haとなり,明治二十四年より大正九年までの三十年の永きに亘り,山森丹宮氏は医業のかたわら寝食を忘れて尽力されたが,この地帯は火山灰層が厚く,水田経営に安定を欠き,昭和七年(1932年)に26.5ha約13名が地区除外をすることになり,水利使用を廃止した。

この記念碑は先人の功績を讃え,大正十三年十月(1924年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」

4.島松共同用水紀念碑(昭和3年11月建立,恵庭市恵み野北)

恵庭市恵み野北7丁目の一隅,団地環状通が北海道々600号島松千歳線に交差する一画に本碑はある(写真は2014.10.22撮影)。石碑正面中央に「紀念碑」の文字が大書され,「島松共同用水」と添えられている。「紀年」とは,ある紀元から数えた年数を意味するので,用水組合結成から数えて35年を記念し建立したのだろう。碑側面に「昭和3年11月建立」とある。

基石には,歴代組合長(小柳三太夫,植松藤兵衛ら7名),用水功労者(新山常八,田中梅太郎,井上和助,西佐左ヱ門,植松藤兵衛,小柳三太夫,原田三十郎,岩井與三吉,瀧本国太郎,藤本豊槌,五十嵐多作),記念碑建設寄付者氏名等が刻まれている。

傍らの説明板には,「茂漁川水系は明治二十年頃(1887年),島松地区の造田に着目した原田三十郎氏,小柳三太夫氏(福井県人)の両氏が水路掘削を発意したが,当時においてはこの地方における水稲栽培に確信を持つ人がなく,他の人達の同意を得ることができなかった。両氏においては当時の価格で六百円(当時米六十キロ一円四十六銭)を投じて水路を啓開して造田に着手したものである。この成果は急に造田の熱を高める事になり,明治二十七年八月(1894年)には原田三十郎氏,小柳三太夫氏ら十一名が発起人となり,島松共同用水を設立して水利権を得たものである。この記念碑は先人の功績を讃え,昭和三年(1928年)に建立されたものである。恵庭土地改良区」とある。

 

5.拓土農魂の碑(平成元年9月9日建立,恵庭市春日)

時代が変わって昭和40年代に入ると,北海道農業は機械化が進み圃場の大規模化が余儀なくされ,各地で圃場の整備事業が行われた。北海道営圃場整備事業(恵庭地区)は,昭和46年(1971)から20年の歳月をかけ,上山口地区ほか8地区で推進された。

本碑はこの事業の完成を記念して建立されたもので,碑の正面には「拓土農魂の碑」の文字が刻まれている(写真は2014.9.12撮影)。拓土農魂の文字は北海道知事堂垣内尚弘書。

隣に事業の沿革を記した碑があり,恵庭市,千歳市,北広島町及び恵庭・千歳・北広島の各農業協同組合,恵庭土地改良区の7団体が実施機関となり,3,303ha,約268億2千万円を投入推進した基盤整備事業である旨,刻まれている。その裏には,センター構成の役職員,歴代運営審議会委員ほか関係者の氏名を刻し,北海道農政部長笹田隆史は「風雪二十年に耐えて,その偉業を讃える」の書を添えている。

場所は恵庭市春日,川添大通りを進み,恵庭中央から春日地区に入った所にある。

 

用水記念碑を見るたびに,思いは複雑に絡み合う。開田し稲を育てコメを生産するために,北海道へ移住した人々が如何に苦労したか。寒冷地でのコメ安定生産のために生産者はどれだけ頑張ったか。その顛末が,稲作制限となり耕作放棄地の出現と言うのはおかしくないか。

その一方で,喜ばしいのは道産米の食味向上だろう。「ゆめぴりか」「ななつぼし」等々,府県米を凌駕している。先人の苦労は報われたとも言えよう。

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恵庭の碑-1,先人の偉業を讃える「開拓の碑」

2014-11-15 17:43:38 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭の開拓が緒に就いたのは,開拓使が置かれ(明治2年),蝦夷地を北海道と呼ぶようになってからである。明治2年8月千歳,勇払,夕張郡の支配被命を受けた高知藩(土佐藩,明治初年の正称が高知藩)は,藩士岸本円蔵,北代忠吉,従者杉本安吾らに現地調査をさせ,明治3年(1870)に開拓者を漁太などに送り込んだ。藩の積極的な支援を受け,開拓者らは洪水被害を蒙りながらも1年間で7町歩を超える開墾を行ったが,分領制度が廃止(明治4年)されると全員が引き揚げ(明治5年),開拓は頓挫してしまう。

因みに,河内の人中山久蔵が島松村1番地(現,島松沢137)に入植(明治4年)し,水田50坪を拓き,道南大野町から買い入れた水稲「赤毛」の種籾を苗代に播いたのが明治6年(1873)であり,ちょうどこの頃の事である。

その後,恵庭の開拓が本格的に動き出すのは,明治19年(1886)に山口県岩国・和木地方からの集団入植である。岩国の人々に北海道移住を決意させた背景には,明治17年の洪水により耕地が流亡,再耕不能になったことがあげられる。明治19年,島田勘助,田中梅太郎の実地調査を受け65戸(2か月後に3戸が加わり358名)が,明治20年には萩藩士族49戸219人が入植した。官から旅費と営農支度料(小屋,農具,種子代)が支給されたが,士族出身の入植者は環境に適応できず転出帰郷する者が多かったと言う。厳しい環境下での苦労が推察される。

さらに,明治26年(1893)には加越能開耕社(加賀・越中・能登)一行が入植した。石川県・富山県・福井県のこの地域は,地籍乏しく,立地条件に恵まれない零細農家が多かったからであろう。その後も呼び寄せ入植などが続き,開拓は進展した。このような先人の労苦を礎にして,繁栄する恵庭の今があると言えよう。

現在,恵庭市の人口は6万9千人,財政規模も220億円を超えるまでになった。農地は4,000ha,農業総産出額は毎年50億円を超えている。農家戸数の減少など課題はあるものの,この豊穣は先人たちが築いた礎の上にあることを忘れてはなるまい。

先ずは,恵庭にある「開拓の碑」を辿ろう。

1.山口県人恵庭開拓記念碑

2.富山県人開拓之碑

3.(恵南)開拓の碑

4.拓望の像

5.廣和魂

1.山口県人恵庭開拓記念碑(昭和31年10月8日建立,恵庭市新町)

恵庭市民会館の東側,会瀬洞門通りグリーンベルトに開拓記念碑がある(写真は2014.1.25及び2014.10.4撮影)。記念碑上部に横書きで「山口県人」,中央に縦書きで「恵庭開拓記念碑」と刻まれ(元総理大臣岸信介揮毫),碑の基礎石には当時の入植者氏名が刻まれている。先に記したように,明治19年(1886)山口県岩国・和木地方から68戸,翌20年(1887)には旧萩藩士族45戸が開拓者として漁川沿いに入植したのが,恵庭開拓の始まりとされる。山口県移住者の子孫は,恵庭の礎となった先人の苦労を偲び偉業を讃えるため,明治44年(1911)11月3日天融寺境内に記念碑を建立した。現存の碑は,当初の碑が損傷著しくなったため,昭和31年(1956)10月8日この地に再建されたものである(発起人:槌本貞一,村本寛,本田恒美,槌本正義,藤本良男ら)。さらに,入植者氏名を記した基礎石等は,昭和60年(1985)改修が行われた。

碑背面には永山金治の揮毫により以下の撰文が記されているので紹介しよう。

「原始の森に暗くアイヌの住家,漁川の清流をはさんで点在するだけであったろう。この地に明治十九年四月山口県岩国地方団体六五戸,次いで翌二十年山口県鳴門国萩藩士四五戸開拓の雄図を抱き,生息死別の悲壮な決意のもとに海路波濤と戦い死線を超えて入植し開拓に着く。然しその業の困難が如何に言語に絶したものであったかは,古老の昔語りに忍ばれる。食うに食なく住むに家なく衣にも事を欠き,特に食に至っては粟蕎麦薯粥をすするにさえ不足勝であったと言う。けれども苦節死闘幾十年,今開村六十周年を明年に迎える。思うにその基を築いた先人の苦労業績は大きく称えられてよく,其の偉業を忍び我等集い碑を建立永く伝えようと思う 昭和三十一年十月 発起人一同」(恵庭市史から転記)

 

2.富山県人開拓之碑(昭和62年6月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)

恵庭開拓記念公園に「富山県人開拓之碑」がある(写真は2014.9.12撮影)。傍には「恵庭開拓の祖を讃える」碑文が置かれている。その文章を引用しよう。

「富山県下の農民は打ち続く大洪水に塗炭の苦しみに喘いだ。明治25,6年に小矢部市薮波村村長兜谷徳平氏は,県民百戸近くを漁村に移住せしめた。風雪は開拓小屋を吹き抜け,ひぐまの横行する原始林に,いばらを押し分けつつ開拓の鍬を打ち下ろし飢餓に耐えながら言語に絶する苦難を克服し耕地の拡大に励んだ。その後,縁故入植や北陸の人々で恵庭の開拓は進められた。氾濫を繰り返す漁川を克く利水し,開田に努め大正の末期には田畑五千町歩余りを開墾し,実り豊かな恵庭村は出現した。「噫々その偉業何にたとうべき哉」これらの事を後世に語り継ぐべく杉森梅次郎氏は,有志と諮り恵庭冨山県人会を創立した。それから十年,和と親睦を深めつつ今日に至る。現在恵庭市は,道央の拠点都市に発展するも,百年前を想起し開拓に心血を注いだ先人の方々に深い感謝の誠を捧げ,ここに記念碑を建立する。謹白。恵庭冨山県人会会長杉森勝義」

 

3.(恵南)開拓之碑(昭和54年11月建立,恵庭市恵南)

恵庭市恵南28寺田牧場(みるくのアトリエ)南側に隣接してある「開拓之碑」は,「馬頭観音」「牛頭大王」の碑と並んで建っている(写真は2013.10.19撮影)。

昭和20年(1945)10月,道内各地から桜森地区(現・北海道大演習場)へ桜森開拓営団の入植が始まったが,間もなくアメリカ軍に接収されたため立ち退きを余儀なくされ,その一部が戦後緊急開拓者としてこの地へ移り住むことになった(昭和23年12月)歴史がある。もともとこの一帯は,明治9年(1876)より官設漁村放牧場(後に北海道農事試験場漁放牧場)として牛50頭余りを飼育していた場所で,従事していた職員も戦後この地に定住した。

開拓の碑は,戦後入植から30周年を記念して,昭和54年(1979)11月建立されたものである。碑背面の撰文は判読できない文字もあるが,次のように読み取れる。

「国破れて山河あり,窮乏と荒廃の国土の中から祖国再建えの使命を擔い,昭和二十三年十二月緊急開拓者として原始の森と不毛のこの地に入植せるを以て恵南開拓は始まる。以来同志克く協力相和し幾多の苦難を克服し,粒々辛苦風雪正に三十年痩薄の火山灰土化して沃野となり営々として業に勤しむ,茲に開基三十年を迎えるにあたり往時を回顧し同志相諮り碑を建て以って記念とす,昭和五十四年十一月吉日建立」

さらに文章下段に,鍋島金蔵ら13名の名前が列記されている。

また,並び立っている「馬頭観音」は昭和23年桜森から立ち退く際に移設されたものであるが,本来の建立年は不詳。「牛頭大王」碑は,豊栄(恵南の旧称)地区で乳牛飼育が100頭を上回ったことを記念して建立された(昭和38年11月17日)と言われる。

 

4.拓望の像(昭和54年8月建立,恵庭市南島松「恵庭開拓記念公園」)

先に紹介した恵庭開拓公園内の「拓望の像」(竹中敏弘作,写真は2014.9.12撮影)も,先人の功績を讃える記念碑と同系列にある。山口県から現地調査に入った島田勘助,田中梅太郎の姿を,彫像作家竹中敏弘が表現したものだと言う。詳しくは,本ブログ(恵庭の彫像-4,2014.10.9)を参照されたい。

彫像の傍らに碑文が置かれているので紹介しよう。

「拓望の像,明治十八年わが郷土の先達は,はるかに馬追山からこの恵庭市の平原を相し,酷寒にいどみ飢餓と闘い心血をそそいで鬱蒼たる原始の巨木にいどみ,いばら多き原野を拓き,互いに希望の火を漁川のほとりに焚き,百折不撓ついに今日の隆昌発展の礎石を築いた。いまここにその功業を偲び拓望の像を建立し感謝の意を捧げると共に,永く志を後代に伝えんとするものである。昭和五十四年八月建立,恵庭市長浜垣実」

 

5.廣和魂(大正6年10月31日建立,恵庭市下島松)

本碑の由来を確認していないが,ここでは「開拓の碑」と同列に置く。本碑も,開拓に携わった先人同胞の苦労業績を偲び建立されたものだろう。

本碑は恵庭市下島松にある。道道46号江別恵庭線の西島松から,ホクレン恵庭研究農場と道央農業振興公社の間の道路を直進し,突き当りを右折して,島松川が流れる沢に下る途中にある。本碑の所在を確認しようと訪れた一回目は地番を頼りに探したが見つからず,二回目は幸いにも近所の方に場所を聞くことが出来た。見つからなかった訳だ,「廣和魂の碑」は雑木林の中,草叢に隠れるようにあった(写真は2014.11.12撮影)。近づいてみると,櫟の木に囲まれ,碑足元の草は刈られていた。

碑の表面に,「廣和魂」の文字が大書され,裏面に「大正六年十月三十一日」とだけある。基石に,発起人氏名(水野熊三,山平與六,伊藤万吉,若松藤治郎,谷口与作,菅原平作,鍾下寅吉),賛助員氏名(山川由太郎,大山口源平,奧田豊造,好川梅吉,藤井周一,中野甚太郎,津田吉三郎,小川与作,谷口惣次郎,田辺余市,中村惣次郎)が彫られているだけの素朴な姿である。

傍らに,「馬頭観世音菩薩」(昭和七年二百十日,大山口源平)がある。開拓の苦労を分かち合った馬の供養が行われていたのだろう。恵庭市内に馬頭観音や獣魂碑は多い。馬頭観音については別の機会に紹介する。

*追記:「廣和魂」は顕彰碑の意味合いが強い。広島村開祖 和田郁二郎氏を顕彰して建立された。昭和54に高台から現在の場所(島松沢)に移設された。

人は誰でも,故郷や仕事に愛着を持とうとすれば,その生い立ちや先人の足跡を知る必要があるが,時代の流れに追われがちな現代人にとって歴史を学ぶことは蔑になりやすい。活字離れの風潮も歴史を軽んじることに拍車をかけているのかもしれない。

このシリーズは,恵庭の歴史を知ろうと歩いた「石碑物語」である。「恵庭の碑」については郷土資料館のHPを参考にした。また,所在地の詳細情報について同資料館のOさんに御教示賜った。感謝申し上げる。

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恵庭の彫像-11,茂漁川のレリーフ「鮭の一生」

2014-11-08 17:15:24 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市中島町4丁目,黄金中島通りに「鮭の一生」を描いたレリーフがある。漁川との合流点から茂漁川を約500m遡った若草一号橋付近だ。「茂漁川河川緑地」のプレートがあるので,その完成を記念して創られたものかもしれない。若草橋の完成が昭和63年(1988)12月になっているから,この時期のものだろう。

写真のように8枚の図柄に分かれており,鮭の一生を描いている。卵から孵化して海に向かって泳ぎ下る姿(4枚)は茂漁川下流を向き,海から戻り産卵に至る4枚は上流を向いて描かれている。路傍のレリーフは教育的である。

改めて写真を見ると,歩道の雑草が少し気になるが,なかなかの出来栄えだ。鮭は躍動的でそれぞれに物語が感じられる。足を止めて眺める人はいないだろうが,路傍の作品は其処にあるだけで価値がある。住民の心を癒してくれるから。

 

  

◆茂漁川

因みに,漁川,その支流である茂漁川は古来より鮭が遡上する清らかな河川であった。恵庭に暮らす人々の命と暮らしを育んできた。開発局札幌建設部等の資料によれば,以下のような河川改修の経過があったと言う。

「朝鮮戦争時にアメリカ軍が行った「北海道大演習場」での訓練等で漁川・茂漁川などが荒廃したため,昭和30年代に防衛庁の補助事業として三面張りの防災工事を行い直線水路にしたが,治水安全度は低下し度重なる洪水被害があった。その反省から,街と共生する河川,

潤いある水辺空間の創出を目指し,昭和61年(1986)から河川改修が行われた。茂漁川は平成2年(1990)「ふるさとの川モデル事業」の認定を受け,「素顔の水辺づくり」をテーマに整備を進めた。即ち,川底に自然の土や石を戻し,水際に柳を植えるなど緑化護岸を行い,緑豊かな河川に改修し,平成9年(1997)に完成。水中にはバイカモが可憐な花を咲かせ,水辺の散策路は散歩やランニングコースとして市民の人気が高い。平成19年度土木学会デザイン賞2006優秀賞を受賞」

 

11月初旬,秋も終わり,初雪が舞いそうな寒い日に茂漁川を訪れた。水辺の草木は枯れていたが,ドウダンツツジは未だ真紅に残り,梅花藻は水中の流れに揺れていた。上流の公園付近に架かる橋はそれぞれ異なる造形で彩られている(写真)。

せせらぎが戻った住宅景観は,恵庭の誇りとしてこれからも大事にしたいものだ

  

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日章旗への書き込み

2014-11-04 09:03:38 | さすらい考

オリンピックやFIFAワールドカップの試合などで,国旗(日章旗)に選手の名前や激励の言葉を書き込んで応援する熱狂フアンの姿を見掛ける。もちろん小生も日本代表を熱烈応援するが,テレビ画面に「国旗への書き込み」を大写しされると,不快感を覚え一歩身を引いてしまう。そして,彼らには「日章旗が国旗である」との認識があるのだろうかと疑ってしまう。

同時に,「国旗への書き込みを」を見た外国人は日本人の異質な慣習(文化)に戸惑っているのではないか,と些か心配になる。海外諸国において,「国旗への書き込み」事例を見たことはない。どこの国でも国旗・国歌は国の象徴として敬われ,尊厳の気持ちを持って取り扱い,教育現場でもそう教える。

例えば,だいぶ昔アルゼンチンで暮らす機会があったが,その折の印象が蘇る。息子たちが通っていた小学校では朝礼時に生徒の代表者が国歌斉唱に合わせ国旗を掲揚していた。国旗を見上げる生徒達の瞳が何と清々しかったことか。印象的であった。

また,オーストラリアの穀物技術研究所を訪問した際に,前庭の国旗掲揚塔にオーストラリア国旗と並び日章旗が掲揚されているのを見た。日本からのミッション来訪を歓迎する意味合いである。会議室の机上にも両国の小旗が飾ってある。国賓を迎える時はもっと徹底しており,どこの国でも歓迎の心を込めて宿舎までの沿道に同国の国旗を掲げる。また,会議場でも国旗を掲げ,礼を尽くす。これが,正式儀礼であり,心遣いと言うものだろう。

その後も,仕事で中国やマレーシア等アジア諸国を訪問する機会があったが,これら国々の国公立機関でも国旗を掲揚し,国旗に対する尊厳を表していた。また,南米のパラグアイ,チリ,ブラジルなどラテン諸国でも国旗に対する意識は特別なものであった。それに比べて,日本では国旗に対する概念が希薄になっているのではないかと憂える。

ところで,日章旗への書き込みであるが,過去になかった訳ではない。出征兵士に送った「武運長久を祈る」寄せ書きの事例である。この場合は,中央の日の丸を汚さず,白地の部分にのみ書き込みがされていた。そして,この日章旗は懐に収めて身を護り武運を願うものだったのではないか。大衆の前で士気を鼓舞するために使うようなものではあるまい。

◆国旗及び国歌に関する法律

因みに,日章旗は「日の丸のデザイン規格制定」(明治3年1月27日太政官布告第57号,商船規則)によって定められ,国旗として長く使われ,慣習法として定着してきたものである。第二次世界大戦以降日章旗に対する多くの議論があったが,平成11年8月13日「国旗及び国歌に関する法律(日法律第127号)」が公布・施行され,現在に至っている。同法律は,第一条「国旗は日章旗とする」,第二条「国歌は君が代とする」と極めてシンプルな表現で定められている。

公布に当って,小渕恵三内閣総理大臣は「・・・21世紀を目前にして,今回,成文法でその根拠が明確に規定されたことは,誠に意義深いものがあります。国旗と国歌は,いずれの国でも,国家の象徴として大切に扱われているものであり,国家にとって,なくてはならないものであります。また,国旗と国歌は,国民の間に定着することを通じ,国民のアイデンティティーの証として重要な役割を果たしているものと考えております・・・」と談話を発した(平成11年8月9日)。

◆国旗損壊罪

法律の専門家でないので詳しくは承知しないが,世界の多くの国には「国旗損壊罪」なる法律があるそうだ。わが国でも,刑法92条で「外国に対して侮辱を加える目的で,その国の国旗その他の国章を損壊し,除去し,または汚損したる者は,2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」とあり,二項には「前項の罪は,外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない」なっているが,わが国の国旗は対象外だと言う(器物損壊罪が適用された事例はある)。日章旗を含めず,外国国旗に対してのみ刑法規定する,この曖昧さは何だろう。「気兼ねする日本人」という卑屈な構図なのか。

まあ大事なのは,損壊罪云々より,国旗を国の象徴として敬う教育や国民意識なのかもしれない。自然体で・・・。

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国民の祝日と国旗掲揚

2014-11-03 11:05:20 | さすらい考

 

祝日の散歩途中に,ふと気になった。かつて祝日には,各戸の玄関先に国旗が掲揚されていたはずなのに,全く見かけない。その後も周囲を注意しながら歩いたが,日章旗を掲揚している家はなかった。この街は造成後年数が浅い住宅地だから特別なのか,とも思ったが,そんな理由ではなさそうだ。むしろ,「国民の祝日」に対する意識変化が大きいのではないかと考えた。

何故なら,近ごろ社会の慣習(文化)が雪崩を打って変化している。例えば,葬儀や埋葬方法,家族の形や意識,近所づきあい等々,淡泊になっている。村の祭りもなくなった。歴史的な意味は消えうせ,世の中はクリスマスだ,ハロウインだ,バレンタインデーだと商業主義に踊らされた空騒ぎになっている。日本人の「国民の祝日」を祝う気持ちが薄れても不思議ではない。時代の変わり目なのかもしれないが,日本は何処へ向かうのだろう? 

◆国民の祝日に関する法律

ところで,祝日については「国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)」で定められている。その第一条には「自由と平和を求めてやまない日本国民は,美しい風習を育てつつ,よりよき社会,より豊かな生活を築き上げるために,ここに国民こぞって祝い,感謝し,又は祈念する日を定め,これを国民の祝日と名付ける」とある。主旨から言えば,祝日は当然「月日固定」であるはずだが,いつの間にか「振替休日」(国民の祝日が日曜日の場合次の平日を休日とする)や「国民の休日」(二つの休日に挟まれた平日を休日とする)制度が導入されおかしくなった。

それもこれも,海外から「ワーカホリック」と揶揄されて祝日を増やすなど,安易な立法の結果である(年間15日は先進国の中では最多であると言う)。国民の人気取り政策で休日を増やしたため,国民は「祝日」の意味を忘れてしまったのではないか。「祝日」が「休日」と同意語になってしまった。

確かにわが国には,休日でないと休暇を取りにくい労働環境があり,一方では休日でも休暇が取れない職種の増加や雇用制度など問題点がある。しかし,労働条件の改善は別の視点で対応すべきだろう。安易に休日を増やすだけでは,わが国固有の文化を消滅させてしまう。

◆平日の国旗掲揚

さて一方,平日の国旗掲揚はどうなっているのだろう? 公的機関では,条例等によって国旗掲揚を定めている場合が多い。例えば,地方自治体では国旗と自治体旗,市町村では国旗と市町村旗を掲揚すると定める。

散歩がてらに街の様子が気になった。近くの公立小学校,中学校に国旗は見当たらない。掲揚塔には交通安全の旗だけがあった。高校はどうかと足を延ばしたら,日章旗が掲揚されていた。市の出張所や図書館,郷土資料館には市旗も掲揚されていない。それを見て,市役所はどうだったろうか? と一瞬疑った。記憶の市庁舎映像には掲揚塔がない。後日,市役所へ行って掲揚塔を探したら,庁舎の前でなく駐車場の一隅,道路との境界に掲揚塔はあった。庁舎の映像と一体化しなかったわけだ。市役所の掲揚塔には,国旗,市旗,交通安全旗が掲揚されている。なお,総合体育館は日曜日だったが掲揚されていた(休館日でなかったからだろう)。公的機関以外では,専門学校に国旗と校旗が翻っていた。ある建設会社にも国旗と社旗が掲揚されていた。

「国旗及び国歌に関する法律」制定から15年経過したが,国旗を尊重する気持ちが醸成されたと言えるだろうか?

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