豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

海外では食中毒に気をつけろ

2012-06-27 09:39:41 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイに新しいシニアボランテイアご夫婦がやってきた。

ある日,近くのアパートに入ることになったと挨拶にきて,初めて顔を合わせた。寒そうにしていたので(パラグアイも冬は想像以上に寒い),その夜は温かい日本食で歓迎した。関西出身でお喋りのご夫婦だった。この土地の暮らしについて,あれやこれやと話したが,「海外は経験あるから心配しなさんな」と帰って行った。

それから暫くして,噂が聞こえてきた。

「○○さんお腹を壊して大変だったそうよ。慣れない水で下痢しても大抵2日もすれば治るのに,いやいや,点滴と入院騒ぎですって」

「どうしたのだろう?」

「スーパーで冷凍ハンバーグを買ってきて,食べたらしいの」

「ああ,それはダメだ」

「どうして?」

「停電が多いいだろう。冷凍製品は溶けたり凍ったり何回したか分かったものではない。冷凍してあるから臭いも分からない」

停電が頻繁に起こるような国の冷凍食品は,注意した方が良い

 

カウンターパートとは仕事でよく地方に出かけた。

ある時,国道脇のドライブインに立ち寄って昼食をとることにした。外観は比較的きれいで裏にはホテルも備わっている,焼肉レストランである。客の入りは多くないようだったが,時間の関係もありそこで食事をすることになった。中央のテーブルにはサラダや前菜が並べられ,奥に焼肉のコーナーがある普通のシュラスケリアである。

サラダを口にしたインヘニエロ(技師)が,あわててトイレに走った。

「どうした?」

彼は首を振っているが,彼の皿にはマヨネーズで和えたサラダが残っていた。マヨネーズは悪くなりやすい。更に,教訓として言えば,「お客が少ない(流行っていない)食堂には入るな」と言うことか。

こんな時クレームをつけても埒はあかない。「ああ,そうですか」で終わってしまう。海外では,「自分の身体は自分の舌で守る」ことに尽きる。昔の日本だって,そうだったじゃないか。

 

しかし,どんなに注意していても,海外旅行では下痢に見舞われることが多い。記憶に残るのは,アルゼンチンのパタゴニアからチリのプエルト・ナタレスに抜け,プエルトモンまで北上したときのことである。貝料理ピコロコを食べた後だったか,クラントを食べた後だったか,脱水症状が心配になるほど下痢が続いた。この時ばかりは常備の「正露丸糖衣錠」も役立たず,サンチアゴで病院に駆け込んだ。

 

 経験則でいえば,疲労がたまった時の油料理が危ない。サンチアゴではサーモンのフライ,パラグアイではミラネッサ(カツ)でやられた。パラグアイの場合は,多分油が古かったのではないかと思われるが,日中の暑さに耐えかねて,食事のとき冷えたビールを飲んだ。しかも,どちらのレストランも冷房が効きすぎていた。

これじゃあ,ダメだ

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育種における「交配組合せ数」の意味(南米大豆技術協力の例)

2012-06-20 11:04:25 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

交配組合せ数の意味

現在,南米三国(ブラジル,アルゼンチン,パラグアイ)の大豆生産量は,世界総生産量の過半を超え約1800万トンに達しているが,大豆栽培が軌道に乗ったのは1970年代(40年前)のことである。

この頃,日本政府は南米三国からの要請を受け,大豆生産性向上を目指した技術協力を開始した(アルゼンチン1977-1984,ブラジル1979-2001,パラグアイ1979-2002)。この,ブラジル及びパラグアイの案件は,対インドネシア等のプロジェクトと同様に,長期案件でJICA農業協力の象徴でもあった。一方,アルゼンチンに対しては専門家派遣の個人ベース案件であった。

 

ここでは,アルゼンチンとパラグアイ双方の技術協力に携わった一専門家として,特に育種の場面から(プロジェクトの一部分にすぎないが)両プロジェクトを比較してみたい。視点は,育種事業の基礎となる交配組合せ数と成果(育成品種)についてである。

 

先ず,別添の表「大豆交配組合せ数の推移と専門家」を見ていただこう。プロジェクトサイトであったパラグアイCRIA(地域農業研究センター)とアルゼンチンINTA MJ(マルコスフアレス国立農業技術センター)における交配組合せ数と育成品種の記録である。

 

パラグアイでは技術協力が開始されてから14年間交配組合せ数は一桁に経過し,交配数が増加したのは古明地通孝専門家が派遣されてからである。これには,圃場の整備や育種技術伝達に時間がかかったなど種々の事情はあろうが,「育種を事業として定着させて初めて技術移転は完結する」ことを考えれば,「数の理論」を蔑にしたと言われるかもしれない。プロジェクト後半になってようやく育種材料が蓄積され,品種も誕生し始めている。

 

一方,アルゼンチンでは育種技術伝達を図り体制を構築しながらも,協力開始初年目から二桁の交配を実施している。そして,7年間の協力で成果を確認し,プロジェクトの終結を図った。アルゼンチンでは技術協力終了後も,協力時の材料から多くの品種が誕生している。「育種規模がある程度大きくないと品種育成は望めない」ことは,育種が事業であることを考えれば至極あたりまえ。

ちなみに,種子会社等の現在の育種規模は更に一桁大きいが,ここでは触れない。

 

この違いは何だろう?

一つは,相手国の経済力の差であろう。研究者と補助技術者を安定雇用し,育種事業体制を独自に持続することが出来るか否かである。アルゼンチンでは,当時のカウンターパートが今でも重要な立場で頑張っており後継者も育成されている。一方パラグアイでは,研究者(大学卒の技師)の定着が極めて悪く(公務員の給料が払えず民間へ転出する),事業推進にも支障を来たしている。経済力加えて,相手国政府の体制や意識にも差があるということだろう。

 

二つ目は,誤解を恐れずに言えば専門家の「意気込み」の問題があるかも知れない。アルゼンチン技協の派遣専門家は三十代後半の現役(中堅)大豆育種家(北海道立十勝農業試験場)で,休職中も組織が全力でサポートしていた。一方,パラグアイ技協の派遣専門家は農水省が推薦した農業試験場退職者であった。退職者だから「意気込み」が低いなどと言うつもりは勿論ないが,目標意識が低く体力やサポート体制に差が出てくることもあろう。

 

こんな声が聞こえて来た。

「当時海外に出したOBの中には,人材不足で資質が十分な人ばかりではなかった(一般論で,この事例を指すものではない)。相手国がどう感じたか・・・」と,人集めが大変だった事情を知る農水省OBが言う。

「それに比べ北海道は地方自治体なのに良くやった。タイにしてもアルゼンチンにしても・・・」と。

 

当時,「地方自治体が何故国際協力だ,国の仕事だろう。専門家を派遣する必要があるのか」との声は北海道にも当然あったが,大義を説き,事を進めた先輩諸氏(あえて名前を挙げれば,歴代道農政部長,並びに楠 隆,中山利彦,斎藤正隆,砂田喜與志ら)の見識には頭が下がる。派遣専門家も国の顔として,組織を背負う気持ちで頑張っていた。これに加えて,農水省や大使館,JICA事務所,相手国機関からも連携を密にした支援があった。

 

さて,育種家の貴方は,交配の数だけを問題にすることに異議を唱えるだろう。もちろん,組合せの内容が重要である。私たち育種家は,「どの交配親をどう組み合わせるか」が成否のポイントだと知っている。だから,日頃から品種の観察を怠らないし,育種の眼を養っている。それが育種家の資質となる。

 

その実例として,アルゼンチンの2年目と3年目の交配後代がどう生きているか見てほしい。2年目の交配は止むを得ず特性データをたよりに交配母本を選んだが,3年目は1年間の観察を経て特性を把握した品種を交配母本に使った。その結果,3年目の交雑後代から多くの品種が誕生していることを。

 

写真はパラグアイ農業研究センター(上),アルゼンチン農牧省(下)にて。

 

 

 

 

 

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子葉緑(種子の中まで緑)の「大豆」

2012-06-19 14:02:06 | 北海道の豆<豆の育種のマメな話>

大豆と言えば,種皮が黄~黄白色の「豆」を思い出すだろう。これらは通称「黄大豆」と呼ばれる。その他に,種皮が黒色の「黒大豆」や黄緑~緑色の「青豆」,変わりものでは種皮が茶色の「茶豆」等がある。

大豆の種皮(種子の表面の皮)を剥くと,2枚の子葉(発芽後に子葉として展開する)が合わさった形の子実が現れる。種皮の色は異なっても子葉色は「黄色」である場合が多いが,稀にクロロフィルを含む「緑色」の品種がある。

 

北海道で最近,幻の大豆と称して栽培されている「黒千石大豆」も,種皮色黒で子葉が緑色で,この特性が評価されている(日本食品分析センターの分析結果で,他の黒大豆よりイソフラボン,ポリフェノールの値が高い。また,北海道大学遺伝子病制御研究所西村孝司教授らによりインターフェロンγの生成を促す物質が発見された)。

 

ちなみに,この子葉色緑の遺伝は2対の劣性遺伝子と一つの細胞質遺伝子に支配されているB.E.CardwellSoybeans,三分一敬監修,土屋武彦・佐々木宏編集:北海道における作物育種)。

 

北海道には,「青豆」「緑豆」「青」「黄粉豆」などと呼ばれて古くから栽培されている子葉緑の在来種がいくつかある。これらは,異名同種,同名異種である場合が多い。北海道立十勝農業試験場は1957年(昭32)に地方栽培品種を広範囲から約1,200点集め,特性の優れた「青大豆」(青-1,芽室町の農家から収集)を育種材料として保存している。その特性は,小葉は円葉,毛茸は褐色,花は赤紫色,熟莢は褐色,百粒重は約35g,種皮は緑色,臍は褐色,子葉は緑色,主茎長は約65cm,伸育型は有限,十勝における成熟期は10月上旬である(北海道における豆類品種,日本豆類基金協会)。収集当時,この品種は煮豆や黄粉豆として使われていた。

 

北海道植物遺伝資源データベース(同総研農業研究本部)には,「子葉色緑」の品種系統が収集場所の異なる75種登録されている。異名同種,同名異種も多いと思われる。種皮色は緑色(くすんだ緑)が多く,他に黒色。臍色は暗褐色~黒色。粒大は大粒(百粒重35g程度)と小粒(15g程度)に分かれ,二つの異なる品種から派生した品種群(?)と推測される。晩生のため北海道では未成熟に終わる品種が多く,東北地方など府県から導入され定着した在来種だろう。

 

農業生物資源ジーンバンク(農業生物資源研究所)を検索してみると,「子葉色緑」の品種系統が445件ヒットした。原産地は東北や中部地方を筆頭に全国にわたり,韓国や中国から収集した品種も保存されている。「あおまめ」「ひたしまめ」「きなこまめ」「ゆきのした」等々,品種名が雑多にあり,これらの品種系統が「在来種」であることを物語っている。

 

子葉が緑の「青大豆」は,北海道でも地域に限定された(本別,美幌など)栽培がみられる。それぞれ地元で加工消費されていて生産量は多くない。現在,北海道で登録された優良品種はないが,差別化素材として地域振興のタネになるかも知れない。

 

 

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南米のデザート,「アロス・コン・レチエ」(牛乳ご飯)とは何だ?

2012-06-18 15:21:28 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

ワインを飲みながら,時間をかけて大きなステーキを食べ終わると,しばしの時を置いて,

ポストレ(デザート)は何にしますか?」と尋ねられる。

 

「何がありますか?」と聞き返せば,

「トルタ(ケーキ),フラン(プリン),ケソ(チーズ),エラード(アイスクリーム),ケソ・イ・ドウルセ(チーズとさつまいも羊羹),ドウルセ・デ・バタタ(さつまいも羊羹),・・・フルータ(果物)はサンデイア(西瓜),フルテイジャ(苺),アナナ(パイナップル),ドウラスノ(桃)・・・」と続く。

 

ケーキやパイは何しろ甘い,そしてボリュームがある。しかし彼の国では,殿方も別腹に入れるようにパクついている。最初の頃は「トルタ」「ドウルセ・デ・バタタ」などお付き合いしていたが,半分も食べずに,「もう結構」となる。この甘くボリュームのあるデザートは,健康を気にしなくとも身体が受け付けるものではない。

 

また,デザートチーズは好物であるが,その大きさにはさすがに閉口した。

 

日本でも最近見られるように,ワゴンに載せてテーブルまで運んで来て,或いはコーナーを設けて,客にサービスするシステムが多い。

 

デザートと言えば,もう一つ「アロス・コン・レチエ」を思い出す

 

アルゼンチンでの最初の夏であったか,メンドーサを旅した。独立広場に面するホテルの夕食でポストレのメニューを見ていると,「○○ハポネス」とある。スペイン語が分からなくとも,ハポネスが「日本人,日本の・・」と言うくらいは理解できる。

 

「これはなんだと思う? 食べてみよう」

運ばれてきたのは,白いお粥ではないか。

「何だ,これは!」

ご飯入りのミルクじゃないか。シナモンが振ってある。口にすると,ヒンヤリとして甘い。暑いところでは美味しく感じるのだろうが,残念なことにそのレストランは寒いほど冷房が効いていた。

 

後になって,これはアロス・コン・レチエと言って,パラグアイでは人気のデザートだと知った。だが,どうもこれは馴染めなく,二度と口にしていない。

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南米でエントラーダ(前菜)に何を選ぶ? ハモン・イ・メロン,パルミット・サラダ,マタンブレ,ピカード

2012-06-16 10:39:23 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

「南米の食べ物」の続き・・・,エントラーダ(前菜)である

種類は多様で,肉と野菜の詰め物,オリーブや胡瓜の酢漬け,野菜サラダ等々。此処ではお気に入りを紹介しよう。

 

ハモン・イ・メロンjamón y melón):メロンを半月に切り生ハムを載せる。生ハムの塩味とメロンの甘さが調和して,これは絶品だとよく食べた。日本のレストランでも提供されるが,南米やスペインの美味しい生ハムでないと本当の良さは出てこない。

ちなみに,パラグアイやアルゼンチンのスーパー・マーケットにメロン・ハポネス(日本メロン)の名前でマスク・メロンが並んでいる。日本人が持ち込み普及したものだ。もともとイモ類とニンジンしかなかった南米に各種の野菜類を定着させたのは,日系人である。

 

パルミット・サラダpalmito, ヤシの新芽):中南米。サラダで食べるのがシンプルで美味しい。味は淡いが,食感が竹の子のようでシャキッとして,さわやかな味だ。パルミット・サラダの材料(23人前)を紹介しよう。パルミット150g,サニーレタス34枚,玉ねぎ1/2個,白ワインビネガー60cc,オリーブオイル130cc,塩コショウ適宜,乾燥パセリ適宜。生のパルミットは腐敗しやすいからと注意を受けた。日本でも,瓶詰・缶詰などで売られているので,試してみたら如何でしょうか。

 

マタンブレmatambre):アルゼンチン。ブエノス・アイレスのレストランで食べたこの前菜は美味しかった。日本のレストランでは「詰め物入り牛肉ロール」と呼んでいた。牛肉に野菜を詰めて調理し,スライスして冷凍したもの。

 

ピカードpicado, みじん切り):南米。男同士でビールかワインを飲むなら,ピカード(刻んだソーセージ,ハム,チーズの盛り合わせ,おつまみセット)がいい。オリーブのピクルスが添えられていたりする。爪楊枝を刺して出される。

レストランでの前菜と言うより,バルやカフェテリアでの一品が似合う。ブエノス・アイレスのカフェテリアで老夫婦がピカードを摘んでいる姿は絵になる。

 

ソパ・パラグアージャsopa paraguaya):パラグアイ。パラグアイではパーテイでお客をもてなす時に,ソパ・パラグアージャ(直訳すればパラグアイ・スープ)と呼ばれる,トウモロコシとチーズを使ったスポンジケーキなような料理が前菜として振舞われる。

「料理人がスープを作っていたとき誤って煮詰めてしまい,固形になったものを食べてみたら意外に美味しかったので,今の形で食べるようになった」と,謂われが語り継がれている。ご婦人たちは美味しそうに食べていたが,トウモロコシの粒子がざらざらと口に残る感触で,これはあまり好きになれなかった(番外)。

 

セビッチエcebiche):チリ,メキシコ。海に面し新鮮な魚介が手に入る国では,セビッチエ(魚のマリーネ)が美味しい。白身魚や貝をトマト,唐辛子であわせ,レモン汁に漬けたシーフードの前菜料理であるが,酸味が効いて口当たりが良い。

 

 

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近ごろ感じるのは,ファージイな日本人

2012-06-15 10:00:57 | さすらい考

近ごろ感じるのは,世界の彼方此方で異常気象や災害が頻発し,或いはまた経済危機が語られているにも拘わらず,わが国では目先の対応に掛かり切りで長期展望が見えないため,鬱積した気分が蔓延しているように思えることである。この様な時こそ,長期の目標を示し堅実に推進することが肝要なのに,わが国はその対応があまり上手くない。目先の問題の論議に振り回され時間を掛け,ようやく得た結論は玉虫色で,行動に移せないような形に収まってしまう。

 

◆鬱積した霧を晴らすために,テクノクラート重視の時代が来たのではないかと思う。農業技術者は,昔から長いスパンの思考には慣れている。作物は年一回の周期で育ち,品種や栽培技術の改良にしても10年の単位で進めてきた。安全食料の安定供給は歴史の中でゆるぎない目標であり,派手ではないが多くの貴重な成果を蓄積してきた。異常気象や災害対応にもこの財産は活かされよう。農業技術者の力が必要だと,自信を持って一歩踏み出す時ではあるまいか。農業試験研究でも23年で成果を求められるような風潮は強くなっているが,明日のための研究を大事にしたい。技術が明日を拓く。一層の技術力蓄積と発信を期待する。(参照-「北農」793巻編集後記)

 

◆こんな話をしたら,ある人が「ファージイなのが日本の良いところ,だから暴動も一揆も起きないのだ」と言う。また,ある人は「近視眼的対応に労力を費やすのは,村の寄合いの名残だ」とおっしゃる。

 

日本人は,世界を駈けまわるようになっても島国育ちのDNAに支配され,コップの中で頭を突き合わせる「近視眼的」行動に陥りやすい。しかも,村を守るため波風立てずに収めようとする。内向きの思考だ。一方,大平原で地平線を眺め,彼方から異国の敵が迫ってくる恐怖を感じながら育った人々のDNAとは根本から違う。彼らは,奪われた祖国をいつの日か奪還しようと(或いは国土を拡張しようと)遠い先を見つめている。

 

ふと,本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)を思い出した。体のサイズが違うと機敏さが違い,寿命が違い,総じて時間の流れる速さが違ってくる,と言う。時間はマヤの時代から物理的な尺度として捉えられているが,一面「感性」でもある。時間が流れる速さの認識は,人によって差があって当然。日本人は時間の流れが速く,大陸人はゆっくりしているのか。

 

◆ファージイな日本人。確かに日本人の良い一面でもある。敵を作るのを嫌って,白黒をはっきりさせず,落としどころを考える。村落の思考法であり,「一度も植民地になったことがない日本人」*の感覚でもある。(*デユラン・れい子著,講談社)

 

 だが,今や村落は臨界に達していて,家族は核分裂し,都会には隣人を知らない集団が形成されている(一度も植民地になったことがない日本であるが,戦後の半世紀余りで精神的に植民地化されたように思える)。ならば,固有のDNAを大事にしながら,「地平線を見つめて行動する確固たる姿勢」が必要だろう。

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運が良かった? 南米の車社会は事故と紙一重

2012-06-14 16:40:29 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

海外生活で思うことは,「交通事故には遭いたくない」ということだ

スピードは出す,我先にと交差点へ侵入する,運転免許証交付も簡単,車検がなくオンボロ車が走っている,道路が穴だらけ(最近は良くなった)と揃えば,誰でも心配というものだろう。

それでも車がないと不便なため,車を運転することになる。

 

30年前アルゼンチンで暮らしたときは,INTAの公用車(フォードピックアップ)の使用提供を受けていたが,10年前とその後のパラグアイでは車を購入して運転した。1台目はトヨタカローラ,2台目はニッサンプリメラを選んだ。6か月滞在したときはスズキ車をレンタルした。パラグアイでは,ドイツ車,日本車,ブラジル車,アルゼンチンで製造するアメリカ車等が輸入されていたが(2005年頃から韓国車が出てきた),故障が少ない日本製は人気で帰国時に販売しやすいためである。

 

車の運転で日本と南米の大きな違いは,右ハンドルと左ハンドルの差であろう。つまり,日本では車が左側走行のため右ハンドル,南米では右側走行のため左ハンドルに決められている(何故そうなっているかは,追い越しの場面を想定してみればどちらが安全かすぐわかる)。

 

この違いに馴れるまでは,かなり神経を使う。一つは,交差点に入るとき車線を間違いやすいこと,二つはチエンジレバーの位置が左右逆になることだ。左手を使うか,右手を使うか,帰国した時も同じ戸惑いを覚える。注意していればどうと言うことでもないが,会話に気を取られたりすると脳は古い記憶で判断しがちである。

 

見聞と体験から察するに,事故が起きるのは以下のようなケースが多い。①追い越し,対向車のスピードを見誤る(一般道路でも120km/h以上で走っていると知れ),②二重追い越し,後続車のスピードを見誤る,③前の車の急停車(ブレーキ灯が切れていることもある),④交差点事故,優先道路も信用できない,⑤週末や夜間は飲酒運転が多い(酔っ払いが道路にいることもある),⑥前の車の荷物落下やタイヤの脱落(再生タイヤのゴム離脱は多い)等々である。

 

月曜の朝,「どこそこで死亡事故があった」と通勤途中の町の名前を聞かされることが幾度となくあった。週末事故の典型例であった。

 

また,大豆や小麦の収穫時期には大きなトレーラが穀物を満載し,次々と走っている。登り坂などでは極端にスピードが落ちる。この時,無謀に追い越しをかける車もあって,危険度が増す。ロマーダで撥ねたトレーラから零れた大豆が道路一面にあるのも危ない。運転手はノルマで働くので,収穫時期は要注意の季節であった。

 

しかし考えるに,南米の運転は乱暴だが,総じてドライバーのスキルは高いといえる。更に,危険なところは注意するとの経験則が生きている。例えば,国道はスピードをだして走る車が多いので,国道への侵入には細心の注意を図る。国道から外れる時も後継車に注意を怠らない。特に左折(日本でいうなら右折)の場合は一端路外にはずれて直角に道路を横切る。

 

日本から派遣された専門家や駐在職員の交通事故の話はよく耳にしたが,幸いなことに7年間事故に遭わなかった。ハッとすることはあったが,運が良かったと言うべきかもしれない。 


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ところ変われば,ロマーダで車のスピードを落とせ

2012-06-13 14:31:03 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイの国道を走っているとロマーダ(lomada, 小さな丘)と呼ばれる道路上の隆起物に驚かされる。町の出入り口や人家の付近に設置され,車のスピードを落とさせるためのものだ。スピードを落とさないで走り抜けようとすれば,車は跳ね上がり,次の瞬間路面にドスンと叩きつけられる。

道路に直角に帯状の山が作られているが,中には凹状のものもある。その手前には標識があって,運転者に知らせるようになっているが,時には倒れ,夜間には標識が見えなくて,飛び跳ねることもある。道路事情をよく知らない地方を走るときも,注意していないとロマーダで跳ね上がり,事故になることがある。

 

この方式は,アルゼンチンやブラジルでも見たので,多分南米諸国に共通するものだろう。「スピードを落とせ」と標識を立てれば良いようなものだが,ラテンの国の運転作法を見ていれば標識なんか全く役に立たないことも明白。兎にも角にも,物理的にスピードを落とさせるしかないのだ。村上春樹の「辺境・近況」(新潮文庫)を読んでいたら,メキシコのトペ(tope, 車止め・バンパー)の話が出てきた。呼び方は各国で違うようだが,ラテンの国で考えることは同じだ。

 

パラグアイのニュースで,

日本でも通学児童の列に車が突っ込むような悲しい事故が起きている。迂回路である狭い道路を,制限スピードを超えて走る車が多いのだそうだ。紳士の国日本でも,標識を認識できない若者や小母さんが増えている。

 

いっそのこと,物理的にスピードを抑える手段を導入したらどうだろう。走りにくくなること間違いない。北国では,「除雪できない」と苦情が出ることも請け合いだ。

 

・・・市長は公邸前のロマーダが邪魔でしょうがない。公邸に入るたびにスピードを緩めなければならないし,うっかり飛び跳ねて自慢の外車に傷がつく。早速,撤去を命じた。・・・ところが数日後,スピードオーバーの対向車と事故を起こしてしまう。市長は命じた。やっぱりロマーダは必要だ,再設置せよ・・・

 

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ところ変われば,南米人の気質

2012-06-12 10:00:20 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の国々,例えばブラジル,アルゼンチン,チリ,パラグアイ,ボリビア,ウルグアイは,日本から見ると大同小異と思いがちだが,我々が想像する以上にいろんな面で差異が大きい。経済的に同一圏として深い繋がりはあるが,経済力に差があり歴史的な背景も異なるため,国民性や文化に独自性がみられる。

アルゼンチンとパラグアイを比較してみよう

 

アルゼンチン人は陽気に,賑やかに喋りまくり,心の底で「田舎者のパラグアジョ(パラグアイ人)・・・」と振る舞う。パラグアイ人は相槌をうちながらも,「お喋り軽薄なアルヘンチーノ(アルゼンチン野郎)・・・」と考える。

 

例えば君がレストランに入ったとしよう。

 

アルゼンチンでは,モッソ(ウエイター)が席に案内し椅子を引きながら話しかけてくる,

「夕立が凄かったが,セニョーラ濡れなかったか。日本にもこんな夕立はあるか」

メニューを差し出しながら,飲み物の注文を聞き,

「これが美味しい,お勧めだ」と勧める。

 

一方,パラグアイでは,「今日は」とはいうものの,ほとんど無口だ。何回か通って初めて,「やあ,やあ・・・」と言うことになる。シャイな田舎者の感じだ。

 

この気質の差はどこから来たのだろう?

 

一つは,歴史と民族構成が影響していよう。アルゼンチンの場合は,ヨーロッパ移民を積極的に受け入れる「欧化政策」がとられ,原住民をアンデスの山奥に追いやり,ヨーロッパ人の世界を築き上げた。中でもイタリアからの移住者が多く,ブエノス・アイレスでは5人に1人,全国でも8人に1人がイタリア系だという。

 

一方,パラグアイでは先住民族グアラニイ族とヨーロッパ人の「混血」が大半を占め,今では混血が95%を超えている。更に,パラグアイは隣国との長い戦争,「鎖国政策」を採っていたことも独特の文化・気質を築いた理由だろう。

 

アルゼンチン人は仕事が終われば家にまっすぐ帰り,家族でお茶をし,夕食は家族揃ってとるのが普通で,パーテイも夫婦や恋人同士でと言うのが一般的。一方,パラグアイ人は帰りしなに男同士でビールを飲んでいることが結構多い。

 

パラグアイで日系のご婦人が話すのを聞いた。

「パラグアイの男は日本の男に似ている。仕事の帰りに酒は飲むし,それに立小便をする」

「ん? 立小便・・・」

確かにそうかもしれない。パラグアイでは,車を止めて立小便している姿をよく見かけた。国道沿いに施設が整っていないこともあろうが,辺りを全く気にしている様子もない。

 

「いや,アルゼンチンの男だって立小便するよ」

ただ一回の体験を思い出しながら抗弁してみた。

それは,男同士で出かけた仕事の帰り,夕闇が迫った町はずれの道路わきでのこと。同行の紳士が薄暮の原野に向かって言った。

 

「大地に尿素を施そう・・・」

何をするにせよこの国の紳士にとっては「言葉」が必要なのだ。

声の主は,土壌肥料学専門のインヘニエロ(技師)だった。

 

 

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エンパナーダとチパ

2012-06-11 17:11:59 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

南米の食べ物の話を続けよう。今回は軽食について・・・

仕事を終えて家に帰る頃,日本でいえば「夕食にしましょうか?」と言う時間だが,南米では軽い食事とお茶になる。何故なら,夕食は9時過ぎから始まるのが一般的で,レストランや食堂も夜は9時過ぎにならないと開店しない。週末だと夜の10時過ぎに客が入りだし,夜が更けるまで食事を楽しんでいる。

 

さて,夕方のお茶の時間(トマ・テイ)に食べるのは,アルゼンチンではエンパナーダ(empanadas),パラグアイでいえばチパ(chipá)が代表的なものだろう。

 

エンパナーダは餃子を大きくしたようなミートパイで,オーブンで焼いたもの(empanadas al horno)と揚げたもの(empanadas furitas)の二種類がある。中身の具もいろいろあったて,ひき肉(carne),鶏肉(pollo),ハムとチーズ(jamón y queso),ひき肉にゆで卵干しブドウ入り(criolla),トウモロコシのホワイトソース味(humita)など。店で注文の時は,具の中身を指定する。

 

チパは,マンジョカの粉(アルミドン,タピオカ粉)にチーズを混ぜて作る。もちもちした食感の一口サイズのパンだ。腹持ちが良い。パラグアイでは,食事時間になると長距離バスの中まで売り子が乗り込んできて販売する姿をよく見掛ける。手籠にチパ,マテ・コシード(マテ茶)をポットに入れて販売している。また,町の中でも休日の朝などは自転車に籠を積んで,「チパ,チパ・・・,出来立てだよ・・・」と呼びながら売り子が歩く。

 

エンカルナシオンに住んでいた頃,階上の老夫婦がベランダから売り子を呼び止め,チパを買うのをよく見掛けた。何しろ我が家の窓の外を,ひもを付けた籠が上下するのだ(お金を入れた籠をおろし,チパが入った籠を引き上げる)。

 

 

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