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伊豆の人-10,下田生まれの儒者 「石井縄斎(中村縄斎)」

2014-03-17 18:15:10 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

 「石井縄斎」(1786-1840)もまた伊豆下田生まれの儒学者である。江戸時代後期の寛政から天保の頃,駿洲田中藩(現藤枝市)本多家の儒臣として藩校日知館の創設にかかわり,漢学師範を務め,多くの俊才を世に出したことで知られる。

◆天明5年(1786),伊豆下田に生まれる

諱(いみな)を耕,字(あざな)を子耕,俊助と称し,後に頼水または佛塢と号した。初姓は土屋氏,後に中村氏を名乗る。父は淡翁と呼び,医を生業としていた。

山本北山(儒学者)に師事する

幼くして父の業を継ぐが,学を好み,江戸に出て山本北山(江戸中期の儒学者1752-1812)を師とし,経学(儒教の経典解釈学)を修める。

◆駿洲田中藩本多家の儒臣となる

学成り諸藩より招聘されるが,田中藩の奥田笠庵と親密であったこともあり,駿洲田中藩第10代藩主本多正意に招かれの本多家の儒臣となる。文化11年(1814),縄斎28歳のことであった。姓を石井と改める。

◆幼少の「恩田仰岳」を教える

分化12年(1815),隣に住む英知にも悪戯にも秀でていた仰岳(7歳)の利発さに感嘆し,「この子に兵学を学ばせたなら,必ず大用をなすであろう」といって,諱と字を与えたと言う。恩田仰岳は7歳から19歳までの13年間縄斎の下で学んだ。文政10年(1827),19歳の仰岳は縄斎の勧めで兵学習得の命を負い,江戸に出る。

文政7-10年(1824-1827),江戸の昌平坂学問所へ留学

藩校日知館の創設にかかわり,漢学師範として経学を講じる

藩校日知館の創設にあたって中心的な役割を果たし,漢学師範として経学を講じる。門下から恩田仰岳(兵学),熊澤惟興(漢史学・国学),佐竹(槍術)など多くの逸材を輩出している。

なお,日知館は,駿府城の西の守りとして田中城を居城に地域3万石を治めた本多家が,天保8年(1837)本多正寛の代に文武教育を目的に開設した藩校で,東海道文武の関門として名を馳せ,水戸の弘道館と並ぶ天下の関門であった。

◆臼井氏を娶るが嫡子なく,奥田笠庵の子述,「巻吉」を養子とし家を継がせる

◆天保11年(1840)病死,藤枝市円妙山大慶寺(藤枝4-2-7,田中藩主の菩提寺として庇護され,境内には歴代田中藩主や漢学者石井縄斎,国学者熊澤惟興等の墓碑があるに眠

田中藩に勤めること27年,享年55歳であった。天保11年といえばペリー黒船艦隊が来航する13年前,幕末の激変を目にすることなく没したことになる。藤枝市円妙山大慶寺に眠る。

なお,1868年(明治元)戊辰戦争によって江戸城が開城されたのに伴い,明治政府が徳川氏を静岡藩主とする処置をしたため,田中藩は安房へ移封された。

◆弥治町の土屋俊助はその裔である

下田の栞(下田巳酉倶楽部1914)によれば「土屋俊助はその裔」とあるが,詳細は分からない。

 

先に,本ブログ(2013.2.6)で紹介した「中根東里」(1694-1765)と同じく「石井縄斎」(1786-1840)も同じく下田生まれの儒学者ある。「縄斎」は東里」より一時代遅れの江戸後期に活躍している。ペリー黒船艦隊が来襲し,下田が開港される前の奥伊豆といえば,風待ち船で賑わい多くの情報がもたらされるものの江戸からは遠い片田舎であった。若い「縄斎」や東里」が,江戸に出て学問を修めたいと考えたことは想像に難くない。

二人を比べてみると,「東里」の生き様は波乱万丈,清貧に生き,見事なまでに無私を貫き,天才詩文家として広く称賛された。一方「縄斎」は本多家に仕える道を選択したが故に平穏であったと言えようか

「縄斎」の師である「北山」は,秀でた才能を持つが直情型の激しい気質で,仕官は卑職であると生涯職に就かなかったほどであるが,「縄斎」は生涯本多家家臣として過ごしている。そのためか,北山門十哲の中に名前が上がることもなかったし,逸話も殆ど残っていない。

だが,「縄斎」門下から多くの逸材が輩出していることを考えると,彼には良き師(教育者)たる資質があったのかも知れない。

参照:下田の栞(下田巳酉倶楽部1914),藤枝市史通史編など

 

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