豆の育種のマメな話

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縄文人ですか? 弥生人ですか?

2014-06-24 16:57:42 | 講演会、学成り難し・・・

縄文人はどこから来たか?

20146月の或る日,カリンバの会・恵庭市郷土資料館主催による講演会「縄文人はどこから来たか? アジアの人類史から探る縄文人のルーツ(松村博文)」を聴講した。

 「骨は多くを語る」と言うことなのか。遺跡から発掘される人骨の形態比較研究から,また近年はアイソトープやDNAによる解析などにより,人類の歴史について多くの知見が得られている。

考古学に関して全くの素人だが,松村教授の話に「なるほど」と頷く点が多かった。氏の講演資料を参考にしながら,恵庭の昔を偲んでみよう。今の世の雑念を忘れ,「私たちの祖先は何処から来たのか」夢を追うのも面白い。

 

◆縄文人

全国の縄文遺跡(約3,000年前)から発掘された人骨を調査した結果,北海道から沖縄までほぼ同じような顔立ちの人たちが住んでいたことが明らかになっている。縄文人と称される人々である(原アジア人の後代か?)。

縄文人の特徴は,現代人に比べて,頭が大きく,顔は上下に短く寸詰まり,頬骨が外側に張り出し顔幅は広く,眉間が盛り上がり鼻の付け根は深くくぼみ鼻骨は高く凹凸が激しく,眼窩は横に長く角張っている特徴を有していると言う。すなわち,眼は大きく,二重まぶた,発達した耳たぶ,髭が濃い特徴がある。総じて,目鼻立ちがはっきりし彫りが深い顔と言えようか。

また,小柄であるが腕や脚の筋が強く発達していて,狩猟や漁労に適した屈強な体格を有していた。アイヌ民族,琉球民族に似ている。

 

◆渡来系弥生人

紀元前300年頃になると,稲作農業と金属器の文化が大陸から西日本に伝わり,急速に東日本まで広まった。この文化をもたらしたのは大陸からの渡来民で,渡来系弥生人と称される人々である。その証拠に,北部九州や山陰地方の弥生遺跡から出土する人骨は明らかに縄文人とは異なるタイプである。そして,渡来弥生人の人骨は水田が可能な平野部を中心に広まっている。

渡来系弥生人の特徴は,縄文人に比べ,顔の骨は上下に長く,鼻の付け根は窪んでおらず,鼻の骨も平べったく,眼窩は角張らず丸い特徴があると言う。面長のっぺり顔,瞼は良く発達し,眼が細く,唇は薄く,髭も少ない。歯が大きく,前歯はやや出っ張っている。

身長は縄文人より高く,前腕やひざ下の脛の部分が相対的に短い,縄文人に比べいわゆる胴長短足体型と言われる(アフリカで発生したホモサピエンスが寒さの厳しい北方コースを辿る過程で,寒さに耐えるよう進化したのではないかと推察されている)。渡来系弥生人は近畿地方で頻度高く発掘されており,関東では縄文人と混在して発掘される。

 

それでは,どの位の人数が渡来したのだろうか? 弥生時代の初め(紀元前三世紀)から古墳時代の終わり頃(七世紀)まで約1,000年の間に,100万人規模の人々が中国大陸や朝鮮半島から渡来したのではないかと推定されている(この間,大和国の人口は10万人から500万人に増加)。この頃,渡来系と縄文系人口は逆転している。

頭骨,歯の形,血液型,DNAの解析など多くの研究から,日本人は渡来系と縄文系の人々が73くらいの混血で成り立っているのだと言う。

 

◆オホーツク人

一方,北海道のオホーツク沿岸には,縄文系でも弥生系でもない人々が五世紀頃に渡来し,オホーツク文化圏を形成していた。遺跡から見つかっている人骨は,縄文系や弥生系とは全く異なり,面長で鼻の付け根が平べったく,顎が頑丈で大きい特徴がある(凍った肉をかじったり,皮を剥いだりと顎や歯を酷使したのだろう)。この骨格は,ロシアのアムール河流域に住むウリチやナナイの人々に似ている。

この時代,北海道の大半には縄文人(アイヌ民族)が住んでいたが,十世紀を過ぎる頃アイヌの人々の勢力が強くなると,オホーツク文化の人々は忽然と姿を消している。

 

◆日本人のルーツ

現代日本人の顔つきは多様である。この変異は縄文人と渡来弥生人の混血比率の差によるものだと考えられている。渡来系の人々は近畿地方を拠点に大和朝廷を築き繁栄を誇ったことから,今でも関西には弥生系が多い。関東から東北へ,或いは九州から沖縄に行くにつれ縄文系の血が濃く残っていると言われる。一方,北海道(水田稲作が適さなかった)や沖縄では,縄文人が純血のまま環境の影響を受けながら変化し,アイヌ民族や琉球民族になったとする説がある。

日本人の成り立ちについては諸説あり,論争が長く続いている。しかし,西日本「渡来説」,東日本「混血説」,日本列島両端で「変形説」との考え(二重構造モデル)が妥当なところかもしれない。

その後,人類の行動範囲は拡大し血も複雑に混じり合っている。今やルーツを語ることは無意味かも知れない。が,「縄文人系か弥生人系か」と顔立ちを眺めてニヤリとする瞬間があっても良いか。

 

◆カリンバ遺跡

カリンバ遺跡は縄文時代から近世アイヌ文化期にかけての遺跡で,恵庭市黄金地区,JR恵庭駅北方(約800メートル)にある。平成173月国指定の史跡で,面積4.26ha。カリンバとはアイヌ語で「桜の木の皮」と言う意味,カリンバ川が流れていたことによる)。周辺は開発が進み新興住宅地や商業地となったが,遺跡は緑に覆われ保存されている。

恵庭市は整備計画策定を進めているが,その進捗状況は順調と言えるだろうか。経過は,平成11年建設工事に伴う発掘調査,平成12-15年分布調査を経て,平成206月整備基本構想策定,平成233月遺跡保存管理計画を策定,整備基本計画策定作業進行中(恵庭市HP2014.6.19)とある。

この遺跡土坑墓群からは,赤漆を塗った櫛・腕輪などの装身具,漆製品,玉,土器など多数副葬品が出土している。縄文時代後期(約3,000年前)の技術の高さ・埋葬方法の実体を知るうえで貴重なものであることから,文化審議会において出土した副葬品類397点を国の重要文化財に登録するよう文部科学大臣に答申された(平成18317日)。

 

散歩の途中,恵庭市郷土資料館(恵庭市南島松157-2)に立ち寄った。カリンバ遺跡展が公開されており(添付写真は郷土資料館と同パンフレット),一見の価値がある。また,「カリンバの会」と郷土資料館は遺跡の保存に向け熱心な活動を続けている。市民の意識が高まることを期待したい。

参照:松村博文「縄文人はどこから来たか? アジアの人類史から探る縄文人のルーツ」講演会資料2014.6.8,恵庭市HP2014.6.19

 

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伊豆の人-12,「写真師・鈴木真一」(下岡蓮杖の弟子)が晩成社移民団出立の記念写真を撮った

2014-06-02 13:43:47 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下岡蓮杖の門下には,出藍の誉れ高い写真家が多く誕生しているが,「鈴木真一」もその一人である。なお,本稿で取り上げる,下岡蓮杖・鈴木真一・依田勉三はいずれも伊豆の人,同郷の繋がりが歴史を彩っている。

◆鈴木真一略歴

斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007)を参考に,鈴木真一の略歴を辿ってみよう。

 

鈴木真一(幼名勇次郎)は,天保6年(18354月,伊豆国賀茂郡岩科村字岩地(現・松崎町)農家・高橋文左衛門の三男に生まれた。安政元年(1854)下田の鈴木與七の婿養子となったが,折しも下田を襲った大津波(東海大地震)で財産を失ってしまう。

被災者たちの多くは,安政6年(1859)横浜が開港されると横浜に移り住むが(横浜野毛,弁天通五丁目に下田出身者が多かった。震災から立ち直りかけた矢先,海外への窓口が下田から横浜に移ったため気鋭な人材の多くが横浜に向かった),鈴木真一もその中の一人であった。蚕卵紙の仲買をしていたとも伝えられるが,慶応2年(1866)同郷のよしみから下岡蓮杖の門を叩き,写真の修業に励んだ。そして,明治6年(187311月独立して,弁天通六丁目に「鈴木写真館」を開業。真一と改名する。同年,蓮杖門下の後輩であった岡本圭三(群馬県出身)を婿養子(長女のぶと婚姻,圭三は後に二代目真一を名乗る)に迎えた。

開業後の鈴木真一は,肖像写真の撮影,日本の名所や風俗の彩色写真販売,陶磁器への写真焼き付けに成功し,明治17年には真砂町に写真館を新築移転している。「横浜創設水道事業の記録写真」や「明治初期ニ於ケル横浜及び其附近写真」を残すなど,当時一流の写真家として認められるようになった。

明治30年(1897)長男伊三郎に家督を譲り隠居生活に入る。大正7年(1918)逝去。

なお,宮内庁御用達として明治天皇の母英照皇太后及び皇后陛下を撮影したのは,二代目鈴木真一である。

◆鈴木真一は,依田勉三の叔父

岩科村字岩地(現・松崎町)の高橋家は,伊豆国那賀郡大沢村(現・松崎町)の旧家依田家と姻戚関係にある。すなわち,依田佐二平や勉三の父である善右衛門が高橋家から文(ぶん)を娶っている。この「文」が鈴木真一(幼名勇次郎)の姉にあたる。

北海道開拓の夢を抱いて十勝へ出立する依田勉三は,当時横浜で写真館を営んでいた鈴木真一の所に寄宿し準備を進め,「晩成社」移民団も出発直前に集合し記念写真を撮っている。

◆鈴木真一,依田勉三と鈴木銃太郎の写真を撮る

晩成社の設立を見届けた依田勉三は,明治15年(1882429日北海道における入植地を決めようと大沢村を出発。前年に続く再度の北海道である。59日には静岡県庁に出向き北海道開墾に関し願書を提出,10日横浜に着いて弁天通りの鈴木氏宅に投宿,61日に鈴木銃太郎と「九重丸」にて横浜を出港した(勉三日誌から)。

ここで,勉三が横浜に出てから出発(61日 )までの宿舎としたのは,鈴木銃太郎の実家ではなく,勉三の母方の叔父(母・文の弟)である鈴木真一が営む写真館であった。また,勉三と銃太郎が出発直前に記念撮影した写真が帯広百年記念館に保存されているが,鈴木写真館で撮影されたものと推察されている。勉三29歳,銃太郎26歳であった。

この北海道視察で十勝平野の中心部オベリベリ原野を開拓地と決め,同行の晩成社幹部・鈴木銃太郎は単独越冬することになる。

◆鈴木真一,渡辺勝とカネの婚約写真を撮る

晩成社幹部・渡辺勝とカネの婚約記念写真(帯広百年記念館蔵)も横浜弁天通り鈴木写真館で撮影されたことが,「渡辺勝・カネ日記」に記載されている。

11日:晴。横浜鈴木真一君方に止宿し居る。前10時東京行き汽車に乗し東京西久保葺手町ワッデル教師方に至る。

12日:晴。日本橋辺に書籍等を求む。夜ワッデル方に泊す。

13日:晴。須藤氏,石川氏と遊歩し,九段鈴木氏方にて写真を撮り,ワッデル方に泊す。

14日:後4時汽車にてワッデル氏と共に横浜に至り二百拾二番女学校長クロスビー氏を訪う。これ余と鈴木氏の縁談の事に付きてなり。晩飯を供せらる。夜鈴木親長君方に泊す。

15日:前諸店にて農具器械を問い合わす。鈴木真一君方に至る。後鈴木氏と写真を撮る(作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」から一部引用)。

ここで,「九段鈴木氏方」とは横浜の鈴木写真館の東京支店(明治14年,東京へ進出),「鈴木親長」とは銃太郎・カネの父親,5日付の「鈴木氏と写真を撮る」の鈴木氏は婚約者の鈴木カネである。

◆鈴木真一,晩成社移民団の出立記念写真を撮る

晩成社移民1327名は,明治16年(1883410日横浜港を出港した。その直前,49日と10日に撮影された集合写真が帯広百年記念館に保存されている。

勉三の日記から,集合写真は明治164910日に鈴木写真館で撮影された)。

49日:今明両日をもって写真師鈴木氏に乞い願い影を写し,1名を1号となして総員27名なり。

410日:午後,皆汽船高砂丸に乗りて6時に横浜を出でたり(作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」から一部引用)。

出発直前の慌ただしさの中での記念撮影であったのだろう。集合写真は日を変えて2枚存在する(一枚には進士五郎右衛門・文助の2名が欠け,二枚目には吉沢竹二郎が抜けている)。

異なる分野であるが歴史に名を残した同郷の鈴木真一と依田勉三は,明治の一時期に横浜で接点があった。これも歴史のドラマと言えようか。

歴史の中で,「同郷の絆」がしばしば顔を見せる。

5月下旬のある日「下田開国博物館」を訪れ,鈴木真一が新しく成功した「陶磁器への写真焼き付け」とはどのようなものか見ることが出来た。陳列されているのは,生家の高橋家に残された「自身の肖像と履歴を焼き付けた骨壺」だと言う。淡い存在感,注意しないと見落としてしまうかもしれないが,これも歴史の証言者。

下岡蓮杖と鈴木真一を辿る旅は,日本写真黎明期を知る端緒となった。次は,横浜場所道通りを歩き,帯広百年記念館を訪ねてみるか。

参照:作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」帯広百年記念館紀要192001),斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007), 肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009


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