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恵庭の歴史びと-1 「飛騨屋久兵衛」

2023-05-16 11:56:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「飛騨屋久兵衛」 立ち位置で変わる歴史評価

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。今回は「飛騨屋久兵衛」。

飛騨屋久兵衛は、江戸時代の蝦夷地で4代にわたり木材伐採事業および場所請負人として活躍したことで知られる。「恵庭年代記(恵庭市1997)」によれば、「・・・飛騨屋がイザリ川の上流空沼岳東山麓など石狩の山林でエゾ松の伐採を始めたのは宝暦年間(1751-63)のこと。イザリ川からは、春の雪解け水を利用して石狩川の河口まで流走し、船で江戸・大坂まで運送。この飛騨屋武川久兵衛は三代目で・・・」とある。

このように、「飛騨屋久兵衛」とは飛騨国湯之嶋村の武川倍行(武川家四代目)が蝦夷で木材商を始める際に名乗った名前で、武川倍行(初代久兵衛)、倍正(二代目久兵衛)、倍安(三代目久兵衛)、益郷(四代目久兵衛)と4代に渡り継承された。

恵庭史に登場するのは三代目倍安であるが、初代倍行も蝦夷地の山々を調査しているので恵庭の地で漁川上流の樹林を眺めたかも知れない。

(1)飛騨屋久兵衛の出自

永禄4年(1561)、飛騨屋の始祖「倍紹(ますあき)」は甲斐国武川庄に生まれる。武田氏の家臣として仕えるが、勝頼が信長・家康の連合軍に敗れて武田家が滅亡すると、倍紹は天正11年(1583)飛騨国湯之嶋村(岐阜県下呂市)へ逃れて村長の養子となり武川姓を名乗る。二代目倍国(ひろくに)、三代目倍良(ひろよし)もこの地に住み農業を生業とするが、飛騨国は飛騨川沿いの山間地であったため人びとの暮らしは林業に依存していた。

(2)初代飛騨屋久兵衛 倍行(ますゆき)

武川家四代目「倍行」は倍良の嫡男として生まれ23歳まで湯之嶋村で過ごすが、飛騨は過度な伐採による木材資源の枯渇や年貢の高騰で経済状況が悪化したため、元禄9年(1696)倍行は弟藤助を伴って江戸での他国稼ぎを決意。江戸では紀州商人木材問屋栖原角兵衛と出会う。

倍行は、元禄13年(1700)奥州南部大畑(現青森県下北郡大畑町)に活動拠点を設け、木材商飛騨屋を開業し初代久兵衛を名乗る。しかしこの頃、下北半島のヒバ伐採事業は最盛期を過ぎており南部藩が規制を強化、新規参入者の事業展開は厳しいものがあった。

倍行、藤助は元禄15年(1702)新天地を求め、松前福山(現北海道松前郡松前町)に店をかまえ、松前藩の許可を得て尻別山の木材や海産物を廻送する事業を始めるとともに、蝦夷地の山々を調査。

享保3年(1718)臼山(有珠山)の山林請負を願い出て(請負人山田庄平、金本飛騨屋久兵衛)、本格的に木材伐出を始める。当時の北海道は松前を中心とした道南の一部が開拓されているのみで未開の原野。臼山流域から始めた伐採の請負を、その後沙流~厚岸、石狩~天塩へと広げると共に、海産物、米、酒の交易などへ事業を拡大。郷里下呂に本店を置き、大畑、松前、京都、大阪に支店を置いて精力的に活動。享保13年(1728)郷里に近い下原村(現益田郡金山町)で55歳の生涯を終える。

(3)二代目飛騨屋久兵衛 倍正(ますまさ)

初代久兵衛の甥にあたる倍正が二代目を継ぐ。寛保2(1741)年に45歳で逝去。わずか十年余りだったが、初代が請負った山林の伐採を進める一方、新たな場所の木材伐出搬出事業を展開するなど、家業の拡大に尽力。

(4)三代目飛騨屋久兵衛 倍安(ますやす)

三代目久兵衛を継いだのは息子の倍安(その時7歳、後見役に今井所左衛門)。飛騨屋の事業は順調で、石狩山(漁川上流など)の伐採事業を請け負ったのもこの時代であった。

最盛期には日本を代表する豪商のひとつに数えられるまでになった飛騨屋だが、使用人の不正(大畑店支配人南部屋嘉右衛門が松前藩の役人と結託して飛騨屋の請負場所を奪おうとした)、松前藩による圧力などにより伐採事業からの撤退を余儀なくされ、事業に陰りが見え始める。

かわりに場所請負による交易に活路を見出そうと、安永3年(1774)奥蝦夷地4場所を請負い、国後交易を始める。しかし、国後の乙名ツキノエとのトラブル、ロシア人南下による情勢変化に翻弄され莫大な損害が発生。また、元支配人による妨害があり幕府に控訴するなど、晩年は困難な事件に直面。

(5)四代目飛騨屋久兵衛 倍郷(ますさと)

天明2年(1782)倍郷16歳で第四代久兵衛を名乗り、父の代に傾きかけた家運を立て直すべく奮闘。しかし持船の遭難、松前藩による場所直接経営の開始、国後の乱(クナシリ・メナシの戦い)など、飛騨屋にとってはさらに苦難が続く。寛政3年(1791)福山や大畑の支店を閉じて、飛騨へ引き上げる。郷里へ戻った倍郷は名主を勤める傍ら、材木運送を手がけるなどして文政7年(1824)借財の整理を終える。

飛騨屋四代にわたる活動を物語る文書・文物は武川家に伝えられてきたが、岐阜県歴史資料館へ寄託され『武川久兵衛家文書目録』として整理されている。

(6)飛騨屋最盛期の「石狩山請負」

石狩山とは石狩川の流域、背後に連なる山々を総称していた。中でも豊平川、漁川上流一帯の山々は、宝暦年間に飛騨屋の木材生産重要拠点であった。宝暦年間石狩山伐木地図(岐阜県歴史資料館蔵、北海道大学付属図書館に模写絵図蔵)には、石狩川本流・支流、背後の山々とともに飛騨屋が木材伐採を行った場所が書かれている。

絵地図を見ると、石狩川河口部に「山方運上屋」「木場」「弁財天」があるので、この場所が切り出した木材を集積し取引する拠点であったのだろう。

石狩河口からは「山方道」が川筋に沿って描かれている。この道はサッポロ川(豊平川)に沿って遡る道、イシャリ川(漁川)に沿って遡る道があり、勇払に通じるシコツ道も描かれている。秈夫や人夫は山方道を通って入山したのだろう。 

サッポロ川の支流オショシ川(精進河)流域の道路脇には、「十文字小屋」「コメ倉」「中小屋」「秈小屋」「コメセホイ小屋」など作業関連施設が置かれており、木材伐採のための作業拠点だったと思われる。さらに奥深く進んだ「サッポロ川」と「イシャリ川」の上流部が接近する地点に「カジ小屋」「釜小屋」「元小屋」があり、当時の木材伐採の最前線であったことが伺える。

また、イシャリ川とサッポロ川に「川流し道」の記載があり、両河川を利用して木材が流送されていたことを示している。伐採し一本ずつ流していた材木を「留場所」「イカダ繫場所」で筏に仕立てて河口まで運んでいた様子が伺える。

地蔵慶護氏(元北海道森林管理局)によれば、イシャリ川上流に記載されている「此処一里余谷渕也」は現在のインクラインの滝、恵庭渓谷の地帯で、飛騨屋の作業関連施設「カジ小屋」「釜小屋」「元小屋」等が置かれていたのは、サマチャンペ沢(源流部が様茶平)で、様茶平から漁岳にかけた地帯は漁川流域一番の大森林地帯であったと言う。

(7)蝦夷地撤退を余儀なくされた「クナシリ・メナシの戦い」

寛政元年(1789)クナシリ島のアイヌ41人が一斉に蜂起し、松前藩の足軽、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人ら22人を殺害し、さらに襲撃は対岸のメナシ地方(標津 ・羅臼付近)に向い当地のアイヌも加わり和人49人を殺害した事件。

背景には、アイヌに対する過酷な労働強制、雇代の安さと未払い、アイヌ女性への性的暴力、宝物の搾取、松前藩足軽の脅しなどがあり、これに耐えかねたアイヌの蜂起であった。事態を知って松前藩は鎮圧隊を送り、殺害に直接関与した37人を処刑。

蠣崎波饗が描いた「夷酋列像」を博物館で鑑賞したことがあるが、モデルはこの戦いで松前藩に協力したアイヌのリーダーで、松前藩が藩の責任を逃れるために描かれたと言われる。

その後、幕府から辺地取締に怠慢ありと叱責された松前藩は、騒動の責任を飛騨屋に転嫁しすべての請負場所を取り上げる。飛騨屋はこれを契機に場所経営を断念せざるを得なくなった(損害は69,923両)。

「クナシリ・メナシの戦い」については多くの研究・論評があるので(三ツ木芳夫、村山耀一、河野恒吉、菊地勇夫、桑原真人ら)、詳細はそちらに委ねよう。

納沙布岬の墓碑「横死71人之墓」、アイヌの人々が中心になり根室半島ノッカマップで行う「イチャルパ」(供養祭)に接するとき、飛騨屋の歴史と共にアイヌの悲しい歴史が想い出される。

(8)飛騨屋久兵衛の評価

*蝦夷地の木材伐採事業、海産物の交易事業を通じ北海道開発に貢献したとして評価される。特に林業では、伐採後に一定の規格材に造材し徐々に谷近くに集め雪解け水を利用して流送するなど効率的・先駆的林業を展開。北海道林産業の先駆けとされる出身地の岐阜県下呂市(下呂温泉ふるさと歴史記念館資料)では、北海道開拓の先駆者と称える。

*一方、「クナシリ・メナシの戦い」に象徴されるように、アイヌへの過酷な労働強制、雇代の安さと未払い、アイヌ女性への性的暴力、脅迫など横暴な振舞いがあったことから、飛騨屋・松前藩によるアイヌ圧制の歴史として語り継がれる。飛騨屋久兵衛は三代目四代目になると、本人は本店にいて現地の事業を支配人や現地支配人に任せきりだったので、横暴行為をどれだけ認識していたか定かでないが責任は逃れられない。

歴史の評価は多様である。

【参照】1)平工剛郎「飛騨屋久兵衛」北海道出版企画センター2016、2) 下呂温泉ふるさと歴史記念館資料、3)根室市歴史と自然の資料館資料、4)地蔵慶護(元北海道森林管理局)「北の造材師飛騨屋久兵衛」千歳民報

 

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1 コメント

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Unknown (南部文衣)
2023-06-14 16:46:33
影ながらブログ拝見しております。
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