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万葉雑記 番外編 フェイクニュース 平安時代の沐浴について考える

2019年05月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外編 フェイクニュース 平安時代の沐浴について考える

 今回は万葉集にはまったく関係しませんが、人がある風説を思い込むと適切に古典原文が読解できなくなるのではないかという問題について、沐浴を例にとり、その風習と古典読解に遊びます。なお、扱うものは、一面、フェイクニュースが学説として定着した例となるものです。

 さて、平安時代の入浴や洗髪に関する記事を眺めますと、平安時代の貴族の女性はろくに風呂を使わないし、洗髪もしない。だから、垢だらけで体臭もひどかったと解説するものを見ます。ここで、結論を先走りますが、本旨結論は温浴による洗髪や体を洗う行為は週に1回強は行い、水浴の禊潔斎を含めると週に2から3回は水で体を清めていたと考えます。つまり、従来の説はある種のトンデモ論であり、フェイクニュースです。
 その専門家が行う入浴や洗髪に関する解説で平安時代の貴族の女性はろくに風呂を使わないし洗髪もしないと紹介する、その根拠として当時の貴族たちの日記や随筆を紹介します。そのような解説を調べてみますと、ネット上に大学教授の職にあった人のもので、平安時代の入浴を紹介するものとして、『源氏物語の謎』増淵勝一著 - 国研ウェブ文庫(http://kokken.onvisiting.com/genji/genji078.php)というものがあり、そこでは以下の様に入浴状況を解説します。

光源氏の時代は「湯」、つまり湯浴(ゆあ)み、行水式のものでした。浴槽に別に沸かした湯を入れ、水で調節して身体を洗うわけです。当時の天皇の浴槽は、長さ五尺二寸(約1.56m)、幅二尺一寸(約63cm)、深さ一尺七寸(約51cm)、その板の厚さは二寸(約6cm)と決まっていました(『延喜式』巻三十四)。
案外小さな浴槽ですね。たぶん後世のように、この湯船に天皇自身が入ることはなかったのではないかと思います。そこから汲み出した湯で身体をきれいにしたのでしょう。もちろん湯殿担当の女房たちが奉仕したはずです。
『土佐日記』には、船で上京の途中、女性たちが海辺で水浴みをしたという記事があります。また『紫式部日記』には後一条天皇が誕生したとき、寝殿の東廂に湯殿を設けて、産湯(うぶゆ)の儀式をしたことが記されています。
前述の「帚木」巻の空蝉が滞在している邸は前妻の子の紀伊守の新築の邸です。しかし湯浴みをしている所は「下(しも)」とありますので、湯殿はいわゆる寝殿造りの主な建物に付属して設けた「下の屋」(ふつうは敷地内の西北隅などに所在)にあったことがわかります。
なお、天皇の湯浴みする所は、清涼殿と後涼殿との間の朝餉の壺の北側の「御湯殿」です。清涼殿内にも、東北隅の御手水の間の北隣に「御湯殿の間」がありますが、これはお茶(お湯)を用意する所です。
『九条右丞相遺誡』によると、当時は五日に一回湯浴みをすることになっていたようです。毎月一日に湯浴みをすると短命になるとか、八日なら長命になるとか、亥の日は恥をかくとか、いろいろと日によって制約があったようです。女性の洗髪などは年に数回とされており、薫香類が尊重されたのもうなずけます。

 もっとものようにして受け取る記事ですし、増淵勝一氏は文学部教授にあった人ですから、記事は専門家のもののハズです。
 ここで、この増淵勝一氏の解説は標準的な解説であって、氏が特別に特異な説を唱えているわけでも、研究不足なわけでもありません。後半部分は単に巷のフェイクニュースを史実として信じ、それに合わせるように組み立てただけです。従いまして、以下の与太話や法螺話は特定個人への攻撃ではないことを御承知ください。

 話の始めに言葉の確認として、現在の「入浴」と云う言葉ではなく平安時代に使われる「沐浴」という言葉について、中国語ではその「沐」は頭髪を洗うこと、「浴」は身体を洗うことを意味します。従いまして、平安時代の沐浴とは温浴による洗髪を含む体を洗う入浴と考えるべきものとなります。平安時代の卜いや暦に示す沐浴日の沐浴とは洗髪を含む身体を洗うことを意味すると理解すべきものとなりますから、その沐浴日とは頭の先からつま先までを洗う日となります。このように言葉を解釈しますと、すでに現代人が考える入浴日と平安人が考える沐浴日に大きな相違が生じていると考えます。
 また、平安貴族は沐浴とは別に神事などに参集するときには水浴の禊潔斎を行っており、この禊潔斎は湯帷子を着て、水を肩に当てるような行水に近い形で行っていたとします。加えて女性特有のものとして宮中の女性は毎月の「月」に当たると宮からお下がりをし、自宅で御籠りします。そしてその「月」が終わった後には禊潔斎をして宮に戻る慣習があります。また、平安時代、身分が高い貴族の女性が外出する時は神事や仏事に関係する行事がもっぱらですから、その場面では当然に禊潔斎を済ましてのお出ましと云うことになります。水浴による禊潔斎は沐浴ではありませんが、湯帷子を纏った体を洗う行為としては同じになります。この禊潔斎は神道由来ですから卜いや暦の吉凶からの沐浴日とは別ものです。
 重要なこととしてこの神道で考える穢れには甲の穢れと乙の穢れがあり、原因由来である甲の穢れを他の人に遷し乙の穢れの許になることは忌諱行為です。従って、貴族の男性が禊潔斎をするのであれば、その男性に接する女性も同様な禊潔斎の態度が求められます。そこから女性が水で体を清めることなく垢だらけとか、体臭ぷんぷんと云う状況は有り得ないことになります。日本人の生活の根底には神道の風習・習慣がありますから、これを失念することは出来ません。
 さて、天皇は穢れという観点から生活行動が制限され、上半身と下半身とで穢れの区分があります。そのため、天皇もまた沐浴(禊潔斎)では上半身と下半身とを分ける必要があり、その沐浴では湯船に胡坐の形で下半身だけを浸け、上半身は女官により湯帷子の上から更湯を受ける形となります。下半身が触れたもの(例えば腰湯のお湯、御付きの女官の手、洗う絹綿など)が、天皇の上半身に触れることは忌諱です。ゆえに、その世話をする女官も穢れの規定から上半身専属の内侍と、下半身専属の女官とに明確に身分と担当が分かれていたと報告します。天皇は、毎朝、潔斎をするとの規定があり、同時に自身では自らの体には触れない規定がありますから、天皇の体などを洗うのは内侍や女官です。もし、御湯殿の中で急が迫った場合には内侍が対処するのが決まりで、それ相当の家柄の娘が任命されます。従いまして、天皇や貴族が使う湯船が現代人から見て小さいと感じるのは、社会風習と入浴方法が違うからです。
 その御湯殿は常の服装で居る上段の間、湯帷子からの着替えの一之間、湯船や湯を使う二之間による、水を使うことに由来する床の高さの差を持つ上中下段の三段構造だったと報告します。そのため、増淵氏が源氏物語から紹介する貴族の屋敷であっても湯浴みをしている所が「下(しも)」であるなら、天皇と同じような構造の湯殿で沐浴をしていたことになります。ここまでで、すでに従来に紹介・解説される平安貴族の沐浴のスタイルと本来のものとが違うことに気付かれると思います。もし、平安貴族が湯船にどっぷりと浸かるイメージで入浴を考えていますと、それは間違いです。
 さらに、困ったことに風呂ギライの平安貴族が残した記録などから生まれたトンデモ論により、湯殿と釜殿(かなえとの)が、ごちゃごちゃになって、お湯全般を沸かす場所である釜殿と沐浴する湯殿の区別がつかない人が出てきます。釜殿は女儒や下女と称される下働きが作業する場所で、天皇などの高貴な人のお目がかかるような場所でも、人たちでもありません。時に宮中や屋敷の内での恩賞の対象を上から下までと云う表現として、女儒・下女が働く釜殿までと云う言葉を使うことがありますが、だからと云って、釜殿で沐浴するのではありません。釜殿に据えられた釜で湯を沸かし、桶で湯殿に運びます。
 なぜ、このような入り乱れた話が起きたかというと、平安時代末期までは貴族階級は、まだ、湯殿を持ち、それを維持するだけの財力がありました。それが鎌倉時代になると湯殿を維持するほどの財力を失い、温浴の沐浴の風習を維持することが困難になったとします。鎌倉時代以降の都の貴族は、温浴による沐浴は親戚・縁者による共同維持のような形で運営し、利用者は薪を持ち寄って費用を分担することで温浴の沐浴が維持出来たとします。それも次第に湯殿自体を持つことが困難になったとします。そのため、鎌倉時代以降の貴族の生活や時代の主力となる武士の生活からでは、沐浴と云う風習、釜殿と湯殿との関係が判らなくなったとします。一方、宮中には応仁の乱以降の歴代の掌典や内掌典が書き残した生活に関わる記録が残っているそうで、そこには沐浴に係ることも書き残されているとします。

 温浴による沐浴の歴史を見ますと、奈良時代、中国から仏教や漢籍を通じて温浴が紹介され、仏教寺院の広まりとともに仏教修行の一つとして湯殿を建て、温浴が人々に知られるようになります。この温浴の風習と同時に中国の風習に従った沐浴に対する吉凶日というものも紹介されています。奈良時代では記録が少ないため実態は不明ですが、平安時代の貴族はこの輸入された風習である沐浴への吉凶を非常に気にしたと報告します。
 吉凶からしますと、十二支からは申、酉、亥、子が沐浴吉日、十二直からは除が沐浴吉日と定められています。他にも隋・唐初時代には毎月十日、二十日、三十日を休沐日と呼び、仕事を休んで沐浴する日とし、これをそれぞれ上浣、中浣、下浣と称します。小話ですが、この浣が旬と同じ意味を持つ言葉であったことから、現在、上旬、中旬、下旬と呼ぶようになりました。由来はこの隋唐時代の沐浴の規定に在ります。
 ちなみに増淵氏が紹介する土佐日記に載る水浴びの記事について、これは室津での停泊中、女性たちが船から海辺に降りて水浴びをした話題であり、その日付は承平5年1月13日です。この日は和暦表記では承平五年正月戌申と表記し十二支では申となり沐浴吉日ですし、船旅での制限された中では上浣に近い日にちとなります。もし、平安時代の貴族の女性はめったに沐浴をしないのが正しいのですと、では、なぜ、土佐から京の都に帰る船旅の途中でめったにしない沐浴をわざわざとしたのかと云う重大な問題が生じます。一方、日常的に吉凶を踏まえて沐浴をしていたとしますと、逆に暦からしますと納得となります。
 このような暦と卜いから定められた吉凶日は、奈良時代中期以降に使われていた日常的なカレンダーである「具中暦」中段に沐浴日というものとして記載され、人々はそれを見ることで吉凶日を容易に知ることができましたし、予定を立てました。現在、日本ではこれに類するものを知ることは困難ですが、台湾や大陸中国では現在も使われていて老黄暦、黄暦、農業暦などの名称で知ることが可能です。ちなみに老黄暦が示す2019年の沐浴吉日は通年で73日ありますが、吉日が連続することもあり、実質上、年間で約60日となります。ほぼ、1週間に1回強の割合ですので、ある種、日本の病院での入浴と洗髪の頻度に近いものがあります。お風呂とお湯の研究者は、平安時代の貴族は温浴の沐浴と水浴の禊潔斎とを勘案すると、洗髪を別として2~3日に一回は湯か水で身を清めていたと推定します。(『風呂と湯のこぼれ話』:武田 勝蔵) 加えて、平安時代の高級官僚の出勤は月に15日程度であったとしますから、『九条右丞相遺誡』に示すように5日に1回の割合で朝から沐浴をして髪を乾かせていても勤務などには支障がないことになります。ただ、下級の役人の勤務は月に25日程度だったとしますので、水浴びは別として自由時間などからの制限で沐浴は月に1回程度となるでしょうか。勤務関係、社会風習、吉凶関係などを勘案するとこのようになります。
 さらに江戸時代の出版物ですが古代の女性の風俗を研究したものに『歴世女装考』と云うものがあり、そこでは「宮中に勤める女官は子の日に必ず髪を洗うべし」と紹介し、その根拠として、「沐書曰、子日沐、令人愛之。卯日沐,令人白頭。」という文章を紹介します。これですと、洗髪は12日に1回の頻度となります。江戸時代の庶民にあっては月に1回程度だったとしますから、約3倍の頻度となります。
 なお、平安時代の高貴な貴族の女性がその長髪を洗髪する場合、朝から髪を米のとぎ汁(ゆする)で洗い清め、それを布で優しく水分を取ったら空気に曝して乾燥させ、その後、米のとぎ汁で湿らした櫛で髪を梳り調えると共に絹綿に取った香油で艶出しを行ったとしますから、一日がかりの大仕事です。そのため、女性特有の忌日や体調不良などと予定した沐浴吉日が重なりますと、一回、間が開く可能性があります。また、紫式部や清少納言など、自身の付き人をそれほど持たない女官は1ヵ月に3日の休暇を取り自宅休養の1日目に洗髪をし、2日目で天日干し、3日目で髪結い(梳りや香油などによる艶出し)をしていたと報告します。これは江戸庶民の洗髪の間隔と同じです。
 洗髪頻度の確認で大正期以前の日本の風俗を眺めますと、江戸時代の江戸の風呂屋ではその利用規定では洗髪は禁止されていたため、人々は月1回から2回程度、自宅でお湯を沸かして洗髪していたとします。つまり、当時の人々の感覚からしますと洗髪が月1回から2回程度の頻度が不潔かというと、それは違うようです。なお、日本人が頻繁に洗髪をするようになるのは1950年代から洗剤メーカーがシャンプーの本格的な販売を開始しその宣伝によるものであって、それまでは歴史的な風習ではないようです。それゆえ、洗剤メーカーが提案する洗髪頻度と皮膚科や美容専門家の推薦するものとが違うのでしょう。現代人はおおむね洗剤メーカーが提案する洗髪頻度から平安時代の頻度を評価します。
 ここまでに紹介しました平安時代の風習を確認して、古典文学などを眺めますと、どうも従来の解釈が正しいか疑問が出てきます。
 文学からは従来の平安貴族の女性が洗髪をほとんどしないという根拠を「源氏物語 東屋」に載る次の文章に取るようです。

原文:
夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば、女君は、御ゆするのほどなりけり。人びともおのおのうち休みなどして、御前には人もなし。
小さき童のあるして、「折悪しき御ゆするのほどこそ、見苦しかめれ。さうざうしくてや、眺めむ」と、聞こえたまへば、「げに、おはしまさぬ隙々にこそ、例は済ませ。あやしう日ごろももの憂がらせたまひて、今日過ぎば、この月は日もなし。九、十月は、いかでかはとて、仕まつらせつるを」と、大輔いとほしがる。

与謝野晶子訳
夕方に宮が西の対へおいでになった時に、夫人は髪を洗っていた。女房たちも部屋々々へそれぞれはいって休息などをしていて、夫人の居間にはだれというほどの者もいなかった。小さい童女を使いにして、
「おりの悪い髪洗いではありませんか。一人ぼっちで退屈をしていなければならない」
と宮は言っておやりになった。
「ほんとうに、いつもはお留守の時にお済ませするのに、せんだってうちはおっくうがりになってあそばさなかったし、今日が過ぎれば今月に吉日はないし、九、十月はいけないことになるしと思って、おさせしたのですがね」
と大輔は気の毒がり、若君も寝ていたのでお寂しかろうと思い、女房のだれかれをお居間へやった。

 文中、この「今日過ぎば、この月は日もなし。九、十月は、いかでかはとて」と云うものから、少なくとも3~4か月は洗髪しない根拠としますし、腰までの長髪を持つ人が洗髪をしないのだから入浴もしないのだろうと拡大解釈し、ついには、年を通じてほとんど風呂に入らないというフェイクニュースが出来上がりました。
 もしこの「いかでかはとて」を、具中暦の沐浴吉凶日、神事・仏事などの行事、忌日からの背の君が女性と交わることが可能な日から来る予定される訪問日などの関係を勘案して、単に「今のところ、来月の洗髪する日の予定が立たないから」と解釈しますと、3~4か月は洗髪しないと云う根拠にはなりません。それに洗髪が月に1回から2回の頻度の場合、再来月の行事などの予定が不明ですと来月中下旬頃の洗髪の予定を決めるのに不安が出てきます。生活の日程調整をするのは高貴な身分の「夫人」自身ではなく、御付きの秘書官のような役割を果たす大輔です。それで大輔としては夫人の体調が良い今日になったという意味合いでしょう。
 それに大輔は宮に日ごろの洗髪について「おはしまさぬ隙々にこそ、例は済ませ」と説明していますから、暦や行事を勘案してその行事などのすき間を狙ってたびたび洗髪をしていたことが判ります。めったに洗髪しないとは文中からは読み取れないのです。
 また、平安時代の入浴に関するもので、『枕草子』の中で、清少納言が、「ある貴人の襟のまわりの垢のうえの白粉が、まだらになって唐衣についているのが醜い」と表現していると紹介するものがありますが、178段から184段での次の文章が由来としますと、まったくの誤訳です。文は大納言が扇を取り上げて清少納言の顔を覗き見するのを、それを恥ずかしがって顔を袖で覆って伏せたときに唐衣に白粉が着いてまだらになったとするだけです。さて、一体、どこからの話でしょうか。反って、この文は清少納言が自分のくせ毛や毛量に劣等感を抱いたとする説の補強でしかありません。

かしこきかげと捧げたる扇をさへ取り給へるに、振りかくべき髮のあやしささへ思ふに、すべて誠にさる氣色やつきてこそ見ゆらめ、疾く立ち給へなど思へど、扇を手まさぐりにして、「繪は誰が書きたるぞ」などの給ひて、頓にも立ち給はねば、袖を押しあてて、うつぶし居たるも、唐衣にしろい物うつりて、まだらにならんかし。

 斯様に頻繁に沐浴をしていたと云う先入観からの解釈と、沐浴はめったにしないと云う先入観からの解釈とを比較しますと、同じ古典ではありますが、相当に解釈結果が変わります。怖いのは高校古典では、それが試験科目であり正解が一つでないといけないことから、一般社会人では認められる幅広い可能性の解釈を一切認めません。正誤は棚置きにして特定の人の解釈だけが正しいとします。そのため、平安時代の貴族の女性はけっこうな頻度で洗髪し身を清めていたという本来の社会風俗・風習から古典を解釈しますと間違いとされてしまいます。
 入学試験に責任を持つ国文学研究者たちとは違う、社会に責任を持つ化粧品メーカー研究者、宮中儀礼や建物配置などの研究者、仏教からの湯殿研究者などの別方向からの研究から報告する平安時代の沐浴や禊潔斎の風習・風俗は、従来の国文学や歴史学者が示すものとで大きく解釈・説明が異なるのは困ったものです。さて、時代での社会生活から遊離したその時代の古典文学鑑賞とは何なのでしょうか。

 おまけとして、「沐書曰、子日沐、令人愛之。卯日沐,令人白頭。」の文について、中国の後漢時代の論衡 譏日篇に次のような評論があり、卜いにより沐浴日を決めることを否定し、いつでも沐浴しろとしています。また、同様に有名な藤原定家も沐浴はしたいときにするものとしています。平安時代では学者級の人々はこの論衡 譏日篇を知っていますから沐浴と中国由来の吉凶とは関係ないことを理解しています。結果、風呂好きと風呂嫌いとの個人の好みに落ち着きますから、古文書が示す入浴間隔についてそれを風習とみるか、個人の性格とみるかで、その古文書解釈が大きく揺らぎます。
 弊ブログは与太話と法螺話で構成しますが、歴史や国文学の専門家の研究もまた素人のものとどっこいどっこいでは困ります。

論衡 譏日篇;
沐書曰、子日沐、令人愛之。卯日沐,令人白頭。
譏日、夫人之所愛憎、在容貌之好醜、頭髮白黑,在年歲之稚老。使醜如莫母、以子日沐、能得愛乎? 使十五女子、以卯日沐、能白髮乎? 且沐者、去首垢也。洗、去足垢。盥、去手垢。浴、去身垢。皆去一形之垢。其實等也。洗、盥、浴不擇日、而沐獨有日。如以首為最尊、尊則浴亦治面、面亦首也。如以髮為最尊、則櫛亦宜擇日。櫛用木、沐用水、水與木俱五行也。用木不避忌、用水獨擇日。如以水尊於木、則諸用水者宜皆擇日。且水不若火尊、如必以尊卑、則用火者宜皆擇日。
譏日、且使子沐人愛之、卯沐其首白者、誰也? 夫子之性、水也。卯、木也。水不可愛、木色不白。子之禽、鼠。卯之獸、兔也。鼠不可愛、兔毛不白。以子日沐、誰使可愛? 卯日沐、誰使凝白者? 夫如是、沐之日無吉凶、為沐立日歴者不可用也。

 愚痴として、
 宮内には応仁の乱以前のものは乱で焼失したようですが、それ以降については歴代の掌典や内掌典が書き残した内々の日々の記録があるそうです。『風呂と湯のこぼれ話』によると明治期に宮内事務官を務めた武田勝蔵氏は、それを読んだこともあるし、勤めのためにその内容を参考にしたとします。そのようなものがあることは宮内の人たちには常識ですし、それらを参考に伝統を守っているようです。ただ、そのような内々の記録は下々には漏れ出てこないようで、それで、下々は資料不足のため歴史風俗や慣習の解釈に空想が入り込みます。一方、宮内の人たちは下々のそのような解釈論争に参加しませんから、本当のことは不明となります。
 例として、御湯殿で女官は腰巻姿になるとの規定がありますが、宮内での腰巻とは前掛けのような着物の上に付けた着物の水濡れ防止の布だそうです。一方、下々は湯殿の中で天皇は裸の上に湯帷子だけ、その湯殿に付き添う女官たちは腰巻姿になると云う書付を見ますと相当な空想から女官の姿を想像しますが、宮内の人たちはこのような妄想に付き合いませんし訂正もしません。あくまで下々の馬鹿話です。たまたま、武田勝蔵氏が影響はないだろうとして示したから判るだけです。
 内々の女官を所掌する内掌典の古い時代の記録を見れば元々の大嘗祭での御衾や成女式の全容が判るでしょうが、まず、これは漏れ出てこない話でしょう。

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2 コメント

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Unknown (キムタク)
2023-02-19 21:31:30
何言ってるかわかりませんでした。
内容について (作業員)
2023-02-20 05:53:02
内容が支離滅裂ですみません。

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