竹取翁と万葉集のお勉強

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旋頭歌と人麻呂歌集

2009年09月16日 | 万葉集 雑記
旋頭歌と人麻呂歌集

 人麻呂の歌を考えるときに、人麻呂歌集での歌数の比率からも旋頭歌は、必ず触れなければいけないようです。ところで、この話題とする旋頭歌は和歌の一種ですが、私たちにはあまり馴染みのない歌ですので、その概要をインターネットから引用すると、次のようなものです。

旋頭歌は、五・七・七を2回繰り返した6句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場が異なる歌が多い。頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことから、旋頭歌と呼ばれる。五・七・七の片歌を二人で唱和または問答したことから発生したと考えられている。「万葉集」には六十二首の旋頭歌がおさめられ、そのうち三十五首までが「柿本人麻呂歌集」からのものである。

 この説明に従って歌を探してみました。最初に片歌の代表作が、古事記に見る倭建命が伊勢國で亡くなられる時の歌で、

原文 波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
訓読 愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方(かた)よ 雲居(くもゐ)起(た)ち来(く)も

です。
 そして、旋頭歌の代表作が、古事記に見る神武天皇の妻問いのときの大久米命と伊須気余理比賣との問答歌です。なお、初句は字足らずとなっています。

原文 阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
訓読 あめつつ 千鳥(ちどり)ましとと などさける利(と)目(め)

原文 袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
訓読 媛女(をとめ)に 直(ただ)に遇(あ)はむと 吾(わ)がさける利目

です。
 思わず口から出る詠嘆を定型化したものが片歌で、その片歌に対応して片歌二句の組み合わせの歌が、旋頭歌になるようです。旋頭歌が、短歌が一人での独詠を基本とするのとは違い、複数の人々に詠われるものであるが故に、必然的に集団での舞踏の歌であることが重要です。
 この旋頭歌の舞踏性を考えるとき、私たちに一番身近なのが、次の歌謡です。歌で「***」と「+++」に三文字か四文字の名前を入れると立派な旋頭歌となりますし、古代に旋頭歌が詠われた場面の想像が容易になります。

童謡 花一文目より
***に 勝ってうれしい 花いちもんめ ♩♩
+++に 負けてくやしい 花いちもんめ ♩♩

 こうしたとき、万葉集で旋頭歌を代表する人麻呂歌集の中に、次のような旋頭歌があります。

集歌2351 新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室(にひむろ)の 壁(かべ)草(くさ)刈りに 坐(いま)し給(たま)はね 草のごと 寄り合ふ未通女(をとめ)は 君がまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈り御出で下さい 刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気にますままに

集歌2352 新室 踏静子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
訓読 新室(にひむろ)を 踏み静(しづ)む子が 手玉(たたま)鳴らすも 玉のごと 照らせる君を 内(うち)にと申(まを)せ
私訳 新室を足踏み鎮める子が手玉を鳴らす 玉のように美しく周囲を照らすような立派な貴方を新室の中に御入り下さいと申し上げろ

 この集歌2351と集歌2352との歌は旋頭歌ですが、同時に二首連歌のような形式をしています。この旋頭歌と云う形式で集団舞踏の歌謡が詠われた背景には、若い女が初潮を迎え、女性の成人式に当たる「腰巻の祝」を村の人々が総出で祝う場面があります。間違っても、歌の「御座給根」、「公随」、「公乎」、「白世」の用字から、若い二人の新婚を祝う歌でないことは明らかですので、普段の私たちが原文から万葉集を鑑賞するとき、「訓読み万葉集」から万葉集を研究する専門家のように「成人式の祝歌」を「新婚の祝歌」と誤読してはいけません。
 普段の私たちは、短歌が個人の独詠の性格からその歌がどこで詠われたのかと問題にしますが、旋頭歌は先の「花一文目」の歌のように、どのような場面で唄ったかが重要な歌のようです。この視線で、次の歌を見てみたいと思います。なお、恣意的に万葉集の順番とは違います。

集歌2355 恵得 吾念妹者 早裳死耶 雖生 吾邇應依 人云名國
訓読 愛(うつく)しと吾(わ)が思(も)ふ妹は早も死なぬか 生(い)けりとも吾(わ)れに寄るべしと人の言はなくに

集歌2358 何為 命本名 永欲為 雖生 吾念妹 安不相
訓読 何せむに命(いのち)の本(もと)名(な)永く欲(ほ)りせむ 生(い)けりとも吾(わ)が思(も)ふ妹に易(やす)く逢はなくに

 集歌2355と集歌2358との歌を二首連歌と見なすことで、「想い人よ、早く死なないかな」という突飛な句が、「私も早く死にたい。貴女に逢えないなら」とつながり、集団歌謡として意味を持って来ます。歌垣での男女の歌の名手が相聞を始める前の、男女集団での歌い始めの歌のような感じがします。
 ここで注目していただきたいのは、人麻呂歌集での旋頭歌はほぼ古体歌のものです。つまり、天智天皇の時代から天武天皇の時代にかけてと思われ、人麻呂自身としても三十歳以前の青年期の歌に当たります。集歌2355や集歌2358などは、女性の視線を気にしない若者宿的な場所での娯楽の集団歌であるかも知れません。
 次の歌も恣意的に一部順番を変えています。私の感覚では、妻問いの朝の風景を想像して歌ったものです。集歌2353と集歌2354との歌が男歌なら、集歌2357と集歌2356の歌はそれに答えるような女歌です。その風景は、夜に妻問う男歌と朝に男を見送る女歌です。この四首はそれぞれに関係を持つような歌群ですので、男女が二首ずつ謡唱して相聞するような形になっています。

集歌2353 長谷 弓槻下 吾隠在妻  赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨
訓読 泊瀬(はつせ)し斎槻(ゆつき)し下し吾(わ)が隠せる妻 茜(あかね)さしそ照る月夜(つくよ)に人見てむかも

集歌2354 健男之 念乱而 隠在其妻  天地 通雖光 所顕目八方
訓読 健男(ますらを)し思ひ乱れに隠せるそ妻  天地(あまつち)し通(とほ)り照るともそ顕(あら)はめやも

集歌2357 朝戸出 公足結乎 閏露原  早起 出乍吾毛 裳下閏奈
訓読 朝(あさ)戸出(とで)し公(きみ)し足結(あゆひ)を濡らす露原  早く起き出でつつ吾(わ)れも裳(も)裾(すそ)濡らさな

集歌2356 狛錦 紐片叙 床落邇祁留  明夜志 将来得云者 取置待
訓読 高麗(こま)錦(にしき)紐し片方(かたへ)ぞ床し落ちにける  明日し夜(よ)し来(こ)なむと言はば 取り置きに待たむ

 これらの旋頭歌は集団での歌謡ですから、何らかの神事や市で若い男女が集まり、その中で男女の歌の名手が集歌2355と集歌2358との歌を歌い出し、それを和唱するように男女の組が対面して、集歌2353と集歌2354との歌を男組が詠い、集歌2357と集歌2356との歌を女組が詠うような風景です。従って、詠われる場所が違えば「長谷 弓槻下」の歌詞を変えることも可能です。短歌とは違い歌詞を換えることで、歌全体の意味やバランスが崩れることはないでしょう。また、「公」や「妻」とは、一般名称であって特定の「貴方」と「貴女」を示すものではありません。
 人麻呂は歌の名手です。その人麻呂の恋人の軽の里の妻もまた歌の名手です。その二人は、昔、石上神社の祭礼で遭い、お互いに好きあい恋に落ちています。この二人の歴史を考えると、人麻呂と軽の里の妻とは歌垣での男組と女組のリーダーだったのではないでしょうか。そう、推理すると旋頭歌が特徴的に人麻呂歌集に採られている理由が理解できそうです。もし、そうであるならば、人麻呂が他人の旋頭歌を積極的に採歌したのならば、万葉時代に歌垣で有名であった東国で東歌を多く採歌した高橋虫麻呂歌集に旋頭歌が見られない理由なのかもしれません。

 さて、今日の短歌の成立の過程の、ほぼ定説となっているものに「五・七・七の片歌から旋頭歌が発展し、その旋頭歌の五・七・七+五・七・七の三句目と六句目とが繰り返しになる例が多いため、その三句目の繰り返しを省いて五・七・五・七・七の短歌へと変化した」という説があります。この説の場合、同時に集団歌謡から独唱への変化も説明する必要が生じますので、その旋頭歌と短歌を繋ぐものとして「短歌は、人麻呂の発明による独唱歌である」という説が付随して存在するようです。ただし、「短歌は、人麻呂の発明による独唱歌」の立場を、突き詰めると人麻呂以前に短歌は存在しなくなるのですが、和歌の専門家にとって、それは瑣末なことのようです。
 もう少し、とぼけた話にお付き合いください。音数律上では短歌は2音1拍4拍子のリズムの歌謡とされています。また、口唱する五言詩の漢詩もまた2音1拍4拍子のリズムの歌謡だそうです。ただし、2音1拍4拍子のリズムは現在の私たちが聞くと著しくテンポが遅く感じるようになります。(お正月の歌会始の短歌の謡唱のイメージです。) 一方、古くから現代まで、日本語の話し言葉のリズムは打楽器のような1音1拍だそうです。旋頭歌の集団歌謡や舞踏性を踏まえると、旋頭歌のリズムは弾むような1音1拍の可能性があるのではないでしょうか。おおむね、古事記にある古代歌謡は、音字においても定型歌でないものが多く存在しますから、短歌のリズムとは違う可能性が高いと思われます。さて、リズム上、旋頭歌から短歌に連続変化する可能性はあるのでしょうか。
 もし、渡来人達の女性が独唱して歌う呉音歌曲のリズムとスタイルが大和氏族の若い人たちに心地よく聞こえ、そのリズムの上に語調を合わせた和語を載せた場合、それは新しいジャンルの歌になります。また、視線を変えると、人麻呂時代より先に、呉服で表現されるように衣料の製糸・縫製関係の技術者として、多くの呉人女性が渡来していたようですので、それらの人々がどのような娯楽を楽しんだか、興味があるところです。また、中国仏教伝来に従って、隋や唐からどのようなリズムの音楽や音韻が紹介されたのでしょうか。中国では、インド仏教の音韻学を取り入れた、漢字の韻を踏んだ新しい漢詩形態である五言絶句や五言律詩と云うものが生れ、唐代に最盛期を迎えています。
 このように輸入音楽の可能性を考えると、現代ではJポップと歌謡浪曲の関係に相当するのかもしれません。歌謡浪曲は古くからの日本独自の歌法の近代化されたものですが、一般大衆からあと二十年ぐらいで無くなるのではないでしょうか。昭和四十年代に歌謡浪曲は全盛期を迎えましたが、ちょうど、そのころに誕生したJポップとの直接の関連性は無いでしょう。今から千年先に、国文学上、日本語の表記であることと音字の配列が似ているから、歌謡浪曲からJポップが派生したと学問では位置付けるのでしょうか。この点について、非常に興味のあるところです。
 参考までに、有名なJポップの歌詞の一部を載せます。

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