竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 集歌429から集歌433まで

2020年04月24日 | 新訓 万葉集
溺死出雲娘子葬吉野時、柿本朝臣人麿作歌二首
標訓 溺れ死(みまか)りし出雲娘子を吉野に火葬(ほうむ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
集歌四二九 
原文 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山し際(ま)ゆ出雲し子らは霧なれや吉野し山し嶺(みね)したなびく
私訳 あの山際から棚引く、出雲の貴女は霧なのでしょうか、吉野の山の峰にその霊魂かのような霧が棚引いている。

集歌四三〇 
原文 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆風
訓読 八雲(やくも)さす出雲(いづも)し子らし黒髪は吉野し川し沖しなづさふ
私訳 多くの雲が立ち上る、その言葉のような出雲の里の貴女、その貴女の自慢の黒髪は吉野の川中で揺らめいている。

過勝鹿真間娘子墓時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌   東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡
標訓 勝鹿(かつしかの)真間(まま)の娘子(をとめ)の墓を過ぎし時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
東の俗語に云はく「可豆思賀能麻末能弖胡(かつしかのままのてこ)」
集歌四三一 
原文 古昔 有家武人之 倭父幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手兒名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不所忘
訓読 古(いにしへ)に 在(あ)りけむ人し 倭父(しふ)幡(はた)の 帯解(と)き交(か)へて 廬屋(とまや)立て 妻問ひしけむ 勝鹿(かつしか)の 真間(まま)し手児名(てこな)し 奥城(おくつき)を こことは聞けど 真木(まき)し葉や 茂くあるらむ 松し根や 遠く久(ひさ)しき 言(こと)のみも 名のみも吾は 忘れせず
私訳 遠い昔にいたと云う男が粗末な倭父の機織りの帯を解き合い、粗末な廬屋を作って妻問いをしたと云う。その勝鹿の真間の手兒名の墓の場所は、ここと聞いたけれど、立派な木の枝葉が茂っているので、松の根のように神さびて遠く久しくなってしまった。言い伝えやその手兒名の名前だけでも私は忘れられません。
注意 原文の「倭父幡乃」の「父」は標準解釈では「文」、「不所忘」の「所」は「可」の誤記とします。

反謌
集歌四三二 
原文 吾毛見都 人尓毛将告 勝壮鹿之 間間能手兒名之 奥津城處
訓読 吾も見つ人にも告(つ)げむ勝雄鹿(かつしか)し間間(まま)の手児名(てこな)し奥城(おくつき)ところ
私訳 私も見た。人にも告げましょう。勝鹿の真間の手兒名の墓のありかを。

集歌四三三 
原文 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
訓読 勝雄鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名(てこな)しそ念(も)ゆ
私訳 勝鹿の真間の入り江で波になびいている美しい藻を刈っただろう、その手兒名のことが偲ばれます。
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2 コメント

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市川には手兒名霊堂が (自閑)
2020-04-24 08:35:15
いつも拝見しております。
京成の市川真間駅と国府台駅の間に手兒名霊堂があり、そこへ行く通りが市川手兒名通りとなっており、1400年経ってもこの歌と手兒名伝説が地元に愛されているのを以前訪れた時に思いました。
ちょっと懐かしく思いコメント致しました。
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ご来場のお礼 (作業員)
2020-04-25 06:06:35
コロナ騒ぎが終わって、機会があれば、往ってみたいですね。
ありがとうございました
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