竹取翁と万葉集のお勉強

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石川郎女(佐保大伴大家)

2009年10月27日 | 万葉集 雑記
石川郎女(佐保大伴大家)

 佐保大伴大家と云われる石川郎女は、集歌461、517、518、667及び4439の歌に登場します。集歌461の歌は天平七年(735)の歌で、標では大家石川命婦と称しています。

集歌461 留不得 壽尓之在者 敷細乃 家従者出而 雲隠去寸
訓読 留(とど)めえぬ命(いのち)にしあれば敷栲の家ゆは出でて雲(くも)隠(かく)りにき
私訳 留めることのできない命であるので、床を取る家を出て雲の彼方に隠れてしまった。

右、新羅國尼、名曰理願也、遠感王徳歸化聖朝。於時寄住大納言大将軍大伴卿家、既逕數紀焉。惟以天平七年乙亥、忽沈運病、既趣泉界。於是大家石川命婦、依餌藥事徃有間温泉而、不會此喪。但、郎女獨留葬送屍柩既訖。仍作此謌贈入温泉。
注訓 右は、新羅國の尼、名を理願といへるが、遠く王徳に感けて聖朝に歸化せり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住して、既に數紀を逕りぬ。ここに天平七年乙亥を以つて、忽ちに運病に沈み、既に泉界に趣く。ここに大家石川命婦、餌藥の事に依りて有間の温泉に徃きて、此の喪に會はず。ただ、郎女、獨り留りて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。よりて此の歌を作りて温泉に贈り入れたり。


大納言兼大将軍大伴卿謌一首
標訓 大納言兼大将軍大伴卿謌一首
集歌517 神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも
私訳 神罰が下る神樹にも手は触れることが出来るのに、かならずしも、人妻と云うだけで抱かないわけではない。

石川郎女謌一首  即佐保大伴大家也
標訓 石川郎女の歌一首  即ち佐保大伴大家なり。
集歌518 春日野之 山邊道乎 与曽理無 通之君我 不所見許呂香聞
訓読 春日野(かすがの)の山辺(やまへ)の道を恐(おそり)なく通ひし君が見えぬころかも
私訳 春日の野辺の山沿いの道を夜に恐れることなく通ってこられた貴方だったのに、お見えにならないこの頃です。


大伴坂上郎女謌二首
集歌666 不相見者 幾久毛 不有國 幾許吾者 戀乍裳荒鹿
訓読 相見ぬは幾(いく)久(ひ)さにもあらなくに幾許(ここだ)く吾は恋ひつつもあるか
私訳 貴女に逢えない日々がそれほどたったわけでもないが、これほどひどく私は貴女を懐かしんでいるのでしょうか。

集歌667 戀々而 相有物乎 月四有者 夜波隠良武 須臾羽蟻待
訓読 恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠(かく)らむ須臾(しまし)はあり待て
私訳 ひどく懐かしんで逢ったのですから、遅い月があるので夜の闇は隠れるように月明かりであかるくなるでしょうから、暫しこうして話しながら待ちましょう。

右、大伴坂上郎女之母石川内命婦、与安陪朝臣蟲満之母安曇外命婦、同居姉妹、同氣之親焉。縁此郎女蟲満、相見不踈、相談既密。聊作戯謌以為問答也。
注訓 右の、大伴坂上郎女の母石川内命婦と、安陪朝臣蟲満の母安曇外命婦とは、同居の姉妹にして、同氣の親あり。これによりて郎女と蟲満と、相見ること踈からず、相談ふこと既に密なり。聊か戯れの歌を作りて問答をなせり。


冬日幸于靱負御井之時、内命婦石川朝臣應詔賦雪謌一首  諱曰邑婆
標訓 冬の日に靱負の御井に幸しし時に、内命婦石川朝臣の詔(みことのり)に應へて雪を賦(ふ)せる歌一首  諱を邑婆といふ。
集歌4439 麻都我延乃 都知尓都久麻埿 布流由伎乎 美受弖也伊毛我 許母里乎流良牟
訓読 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
私訳 松の枝が雪の重みで土に着くほどに降る雪を見たからでしょうか、愛しいお方が部屋に籠っていらっしゃる。

于時水主内親王、寝膳不安、累日不参。因以此日、太上天皇、勅侍嬬等曰、為遣水主内親王賦雪作謌奉獻者。於是諸命婦等不堪作謌。而此石川命婦、獨此謌奏之
右件四首、上総國大掾正六位上大原真人今城、傳誦云尓  (年月未詳)
注訓 時に水主内親王、寝膳安からず、日を累ねて参りたまはず。因りて此の日を以ちて、太上天皇、侍嬬等に勅したまひしく「水主内親王に遣らむために雪を賦みて謌を作りて奉獻れ」とのたまわれり。ここに諸命婦等謌を作り堪へず。しかるに此の石川命婦、獨り此の謌を奏しき。
右の件の四首は、上総國の大掾正六位上大原真人今城、傳へて誦みてしか云ふ。  (年月は未だ詳らかならず)

 最初に最後に紹介した集歌4439の歌は、その序と左注から天平九年(737)頃の冬の歌と推定されます。このとき、内命婦石川朝臣は邑婆と称されているので、四十歳以上の年齢でしょう。日本書紀の天武天皇十三年閏四月の条によると、四十歳以上の女性は髪型や騎乗等について特例扱いされていました。これから類推するに官女において四十歳以上は、「邑婆」と称されたと考えて良いと思われます。
 また、集歌517と518の歌は、大伴安麿との相聞ですが、歌で詠われている地名の「春日野」の名前から奈良の京の時代と思われます。相手の大伴安麿は和銅七年(714)に亡くなっていますので、和銅三年(710)の平城遷都前後の歌でしょうか。その安麿の位は和銅元年(708)に大納言となっていて、集歌517の歌の肩書きに符合します。すると、平城遷都前後の歌で妻問いの対象となる年齢から推定して石川郎女が二十歳前後であったとしますと、天平九年では五十歳位になりますので、立派な「邑婆」です。
 ここらから、石川郎女は、持統四年(690)頃の生まれと思われます。当事、石川一族で大官になった人物には石川石足(六六七年誕生、七二六年死亡)がいて、従三位権参議になっています。石川郎女は、これらから石川石足の娘と思われます。なお、石川一族の娘が、独力で官吏になり出世して五位以上の命婦の尊称である「内命婦」の位から「郎女」と尊称したか、又は、佐保大伴の大家の立場から大伴家持らの一族が、石川女郎を石川郎女と尊称した可能性はあります。

 江戸期から昭和中期までに活躍した歌人では、ここで紹介した石川女郎を一人の女性と解釈するのが本流のようです。そして、江戸の儒教、明治のキリスト教の影響で、男女が親しく歌を詠うことは肉体関係があったと見なします。その結果、一人の女性である複数の石川女郎が多くの男性と相聞歌を交換している姿から、世紀の淫乱と評価します。極め付けとしては、明治時代の売春婦異名集では、この石川女郎は売春婦の代表として紹介されています。つまり、ここで紹介した解釈で石川女郎が複数人存在し、尚且つ、多くの歌が宮中での歌会での歌としますと「江戸期と明治期の文人は、さて、万葉集を読めたのでしょうか」との問題が浮かび上がります。

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2 コメント

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Unknown (よしおか)
2009-10-29 12:41:42
偶然たどり着きました、高市皇子への人麻呂の
挽歌等を興味深く読ませて頂きました。
理解できたとは申せませんが、過去の投稿記事をおいおい読んでいきたいと思っています。

持統天皇と高市皇子の力関係などが少し解った気がします。
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草壁皇子 (鷹翁)
2009-11-30 23:16:07
万葉集で草壁皇子の一首にたいして石川郎女は
どんな歌を返したのでしょうか、この時代の女性は男性より情熱的な歌を読んでいるような気がして興味あるのです、よろしくお願いします
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