読書日記

いろいろな本のレビュー

戦国時代の足利将軍  山田康弘  吉川弘文館

2012-01-21 21:56:18 | Weblog
 室町幕府の特徴として将軍権力の弱体化と守護大名の増長という図式で語られるのが普通である。将軍は守護大名としばしば対立してきたが、簡単には倒れなかった。実際、戦国時代百年もの間、将軍は滅亡しなかった。これはなぜか。戦国期の室町幕府とはいかなる存在であり、各地の大名たちは将軍をどのように見ていたのか。本書はこれらの点について興味ある見解を述べている。
 六代将軍足利義教は幕府の権力を行使するために恐怖政治を敷いて世の中を震え上がらせたが、赤松満祐に謀殺されて以降、義教のような権力者は出なくなり、表面上幕府の力は衰退して行ったように見えるが、消滅することはなかった。ここで著者は将軍と大名の関係を[天下]の次元と名づけ、大名と武士・百姓の関係を[国]の次元と名づける。そして次のように言う、そもそも、今日の国内社会と同じように、戦国時代の[国](=大名領国内社会)の次元でも、年貢や税率や治安、村同士の水争いといったさまざまな問題が発生していた。しかし、これら[国]の次元における問題の処理は、戦国時代になるとそれぞれの大名(や家臣、百姓たち)が第一義的には担うようになっており、将軍がこれらの問題の処理に直接関与することは、京都とその周辺部を除けば基本的に乏しくなっていた。つまり、戦国時代になると将軍の主たる活動域は[国]の次元ではなくなりつつあったと考えられるわけである。(中略)将軍は戦国時代にいたっても依然として多くの大名たちから大名間外交などの分野でさまざまな役割を期待され、利用されていた。さすれば、ちょうど国連が、国内社会の次元や国内社会における特定の領域を活動域にしているのではなく、国際社会の次元をその主たる活動域にしているのと同じように、将軍もまた京都とその周辺部といった特定の領域だけではなく、大名と大名とが互いに「国益」をめざして戦いあったり熾烈な外交を展開しあっている[天下]の次元をその主たる活動域にしていたと考えることができよう。戦国時代の将軍を考える際には、京都とその周辺部といった「領域」という視点だけで考えてはならず、「次元」([天下]の次元)という視点によっても考えなくてはならないのである。したがって、われわれが国際社会という次元の存在を理解することができてはじめて国連の活動を正しく認知することができるのと同様に、[天下]という次元の存在を想定することによってはじめてわれわれは将軍の活動を十分に認知できることになると。引用が長くなったが、国内社会と国際社会で戦国時代を説明している点が斬新。さらに国際社会を「リアリズム」「リベラリズム」「コスモタリズム」の視点で説明するというおまけもついているが、少々蛇足の感無きにしも非ず。
 このように見てくると、今世の中でうるさく言われている、地方分権とやらは早い話が国内を戦国大名割拠状態にすることに過ぎない気がする。国のカタチを変えると息巻いている御仁もいるが、戦国時代に逆戻りされては迷惑至極だ。無知蒙昧な民衆と批判力を喪失したメディアはそれが見抜けない。日本は本当に危うい方向に向かっている気がする。
 同時に読んだ、戦国時代の貧しい貴族たちの生き方を描いた『逃げる公家、媚びる公家』(渡邉大門 柏書房)は高貴なしかし貧しい人間が武士連中とどう渡り合ったかを描いている。成り上がりの権力者にいたぶられる高貴なインテリという図式は今現実に起きていることを彷彿させる。

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