読書日記

いろいろな本のレビュー

ナチ親衛隊(SS) バスティアン・ハイン 中公新書

2024-04-18 11:52:51 | Weblog
 副題は『「政治的エリート」たちの歴史と犯罪』で、ナチの世界観・人種イデオロギーに最も忠実だった犯罪的組織の姿を描いたもの。第一次世界大戦で敗戦国になったドイツはヴェルサイユ条約条約で多大の賠償金を課せられ、軍備も禁止された。その中で様々な政治的傾向の自衛軍事団体が多数創設された。後にナチの組織となる突撃隊と親衛隊もそれである。ヒトラーは1924年に釈放された後、翌25年二月にナチ党を再建するが、暴力装置としての突撃隊はレームによって支配されており、ヒトラーの指揮下に入れることが困難だった。そこで彼は「親衛隊」を創ろうとして1926年四月に親衛隊編成プロジェクトをヨーゼフ・ベルヒトルトに委ねた。ベルヒトルトは、ナチ党大会がヴァイマルで開催された1926年までに、およそ75部隊、合計1000名ほどの隊員の募集に成功する。以後親衛隊はヒトラーの直属の組織としてナチの戦争犯罪のお先棒を担ぐことになった。それを指導したのがハインリッヒ・ヒムラーである。

 ヒムラーは親衛隊募集に際しては、最良の「アーリア人」であることにこだわり、さらに健康第一の考えに基づきスポーツ教育を実施し、さらに「アーリア人」の「良質な血」を汚し、ドイツ人を征服するためには、いかなる破廉恥行為も辞さない寄生虫、吸血動物、小児凌辱者だとユダヤ人を誹謗した。これは偽書とされる『シオンの賢者の議定書』を根拠になされた。また親衛隊が「強烈な体験」を共有できるよう、全部隊が参加する夏至の火祭りを開催した。ここで隊員たちは「指導者に永遠に忠誠を尽くし、死ぬまで親衛隊共同体の盟約にとどまり、我らが民族に仕える」と誓わされた。その流れでヒムラーは、親衛隊の脱キリスト教化だけでなく「宗教に類似する儀式と生活様式」を備えた「キリスト教に代わる別の宗教の創出」が重要だと考えていたという。(本書P75) また「レーベンスボルン(生命の泉)」という親衛隊の下部組織を作った。その目的はドイツ民族の「北方化」という人口政策上の目標の促進にあった。具体的には「北方系」の女性たちが意図的に親衛隊員と掛け合わされる生殖施設であった。このいかれたヒムラーに率いられた親衛隊はヨーロッパ各地でユダヤ人の大量殺戮をはじめとしたジェノサイドを展開したのであった。

 独裁者が支配するナチスドイツは全体主義国家と言っていいと思うが、そこで行われた親衛隊員に対する教育が無辜の民を迫害したという事実は肝に銘じなければならない。さらにプロパガンダによる国民の支配・煽動によって国家が危機的な状況になるということも忘れてはならない。ヒトラーもヒムラーも敗戦時に自殺したが、それで済む話ではない。彼らが権力を掌握したプロセスをしっかり研究して学ぶことが肝要だ。戦後ドイツは戦犯裁判等でナチズムと向き会うことになるが、その中で第6章に親衛隊に関する記述がある。その部分を引用すると以下の通り、『親衛隊で働いていたのは単なる出世主義者ではない。確信的で、強い動機に支えられた「世界観の実行者」である。親衛隊は「生存権」を獲得し、そしてユダヤ人を根絶するための戦いを「即物的」かつ「絶対的」に遂行した。またこれはアイヒマンにも当てはまる。彼はエルサレムで死刑を免れようと、自分を「行政による大量殺戮」における意思を持たない「小さな歯車」という卑小な存在に見せようとしたのだ』と。

 これはハンナ・アーレントが『イスラエルのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告』で「出世の役に立つことなら何でもするという異常な熱意の他には、(中略)動機らしい動機は何もなかった」と書いたのとは違う分析である。また親衛隊の犯罪について、ジェラルド・ライトリンガーが、親衛隊は1945年以降、ドイツ人にとって「都合のよすぎるスケープゴート」に、「国民のアリバイ」になってしまったと嘆いた。アーレントはこれに触発され、ユダヤ人殺戮はドイツ社会の周縁でのみ行われたのではなく、社会的に「名声を得た人々」の多くも関与していたと主張したが、まっとうな見解である。失敗すれば責任を取るのは当たり前で、特に権力を持つものは言うまでもない。しかし昨今の日本の政権与党のリーダーは一切その気配がない。恥を知れと言いたい。この卑小な権力者にいつまで付き合わなければならないのか。

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