「嘉吉の乱」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が室町幕府六代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府の討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の争乱である。本書は乱前後の赤松氏の歴史を詳細に述べて、足利将軍との関係等の実相を描いているところが特徴である。P35に赤松氏の略系図があり、満祐をはじめとして主な人物が紹介されている。本書の腰巻に、「前例のない犬死」「自業自得」とまでいわれた暗殺の全貌。守護・赤松満祐はなぜ将軍・義教にキレたのか?とある。この義教という将軍は籤引きで選ばれたことで有名だ。つとに今谷明氏が『籤引き将軍足利義教』(講談社選書メチエ 2003)で述べておられるが、石清水八幡宮で籤が引かれて将軍職が決定された。籤の詳しい内容まで書かれており、大変興味をそそられた。籤引きの根底には、籤は神慮であるという思想があるということをここで知った次第。
四代将軍足利義持は、応永35年(1428)に後継者を定めぬうちに死去した。(嫡男の五代将軍義量は早世していた)。義持が後継者を決めなかった理由はP82に書かれている。重臣たちは合議の結果、出家していた義持の四人の弟たちの中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果天台座主の義円が還俗して義宣(のちに義教と改名)、六代将軍に就任した。当初は有力守護大名による衆議で政治を行っていたが、長老格の畠山満家、三宝院満済などが死ぬと政治力を発揮して守護大名の家督相続にまで干渉するようになり、意中の者を家督に据えさせた。以後自分の意に背くものをことごとく誅殺したので「万人恐怖」といわれるようになった。
出家していたものが、還俗して権力を握り、かくまで恐怖政治を実行するとは驚きだが、逆に言うとこれが権力の恐ろしさともいえる。守護大名に対する牽制は赤松満祐にもおよぶ。最初二人の関係は良好で義教は満祐の屋敷を訪問して満祐主催の連歌会に出席などしていたが、その後風向きが変わって義教に疎まれるようになり、永享九年(1437)には播磨・美作の所領を没収されるという噂が流れた。義教は赤松氏庶流の赤松貞村を寵愛し、永享十二年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。このため満祐は五月頃に病気と称して出仕しなくなった。いつ義教にやられるかと思って精神的に参っていた模様である。そんな中、六月二十四日に乱が起こった。やられる前にやってしまえということである。
本書の記述を引用する。「四月に結城合戦の戦勝が報告され、諸家で招宴が催された。満祐の子・教康は自邸で義教を招き招宴を催した。招かれたのは管領の細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永、京極高数という面々だった。満祐の姿がなかったのは、心身を病んでいたからである。この招宴では、酒宴とともに赤松氏が贔屓にした観世流の能楽師により、猿楽が演じられていた。宴たけなわの頃、突如として甲冑に身を包んだ武者十数人が乱入し、あっという間に義教を斬殺した。居合わせた諸大名はすぐさま逃げ出し、反撃することはなかった。わずかに大内持世、京極高数が抜刀し、防戦したという。(中略)義教の首は赤松氏の手に渡った」。簡潔な描写だが、緊迫感が伝わってくる。「万人恐怖」の主体があっという間に消え去った瞬間である。暴力で弾圧するものは必ず暴力で倒される。我々が歴史に学ぶことはこれである。
幕府の権力を高めるために守護大名を抑えることは室町幕府の将軍としては当然の責務だが、義教の場合は度が過ぎた。自分が押した分だけ押し返された。これを作用・反作用の法則という。義教が還俗せずそのまま天台座主でおれば、おそらく天寿を全うできただろう。死の瞬間義教の脳裏に浮かんだものは何だったか。いや、それを考える暇もなかったというのが実際だったかもしれない。宗教者が俗世で権力に就いたとき、人の道を説くというモットーは簡単に捨てられ、やすやすと恐怖政治の主体になるというのが不思議だ。さて現代に眼を移すと、噂の中国共産党の指導者も政敵を弾圧してプチ義教的だが、押した分だけ跳ね返ってくることを肝に銘じた方がよい。その時は案外近いかもしれない。隣国のミサイル打ちまくり指導者も同じだ。
四代将軍足利義持は、応永35年(1428)に後継者を定めぬうちに死去した。(嫡男の五代将軍義量は早世していた)。義持が後継者を決めなかった理由はP82に書かれている。重臣たちは合議の結果、出家していた義持の四人の弟たちの中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果天台座主の義円が還俗して義宣(のちに義教と改名)、六代将軍に就任した。当初は有力守護大名による衆議で政治を行っていたが、長老格の畠山満家、三宝院満済などが死ぬと政治力を発揮して守護大名の家督相続にまで干渉するようになり、意中の者を家督に据えさせた。以後自分の意に背くものをことごとく誅殺したので「万人恐怖」といわれるようになった。
出家していたものが、還俗して権力を握り、かくまで恐怖政治を実行するとは驚きだが、逆に言うとこれが権力の恐ろしさともいえる。守護大名に対する牽制は赤松満祐にもおよぶ。最初二人の関係は良好で義教は満祐の屋敷を訪問して満祐主催の連歌会に出席などしていたが、その後風向きが変わって義教に疎まれるようになり、永享九年(1437)には播磨・美作の所領を没収されるという噂が流れた。義教は赤松氏庶流の赤松貞村を寵愛し、永享十二年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。このため満祐は五月頃に病気と称して出仕しなくなった。いつ義教にやられるかと思って精神的に参っていた模様である。そんな中、六月二十四日に乱が起こった。やられる前にやってしまえということである。
本書の記述を引用する。「四月に結城合戦の戦勝が報告され、諸家で招宴が催された。満祐の子・教康は自邸で義教を招き招宴を催した。招かれたのは管領の細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永、京極高数という面々だった。満祐の姿がなかったのは、心身を病んでいたからである。この招宴では、酒宴とともに赤松氏が贔屓にした観世流の能楽師により、猿楽が演じられていた。宴たけなわの頃、突如として甲冑に身を包んだ武者十数人が乱入し、あっという間に義教を斬殺した。居合わせた諸大名はすぐさま逃げ出し、反撃することはなかった。わずかに大内持世、京極高数が抜刀し、防戦したという。(中略)義教の首は赤松氏の手に渡った」。簡潔な描写だが、緊迫感が伝わってくる。「万人恐怖」の主体があっという間に消え去った瞬間である。暴力で弾圧するものは必ず暴力で倒される。我々が歴史に学ぶことはこれである。
幕府の権力を高めるために守護大名を抑えることは室町幕府の将軍としては当然の責務だが、義教の場合は度が過ぎた。自分が押した分だけ押し返された。これを作用・反作用の法則という。義教が還俗せずそのまま天台座主でおれば、おそらく天寿を全うできただろう。死の瞬間義教の脳裏に浮かんだものは何だったか。いや、それを考える暇もなかったというのが実際だったかもしれない。宗教者が俗世で権力に就いたとき、人の道を説くというモットーは簡単に捨てられ、やすやすと恐怖政治の主体になるというのが不思議だ。さて現代に眼を移すと、噂の中国共産党の指導者も政敵を弾圧してプチ義教的だが、押した分だけ跳ね返ってくることを肝に銘じた方がよい。その時は案外近いかもしれない。隣国のミサイル打ちまくり指導者も同じだ。