読書日記

いろいろな本のレビュー

中国と日本 二つの祖国を生きて 小泉秋江 集広社

2019-01-18 14:47:19 | Weblog
 中国残留孤児の悲劇は、山崎豊子の『大地の子』で広く知られるようになったが、本書は小説ではなくノンフイクションだ。よって著者の肉声が直接読者の耳に訴えてくるところが大きい。著者は1953年の夏、、日本人の母と中国人の父の子として北京で生まれた。母は1915年茨城県で生まれ、長じて小学校の先生をしていたが、1943年校長から「満州の小学校で女性教員募集しているので、行ってくれますね」と、半ば命じられるように強く勧められてそれに応じた。そして奉天の日本人学校の教員になったが、敗戦と共にソ連軍の侵攻で、混乱した中、国民党軍の軍医をしていた父に助けられ、その後結婚した。
 著者が生まれた1953年は終戦から8年経っている。中国は毛沢東の共産党が支配して、共産主義の政治的実験を果敢にやり始めたころである。その渦中に放り込まれた日本人と中国人のハーフに何が起こったのかをつぶさに記録しているところが、本書の目玉と言える。父が医者だったことから終戦後は経営する診療所は多くの患者が訪れて繁盛していた。それで豊かな生活をしていたが、すべての企業を国有化するという中央政府の命令で、人材のみならず医療器具や薬品も国営の病院に寄付させられ、父も一人の医者として病院に勤務することになった。著者は病弱で、外へ出ると周りの子どもたちに「日本鬼子」(リーベンクイズ)と言われ、石を投げられたりするので、いつも家に閉じこもっていたらしい。日本軍の負の遺産のつけを残留者の日本人が払わされるという例のパターンである。
 そして1958年の「大躍進」運動が始まる。「十五年でイギリスを追い越す」というスローガンで、鉄づくりに邁進したあの運動である。この頃農村では人民公社で農業の集団化が試みられていた。著者曰く、「働ける者は全部、労働に駆り出されました。両親と十歳の兄(叔母の長男)は、家に帰ることも許されず、昼夜労働しました」と。しかし、庶民が作った土炉は高温が得られず、質のいい鉄は作れず、この運動は失敗する。そしてこの後、大きな飢饉が訪れる。これは「三年の大飢饉](1959~1961)と称されるが、その一端を次のように述べている「餓死した人の死体を埋める力もなく、餓死者は荒野に捨てられました。すると野犬がその死体を食いちぎります。私は飢えて死んだ人の死体をよく見ましたが、それは恐ろしかったです。ただ、恐ろしかったけれども、神経が麻痺してしまっていた」と。スターリン時代のウクライナを襲った飢餓と同じ風景がここでも見られる。飢饉は自然災害による面と政治的な原因で起こる。著者は、この飢饉は毛沢東の大躍進運動の失敗のせいだとされているが、反毛沢東グループによる妨害が飢饉をまねいた面もあると指摘している。即ち、人民公社に反対する者たちが、収穫期の直前に「それをすぐ刈って、別のものを植えろ」などと命令を出すから、ますます食べ物がなくなってしまった。政治的な問題と人為的な問題が絡み合って作用し、飢餓が大きくなったという現実もありました」と。平易な言葉で綴っているが、本質を的確に把握しているのが素晴らしい。その後、学校で授業が始まりるが、そこで待っていたのが日本軍が中国で如何に悪いことをしたかという学習だ。そこでまた、「日本鬼子」と罵られ、殴る蹴るの暴行を受ける。担任の教師からも、「日本鬼子」と罵られたとある。よく耐えられたものだ。
 その後、1963年からの「四清運動」(政治、経済、思想、組織の歪みを正す社会主義運動)、そして1966年に始まる「文化大革命」の中で少女時代を過ごすことになるのだが、その理不尽さは本書に詳細に書かれているので、読んでいただきたい。このいわば内乱状態は中国共産党のトラウマとなったものだが、中国は他国の批判をする前にこの事件を正しく総括する必要があるだろう。権力闘争の手段として紅衛兵をそそのかして文化の破壊を命じて、国が崩壊する寸前にストップをかけた毛沢東だが、権力に魅入られた独裁者の末路はこうだという認識を現指導部は持つべきだろう。口絵の10枚の写真は文革当時の様子をリアルに表しているが、反革命分子を勝手にでっち上げ人民集会で批判し暴力を加えるという底なしの混乱の責任は毛沢東をトップとする共産党にあることは確かである以上、このような悲劇を二度と繰り返さないという決意を指導者はすべきである。庶民は如何に被害を被ったのか、本書を読めば明らかだ。 
 後半は帰国後の著者の奮闘ぶりが書かれているが、何事にも前向きに生きようとするその精神力に感嘆せざるを得ない。今後の活躍を祈るばかりだ。

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