本書を読んで、孟子の性善説・荀子の性悪説の議論を思い出した。近代以降は、人間には善なるものと悪なるものが共存するという考え方が主流になり、「ジキル博士とハイド氏」はその嚆矢とされている。またスタインベックの『エデンの東』もこの問題を扱っていたように思う。アーロン(善人)とキャルの兄弟と母(悪人)の物語で、善人も悪人も滅びるが、その中道を行くキャルが生き延びるという話だ。善と悪の共存を体現したキャルが人間の本質というのがスタインベックの主張だ。ところがこの事件の主犯の松永太の行状を見ると、やはり人間の本質は悪なのではないかと思ってしまう。
本書の前書きで著者は「最も凶悪な、との例えを使うことに躊躇の生じない事件というものがある」とこの事件の衝撃の強さを述べる。以下この事件の概略について、「稀代の大量殺人は、2002年3月7日、福岡県北九州市で二人の中年男女が逮捕されたことにより発覚する。最初の逮捕容疑は17歳の少女に対する監禁・傷害というもの。だがやがて、この事件は想像以上の展開を迎える。まず少女の父親が殺害されていたことが明らかになり、さらには逮捕された女の親族6人も、子供2人を含む全員が殺されていたことがわかっていく。しかもその方法は、男の命じるままに肉親同士で1人ずつ手を下していくという、極めて残酷なものだった」と続く。
本書は時系列に従って公判記録をもとに事件を具体的に再現していく。そこに主犯松永の人間性による具体的な行動が白日のもとに晒され、読む者の心胆を寒からしめる。これは戦時の残虐行為とは違い、平時の市民生活の中で行われたということがより衝撃的である。主犯松永は、詐欺師的性格を持ち弁舌が巧みで、金銭目当てに狙いをつけた女性に言葉巧みに近づき、相手に好感を持たせたうえで金をむしり取っていく。女に金がなくなると急に暴力をふるい支配下に置いたうえで親族にターゲットを広げていく。暴力には通電による方法を多用したとある。電気ショックを与えて恐怖を植え付ける方法はあまり聞いたことがないがこれで相手は反抗する意思をなくすようだ。これでマインドコントロールが完成する。共犯の緒方順子は松永にナンパされて夫婦関係になり、二人の子供を設けていたが、松永の命ずるままに自分の家族を殺すという信じられない行動をする。まさにマインドコントロールの結果と言えよう。しかも彼自身は殺人に手を染めず、遺体をバラバラに処理させて海に投棄したというもの。投棄するまでのプロセスは残虐すぎて、これ以上具体的に書くことはできないが、詳しくは本書を読んでいただきたい。松永のやり口を見ると、支配・被支配のメカニズムが非常によくわかる。言葉巧みに世間話を仕掛け、その過程で知りえた当人にとっての負の情報を使って、相手の弱みに付け込んで心理的に追い込み、暴力によって身体的苦痛を与えて、ぐうの音も出ないほどにしてしまう。悪魔の所業と言えよう。
松永は結局2011年死刑が確定、緒方は反省の気持ちを表していたこともあって死刑から無期懲役に減刑された。松永は公判中も自己の責任を認めず、無罪を主張し、まったく反省の気持ちはない。最高裁の死刑判決から12年経つが、まだ刑は執行されていない。いまだ執行されないのは、何とかして反省の気持ちを表明させたいという検察の意思があるのではないか。このままでは殺された7人がうかばれないし、松永にとっても不幸なのではないか。親鸞聖人の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は彼に当てはめないほうが良いかもしれない。これで極楽往生できるなら、宗教って何なのかという疑義が呈される可能性がある。
本書は575ページの大著で、小説家でも想像できないストーリーが、現実として我々の目の前に展開する。ディストピア小説を読んだような重苦しい感じは残るが、それも読書の営為として受け入れるしかない。最後にこの事件で亡くなられた人のご冥福をお祈りする。合掌。
本書の前書きで著者は「最も凶悪な、との例えを使うことに躊躇の生じない事件というものがある」とこの事件の衝撃の強さを述べる。以下この事件の概略について、「稀代の大量殺人は、2002年3月7日、福岡県北九州市で二人の中年男女が逮捕されたことにより発覚する。最初の逮捕容疑は17歳の少女に対する監禁・傷害というもの。だがやがて、この事件は想像以上の展開を迎える。まず少女の父親が殺害されていたことが明らかになり、さらには逮捕された女の親族6人も、子供2人を含む全員が殺されていたことがわかっていく。しかもその方法は、男の命じるままに肉親同士で1人ずつ手を下していくという、極めて残酷なものだった」と続く。
本書は時系列に従って公判記録をもとに事件を具体的に再現していく。そこに主犯松永の人間性による具体的な行動が白日のもとに晒され、読む者の心胆を寒からしめる。これは戦時の残虐行為とは違い、平時の市民生活の中で行われたということがより衝撃的である。主犯松永は、詐欺師的性格を持ち弁舌が巧みで、金銭目当てに狙いをつけた女性に言葉巧みに近づき、相手に好感を持たせたうえで金をむしり取っていく。女に金がなくなると急に暴力をふるい支配下に置いたうえで親族にターゲットを広げていく。暴力には通電による方法を多用したとある。電気ショックを与えて恐怖を植え付ける方法はあまり聞いたことがないがこれで相手は反抗する意思をなくすようだ。これでマインドコントロールが完成する。共犯の緒方順子は松永にナンパされて夫婦関係になり、二人の子供を設けていたが、松永の命ずるままに自分の家族を殺すという信じられない行動をする。まさにマインドコントロールの結果と言えよう。しかも彼自身は殺人に手を染めず、遺体をバラバラに処理させて海に投棄したというもの。投棄するまでのプロセスは残虐すぎて、これ以上具体的に書くことはできないが、詳しくは本書を読んでいただきたい。松永のやり口を見ると、支配・被支配のメカニズムが非常によくわかる。言葉巧みに世間話を仕掛け、その過程で知りえた当人にとっての負の情報を使って、相手の弱みに付け込んで心理的に追い込み、暴力によって身体的苦痛を与えて、ぐうの音も出ないほどにしてしまう。悪魔の所業と言えよう。
松永は結局2011年死刑が確定、緒方は反省の気持ちを表していたこともあって死刑から無期懲役に減刑された。松永は公判中も自己の責任を認めず、無罪を主張し、まったく反省の気持ちはない。最高裁の死刑判決から12年経つが、まだ刑は執行されていない。いまだ執行されないのは、何とかして反省の気持ちを表明させたいという検察の意思があるのではないか。このままでは殺された7人がうかばれないし、松永にとっても不幸なのではないか。親鸞聖人の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は彼に当てはめないほうが良いかもしれない。これで極楽往生できるなら、宗教って何なのかという疑義が呈される可能性がある。
本書は575ページの大著で、小説家でも想像できないストーリーが、現実として我々の目の前に展開する。ディストピア小説を読んだような重苦しい感じは残るが、それも読書の営為として受け入れるしかない。最後にこの事件で亡くなられた人のご冥福をお祈りする。合掌。